草壁はるか ーくさかべはるかー
文字数 15,413文字
あたしは今、とても頭にきている。
というのも、委員会予算がビタの一文も、もりこまれていなかったからだ。
ダンッ! ダンッ!!
衝撃が上履きを通って足の裏に伝わる。B棟からCへの渡り廊下を歩き、生徒会室から図書館に戻っている。
―◆―
あたしの名前は草壁はるか。東陵高校で図書委員長をやっている。
いつも図書館の隅っこにある司書室にいりびたっているので、口の悪い友達は〝図書館の主〟なんて呼ぶ。十七歳の三年生。
父曰く「俺と同じくらい歳の男なら、知らないやつはいなかった、らしい」とかいう人が母親なので、文句なしに美人!ってほどじゃないけど、見てくれる人が見てくれれば、それなりにかわいいと自分では思っている。
身長は143.8センチでちょっと小さい方かな。体重は……。すらりとした感じ。
性格は素直で単純、温厚な平和主義者だ。……ほんとう、だよ。
―◆―
ガラガラ、ズダーン!
怒りにまかせて力いっぱいに図書室のドアを引くとすさまじい音がした。ドアが半分くらい反動で戻ってきた。
少しムッとしてそれを睨みつけ、無造作に足で払いのけた。
ダン…
さっきよりなまちょろい音がしてドアは全開した。
二回の騒音に、図書室にいた生徒があたしの方を振り返った。
ふんっ。
なにが「今年度より文化部の予算は大幅減額、委員会費は廃止します」だ。ふざけるなよ。冗談も休み休み言え。
「ヴーーーーー」
あたしは獣のように鋭い目をして低くうなった。
近くで蔵書整理をしていた副委員長の深町美帆が慌てて駆け寄ってくる。
「……先輩、あ、あのぅ、落ち着いてください。みんなに迷惑ですから……」
こわごわという感じの、おどおどした声がした。
ちらりとうかがうと制服のブラウスの間からのぞく首筋から耳の先までを真っ赤にしている。
美帆は世間でいうところの優等生で、うわさによると入学当初のテストから、二年の今までのテストで五番以下の成績を取ったことが無いらしい。下から数えたほうがほんのちょっとだけ早いあたしとはえらいちがいだ。
ふう。美帆に気づかれないように小さくため息をついた。
こうやって、何にも知らない生徒が増えていって、何もかもが闇に葬り去られてゆくのかもしれない。
あたしは唇を少しかんでから、
「これが怒らずにいられるかっての!」ぴしゃりと言ってやった。
美帆はビクンと震え、ちぢこめている体をさらに小さくした。
「で、でも、先輩」
「先輩言うなー! あたしはその言葉がだいっきらいなのっ! あたしを呼ぶ時は『草壁さん』か『はるかさん』で良いっ! このさい、呼び捨てでもかまわないから」
「はいいいいいっじゃあ……せ…はるかさん」
「なにっ!」
「あ、あの。なんで、そんなに怒ることがあるんですか?図書館の本を買う予算は毎年県の方から出ているわけですし、委員会費を削られても私達にそんなに影響があるわけでもないのに」
「確かに委員会費は本を買うものじゃない」
「なら、なんで……何でそんなに怒る必要があるんですか?」
大きく息を吸ってから美帆に向かって「あのね」と口をひらいた瞬間、うしろから
「図書館ではお・し・ず・か・に。わかってるよねぇ?」
怒気をはらんだ静かな声が響いた。
その笑顔は怖いです。
―◆―
「――で、一体何があったの?」
司書室のドアを閉めながら、東堂(とうどう)センセが聞いてきた。
あたしはムスーッとして、司書室の中にある応接セットのボロソファに座っていた。向かいがわには美帆が座っている。
「どうせ、予算を削られて怒ってるんでしょ?」
「予算って?」
美帆が意外そうに聞きかえした。あたしはぶぜんとして頬をふくらませていた。
東堂センセはひょいと肩をすくめ
「やっぱりそれか。。今朝の職員会議で香山先生が嬉々として言っていたもの。今回から部活ごとの模擬店を許可することしたから、委員会用の予算をそっちに回すって。それ聞いた時、『あ~あ、草壁さん怒るだろうなー』って」
あたしは、ますますむかむかした。
ふんっ。あの、香山のバカ。
ちょっと見ている部活が強いからって、いい気になって。
それにくわえてあの、工藤だよ。 あの、女が悪いんだ。
一年の時から、生徒会の活動をやってて、そのままエスカレーター式に会長になったあいつが悪い。
人望の無さを、部活の振興を挙げて体育連の力をバックにつけて当選し、その上での数の暴力で押し切ろうとする。
委員会役員の中で、運動部にからんでいないのが、あたし一人なのをいいことに、役員会の裏の運動部会議で何でも決めてしまっている。
「何で、そこまで分かるんですか?」
「まあ、深町さんは草壁さんと付き合ってから、まだ日が浅いからねぇ」
意味ありげにあたしの方に目配せをしてから、東堂センセは自分の仕事机に腰掛けた。
「ね?草壁さん?」
あたしは口をとがらせたまま、ぶすっと黙っていた。
「でもね、草壁さんが怒る気持ち、私にもよく分かるわよ。予算なしで展示を行うのはちょっとひどいし、強引な感じがしたもの」
「確かに予算なしは厳しいですよね… でも、強引って言うのは言い過ぎかなと想うんですけど…」美帆が間の抜けたように聞きかえした。
「分かってないなぁ。美帆は」
あたしはあきれるやら、哀しいやらで、ため息混じりに答えた。
「表と裏は違うってことだよ。今年は文化祭がある年だから、表向きは限られた予算を使い道のいまいちはっきりしない委員会に回すより、部活の模擬店に回して、模擬店の運営資金に当てる。初めてだからどうなるかは分かんないけど、模擬店はみんなやりたいし、多くが運動部に所属している現状を考えると、誰も文句を言うわけがないよね。でもさ、委員会の展示なんてあっても無いようなものでしょ?月ちゃんに聞いたけど、毎年開催中に行動するのは、警備を兼ねた整備と交通、それと古本市と展示を行う図書だけ。はっきり言って予算が必要なのは図書だけなんだよ。といっても、模造紙と値札だからそこらの備品でどうにかなっちゃうけど…」
「あのぅ。古本市の予算って売り上げからもだせるんですよね…だったら、後から補っても…」
うーん。さすが美帆、合理的な行動をとろうとする。それが学年五位以内をキープするコツなのかしら。
「うーーーん。確かにそうなんだけど……」
「はるかさん。もうやめましょうよ。こんな意味の無いこと。いくらはるかさんが異を唱えても、決まっちゃってることはひっくり返らないと思うんです」
「ちっがーーーーう!」
あたしは目の前のテーブルを思いっきり、ひっぱたいた。
手が少ししびれた。いたい。
手に残るわずかな振動を感じながら
「あたしが言いたいのはそういうことじゃなくて、図書委員会のお茶代がでなくなるってことでもなくって」
「え、そうなんですか」
「ま、そうよ」
東堂先生が頬杖をついたまあま応える。
あたしは頬が熱くなるのを感じながら、机を叩く。
「生徒会が運動部中心で回っていることが気に入らないのっ!」
バシンと膝を叩く……やっぱりいたい。
―◆―
一年と少しだけ前の話だ。
そもそものきっかけは、そう、本当に単純なことだった。二年の夏の生徒総会だったから、一年くらい前のことになる。
生徒総会なんて、はっきり言ってあたしには関係のないもので、ただただ延々と座らされているのが苦痛な時間だった。生徒総会といったところで、先生はにらみを聞かせているし、生徒会の報告も決まっていることを決まっているままにただ、消化してゆくだけのとてつもなく無駄な時間だった。
体育館の窓から注ぐ日差しはもう強くて、帰りに憂子と野口屋に寄って今年最初のカキ氷でも食べてゆこうなんて想っていた。
議長選出から始まる、くだらない茶番劇に飽きてきて、なんと言うこともなく、配られたわら半紙刷りのちゃちな資料を眺めていた。
バドミントン部……00円
野球部………………00円
……
ふうん、やっぱり強い部活って言うのは多くのお金をもって行くんだぁねぇ。
いつも想うけど、これは何の冗談なんだろう。運動部の最後に書かれている部活動。
……帰宅部。
運動部? なんだろうなぁ。確かに。間違ってはいない。
しかも、東陵の創設からあり、どの部活よりも長い歴史と伝統を持つ部だったりする。 一説には一期生が第一回の総会で顧問校長のまま勝手に申請したら通ってしまったという逸話があったりする。しかも全会一致。誰も止めなかったのが、この高校のすごいとこかもしれない。もちろん自由参加で部長とかがいるわけじゃない。部費は出てない。その活動内容は帰宅を極めること。ただ、それだけ。でも、なぜか部室として被服室が与えられていたりする。B棟の東端。
分単位で常にコースレコードを塗り替えるべく、日々の交通量調査に始まり、新しい道のチェック、信号機の設置状況と切り替えタイミング、色ごとの点灯時間、アップダウンの有無、気候状態の確認、路面の状況の把握、そして実走に終わる。
【ほとばしる熱いパトスで夕陽の向こう側にある神話を目指す、どこまでも熱い情熱の部活動。それが、帰宅部だっ! さあ来たれ、若者よ!】
と、目標がよく分からない色褪せたポスターが、生徒用玄関の片隅で吹き抜ける風にあおられている。
まあ、それはいいのだけれど。一人、知ってるのが帰宅部にいたことがあるから良く知ってるだけだ。
と、視線を文化部に移す。
えっと…最後の方にあった。
放送部はいつもどおり。副部長として、今年は急須を買おう。桜の花柄のかわいいやつ。白い地に薄く桜が浮かんでる。もうハンプで目星付けてあるんだ。茶漉しもなかったっけ。足りなかったら、月ちゃんに出してもらおう。そんなことを想いながら、さして疑いもしないで数字の羅列を見た。
部活の予算の次には委員会費が書かれていた。
整備……00円
生活……00円
交通……00円
交通委員というのは、自転車通学率98%を超える東稜高ならではの委員で、仕事内容は朝の通学指導を月一回行うという、身も蓋もないような委員会だった。しかも、その指導には〝春の交通安全実施中〟などと書かれたのぼりをもって立つのだ。はっきりいって、見ているこっちが恥ずかしい。
さらに下に視点を動かしてゆくと
図書……00円とあった。
自慢だけど、あたしは入学してから三年の今まで、ずうっと途切れることなく図書委員をやっている。
今だったら、大いに不満がある数字だったけど、そのときは、ただの一般生徒だったから『ふうん、この程度しかもらえないんだ。でも、何に使うんだろ? このお金』と思ったくらいだった。あまり関心はなかった。
さらにぱらぱらとめくっていった。
――ん?
