七五三木文乃ーしめぎあやのー
文字数 4,847文字
火曜日。
予備校の壁に寄り掛かって景(けい)を待っていた。
文庫本を開いて顔を隠しても、ちらちらとオトコノコが私の方を見てゆくのが分かる。
―イヤな視線。気持ち悪い。
なんでオトコノコってああいう目で人を見るんだろう。ああいう目で見られるのが一番嫌だって知ってるのかな。
ほぅっと溜息をついて、文庫本からそうっと視線をあげた。
講習が終わってひっきりなしに人が出ていく。
―あ、と想った。
あの人がいた。友達らしい人が遅れて出てきて話しかけている。
「ごめん遅れた」
景が隣に立つ。
「? ―どうしたの?」
「あれ…どこの制服か分かる?」
「制服? どれ?」
景が周りを見渡す。
「あっちの二人でいる…」
「あぁ。あれ? ベース板でしょ?」
「ベース板?」
「セーラーの襟が野球のホームベースに似てるから」
「ちがうの」
首を横に振る。
「じゃあどれ?」
「あっち…」
指を指す。
「あの二人組?」
コクンとうなずく。
駅の方に歩きだした二人の後ろ姿を、景は眼を凝らして見ながら
「…たぶん東陵だと想うよ。今どき学ランなんてここらじゃあそこだけだから」
――東陵。しっかりと覚えた。
人ごみに溶け込んでだんだんとちいさくなってゆく背中を見ていた。
髪短いんだ。
そういえばあの時は暗くて見えなかったっけ…「―っ!」
突然、振り返った。そのとき、眼があった気がした。あわててうつむく。どうしよう。ちょっと心臓が早い。
「文乃(あやの)?」
景がのぞきこんでくる。
「なんでもないっ」
「? …まだ何も言ってないけど?」
―◆―
星が見える火曜日の夜。駅のホームで電車を待っている。
後ろを市内の共学校の女の子たちの華やかな気配が通り過ぎてゆく。
「東陵? うーん…そうだね。ありゃあふつうの学校じゃないね」
作ったような難しい顔を景はしている。
「どういうことなの?」
「すっごい校則が厳しいんだ。スカートの長さとか、長い髪は縛らないといけないとか、そのゴムの色まで決まってるとか」
「ゴムの色って?」
「そ。黒か紺か茶色。それ以外はダメ」
「そうなの?」
自分の髪の毛を見る。
「わたし黒以外持ってないよ?」
「あのねぇ、文乃…」景はため息混じりに軽く首を振ってつぶやいた。
「もっとカラフルなの、ピンクとか、水色とか、みんなつけてるでしょ」
「そう…かな?」
景はわざとらしく大きなため息をついて
「もっと周り見ないと。文乃ぼけっとしてるから」
「そんなこと…ない、と想う…」
「ま、極めつけは『男女の交際は常に清く正しくあること』って校則が今でもばっちり書いてあることだけど」
「景ちゃん詳しいね」
「ま、うちのねーちゃんが東陵だったって話だけど」
「どこにあるの?」
景がきょとんとした。
「そうか、文乃って五年生だったっけ」
「うん」
この言葉を聞くと少し淋しくなる。
五年生…か。
朔女で五年生といえば高等部二年生のことをさす。朔風女子学園には中等部と高等部がある。ほとんどの生徒は景みたいに高等部から入学する。といっても、中等部から進学しないと入学できないほど入りにくいわけでもない。だから、中等部はあまりレベルが高くない。
入学する生徒のほとんどの母親が中等部の出身だった。まわりはそういう生徒ばかりで居心地は良かった。
そういう中等部から来る生徒を高等部から入学した生徒は、からかいの意味も含んで、四年生、五年 生、六年生と呼ぶ。
小学生と同じの意味が入っている。
成長してないの意味も。
世間知らずの意味も。
「ああ、ごめん」
「ううん、気にしてない」
ホームの白線に視線を落とした。
私、嘘ついてる。景、ごめん。あやまるのは多分わたしの方だよ。ほんとうは気にしてる。こどもだって。
「でもさ。どうしたの―?文乃が他のガッコのこと気にするなんて」
「べつに。ちょっと気になっただけ」
「ふうん」
「なにか?」
「さてはオトコだな?」
「……」
小さく息をつく。
「やめときなって。東陵なんか。あそこあんまり良くないし。堅い奴ばっかだよ。真面目すぎて暗い感じだしさ」
―◆―
水曜日になった。
―バン。
予備校の机の下にカバンを入れると、何かが落ちた。
…え?
