第2話
文字数 7,450文字
僕は久々にちゃんと朝に目を醒ました。昨日は彼女が帰ったあと、ちょっとパソコンをいじっていたのだけれど、なんだかうわのそらですぐに寝てしまった。彼女から与えられた情報量が多すぎて疲れたのかもしれない。
僕はベッドじゃなくて布団派だ。貧乏ゆえの負け犬の遠吠えとかじゃない。旅行のときとかにベッドで寝るといつも寝付きが悪いのだ。断じて負け犬の遠吠えではない。わんわん。
僕は自分で布団を干す。
しかし、自分で布団を干すのは一体何年ぶりなんだろう。初めてかもしれない。母親にいつも「布団を干すのくらい自分でやりなさいよ」といわれるのを思い出したから、自分でやった。
ベランダに出ると、朝の空気が心地よかった。ちなみに、そのあと母親には「今日は雨が降るから干しちゃだめ」と言われた。急に活発になった僕に対して、母はなんだか怪訝そうだった。もっと喜んだり、褒めてくれればいいのに。子の心親知らず、とかってやつか?
今日の僕は機嫌が良かった。
布団を干したことは、間接的にだけでなく、直接的にも僕のハッピーに結びついた。布団を干さなければ危なかったと思う。
というのも、布団の下に手紙が埋まっていたのだ。封筒には宛先も送り主の名も無かった。封もされていない。買ったままの状態、という感じだった。しかし、誰からの手紙かは想像が付く。
僕はなんだか勿体無くて朝ご飯のあとまで開けないことにした。
僕は朝ご飯をダイニングで食べた。
父親の仕事について僕は殆ど知らないのだけれど、とにかく朝が早い仕事なので、既にダイニングにはいなかった。
しかし、妹がダイニングにいた。
「ああっ‼‼お兄ちゃん!」
いい年をして僕のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ妹のことを、まあ僕は大好きなんだけど、でもどうかしてると思うときもある。
「食卓でご飯食べるのなんて久しぶりじゃん!一年ぶりとか?なに、1年ぶり記念?」
妹はちょっとウルっと来てしまったようだった。
そういう所が、僕はどうかしてると思うのだけれど。人がダイニングでご飯を食べるだけで泣かれちゃ僕は碌にご飯すら食べられない。
「今日は学校に行くの?」
妹は無理に自然を装ってそう尋ねた。けれど、僕がダイニングで食事をしたくない理由の1つがその質問である事を、妹は知っているんだろうか?
僕は今日から数えて、丁度1年前から、学校に通っていないのだった。簡潔にいえば不登校。
もちろん、僕が不登校になった理由というか、キッカケはちゃんと有るのだけれど、それを僕の自分勝手だと言うのも正しいと思う。
でも、家族には、妹には言われたくなくて、僕はダイニングに降りてこないのだ。
では今日なぜダイニングで食事をしたかと言うと、気分、ということしか出来ない。昨日の経験が強烈すぎて、別の人とコミュニケーションしないとやってられない、って感じだったのでは無いかと思う。
僕は妹の問いかけに、
「行かない」
とだけ答えて、自分の部屋に戻った。
僕は自分の部屋に戻って、封のされていない封筒(これって、封筒と呼んでもいいのか?)を開く。
しかし、……僕は今日明らかにテンションがおかしい。昨日のせいだとしたら、しかし昨日のことは「お前の余命は1年だ」という決定であり、寧ろ僕は嘆いたり落ち込んだりすべきな筈である。謎に構ってはいられない。ましてその謎は僕の感情に関する謎である。考察するだけ無駄である。それより、この封筒の中身を確認しよう。
思ったよりたくさんの紙が入っている。4枚くらいあるか?