あるページで手が止まった。なんだぁ?これ? もしかして……
あたしはそこに並んでいる数字をもう一度注意深く見直した。
――げ。
うそでしょ?
そこには信じられない事実が書かれていた。
まさかっ……赤字っ!? 生徒会費が赤字。
しかも、来年に待っている文化祭の積み立て費用まで流用している。汚いことにそこだけ字が小さくしてあって。まるっきり詐・欺。
――なんだかなぁ。
そう思った時、会場がざわついた。
資料から顔をあげると、総会は質疑応答に入っているらしかった。三年生が一人立ちあがっていた。
あたしはそれを、すごいなーと思いながら見つめた。こういう、御用集会で、あえて意見を言うのは相当に勇気が要る。下手なことを言えば、たちまち先生が現れて、叩き潰されるような場だ。
周りのクラスメートに照れくさそうに笑いかけながら、立っていた。マイクが渡され、全校生徒が注目する中、
「えーと、三年七組の本荘です。いままで聞いてて思ったんですが、今年度の予算は赤字ですよね?なぜ赤字なのか説明してください」とストレートに言った。言い切ってしまった。
ざわつきがさらに大きくなった。あたしを含めてそれは全校生徒が気づいていた。気づいていたけれど、あえて聞こうとも思わなかった。
暗黙の了解ってやつだ。聞いたところで、先生が出てきて、力でねじ伏せるか、怒鳴り散らすか、質問を無視するかのどれかになると諦めていた。そんなことで怒られるのはくだらない。そういう雰囲気が生徒の中にあった。
次どうなるのか、あたしはちょっと興奮して、ことの成り行きを見ていた。
すぐに「会計の工藤です」と会計が出てきた。
冷たい感じが全身から漂う、女だった。あたしは一目で、自分とは絶対に合わないタイプの人間だと思った。
「赤字ということですが、赤字ではないと思います。いわゆる、見解の不一致ということでしょう。現に決算としてはマイナスではないでしょう?」
あたしは確信した。こいつとは絶対に合わない。お前は政治家かっての。
「そうですね。確かに、数字だけ見ればそうですが、この『文化祭費用から』という項目はなんなんですか?
これは文化祭の費用を一部流用することで、収入にしたってことですよね。これはマイナスなんじゃないですか? この分、文化祭の予算が減るわけでしょ?」
「そうなりますね」
「その分は後で補充されるんですか?」
「父兄からの補助金をそれにあてる予定です」
「そういう、臨時金をあてにしてていいんですか?」
「仕方がないでしょう? 現にそうするしかないのですから」
「仕方がない、そうするしかないの一言で終わりですか。他に解決策は考えたんですか?」
「……」
「ここで責任をなんたらってやっても無駄みたいですね。では質問を変えます」
「はい」
「そもそも、そういうお金が必要になった理由は、二年前に買った筋トレマシンですよね?」
「はい」
「それって、一般の生徒って、そんなに使いますか? 使うのは運動部でしょう? その借金の返済がうまくいかないからって、一般の生徒も行う文化祭の予算を流用するとか、そういうことをやっていいんですか?
本来ならば、運動部の部費を削るなりの対策で乗り切るべきでしょう。にもかかわらず、運動部の予算が前年に比べて上がっているのは何故ですか?」
なかなかいいこと言う。
「だから、文化祭の予算を削ると同時に保護者会から補填をする、と説明しました」
「質問に答えてください。予算が上がっているのは?」
「……」
「運動部の予算を削除しないのは?」
「……」
「さっきも、言ったように筋トレマシンを買ったなら買ったでいいんです。
でも、その返済がままならないからっていって、一般の生徒にしわ寄せをさせるのはどうかな、と。
私には、運動部には責任がないみたいな予算編成がどうなんだろうと思うんですが」
あたしはこのやり取りを感心して聞いていた。この人の勇気に驚いた。ここまでいえば、運動部全体から睨まれることになるだろう。その、部活の顧問の先生にだって、いい顔をされなくなるに決まっている。
ただ、残念なことに、この後やり取りがつづくことはなかった。
案の定、一番の予算を貰っている部活の顧問の香山が、黙ってしまった会計を押しのけるようにマイクを奪い、
「いいかげんにしろ!」と怒鳴り散らしたのだ。
そして、その三年生は、近くにいた何人かの先生に引きずられて体育館の外に連れて出されてしまった。
白けた空気が流れる中、閉じられた扉の音が大きく響いた。
「他に質問はありませんか…?」
思い出したような議長の声が響いて、あとはいつもどおり何かが決まり、何も決まらないまま適当に総会は終わった。
―◆―
「はるかー、帰りに野口屋寄ってかない?」
玄関で靴を履き替えていると憂子が声をかけてきた。
「うん。いいよ。いこっ」
ローファーを床にコンコンと叩きながら
「実はあたしも、憂子誘おうと想ってたんだー」
二人で並んで玄関を出る。
帰る生徒に混じりながら階段を下りていると、ずるりとしたユニフォームを着た生徒が上がってくる。
「武尊!」
憂子が話かけると顔をあげた。
「おう」
「部活?」
「そーだよ」
大きなストライド階段をふたつずつ飛ぶように登ってくる。
「今帰り?」
「うん。これからはるかと野口屋」
「かき氷もうやってんのか?」
「んー。どうだろう? 昨日通った時、旗は出てたよ」
「ふうん」
武尊は意地悪そうに口元を歪めた
「行ったらやってなかったりして」
「少なくとも今日はやってるでしょ」
「こんだけ暑いしな」武尊が空を見上げた。
太陽の光が世界を白く塗りつぶしている。
「武尊、最近はどう? 大会とかあるの」
あたしも訊いてみた。
「インハイ予選がもう少しで始まるけど、まずは土曜の練習試合をどうにかしないとだな」
「どことやるの?」
「情大」
「強いの?」
「強い。去年まではどうってことなかったけど、こないだの県大会でいきなりのベスト8だった。その試合を見に行ったけど、今年の一年でレギュラーを張ってるセンターが凄かった」
バスケのことに関して、武尊は嘘を言わない。その後出てきた五点差で負けた試合の相手というのは、あたしでも話しているのを聞いたことがあった。
「なんでそんなトコとやるの?」
「しょうがないだろ。朱莉先生が勝手に組んだんだから。
本当ならやらせてもらえるような相手じゃないし、俺だってやりたくないよ。負けるのが分かってる試合なんてつまらないしな。
でも、まあ、朱莉先生が俺たちにどうにかして練習試合やらせたくて、月夜野先生の知り合いがいるとかで、やらせてもらえることになったんだ」
「月ちゃんの知り合いかー」
「そんなわけで土曜日は遠征。高崎」
じゃあなと言って武尊は飛ぶように階段を上がっていった。
へえ。
武尊の背中ってこんなだったっけ。
遠ざかる背中はあたしが小さい頃から知っているよりものより大きくて、しっかりしていた。
いつのまにこんなに大きくなったんだろう。
あの雨の中、小さくて頼りなく濡れていた背中を想いだす。
隣で憂子がポツンと
「情大かぁ…従姉妹がいるよ」
憂子の従姉妹の話を聞くのは初めてだった。
―◆―
次の日の放課後、あたしは図書館のカウンターに座ってさっき借りた本を読んでいた。
東堂センセに頼み込み、月ちゃんを脅し、やっと入れてもらった。
ずっと読みたいと思っていたけれど、あたしのお財布はいつも木枯らしが吹いている。
別に無駄遣いが多いわけじゃない。収入がとてつもなく少ないのだ。お小遣いは錬金術で手に入れる。一週間に一度、母上が教えに行く水曜日。『朝が早いからお弁当を作れない』と残念がる母上から貰えるお昼代の五百円をお小遣いに換える。
その1 使わずにとっておく。(一番もうかるけど、育ち盛りだからできればやりたくない)
その2 お昼のパンを百円のスイートブールにする。(これもつらい)
その3 ジュースを八十円の紙パックにする。(飲めるものが限られる)
その4 ペットボトルの時は前の日にスーパーで九十九円で買っておく。(でも高い)
その5 水筒にコーヒーを準備する。(かばんが重くなるけど、結構やる)
一番重要なのは、ちらしを毎日チェック。
これらのことを複合的に駆使する涙ぐましい努力で手に入れる約千百円があたしの一か月のおこづかいだ。
値上げ交渉に行っても、お味噌汁を優雅な手つきでおたまでかき回しながら
「んー、はるかちゃん。今日はお豆腐だけ。ほんとうは油揚げも入れたいんだけど……」などと言われれば、だまってうなずくしかない。ちなみに父は国土地理院とかってとこに勤めているらしく、いつも家にいない。。
バイトは禁止だし、バイトする時間があれば本を読んでいたい。
だから、いつまでたってもお財布の木枯らしは吹きやんでくれない。
―◆―
開店休業状態で時間だけがゆったりと過ぎてゆく。図書館としては問題があるような気がするけれど、あたしにとってはそれで全然かまわなかった。【至福】その言葉の意味をあたしはすでに知っている。
ギッ…
静かな音の中でカウンターに入るための扉が音を立てたのでそちらを見た。男子生徒が入ってきていた。
「関係者以外は立ち入り禁止ですよー」
「ひとり?」
「はい?」
「だれだ、さぼってんのは」言いながらカウンターの後ろの当番表を覗き込む。
「あのーもしもし? 関係者以外は…」
あたしの声を無視して、目は当番表を見たまま何かつぶやいた。
「…の天使」
「え」
「穢れ名の天使、か」
「は?」
「アンジェってのは何語なんだろう。イタリア語かな?」
「イタリア?」
一体何を言い出すんだこの人は?などと考えながら見ていると「イタリア語で天使はなんていうか知ってるかい?」と話しかけてきた。
「さあ… 英語だとエンジェルですよね」
「うん。そうだね。天使はイタリア語ではアンジェラとかアンジェロっていうんだよ」
「はあ」意味が分からない。
「ラテン語系かなぁ…」などとぶつぶつ言っている。かかわらないでおこう。
あたしが「関係者以外は…」と言いかけたその時、その妖しい人は「ねぇ草壁さん?」と言って笑ったのだ。
一瞬なんのことが分からなかった。
もしかして今あたしの名前を言った!?