下をのぞきこむと本が落ちていた。
そのまま手を伸ばして拾おうとした。
届かない…
前の列の椅子の下にあって指がちょっと当たるだけだった。
どうしよう…ちょっとまよってから、前の列の間に入った。スカートを気にしながらしゃがみこんで拾った。
『聖なる場所の記憶』
背表紙にラベルが貼ってある。
図書館の本だ…これ。
どこのだろう?裏表紙を開ける。右側の蔵書印に県立東陵高等学校とあった。
左側を見る。
―あれ?
ポケットが空になってカードがなくなっている。カードどこだろう?
もう一度しゃがみこんで椅子の下を覗き込む。
「ごめん」
かけられた声にあわてて立ち上がった。
オトコノコが立っている。
――え。
あの時の、人。
「あぅ…」と言ったまま後が続かない。
「ああ、それ、俺の」
胸のあたりを指さされた。
「えっ? あ、ご、ごご…ごめんなさいっ!」
両手で抱えるように持っていた本を差し出す。
「サンキュ、な」
本を無造作に受け取り、それだけ言って、すぐに振り向いて行ってしまった。
背中で、肩から掛けたカバンが揺れていた。
―◆―
名前、聞きそびれちゃったなぁ。席に座って黒板を眺めながら後悔していた。水曜日は日本史。
「あやの…?」
「あ、景」
「どったの? 考えこんでるみたいだけど」
「ううん。なんでもない」
景はわたしの隣にカバンを置いた。授業に集中するために、隣には座らない。カバンから授業に必要なものをごそごそと出してゆく。ペンケース、テキスト、ノート…と置いて、手が止まった。
「? あやの、あれ、なんだろ?」
前の席の下の方を指さして言う
「なぁに?」
景の視線に合わせるために体を傾ける。
白い紙が落ちていた。
もしかして…?
立ち上がり、前の席に回り込んだ。おもむろに拾い上げる。
「図書カード?」
「うん」
「ちょっと見せて?」
「ダメ」
「いいじゃん。見せてよ」
「ダメだよ。見ちゃダメなの」
「んー。そこまで文乃がムキになるとは…分かった、もう言わない。きっと理由があるんでしょ?」
―◆―
木曜日の昼休み。
胸の前に体育着を抱いて更衣室に向かって歩いていた。
ふと。廊下のポスターに目が止まった。
東陵高校文化祭…澄流祭。なんて、読むんだろう。
「あ・や・のっ」
「あ、景」
「なに見てんの? …ん?」
景が肩越しに覗き込む。
「ああ、チョウリュウサイか。東陵の文化祭だよ。三年に一回の」
「行って…みようかな」
「えー、つまんないよ。模擬店禁止だし」
「でも…」
「ホラ、行くよ! 早くしないと更衣室いっぱいになちゃうよ? このガッコ生徒の割に更衣室狭いんだから。次体育館で、だって」
「…うん」
景の後について歩き出して、日付を見直す。十一月第二の土日。今週だ…
―あの人に逢えるかな。
わたしは自宅の机の上に預かったままにしてあるカードを思い出した。返さなくちゃ…
でも、これで終わりなんて…
その時ふとある考えが浮かんだ。ダメ。それはやってはいけないこと。
振り払うように頭を振る。耳のあたりで髪がささやかな音を響かせる。
でも…
―◆―
木曜日の空には金星が浮かんでいる。
結局、その日の講義後に事務にカードを落し物として届けた。
「Bの三〇四教室で、五時限の始まりに、真ん中くらいの列で拾ったのね。その前に、机の下の棚にあった本を落として、拾った、と」
私の話を聞きながら紙に記入してゆく。
「となると、そこから落ちたって考えるのが妥当ね」
「はい」
「どこの生徒だったかわかる?」
「いえ、私服でしたから」
「じゃあ、拾った本はどこのかわかる?」
奥付に押しあった蔵書印を想い出す。
「あの…たぶん東陵高校のだと想います。蔵書印がありました」
