草壁はるかに喝采!ーはるか、ふたたびー
文字数 13,366文字
生徒会室に戻ると他の部長や委員長は帰ったらしく、工藤会長と副会長(名前忘れた)、それから腕を組みした憂子が眼を閉じて座っていた。
日差しはまだ強く差し込んでいる。
「ほれ」
投げ出されるようにしてあたしは椅子に座らされた。逃げないように武尊が肩を押さえている。
机の上には広げられた議事録が置かれている。
そういうことか。あたしは目の前に座る工藤を上目遣いで睨みつけた。
工藤がやんわりと笑いかける。
「草壁さん。ご気分はいかがですか?」
「は? バカにしてんのっ!?」
立ち上がろうとしても武尊の手がさせてくれない。
「ばか。落ち着け」
「ここまで言われて、落ち着いていられるかっ」
暴れるあたしを武尊はさらに強い力で押さえつける。
「いいから落ちつけっ!」
「気分を害してしまったなら、ごめんなさい。ただ、突然出て行ったから、気分でも悪くなったのかと思って」
ああ、そう。気分なんか最悪に決まってる。いいわけ無い。
「帰るっ」なおも暴れるあたしを
「はるかっ!」憂子の鋭い声が遮った。
ビクっとして憂子を見る。相変わらず眼を閉じた姿勢のままだった。
「憂子…」
「まあ、落ち着こうよ。籠球部部長も困ってるしさ」
そう言ってゆっくりと腕を解き、眼を開けた。
「さて、会長さん。図書委員会委員長も来たところで、状況の説明からしてもらおうか?」
「それはさっき…」副会長が言いかけ、
「ほぅ。言うね…つまり説明したと?」
「そうでしょう、議事録に署名もある」
副会長が議事録を指差す。
「なるほど。はるかー」
憂子が私の方を向く。「そこに私の署名はあるかい?」
あたしは汚いものでも触るように議事録をつまんで開いた。
演劇部―九条みすず。茶華道部―鶴光路秋名。とあり、帰宅部―『該当なし』は、いないからしょうがないか。弓道部―桐水桔梗と来て、放送部―と、これはあたしだ。当然書いてない。続く弁論部は…空欄だった。
「ない」
「そんなハズは」
副会長が駆け寄り、あたしから議事録をひったくった。眼が見開かれ、そのまま固まっている。
「さっきは確かに…」
工藤が手を伸ばす。議事録を受け取り、そこをちらりと見てから憂子に視線を移した。
憂子は何もなかったように続けた。「と、言うわけだ。副会長。私は説明を受けていない。故に署名もできていない」
「なっ…」
「ちなみに俺も聞いてない」頭の上から声がした。
「何言って…」
見上げようとしたら胸で頭を押さえつけられた。
「いいから黙ってろ。本田辺に任せとけ」耳元で武尊がささやく。
「…分かりました。きちんと説明します。しかし、今日はもう遅いので後日にしましょう。それから今日の議事に関しては、こちらの落ち度のようですので決議は承認されない事とします。よろしいでしょうか」
落ち着き払って工藤が言う。
憂子は動かない。武尊の方を見た気がした。
「いいんじゃねーかな。俺らは良いとして、他の部長にはどうする?」
「こちらで連絡しておきます。斉藤君お願いできる?」
副会長―斉藤君というらしい―がうなずく。
「では、今日はここまでにしましょう」
憂子が立ち上がる。武尊の手はまだあたしの肩に置かれたままだ。
工藤に背を向けあたしと武尊にだけ見えるようにしてから、憂子はいたずらを思いついた子供のように楽しそうに笑う。私に任せてこの場はこれ以上揉めるなということらしい。
「はるか、帰ろ」憂子はあたしの手を取った。武尊の手が離れ、肩がひんやりとした。
「うん」あたしはうなずいて立ち上がり髪の毛を整えた。
髪には温もりがまだ残っていた。
―◆―
生徒会室からの図書館に戻りながら気になったことを憂子に聞いてみた。
「さっきの、どうやったの?」
「ん? これ」
憂子はブレザーのポケットからペンを取り出して、あたしに渡した。
別にそこら辺にあるものと変わらないけど…キャップを外してペン先を見ても特別なところはなかった。
「別に普通のボールペンで、どうってこと無いように見えるけど…」
「こっちでこすると消せるんだよ」
「え? 消えるの?」
「見たい?」
あたしはうなずいた。
「じゃあ、さっきの署名がってのは」
「そ、消したの。武尊がはるか追っかけてったどさくさに紛れて。斉藤君はまだまだですな」
「武尊もやったの?」 後ろを振り返ると武尊はいなかった。
「あれ、武尊は?」
「さっき部活に行くってA棟の職員用玄関から出てった」
「ふぅん」
憂子がふふふと笑った。「前途多難、かな」
「え?」
「なんでもー。それより、用意してほしい物があるんだけど」
「なに?」
「議事録」
「議事録?」
「そ、議事録」
「なんの?」
「生徒会の。それ以外何があるの?」
呆れたように憂子が言う。
―◆―
「議事録…ですか?」美帆が繰り返す。
「東堂先生知ってますか?」
「書庫にあるわよ」
あっさりとそう言って東堂先生は立ち上がり、司書室から奥に続くドアを開けた。
東堂先生の後に付いてドアをくぐる。入ってすぐの左手に作業用の机。右手に書架が続いている。手前の書架の一部は空けてある。
「こっち」
言いながら書架の並ぶ奥に入っていく。
「草壁せ…」
美帆は言いかけて、意を決したように「はるかさん、わたしこっちまで来るの初めてです」と続けた。
「あたしも。普段は手前の書架に複本しまう時か机で作業する時だけだからね」
東堂先生は書庫の突き当たりの棚の前で「えっと…ここらへんにあったと想うんだけど。草壁さん、深町さん、申し訳ないんだけど、この棚の前のダンボールどかしてくれる?」
見るとみかん箱と同じくらいのダンボールが三段くらい重ねてある。奥は見えない。さした指を考えると棚の下段に入っているらしい。
やるしかないんだよね…うんざりしながら美帆の方を見ると、すでに腕まくりをして、ゴムを口にくわえて髪をまとめている。
お嫁さんにしたいなぁ…ほんとに。
美帆は慣れた手つきで髪をまとめ、ためすように軽く頭を振ってから「やりましょうか。はるかさん!」と弾んだ声で言った。
「そうだね。じゃあ、あたしがここでダンボールを持って美帆に渡すから、とりあえず後ろに移動させよ」
「はい」
手前のダンボールを持ち上げてみると意外と軽い。その場でくるっと持ったまま一回転して美帆に渡す。
そんな作業を何回か繰り返し、なんとか棚の下段の引き戸を開けられるくらいまで発掘した。
「草壁さん、開けてみて」
「はい…よっ」体をひねり、つま先立ったまま引き戸を引いた。
ぼんやりと『議事録』の文字が見えた。
「ありました」
「あった?どんな感じ?」
「えっと…三年前のがあります。あとは奥の方に結構」
あたしは手前にあった三年前の議事録を引っ張り出した。伸びてきた美帆の手に渡す。
「確認してみよ?」
「はい」
パラパラと美帆がめくる。埃っぽい匂いが漂う。
覗き込むと昨日生徒会室でみたのと同じ書式で、議題、署名が並んでいる。
「どうでしょうか」
「間違いないと想う。あたしがいつも署名してるのと同じ書式だし」
「最新の三年ぶんはどこにあるんですか?」
「最新の物は生徒会室に保存する事になってるの。三年経ったものを順次図書館が保存する流れね。最新の物が必要なら、生徒会室に行くしか無いわね。どうなの?草壁さん」
「とりあえず、憂子には予算承認の署名を確認してくれって頼まれてる」
「となると、全部ですね」
あたしは棚の奥を覗きこんだ。「…三十冊くらいかな。…東堂先生、手前の空いている棚借りても良いですか?」
「むしろそこに移動してくれると助かるのだけど」
「では、取り掛かりましょう。はるかさん」
あたしは手前にある三冊を左手で掴み引っ張りだした。
―◆―