「なんであたしの名前を知ってるんですか?」とぼけて聞きかえし、はっとしてカウンターの上の箱を見た。
「もしかして見たんですかっ!」
「なにを?」
「あたしのカード」
「カード?」
「とぼけないでくださいっ」
「いつ?」
そう言われると、声に詰まる。「あたしが見てないときとか…」
「根拠は?」
「う」
あたしは今たぶん、きっとバカにされてる。悔しい。悔しいけれど、どうしていいかわかんない。
屈辱で真っ赤になっているあたしとは反対に「でも、確かにその可能性は否定できないなぁ」などとのんびり呟いている。
ムカつく。あたしは読みかけのページに指をはさんで持っていた本をカウンターに置いた。
パタっと軽い音がした。どんな時でも本だけは乱暴にしない。
「なんで知ってるんですかっ!」と叫びだしそうになるのをかろうじて抑え
「いつ見たんですか」
「さあ、カンかな」
やっぱりこいつはあたしのことをバカにしている。顔が赤くなるのが分かった。「いいかげんにしろっ!」と叫びたいのを必死に抑えた。図書委員のプライドにかけて叫ばない。絶対に。負けてたまるか。歯をくいしばり、スカートの上の手をきつく握りしめる。
母の言葉を思い出す。
「1 図書館は資料収集の自由を有する
2 図書館は資料提供の自由を有する
3 図書館は…」と言いかけたとき、
「利用者の秘密を守る。図書館の自由に関する宣言か」
「そうです」
そう言ったとたん、クックッと笑いだした。
「な…」もう限界だ。
気がつけば椅子から立ち上がっていた。右手が上にあがっている。鼻の奥がツンとしている。眼の端が少し湿っぽい。
でも。ひっぱたく。頬を思いっきりっ!!
なぜなら「図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る」
「はるか?」
声の方を向くと憂子が立っている。
「なにやってんの?」
「憂子!ちょっと聞いてよ。こいつが!」
「こいつ?」憂子が怪訝そうに隣を見る。間の抜けた声が響く。
「あー、お久しぶりです。本荘先輩」
「は。先輩?」
「そ。弁論部のね。とりあえず座りなよ、はるか。ね?」
憂子の声にあたしは一気に緊張が解けた。膝の力が抜けて座るというより椅子に落ちた。
憂子はぐったりしたあたしを見てから、「それで」と本荘先輩を睨みつけた。
「んー ちょっと」
「先輩のちょっとはアテになりません。おおかた」ちらりとあたしの方に視線を向けた。
「からかってたんでしょう」
「そんなこと」
「あります。はるかを見ればわかります。だから、おんなの子に嫌われるんですよ。小学生じゃないんだから」
「おれ、嫌われてる?」
「自覚してるんならいいです」
答えにならない答えだったけれど、本荘さんは黙ってしまった。弱点なんだろうか。
「はるか。だいじょぶ?」
「なんとか…」
「まあ、こーゆー先輩だから。も少し離れた方がいい」
「そう、だね…」
あたしは床を蹴って、座った椅子ごと後ろに移動した。憂子を見ると小さく首を振る。
「あのな、人を犯罪者のように…おれは何も…「してない、と?」憂子の眼がすうっと細くなる。
本荘さんがびくっと固くなった気がした。
かつてこの人と憂子の間でなにかがあったんだろうか。目の脅えが普通じゃない。
憂子があたしの方を見てうなずく。あたしは椅子をすこうし持ち上げた。
「さっき、私の友達が顔を真っ赤にして、手を振り上げていました。滅多なことでは怒らないやさしい娘です。そんな娘がそんな行動をするなんていったい誰に対するものだったのでしょう?」
「…」
「さっき、生徒総会で予算が赤字なことに気づいて、生徒会にたてついた人がいました。いったい誰だったのでしょう?」
「…」
「さっき、生徒会室に呼ばれました。なんでも、これから話したいことがあるからとかなんとか。いったいなぜでしょう?」
「…」
「そして私は弁論部の部長です」
「…」
「導き出される結論は?」憂子は本荘さんを睨みつけた。
「…すまん」
本荘さんはうなだれた。
憂子はにらみつけている。
あたしは椅子を移動している。
「申し訳ない…」
憂子はにらみつけている。
あたしはカウンターの一番奥までたどりついた。
「悪かった…少し調子に乗った」
憂子があたしを見て、軽くうなずく。そこまで行けばだいじょぶらしい。
うなずき返した。距離はまぁ、2メートルくらい離れた。
「分かればいいんです」
偉そうに言って憂子は噴き出した。
本荘さんの方を見ると同じように笑っている。なんなんだこの二人は。
「別に気にしないでください。どうせ私生徒会嫌いですから。いろいろをネタはあるんで、逆に部費をがっぽりとってきます。期待しててください」
あたしは二人を交互に見てわかった。どうも会話を楽しんでいたらしい。
それでも離れる時間をくれた憂子に、あたしは笑顔を作った。
「ん、だいじょぶそう、じゃね」と軽く手を振って憂子は討ち入りに行ってしまった。
後ろで縛った髪がブレザーの肩でふわふわと揺れていた。
図書館の扉が閉じて、憂子の姿が見えなくなったのを見計らったように、あたしに問いかけてきた。 「本当に覚えてない?」
「はい」
あたしは大きくうなずいた。
「そっか」
少しさみしそうな顔をして「学年違うからな」などと言っている。
ちょっといい気分だった。
「本荘って言ってもダメ…?」
「あたしには憂子と武尊以外に、は行の知り合いはいません」断言する。ちなみに憂子は本田辺という。
「一応、図書委員なんだけど。影薄いからな。俺」
「はぁ」
ん?そいういえば… 思いつくところがあったので壁に張ってある図書便りを見た。図書委員長の名前は本荘だった。
「あ…」
本荘さんを見ると笑っていた。
「ごめんなさい。あたし」
「いきなり入った俺の方が悪いんだから、おれの方こそ申し訳なかった」本荘さんが頭を下げた。
「でも…」
「ん?」
「じゃあなんであんなことやったんですかっ! あれじゃあたしバカみたいじゃないですかっ」
「ごめん。あまりにも可愛かったから」
「なっ…!」
顔が赤くなってゆくのが分かる。ちょっと耳が聞こえにくい。
「ななななななななにおうっ、言ってるんですかあっ!」
「そのまんま言葉のとおり」本荘さんが少し体を近づけてくる。眼は真剣だ。
「ええっと。あ、あたしは、そのう、おんなの子なので、そういったのはちょっと…だ、だから、そう、おんなの子なんです。…おとこじゃないんで、よくわかりません」
しどろもどろになりながら答えていると、本荘さんは大声で笑い出した。
「はははっ」
「なにがおかしいんですかっ」あたしはどうしていいか分からず、怒りながら答えた。
「だって、ははは…」
「ヴー」
目に涙を浮かべながら「ごめん。でも、自分が言ったこと考えてみなよ」
「………」
「ほんとうに面白い子だなぁ。さっきのは俺も読んだことがあったから、表紙でわかったんだよ。ま、今はお客さんも落ち着いてるみたいだし、お茶でも飲もうか」
そう言って司書室に入っていく。
あたしはいなくなった椅子をじっとみつめていた。
しばらくたって司書室から顔を出した本荘さんは「早くこないと冷めちまうぞ」そう言って、苦笑いした。
覚悟を決めて司書室に入るとローテーブルの上ではそろっていないお茶碗から湯気が二つ立っていた。端が擦り切れて中のスポンジが覗いているぼろいソファに座る。本荘さんとは距離を取る。
「警戒されてるなぁ」そう言いながら、第四期卒業記念と脇に書かれた赤茶色の茶碗を本荘さんが取った。あたしは残った白い花柄の瀬戸物の茶碗を取る。