「トウリョウ? どういう字?」
「方角の東と丘陵の陵でした」
「ありがと。ちょっと待っててね。一応、拾った事の事務処理が済むまではここにいてね?」
「はい」
事務の人は所在を確かめるために、カードの名前を確認した。カタカタとキーボードを叩く。
「うーん。講習生ね。この子」
「ということは…もう来ないわねぇ。今日で講習会も終わりだし… ウチに来てる東陵の子に持ってって貰うのが一番かなぁ…」
「お願いします。では、私はこれで…」
椅子の脇のカバンの紐をつかんで立ち上がろうとした。
「あー、ちょっと、もうちょっとだけ待っててね? お願い」
「はい…」
椅子に座りなおす。
画面を見ながらキーボードを叩いてゆく。
マウスを動かしていた手が止まる。
「ああ、やっぱり」
「え?」
「嫌な予感はしてたんだけど」
「どうしたんですか?」
「東陵生、今年はひとりも在籍してないみたい」
「あなた、どこだっけ?」
唐突に聞かれた。
「朔女ですけど…」
「朔女って前橋だったわよね?…どこにあるの? 」
「前橋の街の真ん中で…広瀬川の近くです」
「うーん。じゃあ、無理か」
「え…?」
「貴女に頼んじゃおうかなぁとか想って、今地図も見てみたんだけど、東陵ってはずれにあるみたい。ちょっと行くのは無理ね」
「え…あ…」
「いいわ。郵送にしましょ」
「あああああの、あの、実は明後日、あの、東陵で文化祭があって、あの、その、友達と一緒に行くことになってるんですっ!」
気がついた時、私はそう叫んでいた。
―◆―
月曜日の朝の礼拝が終わった。
「文乃って、時々大胆だよね」
「え?」
「聞いたよ。土曜に東陵行ったんだって?」
「え? えっ?」
「中学の友達で東陵行ったのが連絡くれた」
さらりと言う。
「そう…なんだ」
「大騒ぎだったって? その子からので知ったんだから」
「うん。ごめん」
「わたしに謝られても、どうしようもないけど。少しは落ち着いたとはいえ、シメギって言ったらまだまだ有名人なんだから」
「そう、かな…?」
「あの写真。県の展覧会に出たやつ。他のガッコでは有名だから。あれ目当てに入場者が二倍とか」
「そう、なの?」
「そうだって。あんなになるのは、帰りがけに他校の校門の前で待ってたとか、そーゆーレベル」
「でも、よくやってるじゃない」
「いつの時代?」
「小学校のころ読んだ漫画ではよくやってたよ」
「あのね、そろそろ現実見ようよ。実際うちの学校だって、そんな奴来てないでしょ?」
「そうかなぁ?」
「実際見たことないでしょ」
わたしは空を見上げて考えてみる。
「中等部のころ北門の前に居たの見たことあるよ」
朔風には三つの門があって中等部と高等部は使える校門がきっちり決まっている。
南側の正門はどちらも使用できる。中等部に一番近い北門は中等部だけが。高等部の自転車置き場用の西門は高等部だけが使用できる。
「あのねぇ…うーん。朔女の中等部ならいるかもね…それで? 結局逢えたの?」
「うぅん、逢えなかった、よ? やっぱり恥ずかしくなって逃げてきちゃったから…」
「名前も何にも分かんないんじゃ。どーしようもないよね」
景は大きく息をついた。
予備校の壁に寄り掛かって景(けい)を待っていた。
文庫本を開いて顔を隠しても、ちらちらとオトコノコが私の方を見てゆくのが分かる。
―イヤな視線。気持ち悪い。
なんでオトコノコってああいう目で人を見るんだろう。ああいう目で見られるのが一番嫌だって知ってるのかな。
ほぅっと溜息をついて、文庫本からそうっと視線をあげた。
講習が終わってひっきりなしに人が出ていく。
―あ、と想った。
