第4話
文字数 2,648文字
僕らはなんだかイライラしていた。
それが既に残り少なくなった僕達の時間のせいなのか、それとも一年間の僕らの関係の飽きからくるものなのかはわからない。
それとも、イライラしていたというのも違っていたかもしれない。飽き、というか……ともかく、僕は彼女とともに過ごすのが、以前より楽しくなくなっていたのは事実だ。
もしかして、僕は「彼女が欲しい」なんてお願いをしなければよかったんじゃないか、そう思った。思ってしまった。
思ったときにはもう、手遅れだったのかも、しれない。
一体何から始まった喧嘩だったのか、なんて、もう覚えていない。
いや、覚えていないというのは嘘だ。ちゃんと覚えている。でも、ここに記すのも憚られるような些事だった。
ーー僕たちは喧嘩をした。
よりにもよって、喧嘩をしたその場所は、僕たちが初めてキスをした、あの喫茶店だった。
どちらが悪いという喧嘩でもなかったが、でも、先に声を荒げたのは彼女の方だったーーいや、それは僕の主観であって、彼女にとっては僕が先に声を荒げたのかもしれないのだけれど。
彼女が怒鳴り、僕は怒鳴り返した。
他に客が居ないという安心感も手伝ってなのか、僕たちがついさっきまで和気藹々としていたはずの「議論」は、いつのまにか「口論」になり、そして、もっと悪いことに、その口論は僕が主導権を握ってしまった。
つまり、僕のほうが、ーー僕は男性なのだから当たり前なのだけれどーー声が大きかった。それだけのことだったのだ。
それは彼女の反感につながって、口論は収束するべき着地点を見失った。
いつの間にか、二人の口論は論点を見失い、より幼稚な方向へ、より稚拙な方向へと彷徨っていた.......そして、それは口論をさらに一段階、悪化させるのだ。
僕は彼女を、叩いていた。
それからの記憶はない。と、言えたなら、どんなに楽だったことだろう。しかし僕は実際の所、彼女の表情を、彼女の仕草を、彼女の視線を、一つ一つ、さながら4k動画みたいに覚えている。
ーー彼女は泣いた。
ーー彼女は静かに涙を流していた。
声は上げていなかったし、嗚咽することさえ無かった。両目に貯めた水を溢すような、そんな、自然な涙だった。
もしかすると、彼女は自分が泣いていることに気付いていないんじゃないだろうか、というような、そんな静かな泣き方だった。
僕はそこで、ふ、と我に返って、彼女を見つめた。
彼女の薄い桃色の肌には一対、涙の跡が残っていた。その涙の跡は透明でありながらも輝いていて、僕は彼女の肌が妙に白く思えた。彼女は生きているんだろうかと思える、そんな真っ白の肌が、その涙の跡の奥に見えたような気がした。
金縛りにあったみたいに、僕は動かなかった。動けなかったし、動かなかった。
一体どのくらい、僕はそこであっけにとられていたのだろう。僕はそのソファに座ったまま微動だにせず、じっと、彼女を見つめていた。
彼女の涙の筋は次第に乾き、でもそれは僕の目に残像みたいに焼き付いて離れなかった。見えなくなる涙の筋が彼女の頬を切り裂いているような、そんな感覚に囚われた。
「わかればいいのよ。わかれば」
彼女は唐突に言った。
「唐突ですね」
「ふふっ」
彼女は微笑んだ。その彼女の微笑みすら、彼女の涙の跡が傷つけた頬の傷をさらに深く切りつけているような気がして、僕は彼女から目を逸らした。
「すいませんでした。全部、僕が悪かったです。もう二度と、こんなことはしません。ですから、どうか許してください。」
「いや、だからわかればいいのよ、わかれば」
彼女はそう繰り返した。
「さ、帰ろ?」
僕達は並んで歩いた。
先程の気まずさを引き摺って、僕らは言葉少なに歩く。
恋愛というのは、なかなか上手くいかないもののようだと思った。ーー僕は、自分が僕たちの関係を「恋愛」だと捉えていることに気付いて、なんだか照れくさくなった。
横断歩道に差し掛かって、僕らは一旦足を止めた。信号は赤だった。
信号が青に変わり、僕達は再び歩き出した。
再び、別の信号に差しかかる。今度の歩行者信号は青だった。