放課後掃除を急いで終えて図書室に行くと、司書室に月ちゃんがいた。
「ね?」
「なるほど」
東堂先生とあやしげなやり取りをしている。
「気持ち悪いです」
「いや、草壁を捕まえるならココだって聞いてな。ホントだったもんで、つい」
「そうですか。それであたしに何か?」
「来週の水曜日。…前女で放送部の打ち合わせがあるから、草壁行ってきてくれ」
「分かりました。あたしだけですか?」
「来年もあるし、興味もあるだろうから神宮と小鳥遊も。俺は車で先に行くから後から自転車で来い」
「分かりました。時間は?」
「二時からだから、五、六講目は公欠だな。持ってくものは特に無い。これ見とけ」
ぴらっとプリントを一枚あたしに渡し、月ちゃんは東堂先生にじゃ。と言って司書室を出ていった。
相変わらずヤル気のない背中だなぁ…
月ちゃんを見送ってから書庫に入ると美帆が議事録を丁寧に確認していた。
「どう?」
「今、十期を確認しています」
ということは美帆は昨日と今日の放課後で二十年分くらいを見直したことになる。
「さっき本田辺(ほんたなべ)…さんが来ました」
「憂子が?」
「ええ、議事録を十年ぶんくらいパラパラと眺めてから、うんうんと大きくうなずいて帰って行きました」
「ふぅん」
応えながら椅子を引き出して座る。脇に肩からカバンを外して置く。
作業をする美帆の横顔がみえる。
憂子、いったい何がしたいんだろ?一昨日聞いても教えくれなかった。
考えるだけ無駄かな。あたしはどちらかというと感覚を大事にして生きている。あっさりと考えるのを止めて、美帆を見た。
作業の邪魔なのか、無造作に後ろでまとめた髪がページを捲るたびに左右に揺れる。
あたしはそっとカバンに手を入れてカメラを取り出した。
ファインダーを覗いて素敵だな、と想う。
ピントを合わせる。―カシャン。
驚いて美帆が顔をあげる。
「ごめん。断ってからだよね。すぐに消すね」
あわてて謝りカメラからデータを消そうとした。
美帆は眼を一回ぱちくりとさせ、すぐに顔を真っ赤にしてうつむいた。顔を議事録で隠しながら、か細い声で「…後でくださいね」とだけ。
あたしは拍子抜けして思わず「え」の声が漏れた。
美帆はさらに顔を議事録に埋もれるようにしたままぼそぼそと
「この間の県のコンクールに出した作品を朱里に見せてもらいました。思わず美古都といっしょになって見とれるほど綺麗な写真でした。はるかさんが撮ったんだって…」
「そ、そう。ありがと。後で渡すね」
「でも、これ以上は止めてくださいね」
美帆の真っ赤な耳を見ながら、カメラをしまう。
「どう?見つかった?」
眼の前にある重ねられた議事録を手にとって訊く。
「はるかさん。そっちは終わってます…えっと、これをお願いします」
美帆が傍に積んだ議事録から一冊渡してくれた。
「ありがと」
受け取りながら表紙を見る。第九期生徒会予算等議事録とある。一桁に入った。長い時間を遡る旅もそろそろ終わりだ。
さてとやりますか。
憂子の指示は「帰宅部部長の署名があるか確かめる」ことだった。美帆と分業で進めてきているけれど、これまでのところ、該当なしと書かれているだけだった。
本当にあるのかなぁ…憂子は絶対にある!って自信たっぷりだったけど。
黄ばんだ古い紙の匂いが広がる。図書館の本特有の匂いだ。この匂いが好きって人もいるけど、あたしはどうも好きになれない。
パリ。 めくるたびに紙は軽く音を立てる。
それにしても昔はずいぶんと活発だったらしい。これより前の確認は美帆がやってくれたので、どこから崩れたのかは分かららないけど。
予算の折衝交渉には四回も会議が開かれている。文化祭のクラス予算も委員がきっちり交渉してクラスごとに必要な分が割り振られている。委員会の予算も提示、交渉、決議の流れが維持されている。
『図書委員長決議の反対により、本日の会議は解散。決議は五月二十七日に延期。書記碓氷。』
などと書いてあるのを見ると昔からたてついてたんだな、とか想って笑ってしまう。
変な記事を見つけては美帆に見せて、笑い合っているので遅々として作業は進んでいない。
九期を見終わって、次の議事録を手に取ると四期とあった。
慌てて美帆を見る。
「どうしたんですか?」
「美帆、それ何期?」
「えっと…」表紙を確認する。
「五期ですね」
ごめん。
あたしが一冊見ている間に美帆は二冊を見終わり、三冊めに入っている。
適材適所っていうから、ね。あたしは窓から空を見上げた。なんか空気が淀んでる。
立ち上がり美帆の後ろの窓を開ける。初夏の爽やかさはいつの間にか過ぎ去っていて少しむっとする。
夏、か。
吹き上がるくすんだカーテンを見ながらカバンの中にある予備校の案内を想い出す。
母さんに持ってくるように言われたやつだ。
「はるかさん。ありました」
美帆がうれしそうに振り向く。
「あったの?」思わず身を乗り出す。
「ここ見て下さい」
美帆が示した場所を見ると『帰宅部―欠席』とあった。
「これまでは該当なし、でしたから明らかに違います。出席する人はきちんといて、でも会議には来なかったってことでしょう。」
「ってことは、部長がいたってこと?」
美帆は大きくうなずく。
「恐らくそうでしょう。この後を見ると最終的には欠席裁判になってます。はるかさん、四期の議事録を見てくれますか。載ってる可能性が高いと想います。わたしはこれの残りを確認します」
「分かった」
ワクワクしながら、四期の議事録を手にとった。
窓によりかかって一ページずつめくる。
そして見つけた。帰宅部―刀根の文字を。
「美帆! あった。あったよ! ここ」
美帆が立ちがり覗き込んでくる。
「ほんとだ…はるかさんこれより前は?」
「ちょっと待って。今見る」
あたしは乱暴にバラバラと議事録をめくる。
署名を求められるページにはすべて刀根の署名があった。
―◆―
「じゃ、行こっか」
あたしと美帆は議事録を持って立ち上がった。
「はるかさん」
廊下を歩きながら美帆が話しかける。
「どうしたの?」
「ちょっと緊張してます」
「だいじょぶ。あたしも憂子もいるから」
「そう…ですね。ありがとうございます。でも、部長会議って土曜日にやるんですね」
「うーん。美帆ちゃんそれは違うかな。今回は例外で本来は水曜日の放課後。ね、はるか」
「なんで延期なんかしたんだろ?しかも連絡あったの火曜だったし。ずいぶん前に今週の水曜って連絡があったのに」
「さあ。急ってことは面白くなりそうだけど?」
「わたしは、なるべく穏便に済ませたいです」
「美帆ちゃんの願いが届くといいんだけど…相手はあの人だからねぇ…さ、戦場に到着だ」
憂子の言葉に顔をあげる。
生徒会室の文字が眼に入る。
「弁論部本田辺でーすっ」憂子がドアを引いた。
―◆―
中に入ると正面奥に会長工藤、副会長斉藤、書記白川、会計関根の役員が座っていた。その他は文化部の場所に二人、運動部の場所には三人が座っていた。委員会席には誰もいなかった。一応、席には決まりがあって専門委員会は役員と対面する形で六委員会が座る。それ以外は自由だ。といってもなんとなく左側が文化部、右側が運動部になっている。
憂子は左側の役員から一番遠く角になっている席に座った。あたしは憂子の隣、役員と対面する専門委員会の席に着く。
「あの…わたしはどこに」
「あたしのとなりで良いよ。どうせ席は余るし」
美帆は遠慮がちに席につき、議事録を机の上においた。
あたしは改めて周りを眺める武尊はまだ来ていない。
それになんか運動部が来てなさ過ぎない?いつもなら「早く始めろ」とかってウルサイのに。
委員長は文化祭実行委員の榊さん、交通の宮城さん、風紀の江木さん、それと美帆の四人がいる。整備の二宮君と保健の三波さんは来ていない。