あの人がいた。友達らしい人が遅れて出てきて話しかけている。
「ごめん遅れた」
景が隣に立つ。
「? ―どうしたの?」
「あれ…どこの制服か分かる?」
「制服? どれ?」
景が周りを見渡す。
「あっちの二人でいる…」
「あぁ。あれ? ベース板でしょ?」
「ベース板?」
「セーラーの襟が野球のホームベースに似てるから」
「ちがうの」
首を横に振る。
「じゃあどれ?」
「あっち…」
指を指す。
「あの二人組?」
コクンとうなずく。
駅の方に歩きだした二人の後ろ姿を、景は眼を凝らして見ながら
「…たぶん東陵だと想うよ。今どき学ランなんてここらじゃあそこだけだから」
――東陵。しっかりと覚えた。
人ごみに溶け込んでだんだんとちいさくなってゆく背中を見ていた。
髪短いんだ。
そういえばあの時は暗くて見えなかったっけ…「―っ!」
突然、振り返った。そのとき、眼があった気がした。あわててうつむく。どうしよう。ちょっと心臓が早い。
「文乃(あやの)?」
景がのぞきこんでくる。
「なんでもないっ」
「? …まだ何も言ってないけど?」
―◆―
星が見える火曜日の夜。駅のホームで電車を待っている。
後ろを市内の共学校の女の子たちの華やかな気配が通り過ぎてゆく。
「東陵? うーん…そうだね。ありゃあふつうの学校じゃないね」
作ったような難しい顔を景はしている。
「どういうことなの?」
「すっごい校則が厳しいんだ。スカートの長さとか、長い髪は縛らないといけないとか、そのゴムの色まで決まってるとか」
「ゴムの色って?」
「そ。黒か紺か茶色。それ以外はダメ」
「そうなの?」
自分の髪の毛を見る。
「わたし黒以外持ってないよ?」
「あのねぇ、文乃…」景はため息混じりに軽く首を振ってつぶやいた。
「もっとカラフルなの、ピンクとか、水色とか、みんなつけてるでしょ」
「そう…かな?」
景はわざとらしく大きなため息をついて
「もっと周り見ないと。文乃ぼけっとしてるから」
「そんなこと…ない、と想う…」
「ま、極めつけは『男女の交際は常に清く正しくあること』って校則が今でもばっちり書いてあることだけど」
「景ちゃん詳しいね」
「ま、うちのねーちゃんが東陵だったって話だけど」
「どこにあるの?」
景がきょとんとした。
「そうか、文乃って五年生だったっけ」
「うん」
この言葉を聞くと少し淋しくなる。
五年生…か。
朔女で五年生といえば高等部二年生のことをさす。朔風女子学園には中等部と高等部がある。ほとんどの生徒は景みたいに高等部から入学する。といっても、中等部から進学しないと入学できないほど入りにくいわけでもない。だから、中等部はあまりレベルが高くない。
入学する生徒のほとんどの母親が中等部の出身だった。まわりはそういう生徒ばかりで居心地は良かった。
そういう中等部から来る生徒を高等部から入学した生徒は、からかいの意味も含んで、四年生、五年 生、六年生と呼ぶ。
小学生と同じの意味が入っている。
成長してないの意味も。
世間知らずの意味も。
「ああ、ごめん」
「ううん、気にしてない」
ホームの白線に視線を落とした。
私、嘘ついてる。景、ごめん。あやまるのは多分わたしの方だよ。ほんとうは気にしてる。こどもだって。
「でもさ。どうしたの―?文乃が他のガッコのこと気にするなんて」
「べつに。ちょっと気になっただけ」
「ふうん」
「なにか?」
「さてはオトコだな?」
「……」
小さく息をつく。
「やめときなって。東陵なんか。あそこあんまり良くないし。堅い奴ばっかだよ。真面目すぎて暗い感じだしさ」
―◆―
水曜日になった。
―バン。
予備校の机の下にカバンを入れると、何かが落ちた。
…え?