彼女の怒声が、頭の中で反響して、それが彼女の微笑みに融けるような錯覚を覚えた。僕は足を止める。
僕はついぼおっとしてしまって、彼女との距離が離れてしまったことに全く気付いていなかった。
一方、僕が顔を上げてみると、下を向いたままの彼女は、前から来るトラックに気付いていないようだった──っ、僕は、何も考えずに駆け出していた。
この場合、こんな事をしても逆効果で、僕がこれをする事で、被害者が1人から2人に増えるだけ、とか、そんなことを考える余裕は無かった。ここから僕が彼女に叫べば、もっと確実に彼女を助けられるんじゃないか、とか、でもうまく僕が叫べなくて、かすれた声しか出せなかったらどうしよう、と、すら考えていなかった。
反射のように、見えたものに対して足が勝手に動いていた。
僕のことをヒーロー気取りだと、言いたいやつは言えばいい。
彼女とトラックの距離は既に30cm程になり、そこで彼女は僕の方を向いた。
「気づくのが遅くないですかっ」
走りながら、しかし僕は叫んだ。
叫んだけれども、でも今ならわかる。別に彼女はそれ迄気づいていなかった訳じゃなく、恐怖でどうしようも無かったんだろうと。
「うっせえ」
彼女は、今にもトラックに轢かれそうになりながら、何故なのか微笑んでいた。今日、二度目に見た笑顔......
僕は彼女とトラックの、残り10cm位になった隙間に向けて突進し、彼女を突き飛ばした。
彼女は僕が突き飛ばした方向へ、僕はトラックに突き飛ばされた方向へ、それぞれ飛んでいく。
2人とも死ななかった。僕は打撲ぐらいですんだし、彼女は無傷なように見える。これは奇跡、なのだろうか。
「私、悪魔だから、あんなトラックじゃあなんて事ないんだけどね」
「そうなんですか……」
「でも、かっこよかった」
「......」
「ヒーローみたいだった」
「僕は、ヒーローなんかじゃありませんよ......」
「そうかしらね? ふふっ」
彼女は微笑んだ。僕も微笑み返した。
僕たちは、吹っ飛ばされて信号のこっち側の歩道まで戻されてしまっていたのだけれどーー
いつのまにか、二人で顔を見合わせて、大笑いしていた。
それが既に残り少なくなった僕達の時間のせいなのか、それとも一年間の僕らの関係の飽きからくるものなのかはわからない。
それとも、イライラしていたというのも違っていたかもしれない。飽き、というか……ともかく、僕は彼女とともに過ごすのが、以前より楽しくなくなっていたのは事実だ。
もしかして、僕は「彼女が欲しい」なんてお願いをしなければよかったんじゃないか、そう思った。思ってしまった。
思ったときにはもう、手遅れだったのかも、しれない。
一体何から始まった喧嘩だったのか、なんて、もう覚えていない。
いや、覚えていないというのは嘘だ。ちゃんと覚えている。でも、ここに記すのも憚られるような些事だった。
ーー僕たちは喧嘩をした。
よりにもよって、喧嘩をしたその場所は、僕たちが初めてキスをした、あの喫茶店だった。
どちらが悪いという喧嘩でもなかったが、でも、先に声を荒げたのは彼女の方だったーーいや、それは僕の主観であって、彼女にとっては僕が先に声を荒げたのかもしれないのだけれど。
彼女が怒鳴り、僕は怒鳴り返した。
他に客が居ないという安心感も手伝ってなのか、僕たちがついさっきまで和気藹々としていたはずの「議論」は、いつのまにか「口論」になり、そして、もっと悪いことに、その口論は僕が主導権を握ってしまった。
つまり、僕のほうが、ーー僕は男性なのだから当たり前なのだけれどーー声が大きかった。それだけのことだったのだ。
それは彼女の反感につながって、口論は収束するべき着地点を見失った。
いつの間にか、二人の口論は論点を見失い、より幼稚な方向へ、より稚拙な方向へと彷徨っていた.......そして、それは口論をさらに一段階、悪化させるのだ。
僕は彼女を、叩いていた。
それからの記憶はない。と、言えたなら、どんなに楽だったことだろう。しかし僕は実際の所、彼女の表情を、彼女の仕草を、彼女の視線を、一つ一つ、さながら4k動画みたいに覚えている。
ーー彼女は泣いた。
ーー彼女は静かに涙を流していた。