む、なかなか美味しい。ちゃんと蒸らしてある。なんだか楽しい気分になってきた。
案外悪い人ではないのかもしれない。お茶を美味しく淹れられる人に悪い人はいない。
少し気持ちが緩んできたところで、ふと疑問に想っていたことを口に出してみた。
「あの、本荘…さん?」
「ん?」
「聞いてもいいですか?」
「んー」
「あの後どこに連れていかれたんですか?」
「あの後…?」と首をかしげ「ああ、総会の後か。生徒指導室」
「保健室の奥の、あの薄暗い部屋ですか?」
「そ」
本荘さんはお茶を啜った。
「あ、あの…」
おずおずと聞いてみる。
「ひとつ…、ひとつだけ聞いてもいいですか?」
茶碗に口をつけたままうなずく。「答えられることなら」
あたしは思い切って言ってみた。
「生徒指導室にあれがあるって本当ですかっ!」
「はぁ?」
「あたし聞いたんです。あれがあるって」
「あれ?」
「そうっ、あれです」
しばらく考えていたけれど、「ああ、あれか」とうなずいた。
「あれだろ。カレンダー!」
「は?」
「ギリギリ見えないとこがいいんだよなぁ。でも、あれは指導室じゃなくって、その隣の…」
と言いかけたとき叫んだ。
「ちっがーーーーーーうっ。」
本荘さんの視線がチロチロとあたしのこれからに期待しますの胸のあたりを見ていたことは関係ない。断じてない。自信はちょっと…ない。
「そんな俗的なものじゃありません。世界と自己に隔たりを生み、自由と拘束、絶望と慟哭の象徴。黒鉄の束縛」
「なんだそりゃ」
「決まってるじゃないですか。もちろん鉄格子です!」
本荘さんは一瞬ポカンとして、それから額に手を当てて軽くため息をついた。
「あのな…どこからそういう発想が出てくるんだ?」
「鉄格子!あるんですかっ!ないんですかっ!どっちなんですかっ!!」
本荘さんは呆れながら大きくため息をついた。
「あるのとないのと、どっちが良いんだ?」
「もちろんある方ですっ! なぜなら! そっちの方がロマンがあるからですっ」
「じゃあ、ロマンがある方で。ちなみに隣の生徒会室にアイドルの水着カレンダーはあるけど」
「そうですか。別にいいです。それよりもっ!やっぱり鉄格子あるんですね。あとで放送部として取材に行かないと」
「取材?普段はカギかかってるって。たぶん」
「その点は大丈夫です。放送部には最終兵器がありますから」
「最終兵器?」
「まま、この話はいいです」
あたしはウキウキしながら答えた。
「まぁ、それでいいんならいいけれど」
「でも、本荘さんって勇気ありますよね」
「ん?ああ、生徒総会の話か。別に委員会費を持っていかれるのが、嫌だったわけじゃないよ。ただ、ああいう、運動部中心の考え方が許せなかっただけ。まあ、この流れで行くと、来年は完璧に委員会費は削除で決まりだろうなぁ」
―◆―
「…と、言う訳」
「それで、結局予算は削られたんですね」
あたしはにっかりと笑った。
「え?じゃあ…」
「さすが憂子って感じだよね」
「なにをやったんですか」
「なにも」あたしは首を振った。
「教えてくれなかったから。でも、戻ってきたとき『私は講釈師だから』とか言ってた」
「講釈師、ですか…」
美帆が考え込む。
「うん。いくら聞いても教えてくれないんだ。どーやったんだろ?」
それは今でも謎のままだ。でも、それでいい。すべてが分かっちゃうとつまらない。世の中のほとんどはつまらないことでできてる。知らない方が幸せなことが多い。あたしは「知らない」ことを愉しんでいる。
シークレット。ミステリアス。いい響き。
響きの良さに酔っていると
「話は変わりますけど、いいですか」
「ん?」あたしはお茶を啜った。甘い香りがする。
「委員会費について異議申し立てができる期日はいつまでですか」
「期日?」
「はい」
あたしはお茶の水面をのぞきながら
「今日は予算案が示されただけだから、このあと各部に持って帰って、協議。そのあと文句が言えるのが一週間後の部長、委員長会議。その次の日、生徒総会にかけられて承認ってとこかな。だから…」
「だとすると、今日を入れて、あと8日ですね。そしてチャンスは2回かぁ…」
「2回もある?」
「部長会議と、総会と…」
「総会は無理だと思うよ。本荘さんと同じ目に会うだけ」
「となると、部長会議の一回だけ…」
美帆はお茶を両手で包み込むようにもって、じっと水面を見つめている。時計の針の音が静かに響く。東堂先生は整理に入った書庫から出てこない。
今何時だろうと想って、時計を見た。一六時四八分。そろそろ閉館時間だ。
ふんわりと窓辺のカーテンが膨らんだ。夏の午後の匂いがする。
そういえば、来週は花火大会だったなぁ。誰と行こう。去年の憂子、よかったなぁ。朝顔の柄の浴衣着て、首筋がほっそりしてて。今年はぜったいに浴衣を着るんだ。母さんのお古だけど。どうもいわくつきのものらしい。いくらせがんでも、母さんは乙女のように頬をうっすらと染めて「十七歳になったらね」と言って着せてくれなかった。紺地にホタルがたくさん舞ってる、かわいいやつ。
「うん。いけます」
部屋に美帆の明るい声が響いて我に返った。
「そう? なら一緒に行こうか」
「ありがとうございます。今からお願いしようと思ってたんです」
美帆は覗き込んでいた茶碗から顔をあげ、
「あの…」
「なぁに」
「本田辺先輩と本荘先輩に連絡つきますか?」
「憂子ならだいじょぶだよ。でも、本荘さんは…」
あの人と花火に行きたいのだろうか。もしかして美帆?
「二人がいないとちょっと…なるべく早くどうにかできませんか?」
「そ、そう? 美帆がそこまで言うんならどうにかするよ。弁論部の部長だったらしいから、憂子経由でいけると想う」
「ありがとうございます。これでどうにかいけると想います」
「うん。一緒に行こっ。待ち合わせはどこにする?」
「ここでいいです。その後で生徒会室に行きましょう。部長会議に私も行きます!」
「ほへ?花火じゃないの…?」
しまらない返事を返したあたしが見たのは、楽しそうに笑う美帆の姿だった。
遠くで大きな音が響いたと想うと、すぐにガダンッ!と司書室のドアが乱暴に開き「東堂先生!草壁います?」叫び声が司書室に響いた。
振り返ると武尊が怖い顔をして立っていた。あたしの姿を見つけると、武尊はズカズカと司書室に入ってきてあたしの前に立った。
「何?」
「行くぞ」
「どこに?」
「生徒会室だよ。いきなり飛び出して行きやがって…」
武尊はあたしの腕をつかんで司書室から連れ出そうとする。
「やだ」
慌てて腕を振り回してもしっかりと握られた手は解けない。
「やだ。行かない」
左手も使って力いっぱいに押しても取れない。
「いいから来い!」
「だから、やだって!!」
武尊と揉み合っている後ろで電話が鳴った。何度か頷いて東堂先生は受話器を置き、「はやく行ってらっしゃい」と妙にニヤニヤしながら言った。
「東堂先生まで、そう言うんですかっ! ちょっ美帆も見てないで助けてよ」
「あ」
立ち上がった美帆を東堂先生が手で制した。
「美帆ちゃん、まあいいから」
「え、でも…」
オロオロする美帆を無視して東堂先生が「いいから、早く行く!」と叫んだ。
この声を聞いたあたしは観念し、そのまま武尊に引きずられて、図書室を出た。
生徒会室に向かう廊下で武尊は何も言わなかった。でも、あたしの腕はしっかりと握り続けていた。
そういえば昔こんなことあったなぁ…
腕の先にある背中を見ながら、あたしは理不尽に対して怒りながらも、懐かしい気持ちも感じていた。
というのも、委員会予算がビタの一文も、もりこまれていなかったからだ。
ダンッ! ダンッ!!