とりあえず、もともと布団が敷いてあった所にぶちまける。
便箋が二枚と、領収書みたいなやつと、地図が出てきた。
とりあえず、便箋を読む。
文字がうまいと思った。
その便箋は手書きだったのだけれど、落ち着いていて、丁寧で、安心感がある文字だった。利発で聡明な印象を受ける。女性の字であることは間違いないが、昨日の彼女だろうか?しかし彼女がこれを書く姿、というのは想像し難い。なにせ裸なのだ。全裸でこんなきれいな文字が書けるものか。
書いてあった内容を全部書いてもいいのだけれど、しかしそれをやると話が長くなりすぎてしまうだろうから自粛する。
箇条書きで要約すると、二枚の便箋に書いてあったのは、
・君の彼女になるべき人はある喫茶店でまっている。喫茶店の位置は地図に書いてある。
・千万円については、あとで銀行の専用の口座に振り込む。詳細は別途の資料にある。
・質問は喫茶店で待っている君の彼女に聞くように。
ということであるのだけれど、こんなことのために便箋二枚をびっしり埋められるだなんて一種の才能だろう。
まあ、話の脱線が酷かっただけなんだけど。(あの話の内容で「DVDってドメスティック・バイオレンス・ランクDの略なんだって」とか、「幼女と童女と少女の違いって何か知ってる?」とかってそれ方でそれるなんて、只者ではない。そして、西尾維新のファン度も只者ではない。いや、だからまた伝わらない)
僕は全力で体を洗い、顔を洗い、親が去年買ってくれたのにそのままになっていた新品のシャツを着た。
そして大急ぎで、地図に示されている喫茶店へ行くべく、駅を目指した。
僕の最寄り駅から電車に乗ろうと券売機に向かったところで、気付いてしまった。僕はお金を持っていなかった。
その場でくずおれた僕は暫く呆けていたのだけれど、まあそのままでいても埒が開かない。再び僕は家へ帰り、母親の追及を大胆に全部無視して、今度はちゃんと持ち物を確認して、家を出た。
以降その喫茶店に辿り着くまでに特筆すべき点はない。
普通に、なんの不都合もなく喫茶店まで辿りついた。
一年間の空白があっても電車は、或いは世の中は何も変わらないだなんて、喜ぶべきなのかどうなのか。
しかしそもそも僕が降りた駅は僕の知らない駅だった。新しい駅、というふうには見えないからただ利用したことがないだけだろう。そもそも一年間では新しい駅なんて作れないのか。と、合点して、指定の喫茶店に向かった。
楽しみだった。
人生はじめての彼女とはどんなひとなんだろう。
僕が一年後に死ぬだけで、可愛い彼女が手に入る。夢みたいな体験じゃないか。あくまで能動的に、僕は幸せを享受できるのだ。
喫茶店の中に入った時ふと不思議に思ったのは、僕は彼女の顔を知らない。席も知らない。一体どの席へ座ればいいんだろう?
僕は知っている顔を見つけて、とりあえず話をすることにした。知っている顔、とは、まあ読者諸氏の大方の予想通り、昨日の彼女だ。
思わず二度見してしまった。彼女の第一印象が全裸だから、服を来ている姿を想像するのは難しかったのだけれど、なるほど、可愛かった。
ああ。僕は彼女の外見を表現する時「可愛い」を濫用してしまう。これじゃ僕は彼女に恋をしているみたいじゃないか。僕はこれから一年間の交際相手に会うというのに、これじゃ駄目だ。僕は彼女に会う、と言うより遭う、という感じで、しかし声をかけてしまった。声をかけないという選択肢に思い至るのは、やはりというべきかなんと言えばいいのか、声をかけたあとだった。
「あれ、こんなところでなんですか?僕の恋路を眺めるとかだったら辞めてくださいよ」
「なんだよ。君は僕をそんな悪趣味な人間だと思っているのかい?」
「ええ。」
「頷くなよっ!」
「今日はどうしたんですか?」
「いや、だから……」
懸命な読者諸氏にはもうこの先の展開が読めているかもしれないね。読めてない人は推理してみればいいさ。
ところが僕は馬鹿だった。
「そういえば、昨日はなんだかすいませんでしたね」
「ん?」
「怒ってたんじゃないですか?」
「怒ってなんかいないよ。怒ってなんかいない」
そう、彼女は奇妙に二度繰り返した。
「別に君は気にしなくていいよ。私は魂を頂く立場。君のほうが立場は上だ。」
「へえ、そうなんですか。」
正直に言えば、よくわからなかったので受け流した。
「僕の彼女になる相手、って、誰なんですか?」
「ええ?めっちゃ可愛い子。」
と言われたので、店内を見渡す。しかしがらんとした店内には女性の姿は見当たらない。マスターだけは女性だったけれど(女性のマスターの事をマスターと呼んでもいいのか?)、まさかその人が僕の彼女になるのだろうか?