「ねえ、憂子」
「ん?どした、はるか」
「なんかおかしくない?」
「そっか?美術部の榊さんは来てるし、文芸の小相木さんも来てる。文化部で来てないのは吹部と茶華道、演劇だけでしょ。とりあえず三分の二以上いるから、大丈夫だって」
「三分の二って?」
「はるかさん、決議に必要な数ですよ」
隣から美帆が助け舟を出してくれた。
「文化部は七つしかありませんから、三人以上いれば成立します。現状で四人来てますから…」
「美帆、三人だよ?」
「いえ、四人です…はるかさん…」
「はるかー。自分を入れてないでしょ」
「あ…ごめん」放送部はあたしだったんだ。
「それより…」
憂子がまゆをひそめる。
「委員長連中が来てないのが気になるよ」
「運動部も来てないけど?」
「そっちは…」
憂子が言いかけたとき副会長の斉藤くんが「時間になったので始めましょう」と言った。
あたしは立ち上がり一礼してから座った。
「まず出席の確認です。こちら側から部、または委員会の名前を言って行って下さい」
「美術及び文化祭実行、榊」
「文芸、小相木」
「弁論、本田辺」
「放送、草壁」
しばらく間があった。
「あの…はるかさん、わたしは…」
「図書でいいよ。今回は図書委員の代表で来てるんだから」
「はい…分かりました。では…」
美帆は顔を上げ、会長をしっかりと見据え、大きく息を吸ってから、
「図書、副委員長 深町。今回は委員長代理です」
「交通、宮城」
「風紀、江木」
「卓球男子、湖上。女子については代理」
「バドミントン、男子江崎」
「バドミントン、女子金渕」
「硬式庭球女子、恵庭」
「軟式庭球男子、田中」
「軟式庭球女子、柳」
とりあえず来ているのはこれだけだ。
憂子の方を見ると、眉間に皺を寄せてじっと考え込んでいる。
「まだ運動部が揃っていないようですが、始めたいと想います。なお確認ですが、本校生徒会では、運動部、文化部、専門委員会がそれぞれ一票ずつをもち、二票以上で決議になります。運動部は男女別に十八、十二部以上の承認で一票、文化部は七、三部の承認以上で一票、専門委員会が六、二以上の承認で一票となります。また、全体の二の一以上、十六以上が反対した場合は廃案となります。また委任状がない場合は出席している数の三分の二の賛成で承認とする。これでよろしいでしょうか」
あたしはうなずく。
「ではまず、工藤会長から」
促されて工藤会長が立つ。
「本日は土曜日にもかかわらず、集まっていただきありがとうございます。また、今回の招集について一部不手際があったことをお詫びします。今回は予算案の承認と生徒総会提出案の最終採決になります。なお、総会まで時間がありませんので、今回承認が得られなかった場合は会長権限によって、全体採決を行ないます」
そう言って頭を下げる。
なっ。あたしは唇を噛んだ。
やられた。完全に。土曜日にしたのはこういう理由か。
欠席が多くなる日を選んで、委任状を取り付ける。これまでは議事内容を承認するかしないかが問題だった。議事承認を拒みつづけて廃案に持ち込んで時間的に追い詰めて、有利な条件を引き出すのが憂子の狙いなんだろうなと予想していた。
でも、全体採決決議までやるとなると話は別だ。
現状で決議に必要な三票のうち、こっちは憂子、あたしは確実として、前回の会議で文化祭実施年度にも関わらず予算配分が少ないことを質問していた榊さんも内容によっては反対するだろうから文化部の一は多分いける。
運動部は工藤よりの連中が集まっている。運動部は崩せない。
「さらにご報告です。整備、保健の二つの専門委員会は欠席の連絡と委任状をあずかっています」
委員会票は会長が二に対して美帆と榊さんで二。交通、風紀がどう動くかによるけど…
美帆が耳打ちをしてきた。
「はるかさん…これは厳しいですね。交通の宮城さんは女バスの榛名さんと仲いいらしいですから…」
となると委員会票も難しい。
「憂子…」
泣きそうになりながら憂子を見ると唇を歪ませて不敵そうに笑っていた。
「去年と同じ手は使えないか…なかなか骨のあることをしてくれる。こうじゃないと面白くない」
「憂子…」
「こりゃ綺蹟でも待つかね」
予算案のプリントが回ってきた。さっと眼を通す。
日付だけが変えてあるだけで数字や内容は前回とまったく同じ。
これなら榊さんは行ける。けど…仮に議事署名を拒んだとしても、強行採決をやれば成立を狙える。
「では今回の予算案について説明をします」斉藤くんが話出した。
自信たっぷりな張りのある声が数字を読み上げていく。
憂子…どうするつもりなの?
憂子は腕を組んで眼を閉じている。
「…以上です。では質疑応答に移ります。質問のある方は挙手をお願いします」
「はい、美術部」
「えっと…前回言った、文化祭時の特別予算が繰入られてないんですけど…どうしてでしょうか」
「部活動の予算は単年度で行ない、特別の事情によって上下することはありません」
「ですが、文化祭開催時は文化部の予算は倍に増えるって沢渡先生が…」
「証拠はありますか? 失礼ですが沢渡先生は今年度から東陵に来たので東陵と他の学校と勘違いしているのではないでしょうか。きちんと証拠を確認してください」
「ちょ…」 頭に来てあたしが立ち上がろうとすると美帆に肩を抑えられた。
「美帆っ」
「証拠を示せば良いんですか?」
「もちろんです」
斉藤くんがニッコリと笑う。
「では、ここに六年前と五年前の議事録があります。これを見ますと…っと、ここですね。前々回の文化祭予算案ですが、文化部に関しては吹奏楽を除いて前年に対して倍増もしくは一万円のプラスになっています。」
「…なるほど。では文化部の予算は見直す必要がありそうですね。そうなるといくら必要になりますか?」
会計の関根が電卓を叩く。「最低で七万円です。倍増だと…十四万位です」
「ではその分どこからか用意することになりますが…皆さんいい案はありますか?」
「…はい」
憂子がゆっくりと手を挙げた。心なしか場の空気が変わる。
いよいよ始まる。
事前に憂子から『いい?私と美帆とでどうにかするから。何があってもはるかは黙ってて。ね、いい?絶対だよ』と釘を刺されている。
あたしは見守るだけだ。がんばって憂子。美帆。
「…弁論部」いやいやといった感じで斉藤くんが言う。
「工藤会長。問題を整理し直そうじゃないか」
「では、どうぞ」
「ありがとう。そもそも今回の文化祭予算が足りなくなったことから説明をして欲しい」
「例年通りですが」工藤ではなく斉藤くんが応えた。
「では、なぜ委員会費が完全に削減されている。各委員会五千円の予算があった。その約三万円はどこに?」
「今年度よりの定員変更による生徒減少のため、例年より予算規模が縮小されています。その影響を最小限に留めるため、各部活動に分配を行っています」
「確かに。しかし、昨年度の予算と比べても増加している部が多いが、削減は求めなかったのかい?」
「各部活動の活動実績により、公平分配を行ないました」
「活動実績の内訳は」
「各種大会への出場及び結果を元にしています」
「なるほど。減っている部活は活動実績が無いとみなされた訳だ。…ところで榊さん」
「はいっ!」あわてて榊さんがうわずった声で応えた。
「美術部は予算規模が縮小されているが、活動実績はどうなってる?」
「そう…ですね。個人活動は別として、県総合文化祭への出品は全員で行っています」
「出品数は?」
「…すぐには分からないですが …一昨年より部員は増えているので、出品数は増えていますし、二年生の吉井さんが銀賞を取りました」
「…というわけだが、美術部の予算が減っているのはなぜなのか…この質問は本来、美術部が行うのが筋だが…私が説明を求めてもいいかな?榊さん」