下をのぞきこむと本が落ちていた。
そのまま手を伸ばして拾おうとした。
届かない…
前の列の椅子の下にあって指がちょっと当たるだけだった。
どうしよう…ちょっとまよってから、前の列の間に入った。スカートを気にしながらしゃがみこんで拾った。
『聖なる場所の記憶』
背表紙にラベルが貼ってある。
図書館の本だ…これ。
どこのだろう?裏表紙を開ける。右側の蔵書印に県立東陵高等学校とあった。
左側を見る。
―あれ?
ポケットが空になってカードがなくなっている。カードどこだろう?
もう一度しゃがみこんで椅子の下を覗き込む。
「ごめん」
かけられた声にあわてて立ち上がった。
オトコノコが立っている。
――え。
あの時の、人。
「あぅ…」と言ったまま後が続かない。
「ああ、それ、俺の」
胸のあたりを指さされた。
「えっ? あ、ご、ごご…ごめんなさいっ!」
両手で抱えるように持っていた本を差し出す。
「サンキュ、な」
本を無造作に受け取り、それだけ言って、すぐに振り向いて行ってしまった。
背中で、肩から掛けたカバンが揺れていた。
―◆―
名前、聞きそびれちゃったなぁ。席に座って黒板を眺めながら後悔していた。水曜日は日本史。
「あやの…?」
「あ、景」
「どったの? 考えこんでるみたいだけど」
「ううん。なんでもない」
景はわたしの隣にカバンを置いた。授業に集中するために、隣には座らない。カバンから授業に必要なものをごそごそと出してゆく。ペンケース、テキスト、ノート…と置いて、手が止まった。
「? あやの、あれ、なんだろ?」
前の席の下の方を指さして言う
「なぁに?」
景の視線に合わせるために体を傾ける。
白い紙が落ちていた。
もしかして…?
立ち上がり、前の席に回り込んだ。おもむろに拾い上げる。
「図書カード?」
「うん」
「ちょっと見せて?」
「ダメ」
「いいじゃん。見せてよ」
「ダメだよ。見ちゃダメなの」
「んー。そこまで文乃がムキになるとは…分かった、もう言わない。きっと理由があるんでしょ?」
―◆―
木曜日の昼休み。
胸の前に体育着を抱いて更衣室に向かって歩いていた。
ふと。廊下のポスターに目が止まった。
東陵高校文化祭…澄流祭。なんて、読むんだろう。
「あ・や・のっ」
「あ、景」
「なに見てんの? …ん?」
景が肩越しに覗き込む。
「ああ、チョウリュウサイか。東陵の文化祭だよ。三年に一回の」
「行って…みようかな」
「えー、つまんないよ。模擬店禁止だし」
「でも…」
「ホラ、行くよ! 早くしないと更衣室いっぱいになちゃうよ? このガッコ生徒の割に更衣室狭いんだから。次体育館で、だって」
「…うん」
景の後について歩き出して、日付を見直す。十一月第二の土日。今週だ…
―あの人に逢えるかな。
わたしは自宅の机の上に預かったままにしてあるカードを思い出した。返さなくちゃ…
でも、これで終わりなんて…
その時ふとある考えが浮かんだ。ダメ。それはやってはいけないこと。
振り払うように頭を振る。耳のあたりで髪がささやかな音を響かせる。
でも…
―◆―
木曜日の空には金星が浮かんでいる。
結局、その日の講義後に事務にカードを落し物として届けた。
「Bの三〇四教室で、五時限の始まりに、真ん中くらいの列で拾ったのね。その前に、机の下の棚にあった本を落として、拾った、と」
私の話を聞きながら紙に記入してゆく。
「となると、そこから落ちたって考えるのが妥当ね」