声は上げていなかったし、嗚咽することさえ無かった。両目に貯めた水を溢すような、そんな、自然な涙だった。
もしかすると、彼女は自分が泣いていることに気付いていないんじゃないだろうか、というような、そんな静かな泣き方だった。
僕はそこで、ふ、と我に返って、彼女を見つめた。
彼女の薄い桃色の肌には一対、涙の跡が残っていた。その涙の跡は透明でありながらも輝いていて、僕は彼女の肌が妙に白く思えた。彼女は生きているんだろうかと思える、そんな真っ白の肌が、その涙の跡の奥に見えたような気がした。
金縛りにあったみたいに、僕は動かなかった。動けなかったし、動かなかった。
一体どのくらい、僕はそこであっけにとられていたのだろう。僕はそのソファに座ったまま微動だにせず、じっと、彼女を見つめていた。
彼女の涙の筋は次第に乾き、でもそれは僕の目に残像みたいに焼き付いて離れなかった。見えなくなる涙の筋が彼女の頬を切り裂いているような、そんな感覚に囚われた。
「わかればいいのよ。わかれば」
彼女は唐突に言った。
「唐突ですね」
「ふふっ」
彼女は微笑んだ。その彼女の微笑みすら、彼女の涙の跡が傷つけた頬の傷をさらに深く切りつけているような気がして、僕は彼女から目を逸らした。
「すいませんでした。全部、僕が悪かったです。もう二度と、こんなことはしません。ですから、どうか許してください。」
「いや、だからわかればいいのよ、わかれば」
彼女はそう繰り返した。
「さ、帰ろ?」
僕達は並んで歩いた。
先程の気まずさを引き摺って、僕らは言葉少なに歩く。
恋愛というのは、なかなか上手くいかないもののようだと思った。ーー僕は、自分が僕たちの関係を「恋愛」だと捉えていることに気付いて、なんだか照れくさくなった。
横断歩道に差し掛かって、僕らは一旦足を止めた。信号は赤だった。
信号が青に変わり、僕達は再び歩き出した。
再び、別の信号に差しかかる。今度の歩行者信号は青だった。
彼女の怒声が、頭の中で反響して、それが彼女の微笑みに融けるような錯覚を覚えた。僕は足を止める。
僕はついぼおっとしてしまって、彼女との距離が離れてしまったことに全く気付いていなかった。
一方、僕が顔を上げてみると、下を向いたままの彼女は、前から来るトラックに気付いていないようだった──っ、僕は、何も考えずに駆け出していた。
この場合、こんな事をしても逆効果で、僕がこれをする事で、被害者が1人から2人に増えるだけ、とか、そんなことを考える余裕は無かった。ここから僕が彼女に叫べば、もっと確実に彼女を助けられるんじゃないか、とか、でもうまく僕が叫べなくて、かすれた声しか出せなかったらどうしよう、と、すら考えていなかった。
反射のように、見えたものに対して足が勝手に動いていた。
僕のことをヒーロー気取りだと、言いたいやつは言えばいい。
彼女とトラックの距離は既に30cm程になり、そこで彼女は僕の方を向いた。
「気づくのが遅くないですかっ」
走りながら、しかし僕は叫んだ。
叫んだけれども、でも今ならわかる。別に彼女はそれ迄気づいていなかった訳じゃなく、恐怖でどうしようも無かったんだろうと。
「うっせえ」
彼女は、今にもトラックに轢かれそうになりながら、何故なのか微笑んでいた。今日、二度目に見た笑顔......
僕は彼女とトラックの、残り10cm位になった隙間に向けて突進し、彼女を突き飛ばした。
彼女は僕が突き飛ばした方向へ、僕はトラックに突き飛ばされた方向へ、それぞれ飛んでいく。
2人とも死ななかった。僕は打撲ぐらいですんだし、彼女は無傷なように見える。これは奇跡、なのだろうか。
「私、悪魔だから、あんなトラックじゃあなんて事ないんだけどね」
「そうなんですか……」
「でも、かっこよかった」
「......」
「ヒーローみたいだった」
「僕は、ヒーローなんかじゃありませんよ......」
「そうかしらね? ふふっ」
彼女は微笑んだ。僕も微笑み返した。
僕たちは、吹っ飛ばされて信号のこっち側の歩道まで戻されてしまっていたのだけれどーー
いつのまにか、二人で顔を見合わせて、大笑いしていた。