「はい」
「ありがとう。では、このことについて説明を求める」
「美術部の予算は例年手付かずのまま全額返済が多かったため、削減対象になりました」
「使わないものは引き剥がす訳か」
「引き剥がすは言い過ぎですが…効果的な利用のためです」
「その流れの中に委員会費もあったと」
「否定はしませんが肯定も控えます」
「そうかい。では、もう一つのことを聞こう」
「まだあるんですか?」
「ダメかい?」
「いえ…」
「去年の総会でうちの先代バカ部長が大変失礼をした。その事について改めてここで謝罪する。しかし、そこで言及された『筋トレマシン』の返済費用が今年度予算案に入っていないのはなぜなのだろうか」
反論しかけた斉藤くんを憂子が睨みで押し返す。
憂子はブレザーの懐に手を入れ何かを取り出した。
「ここに前年度予算案がある。これを見ると、購入費が五十万円、五年の返済で年十万ずつの返済となっている。昨年度の時点で残り四十五万円、うち文化祭費用の取り崩しで二十万円を返済し、その補填として保護者会から十万円を貰っている。ここまでは間違いないな?」
議事録を開いて斉藤と関根が確認している。
「…ええ」
「ところで、その補填されたはずの十万円はどこに組み入れられたのだろうか?」
「…昨年度予算の中に組み込まれました」
「にも関わらず、今年度の文化祭費用が二十万円削減されているのはなぜなのか?」
「生徒数が…」
「そして今年度予算案で残りの返済金額がなぜ十五万円なのか。本来であれば二十五万でなければならないはず」
「それは…」
「さらに。その金額が先程の引き剥がした予算額とほぼ一致しているのは偶然かい?」
「ぐ…」
「見れば運動部の予算は各部ごとに上下はあるにしても合計額が変わっていない。この合理的理由、それと根拠を説明してもらえますか」
「…それは…」
「それで?」工藤が口を開いた。
「もう一度言わないといけないのかい?」
「何を?」
「計算が合わないって言ってるんですよ」
柔らかな、それでいて冷静な美帆の声が響いた。
「それは、どの部分をさして言っているのでしょうか。恐らく文化部の予算を削減して返済に当て、補填された予算は運動部のみで分割したと言いたいのでしょう。返済に関わるものは利益者負担で運動部が出すべきだと。ましてや文化祭の予算が減額などもっての他だと」
「ま、そうだ」
「しかし、本田辺さん。考えてみてください。返済は運動部の予算で行うと誰が決めたのでしょう。それこそ偏った負担になります。今回の予算案は先程申し上げたとおり、実績を元に分割したものです。文化部を狙ったものではありません」
「あくまで客観的事実によるものだと」
「なんども言っている通りです。…申し訳ありませんが、質疑はこれくらいにしてそろそろ承認に移りましょう。他の方々もいますので。よろしいですね?」
運動部連中の眼がそろそろきつい。
悔しいけど、潮時なんだろうなぁ…
憂子があたしの方を見たので、うなずいた。しかたない、後はこの議事録の帰宅部署名問題を切り札にしよう。
美帆の前に積まれた議事録を見る。
「ああ、いい忘れていました。皆さんにひとつご報告を忘れていました。申し訳ありません。運動部の一つ『帰宅部』については部長該当者がいないため、これまで該当なしとなっていましたが、今回は見直し、顧問の校長先生から委任状を預かっています」
「なっ…」 思わず立ち上がる。
美帆があたしの右袖を掴んだ。
「はるかさんっ」
「草壁さん、どうかしましたか?」
工藤の方を見ると意地悪そうにあたしたちを見て笑っている。
あんたたちの計画はすべてお見通し。そういう目だ。
どうにかしなきゃ。どうにか。考えてもこの場で出来ることは思い浮かばない。
終わった…ほんとに。
この女はどこまであたしたちの先回りをすれば気がすむのだろう。
「いえ…」
急に膝の力が抜け、崩れ落ちるように椅子に座る。
「憂子、どうしよう?」
「どうって言っても、とりあえず署名拒否くらいしか出来ないしなぁ」
意外と冷静だ。
「くらいって…他になんかない?」
「うーん。拒否しても会長権限で決議に持ち込まれるし、現状で委員票は決定的。運動部は厳しい。万策尽きたって感じだね」
憂子は両手を広げて天井を仰いだ。
「こういう時はさ、はるか。騎士の登場を待つものだよ、それが無理なら綺蹟を祈るか。けど、この世に綺蹟なんかない。だからジ・エンド」
「…そうでしょうか」
「ん?美帆ちゃんには何か引っかかるところがあるんだ?」
「だって、本田辺さん楽しそうです。あきらめた人はそういう眼をしません」
「あらら、はるかと違って冷静だね」
「そうでもないです。さっきから心臓のドキドキが止まりません」
「だいじょぶ」
憂子があたしの頭をポンポンと叩いた。
「そろそろだよ」
その時入り口のドアが開いて、誰かが入ってきた。
―◆―
「たまやー」
「かぎやー」
大空に広がる光の洪水。今風のひまわりの柄の浴衣を着た美帆の顔が赤く、青く照らされる。
憂子、美帆、あたしの順で並んで花火をみていた。
「でもさ、」憂子の右手の中でラムネのビー玉がチリリと鳴った。「『計算が合わないっていってるんですよ』…あの時はカッコよかったよ。美帆ちゃん」
「あの…美帆でいいです」
「そう? じゃ私も憂子でいいよ」
「では、憂子さん」
「美帆ちゃん」
そういって二人でくすくす笑っている。
あの後、現れたのは武尊だった。相当急いできたらしく息を弾ませていた。
そして開口一番
『ここに来ていない部長達の委任状だ。筋トレ返済を運動部がそれぞれ予算を削減して行うことと、文化祭予算の例年通りの運用についての賛成署名とその委任状をあずかってきた。確認してくれ』と言って、持っていた紙の束を会長の前に放り投げたのだった。
憂子は本当に裏で、したたかに動いていた。
まず、運動部の大会が集中する土曜日に会議を動かし、武尊に委任状の回収を依頼。
その動きから工藤の眼をそらすために、あたしと美帆に帰宅部の議事録確認作業をさせた。
一方で武尊に運動部の委任状を集めさせる。さらには当日までに回収しそこねた委任状を北嶺まで行って回収してくれた。
結果、運動部の票が動いたため、あたしたちの思惑通りで予算は成立。文化部の予算は倍増され、委員会にも予算がついた。
賛成決議を採る時の工藤の引きつった顔は忘れられない。
議事録作業が囮だったのはちょっと解せないけれど…それでも、部長会議からの帰りの廊下で美帆はあたしにこう言った。「お茶飲めなくなるの、イヤですから。それに…」
このあとの言葉はちょっと恥ずかしい。あたしの胸にしまっておきたい。できればこのまま、ずっと。
いつの間にか美帆もラムネを飲んでいる。
「はるか?」美帆の向こうから憂子の顔がのぞく。
「えっ!」
「どした?」
「なんでもないよ。ただ、いいなぁーって」
「なんだ。早く言いなよ。ほら」そう言って憂子は左手を差し出す。
「少し気が抜けてるだろうけど」
差し出されたラムネのビンは少し汗をかいていた。
ちょっとちがうんだけどなぁ。
そう想いながら、それでもラムネを受け取る。
「ありがと」
憂子は満足そうにうなずくと右手に持ったラムネのビンを唇に近付けていく。
あたしもラムネのビンを唇につけた。シャワっと音がはじける。
「甘い」
ワアッと一斉に歓声が上がる。見ると「ナイアガラ」が始まっていた。滝のように流れ落ちる光の奔流が周りを昼のように照らし出す。
「あ!」
「どしたの美帆ちゃん?」
「あそこ見てください」
浴衣の袖から美帆の白い手が伸びてゆく。指された方向には人影が三つある。
あたしにはそのなかの大きな影に見覚えがあった。
「あれって…もしかして」