「はい」
「どこの生徒だったかわかる?」
「いえ、私服でしたから」
「じゃあ、拾った本はどこのかわかる?」
奥付に押しあった蔵書印を想い出す。
「あの…たぶん東陵高校のだと想います。蔵書印がありました」
「トウリョウ? どういう字?」
「方角の東と丘陵の陵でした」
「ありがと。ちょっと待っててね。一応、拾った事の事務処理が済むまではここにいてね?」
「はい」
事務の人は所在を確かめるために、カードの名前を確認した。カタカタとキーボードを叩く。
「うーん。講習生ね。この子」
「ということは…もう来ないわねぇ。今日で講習会も終わりだし… ウチに来てる東陵の子に持ってって貰うのが一番かなぁ…」
「お願いします。では、私はこれで…」
椅子の脇のカバンの紐をつかんで立ち上がろうとした。
「あー、ちょっと、もうちょっとだけ待っててね? お願い」
「はい…」
椅子に座りなおす。
画面を見ながらキーボードを叩いてゆく。
マウスを動かしていた手が止まる。
「ああ、やっぱり」
「え?」
「嫌な予感はしてたんだけど」
「どうしたんですか?」
「東陵生、今年はひとりも在籍してないみたい」
「あなた、どこだっけ?」
唐突に聞かれた。
「朔女ですけど…」
「朔女って前橋だったわよね?…どこにあるの? 」
「前橋の街の真ん中で…広瀬川の近くです」
「うーん。じゃあ、無理か」
「え…?」
「貴女に頼んじゃおうかなぁとか想って、今地図も見てみたんだけど、東陵ってはずれにあるみたい。ちょっと行くのは無理ね」
「え…あ…」
「いいわ。郵送にしましょ」
「あああああの、あの、実は明後日、あの、東陵で文化祭があって、あの、その、友達と一緒に行くことになってるんですっ!」
気がついた時、私はそう叫んでいた。
―◆―
月曜日の朝の礼拝が終わった。
「文乃って、時々大胆だよね」
「え?」
「聞いたよ。土曜に東陵行ったんだって?」
「え? えっ?」
「中学の友達で東陵行ったのが連絡くれた」
さらりと言う。
「そう…なんだ」
「大騒ぎだったって? その子からので知ったんだから」
「うん。ごめん」
「わたしに謝られても、どうしようもないけど。少しは落ち着いたとはいえ、シメギって言ったらまだまだ有名人なんだから」
「そう、かな…?」
「あの写真。県の展覧会に出たやつ。他のガッコでは有名だから。あれ目当てに入場者が二倍とか」
「そう、なの?」
「そうだって。あんなになるのは、帰りがけに他校の校門の前で待ってたとか、そーゆーレベル」
「でも、よくやってるじゃない」
「いつの時代?」
「小学校のころ読んだ漫画ではよくやってたよ」
「あのね、そろそろ現実見ようよ。実際うちの学校だって、そんな奴来てないでしょ?」
「そうかなぁ?」
「実際見たことないでしょ」
わたしは空を見上げて考えてみる。
「中等部のころ北門の前に居たの見たことあるよ」
朔風には三つの門があって中等部と高等部は使える校門がきっちり決まっている。
南側の正門はどちらも使用できる。中等部に一番近い北門は中等部だけが。高等部の自転車置き場用の西門は高等部だけが使用できる。
「あのねぇ…うーん。朔女の中等部ならいるかもね…それで? 結局逢えたの?」
「うぅん、逢えなかった、よ? やっぱり恥ずかしくなって逃げてきちゃったから…」
「名前も何にも分かんないんじゃ。どーしようもないよね」
景は大きく息をついた。