衝撃が上履きを通って足の裏に伝わる。B棟からCへの渡り廊下を歩き、生徒会室から図書館に戻っている。
―◆―
あたしの名前は草壁はるか。東陵高校で図書委員長をやっている。
いつも図書館の隅っこにある司書室にいりびたっているので、口の悪い友達は〝図書館の主〟なんて呼ぶ。十七歳の三年生。
父曰く「俺と同じくらい歳の男なら、知らないやつはいなかった、らしい」とかいう人が母親なので、文句なしに美人!ってほどじゃないけど、見てくれる人が見てくれれば、それなりにかわいいと自分では思っている。
身長は143.8センチでちょっと小さい方かな。体重は……。すらりとした感じ。
性格は素直で単純、温厚な平和主義者だ。……ほんとう、だよ。
―◆―
ガラガラ、ズダーン!
怒りにまかせて力いっぱいに図書室のドアを引くとすさまじい音がした。ドアが半分くらい反動で戻ってきた。
少しムッとしてそれを睨みつけ、無造作に足で払いのけた。
ダン…
さっきよりなまちょろい音がしてドアは全開した。
二回の騒音に、図書室にいた生徒があたしの方を振り返った。
ふんっ。
なにが「今年度より文化部の予算は大幅減額、委員会費は廃止します」だ。ふざけるなよ。冗談も休み休み言え。
「ヴーーーーー」
あたしは獣のように鋭い目をして低くうなった。
近くで蔵書整理をしていた副委員長の深町美帆が慌てて駆け寄ってくる。
「……先輩、あ、あのぅ、落ち着いてください。みんなに迷惑ですから……」
こわごわという感じの、おどおどした声がした。
ちらりとうかがうと制服のブラウスの間からのぞく首筋から耳の先までを真っ赤にしている。
美帆は世間でいうところの優等生で、うわさによると入学当初のテストから、二年の今までのテストで五番以下の成績を取ったことが無いらしい。下から数えたほうがほんのちょっとだけ早いあたしとはえらいちがいだ。
ふう。美帆に気づかれないように小さくため息をついた。
こうやって、何にも知らない生徒が増えていって、何もかもが闇に葬り去られてゆくのかもしれない。
あたしは唇を少しかんでから、
「これが怒らずにいられるかっての!」ぴしゃりと言ってやった。
美帆はビクンと震え、ちぢこめている体をさらに小さくした。
「で、でも、先輩」
「先輩言うなー! あたしはその言葉がだいっきらいなのっ! あたしを呼ぶ時は『草壁さん』か『はるかさん』で良いっ! このさい、呼び捨てでもかまわないから」
「はいいいいいっじゃあ……せ…はるかさん」
「なにっ!」
「あ、あの。なんで、そんなに怒ることがあるんですか?図書館の本を買う予算は毎年県の方から出ているわけですし、委員会費を削られても私達にそんなに影響があるわけでもないのに」
「確かに委員会費は本を買うものじゃない」
「なら、なんで……何でそんなに怒る必要があるんですか?」
大きく息を吸ってから美帆に向かって「あのね」と口をひらいた瞬間、うしろから
「図書館ではお・し・ず・か・に。わかってるよねぇ?」
怒気をはらんだ静かな声が響いた。
その笑顔は怖いです。
―◆―
「――で、一体何があったの?」
司書室のドアを閉めながら、東堂(とうどう)センセが聞いてきた。
あたしはムスーッとして、司書室の中にある応接セットのボロソファに座っていた。向かいがわには美帆が座っている。
「どうせ、予算を削られて怒ってるんでしょ?」
「予算って?」
美帆が意外そうに聞きかえした。あたしはぶぜんとして頬をふくらませていた。
東堂センセはひょいと肩をすくめ
「やっぱりそれか。。今朝の職員会議で香山先生が嬉々として言っていたもの。今回から部活ごとの模擬店を許可することしたから、委員会用の予算をそっちに回すって。それ聞いた時、『あ~あ、草壁さん怒るだろうなー』って」
あたしは、ますますむかむかした。
ふんっ。あの、香山のバカ。
ちょっと見ている部活が強いからって、いい気になって。
それにくわえてあの、工藤だよ。 あの、女が悪いんだ。
一年の時から、生徒会の活動をやってて、そのままエスカレーター式に会長になったあいつが悪い。
人望の無さを、部活の振興を挙げて体育連の力をバックにつけて当選し、その上での数の暴力で押し切ろうとする。
委員会役員の中で、運動部にからんでいないのが、あたし一人なのをいいことに、役員会の裏の運動部会議で何でも決めてしまっている。
「何で、そこまで分かるんですか?」
「まあ、深町さんは草壁さんと付き合ってから、まだ日が浅いからねぇ」
意味ありげにあたしの方に目配せをしてから、東堂センセは自分の仕事机に腰掛けた。
「ね?草壁さん?」
あたしは口をとがらせたまま、ぶすっと黙っていた。
「でもね、草壁さんが怒る気持ち、私にもよく分かるわよ。予算なしで展示を行うのはちょっとひどいし、強引な感じがしたもの」
「確かに予算なしは厳しいですよね… でも、強引って言うのは言い過ぎかなと想うんですけど…」美帆が間の抜けたように聞きかえした。
「分かってないなぁ。美帆は」
あたしはあきれるやら、哀しいやらで、ため息混じりに答えた。
「表と裏は違うってことだよ。今年は文化祭がある年だから、表向きは限られた予算を使い道のいまいちはっきりしない委員会に回すより、部活の模擬店に回して、模擬店の運営資金に当てる。初めてだからどうなるかは分かんないけど、模擬店はみんなやりたいし、多くが運動部に所属している現状を考えると、誰も文句を言うわけがないよね。でもさ、委員会の展示なんてあっても無いようなものでしょ?月ちゃんに聞いたけど、毎年開催中に行動するのは、警備を兼ねた整備と交通、それと古本市と展示を行う図書だけ。はっきり言って予算が必要なのは図書だけなんだよ。といっても、模造紙と値札だからそこらの備品でどうにかなっちゃうけど…」
「あのぅ。古本市の予算って売り上げからもだせるんですよね…だったら、後から補っても…」
うーん。さすが美帆、合理的な行動をとろうとする。それが学年五位以内をキープするコツなのかしら。
「うーーーん。確かにそうなんだけど……」
「はるかさん。もうやめましょうよ。こんな意味の無いこと。いくらはるかさんが異を唱えても、決まっちゃってることはひっくり返らないと思うんです」
「ちっがーーーーう!」
あたしは目の前のテーブルを思いっきり、ひっぱたいた。
手が少ししびれた。いたい。
手に残るわずかな振動を感じながら
「あたしが言いたいのはそういうことじゃなくて、図書委員会のお茶代がでなくなるってことでもなくって」
「え、そうなんですか」
「ま、そうよ」
東堂先生が頬杖をついたまあま応える。
あたしは頬が熱くなるのを感じながら、机を叩く。
「生徒会が運動部中心で回っていることが気に入らないのっ!」
バシンと膝を叩く……やっぱりいたい。
―◆―
一年と少しだけ前の話だ。
そもそものきっかけは、そう、本当に単純なことだった。二年の夏の生徒総会だったから、一年くらい前のことになる。
生徒総会なんて、はっきり言ってあたしには関係のないもので、ただただ延々と座らされているのが苦痛な時間だった。生徒総会といったところで、先生はにらみを聞かせているし、生徒会の報告も決まっていることを決まっているままにただ、消化してゆくだけのとてつもなく無駄な時間だった。
体育館の窓から注ぐ日差しはもう強くて、帰りに憂子と野口屋に寄って今年最初のカキ氷でも食べてゆこうなんて想っていた。
議長選出から始まる、くだらない茶番劇に飽きてきて、なんと言うこともなく、配られたわら半紙刷りのちゃちな資料を眺めていた。
バドミントン部……00円
野球部………………00円
……
ふうん、やっぱり強い部活って言うのは多くのお金をもって行くんだぁねぇ。
いつも想うけど、これは何の冗談なんだろう。運動部の最後に書かれている部活動。
……帰宅部。
運動部? なんだろうなぁ。確かに。間違ってはいない。
しかも、東陵の創設からあり、どの部活よりも長い歴史と伝統を持つ部だったりする。 一説には一期生が第一回の総会で顧問校長のまま勝手に申請したら通ってしまったという逸話があったりする。しかも全会一致。誰も止めなかったのが、この高校のすごいとこかもしれない。もちろん自由参加で部長とかがいるわけじゃない。部費は出てない。その活動内容は帰宅を極めること。ただ、それだけ。でも、なぜか部室として被服室が与えられていたりする。B棟の東端。
分単位で常にコースレコードを塗り替えるべく、日々の交通量調査に始まり、新しい道のチェック、信号機の設置状況と切り替えタイミング、色ごとの点灯時間、アップダウンの有無、気候状態の確認、路面の状況の把握、そして実走に終わる。
【ほとばしる熱いパトスで夕陽の向こう側にある神話を目指す、どこまでも熱い情熱の部活動。それが、帰宅部だっ! さあ来たれ、若者よ!】
と、目標がよく分からない色褪せたポスターが、生徒用玄関の片隅で吹き抜ける風にあおられている。
まあ、それはいいのだけれど。一人、知ってるのが帰宅部にいたことがあるから良く知ってるだけだ。
と、視線を文化部に移す。
えっと…最後の方にあった。
放送部はいつもどおり。副部長として、今年は急須を買おう。桜の花柄のかわいいやつ。白い地に薄く桜が浮かんでる。もうハンプで目星付けてあるんだ。茶漉しもなかったっけ。足りなかったら、月ちゃんに出してもらおう。そんなことを想いながら、さして疑いもしないで数字の羅列を見た。
部活の予算の次には委員会費が書かれていた。
整備……00円
生活……00円
交通……00円
交通委員というのは、自転車通学率98%を超える東稜高ならではの委員で、仕事内容は朝の通学指導を月一回行うという、身も蓋もないような委員会だった。しかも、その指導には〝春の交通安全実施中〟などと書かれたのぼりをもって立つのだ。はっきりいって、見ているこっちが恥ずかしい。
さらに下に視点を動かしてゆくと
図書……00円とあった。
自慢だけど、あたしは入学してから三年の今まで、ずうっと途切れることなく図書委員をやっている。
今だったら、大いに不満がある数字だったけど、そのときは、ただの一般生徒だったから『ふうん、この程度しかもらえないんだ。でも、何に使うんだろ? このお金』と思ったくらいだった。あまり関心はなかった。
さらにぱらぱらとめくっていった。
――ん?