憂子がうなずく。「でもちょっとおかしい」
光が浮かびあがらせたのは、頬をおさえている武尊の姿だった。
日差しはまだ強く差し込んでいる。
「ほれ」
投げ出されるようにしてあたしは椅子に座らされた。逃げないように武尊が肩を押さえている。
机の上には広げられた議事録が置かれている。
そういうことか。あたしは目の前に座る工藤を上目遣いで睨みつけた。
工藤がやんわりと笑いかける。
「草壁さん。ご気分はいかがですか?」
「は? バカにしてんのっ!?」
立ち上がろうとしても武尊の手がさせてくれない。
「ばか。落ち着け」
「ここまで言われて、落ち着いていられるかっ」
暴れるあたしを武尊はさらに強い力で押さえつける。
「いいから落ちつけっ!」
「気分を害してしまったなら、ごめんなさい。ただ、突然出て行ったから、気分でも悪くなったのかと思って」
ああ、そう。気分なんか最悪に決まってる。いいわけ無い。
「帰るっ」なおも暴れるあたしを
「はるかっ!」憂子の鋭い声が遮った。
ビクっとして憂子を見る。相変わらず眼を閉じた姿勢のままだった。
「憂子…」
「まあ、落ち着こうよ。籠球部部長も困ってるしさ」
そう言ってゆっくりと腕を解き、眼を開けた。
「さて、会長さん。図書委員会委員長も来たところで、状況の説明からしてもらおうか?」
「それはさっき…」副会長が言いかけ、
「ほぅ。言うね…つまり説明したと?」
「そうでしょう、議事録に署名もある」
副会長が議事録を指差す。
「なるほど。はるかー」
憂子が私の方を向く。「そこに私の署名はあるかい?」
あたしは汚いものでも触るように議事録をつまんで開いた。
演劇部―九条みすず。茶華道部―鶴光路秋名。とあり、帰宅部―『該当なし』は、いないからしょうがないか。弓道部―桐水桔梗と来て、放送部―と、これはあたしだ。当然書いてない。続く弁論部は…空欄だった。
「ない」
「そんなハズは」
副会長が駆け寄り、あたしから議事録をひったくった。眼が見開かれ、そのまま固まっている。
「さっきは確かに…」
工藤が手を伸ばす。議事録を受け取り、そこをちらりと見てから憂子に視線を移した。
憂子は何もなかったように続けた。「と、言うわけだ。副会長。私は説明を受けていない。故に署名もできていない」
「なっ…」
「ちなみに俺も聞いてない」頭の上から声がした。
「何言って…」
見上げようとしたら胸で頭を押さえつけられた。
「いいから黙ってろ。本田辺に任せとけ」耳元で武尊がささやく。
「…分かりました。きちんと説明します。しかし、今日はもう遅いので後日にしましょう。それから今日の議事に関しては、こちらの落ち度のようですので決議は承認されない事とします。よろしいでしょうか」
落ち着き払って工藤が言う。
憂子は動かない。武尊の方を見た気がした。
「いいんじゃねーかな。俺らは良いとして、他の部長にはどうする?」
「こちらで連絡しておきます。斉藤君お願いできる?」
副会長―斉藤君というらしい―がうなずく。
「では、今日はここまでにしましょう」
憂子が立ち上がる。武尊の手はまだあたしの肩に置かれたままだ。
工藤に背を向けあたしと武尊にだけ見えるようにしてから、憂子はいたずらを思いついた子供のように楽しそうに笑う。私に任せてこの場はこれ以上揉めるなということらしい。
「はるか、帰ろ」憂子はあたしの手を取った。武尊の手が離れ、肩がひんやりとした。
「うん」あたしはうなずいて立ち上がり髪の毛を整えた。
髪には温もりがまだ残っていた。
―◆―
生徒会室からの図書館に戻りながら気になったことを憂子に聞いてみた。
「さっきの、どうやったの?」
「ん? これ」
憂子はブレザーのポケットからペンを取り出して、あたしに渡した。
別にそこら辺にあるものと変わらないけど…キャップを外してペン先を見ても特別なところはなかった。
「別に普通のボールペンで、どうってこと無いように見えるけど…」
「こっちでこすると消せるんだよ」
「え? 消えるの?」
「見たい?」
あたしはうなずいた。
「じゃあ、さっきの署名がってのは」
「そ、消したの。武尊がはるか追っかけてったどさくさに紛れて。斉藤君はまだまだですな」
「武尊もやったの?」 後ろを振り返ると武尊はいなかった。
「あれ、武尊は?」
「さっき部活に行くってA棟の職員用玄関から出てった」
「ふぅん」
憂子がふふふと笑った。「前途多難、かな」
「え?」
「なんでもー。それより、用意してほしい物があるんだけど」
「なに?」
「議事録」
「議事録?」
「そ、議事録」
「なんの?」
「生徒会の。それ以外何があるの?」
呆れたように憂子が言う。
―◆―
「議事録…ですか?」美帆が繰り返す。
「東堂先生知ってますか?」
「書庫にあるわよ」
あっさりとそう言って東堂先生は立ち上がり、司書室から奥に続くドアを開けた。
東堂先生の後に付いてドアをくぐる。入ってすぐの左手に作業用の机。右手に書架が続いている。手前の書架の一部は空けてある。
「こっち」
言いながら書架の並ぶ奥に入っていく。
「草壁せ…」
美帆は言いかけて、意を決したように「はるかさん、わたしこっちまで来るの初めてです」と続けた。
「あたしも。普段は手前の書架に複本しまう時か机で作業する時だけだからね」
東堂先生は書庫の突き当たりの棚の前で「えっと…ここらへんにあったと想うんだけど。草壁さん、深町さん、申し訳ないんだけど、この棚の前のダンボールどかしてくれる?」
見るとみかん箱と同じくらいのダンボールが三段くらい重ねてある。奥は見えない。さした指を考えると棚の下段に入っているらしい。
やるしかないんだよね…うんざりしながら美帆の方を見ると、すでに腕まくりをして、ゴムを口にくわえて髪をまとめている。
お嫁さんにしたいなぁ…ほんとに。
美帆は慣れた手つきで髪をまとめ、ためすように軽く頭を振ってから「やりましょうか。はるかさん!」と弾んだ声で言った。
「そうだね。じゃあ、あたしがここでダンボールを持って美帆に渡すから、とりあえず後ろに移動させよ」
「はい」
手前のダンボールを持ち上げてみると意外と軽い。その場でくるっと持ったまま一回転して美帆に渡す。
そんな作業を何回か繰り返し、なんとか棚の下段の引き戸を開けられるくらいまで発掘した。
「草壁さん、開けてみて」
「はい…よっ」体をひねり、つま先立ったまま引き戸を引いた。
ぼんやりと『議事録』の文字が見えた。
「ありました」
「あった?どんな感じ?」
「えっと…三年前のがあります。あとは奥の方に結構」
あたしは手前にあった三年前の議事録を引っ張り出した。伸びてきた美帆の手に渡す。
「確認してみよ?」
「はい」
パラパラと美帆がめくる。埃っぽい匂いが漂う。
覗き込むと昨日生徒会室でみたのと同じ書式で、議題、署名が並んでいる。
「どうでしょうか」
「間違いないと想う。あたしがいつも署名してるのと同じ書式だし」
「最新の三年ぶんはどこにあるんですか?」
「最新の物は生徒会室に保存する事になってるの。三年経ったものを順次図書館が保存する流れね。最新の物が必要なら、生徒会室に行くしか無いわね。どうなの?草壁さん」
「とりあえず、憂子には予算承認の署名を確認してくれって頼まれてる」
「となると、全部ですね」
あたしは棚の奥を覗きこんだ。「…三十冊くらいかな。…東堂先生、手前の空いている棚借りても良いですか?」
「むしろそこに移動してくれると助かるのだけど」
「では、取り掛かりましょう。はるかさん」
あたしは手前にある三冊を左手で掴み引っ張りだした。
―◆―
放課後掃除を急いで終えて図書室に行くと、司書室に月ちゃんがいた。
「ね?」
「なるほど」
東堂先生とあやしげなやり取りをしている。
「気持ち悪いです」
「いや、草壁を捕まえるならココだって聞いてな。ホントだったもんで、つい」
「そうですか。それであたしに何か?」
「来週の水曜日。…前女で放送部の打ち合わせがあるから、草壁行ってきてくれ」
「分かりました。あたしだけですか?」
「来年もあるし、興味もあるだろうから神宮と小鳥遊も。俺は車で先に行くから後から自転車で来い」
「分かりました。時間は?」
「二時からだから、五、六講目は公欠だな。持ってくものは特に無い。これ見とけ」
ぴらっとプリントを一枚あたしに渡し、月ちゃんは東堂先生にじゃ。と言って司書室を出ていった。
相変わらずヤル気のない背中だなぁ…
月ちゃんを見送ってから書庫に入ると美帆が議事録を丁寧に確認していた。
「どう?」
「今、十期を確認しています」
ということは美帆は昨日と今日の放課後で二十年分くらいを見直したことになる。
「さっき本田辺(ほんたなべ)…さんが来ました」
「憂子が?」
「ええ、議事録を十年ぶんくらいパラパラと眺めてから、うんうんと大きくうなずいて帰って行きました」
「ふぅん」
応えながら椅子を引き出して座る。脇に肩からカバンを外して置く。
作業をする美帆の横顔がみえる。
憂子、いったい何がしたいんだろ?一昨日聞いても教えくれなかった。
考えるだけ無駄かな。あたしはどちらかというと感覚を大事にして生きている。あっさりと考えるのを止めて、美帆を見た。
作業の邪魔なのか、無造作に後ろでまとめた髪がページを捲るたびに左右に揺れる。
あたしはそっとカバンに手を入れてカメラを取り出した。
ファインダーを覗いて素敵だな、と想う。
ピントを合わせる。―カシャン。
驚いて美帆が顔をあげる。
「ごめん。断ってからだよね。すぐに消すね」
あわてて謝りカメラからデータを消そうとした。
美帆は眼を一回ぱちくりとさせ、すぐに顔を真っ赤にしてうつむいた。顔を議事録で隠しながら、か細い声で「…後でくださいね」とだけ。
あたしは拍子抜けして思わず「え」の声が漏れた。
美帆はさらに顔を議事録に埋もれるようにしたままぼそぼそと
「この間の県のコンクールに出した作品を朱里に見せてもらいました。思わず美古都といっしょになって見とれるほど綺麗な写真でした。はるかさんが撮ったんだって…」
「そ、そう。ありがと。後で渡すね」
「でも、これ以上は止めてくださいね」
美帆の真っ赤な耳を見ながら、カメラをしまう。
「どう?見つかった?」
眼の前にある重ねられた議事録を手にとって訊く。
「はるかさん。そっちは終わってます…えっと、これをお願いします」
美帆が傍に積んだ議事録から一冊渡してくれた。
「ありがと」
受け取りながら表紙を見る。第九期生徒会予算等議事録とある。一桁に入った。長い時間を遡る旅もそろそろ終わりだ。
さてとやりますか。
憂子の指示は「帰宅部部長の署名があるか確かめる」ことだった。美帆と分業で進めてきているけれど、これまでのところ、該当なしと書かれているだけだった。
本当にあるのかなぁ…憂子は絶対にある!って自信たっぷりだったけど。
黄ばんだ古い紙の匂いが広がる。図書館の本特有の匂いだ。この匂いが好きって人もいるけど、あたしはどうも好きになれない。
パリ。 めくるたびに紙は軽く音を立てる。
それにしても昔はずいぶんと活発だったらしい。これより前の確認は美帆がやってくれたので、どこから崩れたのかは分かららないけど。
予算の折衝交渉には四回も会議が開かれている。文化祭のクラス予算も委員がきっちり交渉してクラスごとに必要な分が割り振られている。委員会の予算も提示、交渉、決議の流れが維持されている。
『図書委員長決議の反対により、本日の会議は解散。決議は五月二十七日に延期。書記碓氷。』
などと書いてあるのを見ると昔からたてついてたんだな、とか想って笑ってしまう。
変な記事を見つけては美帆に見せて、笑い合っているので遅々として作業は進んでいない。
九期を見終わって、次の議事録を手に取ると四期とあった。
慌てて美帆を見る。
「どうしたんですか?」
「美帆、それ何期?」
「えっと…」表紙を確認する。
「五期ですね」
ごめん。
あたしが一冊見ている間に美帆は二冊を見終わり、三冊めに入っている。
適材適所っていうから、ね。あたしは窓から空を見上げた。なんか空気が淀んでる。
立ち上がり美帆の後ろの窓を開ける。初夏の爽やかさはいつの間にか過ぎ去っていて少しむっとする。
夏、か。
吹き上がるくすんだカーテンを見ながらカバンの中にある予備校の案内を想い出す。
母さんに持ってくるように言われたやつだ。
「はるかさん。ありました」
美帆がうれしそうに振り向く。
「あったの?」思わず身を乗り出す。
「ここ見て下さい」
美帆が示した場所を見ると『帰宅部―欠席』とあった。
「これまでは該当なし、でしたから明らかに違います。出席する人はきちんといて、でも会議には来なかったってことでしょう。」
「ってことは、部長がいたってこと?」
美帆は大きくうなずく。
「恐らくそうでしょう。この後を見ると最終的には欠席裁判になってます。はるかさん、四期の議事録を見てくれますか。載ってる可能性が高いと想います。わたしはこれの残りを確認します」
「分かった」
ワクワクしながら、四期の議事録を手にとった。
窓によりかかって一ページずつめくる。
そして見つけた。帰宅部―刀根の文字を。
「美帆! あった。あったよ! ここ」
美帆が立ちがり覗き込んでくる。
「ほんとだ…はるかさんこれより前は?」
「ちょっと待って。今見る」
あたしは乱暴にバラバラと議事録をめくる。
署名を求められるページにはすべて刀根の署名があった。
―◆―
「じゃ、行こっか」
あたしと美帆は議事録を持って立ち上がった。
「はるかさん」
廊下を歩きながら美帆が話しかける。
「どうしたの?」
「ちょっと緊張してます」
「だいじょぶ。あたしも憂子もいるから」
「そう…ですね。ありがとうございます。でも、部長会議って土曜日にやるんですね」
「うーん。美帆ちゃんそれは違うかな。今回は例外で本来は水曜日の放課後。ね、はるか」
「なんで延期なんかしたんだろ?しかも連絡あったの火曜だったし。ずいぶん前に今週の水曜って連絡があったのに」
「さあ。急ってことは面白くなりそうだけど?」
「わたしは、なるべく穏便に済ませたいです」
「美帆ちゃんの願いが届くといいんだけど…相手はあの人だからねぇ…さ、戦場に到着だ」
憂子の言葉に顔をあげる。
生徒会室の文字が眼に入る。
「弁論部本田辺でーすっ」憂子がドアを引いた。
―◆―
中に入ると正面奥に会長工藤、副会長斉藤、書記白川、会計関根の役員が座っていた。その他は文化部の場所に二人、運動部の場所には三人が座っていた。委員会席には誰もいなかった。一応、席には決まりがあって専門委員会は役員と対面する形で六委員会が座る。それ以外は自由だ。といってもなんとなく左側が文化部、右側が運動部になっている。
憂子は左側の役員から一番遠く角になっている席に座った。あたしは憂子の隣、役員と対面する専門委員会の席に着く。
「あの…わたしはどこに」
「あたしのとなりで良いよ。どうせ席は余るし」
美帆は遠慮がちに席につき、議事録を机の上においた。
あたしは改めて周りを眺める武尊はまだ来ていない。
それになんか運動部が来てなさ過ぎない?いつもなら「早く始めろ」とかってウルサイのに。
委員長は文化祭実行委員の榊さん、交通の宮城さん、風紀の江木さん、それと美帆の四人がいる。整備の二宮君と保健の三波さんは来ていない。
「ねえ、憂子」
「ん?どした、はるか」
「なんかおかしくない?」