あるページで手が止まった。なんだぁ?これ? もしかして……
あたしはそこに並んでいる数字をもう一度注意深く見直した。
――げ。
うそでしょ?
そこには信じられない事実が書かれていた。
まさかっ……赤字っ!? 生徒会費が赤字。
しかも、来年に待っている文化祭の積み立て費用まで流用している。汚いことにそこだけ字が小さくしてあって。まるっきり詐・欺。
――なんだかなぁ。
そう思った時、会場がざわついた。
資料から顔をあげると、総会は質疑応答に入っているらしかった。三年生が一人立ちあがっていた。
あたしはそれを、すごいなーと思いながら見つめた。こういう、御用集会で、あえて意見を言うのは相当に勇気が要る。下手なことを言えば、たちまち先生が現れて、叩き潰されるような場だ。
周りのクラスメートに照れくさそうに笑いかけながら、立っていた。マイクが渡され、全校生徒が注目する中、
「えーと、三年七組の本荘です。いままで聞いてて思ったんですが、今年度の予算は赤字ですよね?なぜ赤字なのか説明してください」とストレートに言った。言い切ってしまった。
ざわつきがさらに大きくなった。あたしを含めてそれは全校生徒が気づいていた。気づいていたけれど、あえて聞こうとも思わなかった。
暗黙の了解ってやつだ。聞いたところで、先生が出てきて、力でねじ伏せるか、怒鳴り散らすか、質問を無視するかのどれかになると諦めていた。そんなことで怒られるのはくだらない。そういう雰囲気が生徒の中にあった。
次どうなるのか、あたしはちょっと興奮して、ことの成り行きを見ていた。
すぐに「会計の工藤です」と会計が出てきた。
冷たい感じが全身から漂う、女だった。あたしは一目で、自分とは絶対に合わないタイプの人間だと思った。
「赤字ということですが、赤字ではないと思います。いわゆる、見解の不一致ということでしょう。現に決算としてはマイナスではないでしょう?」
あたしは確信した。こいつとは絶対に合わない。お前は政治家かっての。
「そうですね。確かに、数字だけ見ればそうですが、この『文化祭費用から』という項目はなんなんですか?
これは文化祭の費用を一部流用することで、収入にしたってことですよね。これはマイナスなんじゃないですか? この分、文化祭の予算が減るわけでしょ?」
「そうなりますね」
「その分は後で補充されるんですか?」
「父兄からの補助金をそれにあてる予定です」
「そういう、臨時金をあてにしてていいんですか?」
「仕方がないでしょう? 現にそうするしかないのですから」
「仕方がない、そうするしかないの一言で終わりですか。他に解決策は考えたんですか?」
「……」
「ここで責任をなんたらってやっても無駄みたいですね。では質問を変えます」
「はい」
「そもそも、そういうお金が必要になった理由は、二年前に買った筋トレマシンですよね?」
「はい」
「それって、一般の生徒って、そんなに使いますか? 使うのは運動部でしょう? その借金の返済がうまくいかないからって、一般の生徒も行う文化祭の予算を流用するとか、そういうことをやっていいんですか?
本来ならば、運動部の部費を削るなりの対策で乗り切るべきでしょう。にもかかわらず、運動部の予算が前年に比べて上がっているのは何故ですか?」
なかなかいいこと言う。
「だから、文化祭の予算を削ると同時に保護者会から補填をする、と説明しました」
「質問に答えてください。予算が上がっているのは?」
「……」
「運動部の予算を削除しないのは?」
「……」
「さっきも、言ったように筋トレマシンを買ったなら買ったでいいんです。
でも、その返済がままならないからっていって、一般の生徒にしわ寄せをさせるのはどうかな、と。
私には、運動部には責任がないみたいな予算編成がどうなんだろうと思うんですが」
あたしはこのやり取りを感心して聞いていた。この人の勇気に驚いた。ここまでいえば、運動部全体から睨まれることになるだろう。その、部活の顧問の先生にだって、いい顔をされなくなるに決まっている。
ただ、残念なことに、この後やり取りがつづくことはなかった。
案の定、一番の予算を貰っている部活の顧問の香山が、黙ってしまった会計を押しのけるようにマイクを奪い、
「いいかげんにしろ!」と怒鳴り散らしたのだ。
そして、その三年生は、近くにいた何人かの先生に引きずられて体育館の外に連れて出されてしまった。
白けた空気が流れる中、閉じられた扉の音が大きく響いた。
「他に質問はありませんか…?」
思い出したような議長の声が響いて、あとはいつもどおり何かが決まり、何も決まらないまま適当に総会は終わった。
―◆―
「はるかー、帰りに野口屋寄ってかない?」
玄関で靴を履き替えていると憂子が声をかけてきた。
「うん。いいよ。いこっ」
ローファーを床にコンコンと叩きながら
「実はあたしも、憂子誘おうと想ってたんだー」
二人で並んで玄関を出る。
帰る生徒に混じりながら階段を下りていると、ずるりとしたユニフォームを着た生徒が上がってくる。
「武尊!」
憂子が話かけると顔をあげた。
「おう」
「部活?」
「そーだよ」
大きなストライド階段をふたつずつ飛ぶように登ってくる。
「今帰り?」
「うん。これからはるかと野口屋」
「かき氷もうやってんのか?」
「んー。どうだろう? 昨日通った時、旗は出てたよ」
「ふうん」
武尊は意地悪そうに口元を歪めた
「行ったらやってなかったりして」
「少なくとも今日はやってるでしょ」
「こんだけ暑いしな」武尊が空を見上げた。
太陽の光が世界を白く塗りつぶしている。
「武尊、最近はどう? 大会とかあるの」
あたしも訊いてみた。
「インハイ予選がもう少しで始まるけど、まずは土曜の練習試合をどうにかしないとだな」
「どことやるの?」
「情大」
「強いの?」
「強い。去年まではどうってことなかったけど、こないだの県大会でいきなりのベスト8だった。その試合を見に行ったけど、今年の一年でレギュラーを張ってるセンターが凄かった」
バスケのことに関して、武尊は嘘を言わない。その後出てきた五点差で負けた試合の相手というのは、あたしでも話しているのを聞いたことがあった。
「なんでそんなトコとやるの?」
「しょうがないだろ。朱莉先生が勝手に組んだんだから。
本当ならやらせてもらえるような相手じゃないし、俺だってやりたくないよ。負けるのが分かってる試合なんてつまらないしな。
でも、まあ、朱莉先生が俺たちにどうにかして練習試合やらせたくて、月夜野先生の知り合いがいるとかで、やらせてもらえることになったんだ」
「月ちゃんの知り合いかー」
「そんなわけで土曜日は遠征。高崎」
じゃあなと言って武尊は飛ぶように階段を上がっていった。
へえ。
武尊の背中ってこんなだったっけ。
遠ざかる背中はあたしが小さい頃から知っているよりものより大きくて、しっかりしていた。
いつのまにこんなに大きくなったんだろう。
あの雨の中、小さくて頼りなく濡れていた背中を想いだす。
隣で憂子がポツンと
「情大かぁ…従姉妹がいるよ」
憂子の従姉妹の話を聞くのは初めてだった。
―◆―
次の日の放課後、あたしは図書館のカウンターに座ってさっき借りた本を読んでいた。
東堂センセに頼み込み、月ちゃんを脅し、やっと入れてもらった。
ずっと読みたいと思っていたけれど、あたしのお財布はいつも木枯らしが吹いている。
別に無駄遣いが多いわけじゃない。収入がとてつもなく少ないのだ。お小遣いは錬金術で手に入れる。一週間に一度、母上が教えに行く水曜日。『朝が早いからお弁当を作れない』と残念がる母上から貰えるお昼代の五百円をお小遣いに換える。
その1 使わずにとっておく。(一番もうかるけど、育ち盛りだからできればやりたくない)
その2 お昼のパンを百円のスイートブールにする。(これもつらい)
その3 ジュースを八十円の紙パックにする。(飲めるものが限られる)
その4 ペットボトルの時は前の日にスーパーで九十九円で買っておく。(でも高い)
その5 水筒にコーヒーを準備する。(かばんが重くなるけど、結構やる)
一番重要なのは、ちらしを毎日チェック。
これらのことを複合的に駆使する涙ぐましい努力で手に入れる約千百円があたしの一か月のおこづかいだ。
値上げ交渉に行っても、お味噌汁を優雅な手つきでおたまでかき回しながら
「んー、はるかちゃん。今日はお豆腐だけ。ほんとうは油揚げも入れたいんだけど……」などと言われれば、だまってうなずくしかない。ちなみに父は国土地理院とかってとこに勤めているらしく、いつも家にいない。。
バイトは禁止だし、バイトする時間があれば本を読んでいたい。
だから、いつまでたってもお財布の木枯らしは吹きやんでくれない。
―◆―
開店休業状態で時間だけがゆったりと過ぎてゆく。図書館としては問題があるような気がするけれど、あたしにとってはそれで全然かまわなかった。【至福】その言葉の意味をあたしはすでに知っている。
ギッ…
静かな音の中でカウンターに入るための扉が音を立てたのでそちらを見た。男子生徒が入ってきていた。
「関係者以外は立ち入り禁止ですよー」
「ひとり?」
「はい?」
「だれだ、さぼってんのは」言いながらカウンターの後ろの当番表を覗き込む。
「あのーもしもし? 関係者以外は…」
あたしの声を無視して、目は当番表を見たまま何かつぶやいた。
「…の天使」
「え」
「穢れ名の天使、か」
「は?」
「アンジェってのは何語なんだろう。イタリア語かな?」
「イタリア?」
一体何を言い出すんだこの人は?などと考えながら見ていると「イタリア語で天使はなんていうか知ってるかい?」と話しかけてきた。
「さあ… 英語だとエンジェルですよね」
「うん。そうだね。天使はイタリア語ではアンジェラとかアンジェロっていうんだよ」
「はあ」意味が分からない。
「ラテン語系かなぁ…」などとぶつぶつ言っている。かかわらないでおこう。
あたしが「関係者以外は…」と言いかけたその時、その妖しい人は「ねぇ草壁さん?」と言って笑ったのだ。
一瞬なんのことが分からなかった。
もしかして今あたしの名前を言った!?