「そっか?美術部の榊さんは来てるし、文芸の小相木さんも来てる。文化部で来てないのは吹部と茶華道、演劇だけでしょ。とりあえず三分の二以上いるから、大丈夫だって」
「三分の二って?」
「はるかさん、決議に必要な数ですよ」
隣から美帆が助け舟を出してくれた。
「文化部は七つしかありませんから、三人以上いれば成立します。現状で四人来てますから…」
「美帆、三人だよ?」
「いえ、四人です…はるかさん…」
「はるかー。自分を入れてないでしょ」
「あ…ごめん」放送部はあたしだったんだ。
「それより…」
憂子がまゆをひそめる。
「委員長連中が来てないのが気になるよ」
「運動部も来てないけど?」
「そっちは…」
憂子が言いかけたとき副会長の斉藤くんが「時間になったので始めましょう」と言った。
あたしは立ち上がり一礼してから座った。
「まず出席の確認です。こちら側から部、または委員会の名前を言って行って下さい」
「美術及び文化祭実行、榊」
「文芸、小相木」
「弁論、本田辺」
「放送、草壁」
しばらく間があった。
「あの…はるかさん、わたしは…」
「図書でいいよ。今回は図書委員の代表で来てるんだから」
「はい…分かりました。では…」
美帆は顔を上げ、会長をしっかりと見据え、大きく息を吸ってから、
「図書、副委員長 深町。今回は委員長代理です」
「交通、宮城」
「風紀、江木」
「卓球男子、湖上。女子については代理」
「バドミントン、男子江崎」
「バドミントン、女子金渕」
「硬式庭球女子、恵庭」
「軟式庭球男子、田中」
「軟式庭球女子、柳」
とりあえず来ているのはこれだけだ。
憂子の方を見ると、眉間に皺を寄せてじっと考え込んでいる。
「まだ運動部が揃っていないようですが、始めたいと想います。なお確認ですが、本校生徒会では、運動部、文化部、専門委員会がそれぞれ一票ずつをもち、二票以上で決議になります。運動部は男女別に十八、十二部以上の承認で一票、文化部は七、三部の承認以上で一票、専門委員会が六、二以上の承認で一票となります。また、全体の二の一以上、十六以上が反対した場合は廃案となります。また委任状がない場合は出席している数の三分の二の賛成で承認とする。これでよろしいでしょうか」
あたしはうなずく。
「ではまず、工藤会長から」
促されて工藤会長が立つ。
「本日は土曜日にもかかわらず、集まっていただきありがとうございます。また、今回の招集について一部不手際があったことをお詫びします。今回は予算案の承認と生徒総会提出案の最終採決になります。なお、総会まで時間がありませんので、今回承認が得られなかった場合は会長権限によって、全体採決を行ないます」
そう言って頭を下げる。
なっ。あたしは唇を噛んだ。
やられた。完全に。土曜日にしたのはこういう理由か。
欠席が多くなる日を選んで、委任状を取り付ける。これまでは議事内容を承認するかしないかが問題だった。議事承認を拒みつづけて廃案に持ち込んで時間的に追い詰めて、有利な条件を引き出すのが憂子の狙いなんだろうなと予想していた。
でも、全体採決決議までやるとなると話は別だ。
現状で決議に必要な三票のうち、こっちは憂子、あたしは確実として、前回の会議で文化祭実施年度にも関わらず予算配分が少ないことを質問していた榊さんも内容によっては反対するだろうから文化部の一は多分いける。
運動部は工藤よりの連中が集まっている。運動部は崩せない。
「さらにご報告です。整備、保健の二つの専門委員会は欠席の連絡と委任状をあずかっています」
委員会票は会長が二に対して美帆と榊さんで二。交通、風紀がどう動くかによるけど…
美帆が耳打ちをしてきた。
「はるかさん…これは厳しいですね。交通の宮城さんは女バスの榛名さんと仲いいらしいですから…」
となると委員会票も難しい。
「憂子…」
泣きそうになりながら憂子を見ると唇を歪ませて不敵そうに笑っていた。
「去年と同じ手は使えないか…なかなか骨のあることをしてくれる。こうじゃないと面白くない」
「憂子…」
「こりゃ綺蹟でも待つかね」
予算案のプリントが回ってきた。さっと眼を通す。
日付だけが変えてあるだけで数字や内容は前回とまったく同じ。
これなら榊さんは行ける。けど…仮に議事署名を拒んだとしても、強行採決をやれば成立を狙える。
「では今回の予算案について説明をします」斉藤くんが話出した。
自信たっぷりな張りのある声が数字を読み上げていく。
憂子…どうするつもりなの?
憂子は腕を組んで眼を閉じている。
「…以上です。では質疑応答に移ります。質問のある方は挙手をお願いします」
「はい、美術部」
「えっと…前回言った、文化祭時の特別予算が繰入られてないんですけど…どうしてでしょうか」
「部活動の予算は単年度で行ない、特別の事情によって上下することはありません」
「ですが、文化祭開催時は文化部の予算は倍に増えるって沢渡先生が…」
「証拠はありますか? 失礼ですが沢渡先生は今年度から東陵に来たので東陵と他の学校と勘違いしているのではないでしょうか。きちんと証拠を確認してください」
「ちょ…」 頭に来てあたしが立ち上がろうとすると美帆に肩を抑えられた。
「美帆っ」
「証拠を示せば良いんですか?」
「もちろんです」
斉藤くんがニッコリと笑う。
「では、ここに六年前と五年前の議事録があります。これを見ますと…っと、ここですね。前々回の文化祭予算案ですが、文化部に関しては吹奏楽を除いて前年に対して倍増もしくは一万円のプラスになっています。」
「…なるほど。では文化部の予算は見直す必要がありそうですね。そうなるといくら必要になりますか?」
会計の関根が電卓を叩く。「最低で七万円です。倍増だと…十四万位です」
「ではその分どこからか用意することになりますが…皆さんいい案はありますか?」
「…はい」
憂子がゆっくりと手を挙げた。心なしか場の空気が変わる。
いよいよ始まる。
事前に憂子から『いい?私と美帆とでどうにかするから。何があってもはるかは黙ってて。ね、いい?絶対だよ』と釘を刺されている。
あたしは見守るだけだ。がんばって憂子。美帆。
「…弁論部」いやいやといった感じで斉藤くんが言う。
「工藤会長。問題を整理し直そうじゃないか」
「では、どうぞ」
「ありがとう。そもそも今回の文化祭予算が足りなくなったことから説明をして欲しい」
「例年通りですが」工藤ではなく斉藤くんが応えた。
「では、なぜ委員会費が完全に削減されている。各委員会五千円の予算があった。その約三万円はどこに?」
「今年度よりの定員変更による生徒減少のため、例年より予算規模が縮小されています。その影響を最小限に留めるため、各部活動に分配を行っています」
「確かに。しかし、昨年度の予算と比べても増加している部が多いが、削減は求めなかったのかい?」
「各部活動の活動実績により、公平分配を行ないました」
「活動実績の内訳は」
「各種大会への出場及び結果を元にしています」
「なるほど。減っている部活は活動実績が無いとみなされた訳だ。…ところで榊さん」
「はいっ!」あわてて榊さんがうわずった声で応えた。
「美術部は予算規模が縮小されているが、活動実績はどうなってる?」
「そう…ですね。個人活動は別として、県総合文化祭への出品は全員で行っています」
「出品数は?」
「…すぐには分からないですが …一昨年より部員は増えているので、出品数は増えていますし、二年生の吉井さんが銀賞を取りました」
「…というわけだが、美術部の予算が減っているのはなぜなのか…この質問は本来、美術部が行うのが筋だが…私が説明を求めてもいいかな?榊さん」
「はい」
「ありがとう。では、このことについて説明を求める」