「なんであたしの名前を知ってるんですか?」とぼけて聞きかえし、はっとしてカウンターの上の箱を見た。
「もしかして見たんですかっ!」
「なにを?」
「あたしのカード」
「カード?」
「とぼけないでくださいっ」
「いつ?」
そう言われると、声に詰まる。「あたしが見てないときとか…」
「根拠は?」
「う」
あたしは今たぶん、きっとバカにされてる。悔しい。悔しいけれど、どうしていいかわかんない。
屈辱で真っ赤になっているあたしとは反対に「でも、確かにその可能性は否定できないなぁ」などとのんびり呟いている。
ムカつく。あたしは読みかけのページに指をはさんで持っていた本をカウンターに置いた。
パタっと軽い音がした。どんな時でも本だけは乱暴にしない。
「なんで知ってるんですかっ!」と叫びだしそうになるのをかろうじて抑え
「いつ見たんですか」
「さあ、カンかな」
やっぱりこいつはあたしのことをバカにしている。顔が赤くなるのが分かった。「いいかげんにしろっ!」と叫びたいのを必死に抑えた。図書委員のプライドにかけて叫ばない。絶対に。負けてたまるか。歯をくいしばり、スカートの上の手をきつく握りしめる。
母の言葉を思い出す。
「1 図書館は資料収集の自由を有する
2 図書館は資料提供の自由を有する
3 図書館は…」と言いかけたとき、
「利用者の秘密を守る。図書館の自由に関する宣言か」
「そうです」
そう言ったとたん、クックッと笑いだした。
「な…」もう限界だ。
気がつけば椅子から立ち上がっていた。右手が上にあがっている。鼻の奥がツンとしている。眼の端が少し湿っぽい。
でも。ひっぱたく。頬を思いっきりっ!!
なぜなら「図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る」
「はるか?」
声の方を向くと憂子が立っている。
「なにやってんの?」
「憂子!ちょっと聞いてよ。こいつが!」
「こいつ?」憂子が怪訝そうに隣を見る。間の抜けた声が響く。
「あー、お久しぶりです。本荘先輩」
「は。先輩?」
「そ。弁論部のね。とりあえず座りなよ、はるか。ね?」
憂子の声にあたしは一気に緊張が解けた。膝の力が抜けて座るというより椅子に落ちた。
憂子はぐったりしたあたしを見てから、「それで」と本荘先輩を睨みつけた。
「んー ちょっと」
「先輩のちょっとはアテになりません。おおかた」ちらりとあたしの方に視線を向けた。
「からかってたんでしょう」
「そんなこと」
「あります。はるかを見ればわかります。だから、おんなの子に嫌われるんですよ。小学生じゃないんだから」
「おれ、嫌われてる?」
「自覚してるんならいいです」
答えにならない答えだったけれど、本荘さんは黙ってしまった。弱点なんだろうか。
「はるか。だいじょぶ?」
「なんとか…」
「まあ、こーゆー先輩だから。も少し離れた方がいい」
「そう、だね…」
あたしは床を蹴って、座った椅子ごと後ろに移動した。憂子を見ると小さく首を振る。
「あのな、人を犯罪者のように…おれは何も…「してない、と?」憂子の眼がすうっと細くなる。
本荘さんがびくっと固くなった気がした。
かつてこの人と憂子の間でなにかがあったんだろうか。目の脅えが普通じゃない。
憂子があたしの方を見てうなずく。あたしは椅子をすこうし持ち上げた。
「さっき、私の友達が顔を真っ赤にして、手を振り上げていました。滅多なことでは怒らないやさしい娘です。そんな娘がそんな行動をするなんていったい誰に対するものだったのでしょう?」
「…」
「さっき、生徒総会で予算が赤字なことに気づいて、生徒会にたてついた人がいました。いったい誰だったのでしょう?」
「…」
「さっき、生徒会室に呼ばれました。なんでも、これから話したいことがあるからとかなんとか。いったいなぜでしょう?」
「…」
「そして私は弁論部の部長です」
「…」
「導き出される結論は?」憂子は本荘さんを睨みつけた。
「…すまん」
本荘さんはうなだれた。
憂子はにらみつけている。
あたしは椅子を移動している。
「申し訳ない…」
憂子はにらみつけている。
あたしはカウンターの一番奥までたどりついた。
「悪かった…少し調子に乗った」
憂子があたしを見て、軽くうなずく。そこまで行けばだいじょぶらしい。
うなずき返した。距離はまぁ、2メートルくらい離れた。
「分かればいいんです」
偉そうに言って憂子は噴き出した。
本荘さんの方を見ると同じように笑っている。なんなんだこの二人は。
「別に気にしないでください。どうせ私生徒会嫌いですから。いろいろをネタはあるんで、逆に部費をがっぽりとってきます。期待しててください」
あたしは二人を交互に見てわかった。どうも会話を楽しんでいたらしい。
それでも離れる時間をくれた憂子に、あたしは笑顔を作った。
「ん、だいじょぶそう、じゃね」と軽く手を振って憂子は討ち入りに行ってしまった。
後ろで縛った髪がブレザーの肩でふわふわと揺れていた。
図書館の扉が閉じて、憂子の姿が見えなくなったのを見計らったように、あたしに問いかけてきた。 「本当に覚えてない?」
「はい」
あたしは大きくうなずいた。
「そっか」
少しさみしそうな顔をして「学年違うからな」などと言っている。
ちょっといい気分だった。
「本荘って言ってもダメ…?」
「あたしには憂子と武尊以外に、は行の知り合いはいません」断言する。ちなみに憂子は本田辺という。
「一応、図書委員なんだけど。影薄いからな。俺」
「はぁ」
ん?そいういえば… 思いつくところがあったので壁に張ってある図書便りを見た。図書委員長の名前は本荘だった。
「あ…」
本荘さんを見ると笑っていた。
「ごめんなさい。あたし」
「いきなり入った俺の方が悪いんだから、おれの方こそ申し訳なかった」本荘さんが頭を下げた。
「でも…」
「ん?」
「じゃあなんであんなことやったんですかっ! あれじゃあたしバカみたいじゃないですかっ」
「ごめん。あまりにも可愛かったから」
「なっ…!」
顔が赤くなってゆくのが分かる。ちょっと耳が聞こえにくい。
「ななななななななにおうっ、言ってるんですかあっ!」
「そのまんま言葉のとおり」本荘さんが少し体を近づけてくる。眼は真剣だ。
「ええっと。あ、あたしは、そのう、おんなの子なので、そういったのはちょっと…だ、だから、そう、おんなの子なんです。…おとこじゃないんで、よくわかりません」
しどろもどろになりながら答えていると、本荘さんは大声で笑い出した。
「はははっ」
「なにがおかしいんですかっ」あたしはどうしていいか分からず、怒りながら答えた。
「だって、ははは…」
「ヴー」
目に涙を浮かべながら「ごめん。でも、自分が言ったこと考えてみなよ」
「………」
「ほんとうに面白い子だなぁ。さっきのは俺も読んだことがあったから、表紙でわかったんだよ。ま、今はお客さんも落ち着いてるみたいだし、お茶でも飲もうか」
そう言って司書室に入っていく。
あたしはいなくなった椅子をじっとみつめていた。
しばらくたって司書室から顔を出した本荘さんは「早くこないと冷めちまうぞ」そう言って、苦笑いした。
覚悟を決めて司書室に入るとローテーブルの上ではそろっていないお茶碗から湯気が二つ立っていた。端が擦り切れて中のスポンジが覗いているぼろいソファに座る。本荘さんとは距離を取る。
「警戒されてるなぁ」そう言いながら、第四期卒業記念と脇に書かれた赤茶色の茶碗を本荘さんが取った。あたしは残った白い花柄の瀬戸物の茶碗を取る。
む、なかなか美味しい。ちゃんと蒸らしてある。なんだか楽しい気分になってきた。
案外悪い人ではないのかもしれない。お茶を美味しく淹れられる人に悪い人はいない。
少し気持ちが緩んできたところで、ふと疑問に想っていたことを口に出してみた。
「あの、本荘…さん?」
「ん?」
「聞いてもいいですか?」
「んー」
「あの後どこに連れていかれたんですか?」
「あの後…?」と首をかしげ「ああ、総会の後か。生徒指導室」
「保健室の奥の、あの薄暗い部屋ですか?」
「そ」
本荘さんはお茶を啜った。
「あ、あの…」
おずおずと聞いてみる。
「ひとつ…、ひとつだけ聞いてもいいですか?」
茶碗に口をつけたままうなずく。「答えられることなら」
あたしは思い切って言ってみた。
「生徒指導室にあれがあるって本当ですかっ!」
「はぁ?」
「あたし聞いたんです。あれがあるって」
「あれ?」
「そうっ、あれです」
しばらく考えていたけれど、「ああ、あれか」とうなずいた。
「あれだろ。カレンダー!」
「は?」
「ギリギリ見えないとこがいいんだよなぁ。でも、あれは指導室じゃなくって、その隣の…」
と言いかけたとき叫んだ。
「ちっがーーーーーーうっ。」
本荘さんの視線がチロチロとあたしのこれからに期待しますの胸のあたりを見ていたことは関係ない。断じてない。自信はちょっと…ない。
「そんな俗的なものじゃありません。世界と自己に隔たりを生み、自由と拘束、絶望と慟哭の象徴。黒鉄の束縛」
「なんだそりゃ」
「決まってるじゃないですか。もちろん鉄格子です!」
本荘さんは一瞬ポカンとして、それから額に手を当てて軽くため息をついた。
「あのな…どこからそういう発想が出てくるんだ?」
「鉄格子!あるんですかっ!ないんですかっ!どっちなんですかっ!!」
本荘さんは呆れながら大きくため息をついた。
「あるのとないのと、どっちが良いんだ?」
「もちろんある方ですっ! なぜなら! そっちの方がロマンがあるからですっ」
「じゃあ、ロマンがある方で。ちなみに隣の生徒会室にアイドルの水着カレンダーはあるけど」
「そうですか。別にいいです。それよりもっ!やっぱり鉄格子あるんですね。あとで放送部として取材に行かないと」
「取材?普段はカギかかってるって。たぶん」
「その点は大丈夫です。放送部には最終兵器がありますから」
「最終兵器?」
「まま、この話はいいです」
あたしはウキウキしながら答えた。
「まぁ、それでいいんならいいけれど」
「でも、本荘さんって勇気ありますよね」
「ん?ああ、生徒総会の話か。別に委員会費を持っていかれるのが、嫌だったわけじゃないよ。ただ、ああいう、運動部中心の考え方が許せなかっただけ。まあ、この流れで行くと、来年は完璧に委員会費は削除で決まりだろうなぁ」
―◆―
「…と、言う訳」
「それで、結局予算は削られたんですね」
あたしはにっかりと笑った。
「え?じゃあ…」
「さすが憂子って感じだよね」
「なにをやったんですか」
「なにも」あたしは首を振った。
「教えてくれなかったから。でも、戻ってきたとき『私は講釈師だから』とか言ってた」
「講釈師、ですか…」
美帆が考え込む。
「うん。いくら聞いても教えてくれないんだ。どーやったんだろ?」
それは今でも謎のままだ。でも、それでいい。すべてが分かっちゃうとつまらない。世の中のほとんどはつまらないことでできてる。知らない方が幸せなことが多い。あたしは「知らない」ことを愉しんでいる。
シークレット。ミステリアス。いい響き。
響きの良さに酔っていると
「話は変わりますけど、いいですか」
「ん?」あたしはお茶を啜った。甘い香りがする。
「委員会費について異議申し立てができる期日はいつまでですか」
「期日?」
「はい」
あたしはお茶の水面をのぞきながら
「今日は予算案が示されただけだから、このあと各部に持って帰って、協議。そのあと文句が言えるのが一週間後の部長、委員長会議。その次の日、生徒総会にかけられて承認ってとこかな。だから…」
「だとすると、今日を入れて、あと8日ですね。そしてチャンスは2回かぁ…」
「2回もある?」
「部長会議と、総会と…」
「総会は無理だと思うよ。本荘さんと同じ目に会うだけ」
「となると、部長会議の一回だけ…」
美帆はお茶を両手で包み込むようにもって、じっと水面を見つめている。時計の針の音が静かに響く。東堂先生は整理に入った書庫から出てこない。
今何時だろうと想って、時計を見た。一六時四八分。そろそろ閉館時間だ。
ふんわりと窓辺のカーテンが膨らんだ。夏の午後の匂いがする。
そういえば、来週は花火大会だったなぁ。誰と行こう。去年の憂子、よかったなぁ。朝顔の柄の浴衣着て、首筋がほっそりしてて。今年はぜったいに浴衣を着るんだ。母さんのお古だけど。どうもいわくつきのものらしい。いくらせがんでも、母さんは乙女のように頬をうっすらと染めて「十七歳になったらね」と言って着せてくれなかった。紺地にホタルがたくさん舞ってる、かわいいやつ。
「うん。いけます」
部屋に美帆の明るい声が響いて我に返った。
「そう? なら一緒に行こうか」
「ありがとうございます。今からお願いしようと思ってたんです」
美帆は覗き込んでいた茶碗から顔をあげ、
「あの…」
「なぁに」
「本田辺先輩と本荘先輩に連絡つきますか?」
「憂子ならだいじょぶだよ。でも、本荘さんは…」
あの人と花火に行きたいのだろうか。もしかして美帆?
「二人がいないとちょっと…なるべく早くどうにかできませんか?」
「そ、そう? 美帆がそこまで言うんならどうにかするよ。弁論部の部長だったらしいから、憂子経由でいけると想う」
「ありがとうございます。これでどうにかいけると想います」
「うん。一緒に行こっ。待ち合わせはどこにする?」
「ここでいいです。その後で生徒会室に行きましょう。部長会議に私も行きます!」
「ほへ?花火じゃないの…?」
しまらない返事を返したあたしが見たのは、楽しそうに笑う美帆の姿だった。
遠くで大きな音が響いたと想うと、すぐにガダンッ!と司書室のドアが乱暴に開き「東堂先生!草壁います?」叫び声が司書室に響いた。
振り返ると武尊が怖い顔をして立っていた。あたしの姿を見つけると、武尊はズカズカと司書室に入ってきてあたしの前に立った。
「何?」
「行くぞ」
「どこに?」
「生徒会室だよ。いきなり飛び出して行きやがって…」
武尊はあたしの腕をつかんで司書室から連れ出そうとする。
「やだ」
慌てて腕を振り回してもしっかりと握られた手は解けない。
「やだ。行かない」
左手も使って力いっぱいに押しても取れない。
「いいから来い!」
「だから、やだって!!」
武尊と揉み合っている後ろで電話が鳴った。何度か頷いて東堂先生は受話器を置き、「はやく行ってらっしゃい」と妙にニヤニヤしながら言った。
「東堂先生まで、そう言うんですかっ! ちょっ美帆も見てないで助けてよ」
「あ」
立ち上がった美帆を東堂先生が手で制した。
「美帆ちゃん、まあいいから」
「え、でも…」
オロオロする美帆を無視して東堂先生が「いいから、早く行く!」と叫んだ。
この声を聞いたあたしは観念し、そのまま武尊に引きずられて、図書室を出た。
生徒会室に向かう廊下で武尊は何も言わなかった。でも、あたしの腕はしっかりと握り続けていた。
そういえば昔こんなことあったなぁ…
腕の先にある背中を見ながら、あたしは理不尽に対して怒りながらも、懐かしい気持ちも感じていた。