「美術部の予算は例年手付かずのまま全額返済が多かったため、削減対象になりました」
「使わないものは引き剥がす訳か」
「引き剥がすは言い過ぎですが…効果的な利用のためです」
「その流れの中に委員会費もあったと」
「否定はしませんが肯定も控えます」
「そうかい。では、もう一つのことを聞こう」
「まだあるんですか?」
「ダメかい?」
「いえ…」
「去年の総会でうちの先代バカ部長が大変失礼をした。その事について改めてここで謝罪する。しかし、そこで言及された『筋トレマシン』の返済費用が今年度予算案に入っていないのはなぜなのだろうか」
反論しかけた斉藤くんを憂子が睨みで押し返す。
憂子はブレザーの懐に手を入れ何かを取り出した。
「ここに前年度予算案がある。これを見ると、購入費が五十万円、五年の返済で年十万ずつの返済となっている。昨年度の時点で残り四十五万円、うち文化祭費用の取り崩しで二十万円を返済し、その補填として保護者会から十万円を貰っている。ここまでは間違いないな?」
議事録を開いて斉藤と関根が確認している。
「…ええ」
「ところで、その補填されたはずの十万円はどこに組み入れられたのだろうか?」
「…昨年度予算の中に組み込まれました」
「にも関わらず、今年度の文化祭費用が二十万円削減されているのはなぜなのか?」
「生徒数が…」
「そして今年度予算案で残りの返済金額がなぜ十五万円なのか。本来であれば二十五万でなければならないはず」
「それは…」
「さらに。その金額が先程の引き剥がした予算額とほぼ一致しているのは偶然かい?」
「ぐ…」
「見れば運動部の予算は各部ごとに上下はあるにしても合計額が変わっていない。この合理的理由、それと根拠を説明してもらえますか」
「…それは…」
「それで?」工藤が口を開いた。
「もう一度言わないといけないのかい?」
「何を?」
「計算が合わないって言ってるんですよ」
柔らかな、それでいて冷静な美帆の声が響いた。
「それは、どの部分をさして言っているのでしょうか。恐らく文化部の予算を削減して返済に当て、補填された予算は運動部のみで分割したと言いたいのでしょう。返済に関わるものは利益者負担で運動部が出すべきだと。ましてや文化祭の予算が減額などもっての他だと」
「ま、そうだ」
「しかし、本田辺さん。考えてみてください。返済は運動部の予算で行うと誰が決めたのでしょう。それこそ偏った負担になります。今回の予算案は先程申し上げたとおり、実績を元に分割したものです。文化部を狙ったものではありません」
「あくまで客観的事実によるものだと」
「なんども言っている通りです。…申し訳ありませんが、質疑はこれくらいにしてそろそろ承認に移りましょう。他の方々もいますので。よろしいですね?」
運動部連中の眼がそろそろきつい。
悔しいけど、潮時なんだろうなぁ…
憂子があたしの方を見たので、うなずいた。しかたない、後はこの議事録の帰宅部署名問題を切り札にしよう。
美帆の前に積まれた議事録を見る。
「ああ、いい忘れていました。皆さんにひとつご報告を忘れていました。申し訳ありません。運動部の一つ『帰宅部』については部長該当者がいないため、これまで該当なしとなっていましたが、今回は見直し、顧問の校長先生から委任状を預かっています」
「なっ…」 思わず立ち上がる。
美帆があたしの右袖を掴んだ。
「はるかさんっ」
「草壁さん、どうかしましたか?」
工藤の方を見ると意地悪そうにあたしたちを見て笑っている。
あんたたちの計画はすべてお見通し。そういう目だ。
どうにかしなきゃ。どうにか。考えてもこの場で出来ることは思い浮かばない。
終わった…ほんとに。
この女はどこまであたしたちの先回りをすれば気がすむのだろう。
「いえ…」
急に膝の力が抜け、崩れ落ちるように椅子に座る。
「憂子、どうしよう?」
「どうって言っても、とりあえず署名拒否くらいしか出来ないしなぁ」
意外と冷静だ。
「くらいって…他になんかない?」
「うーん。拒否しても会長権限で決議に持ち込まれるし、現状で委員票は決定的。運動部は厳しい。万策尽きたって感じだね」
憂子は両手を広げて天井を仰いだ。
「こういう時はさ、はるか。騎士の登場を待つものだよ、それが無理なら綺蹟を祈るか。けど、この世に綺蹟なんかない。だからジ・エンド」
「…そうでしょうか」
「ん?美帆ちゃんには何か引っかかるところがあるんだ?」
「だって、本田辺さん楽しそうです。あきらめた人はそういう眼をしません」
「あらら、はるかと違って冷静だね」
「そうでもないです。さっきから心臓のドキドキが止まりません」
「だいじょぶ」
憂子があたしの頭をポンポンと叩いた。
「そろそろだよ」
その時入り口のドアが開いて、誰かが入ってきた。
―◆―
「たまやー」
「かぎやー」
大空に広がる光の洪水。今風のひまわりの柄の浴衣を着た美帆の顔が赤く、青く照らされる。
憂子、美帆、あたしの順で並んで花火をみていた。
「でもさ、」憂子の右手の中でラムネのビー玉がチリリと鳴った。「『計算が合わないっていってるんですよ』…あの時はカッコよかったよ。美帆ちゃん」
「あの…美帆でいいです」
「そう? じゃ私も憂子でいいよ」
「では、憂子さん」
「美帆ちゃん」
そういって二人でくすくす笑っている。
あの後、現れたのは武尊だった。相当急いできたらしく息を弾ませていた。
そして開口一番
『ここに来ていない部長達の委任状だ。筋トレ返済を運動部がそれぞれ予算を削減して行うことと、文化祭予算の例年通りの運用についての賛成署名とその委任状をあずかってきた。確認してくれ』と言って、持っていた紙の束を会長の前に放り投げたのだった。
憂子は本当に裏で、したたかに動いていた。
まず、運動部の大会が集中する土曜日に会議を動かし、武尊に委任状の回収を依頼。
その動きから工藤の眼をそらすために、あたしと美帆に帰宅部の議事録確認作業をさせた。
一方で武尊に運動部の委任状を集めさせる。さらには当日までに回収しそこねた委任状を北嶺まで行って回収してくれた。
結果、運動部の票が動いたため、あたしたちの思惑通りで予算は成立。文化部の予算は倍増され、委員会にも予算がついた。
賛成決議を採る時の工藤の引きつった顔は忘れられない。
議事録作業が囮だったのはちょっと解せないけれど…それでも、部長会議からの帰りの廊下で美帆はあたしにこう言った。「お茶飲めなくなるの、イヤですから。それに…」
このあとの言葉はちょっと恥ずかしい。あたしの胸にしまっておきたい。できればこのまま、ずっと。
いつの間にか美帆もラムネを飲んでいる。
「はるか?」美帆の向こうから憂子の顔がのぞく。
「えっ!」
「どした?」
「なんでもないよ。ただ、いいなぁーって」
「なんだ。早く言いなよ。ほら」そう言って憂子は左手を差し出す。
「少し気が抜けてるだろうけど」
差し出されたラムネのビンは少し汗をかいていた。
ちょっとちがうんだけどなぁ。
そう想いながら、それでもラムネを受け取る。
「ありがと」
憂子は満足そうにうなずくと右手に持ったラムネのビンを唇に近付けていく。
あたしもラムネのビンを唇につけた。シャワっと音がはじける。
「甘い」
ワアッと一斉に歓声が上がる。見ると「ナイアガラ」が始まっていた。滝のように流れ落ちる光の奔流が周りを昼のように照らし出す。
「あ!」
「どしたの美帆ちゃん?」
「あそこ見てください」
浴衣の袖から美帆の白い手が伸びてゆく。指された方向には人影が三つある。
あたしにはそのなかの大きな影に見覚えがあった。
「あれって…もしかして」
憂子がうなずく。「でもちょっとおかしい」
光が浮かびあがらせたのは、頬をおさえている武尊の姿だった。