確かにそのマスターは可愛かった。あの人が僕の彼女になったら……つい妄想が膨らんでしまう。
でも、僕のタイプにドンピシャという程ではない。胸の大きさも足りないし、もっと女の子らしい仕草もして欲しい。
クールよりキュートだろ!?
「……」
昨日の彼女に、白い目で見られた。
「っていうか、女性のマスターの事はミストレスって言うんだよ」
「そ、そうなんですか」
心を読まれてしまった。ってことは、僕の妄想もバレてるんだろうか……?恥ずかしい。
「でもさあ?ミストレスよりもっっと可愛い人が他にいるでしょうよ?」
「はい?女性はこの店内にミストレス…?さん、しかいないように見えますが」
「もう1人ー!」
「……つまりは、どういう事ですか?」
「こういう事よ」
と。
言って。
彼女は僕の唇に、
──唇を──重ねた。
ファーストキスを奪われた。
「ん」
硬直している僕の、唇の中に彼女の舌が入ってくる。
その舌べらのざらついた感触に僕は身構えてしまうのだけれど、すぐにそんなことどうでも良くなってしまった。
目の前の彼女の事と、彼女の唇の事しか考えられなかった。
当然ながら初めての僕は彼女のなすがままで、全く身動きが取れない。
彼女に、一方的にリードされて、僕の舌を舐め尽くされてしまった気分だった。
唇を離した後、彼女は僕の両眼を見つめて、そう言った。
「好きです。──1年間、付き合って……もらえるかな?」
僕は覚悟を決めていたけれど、でもやっぱりどうしようも無かった。っていうか、美しい女性とのキスからの告白って全世界の全男子の憧れじゃねーか。
彼女の瞳は、奥の方が深い赤で、僕は吸い込まれそうになる。一年が経たないうちに魂を取られては叶わない。僕は意を決して。
「はい。」
頷いた。
ちゃんと首が縦に動いたかどうか、自信はない。
もしかしたら顎が僅かに動いただけだったかもしれない。
しかし彼女には伝わったらしかった。
彼女は返答の代わりに、頬を赤らめてはにかんだ。
……可愛かった。
僕は頷いた後も、頷かないという選択肢を考えなかった。
気付いたら、僕は通路で立ちっぱなしだった。入店して、そのままの状態でキスをしてしまったことになる。はっずっ!
彼女には窓際に寄ってもらうことにして、僕たちは並んで座った。
静寂。
僕らは数分間、一言も声を発しなかった。
僕はマスター(ミストレス?)にブラックコーヒーを頼んだけれど、でも彼女に何か喋るのは恥ずかしかった。さっきあんな情熱的なキスをしたばかりで、クールダウンができない。
実際、彼女は顔が真っ赤だった。恐らく、僕も同じだったろう。
沈黙は、僕から破った。
「僕の彼女って、あなたってことでいいですね?」
「君には常識ってものがないの?この後、さらに女性が登場する、なんて展開があると思ってるわけ?」
「別に、そういう訳じゃありませんけど……」
「……」
「……っていうか、あなたって自分のことを可愛いと思ってるんですか?」
「……うっせえ」
ツンデレかよ。いや、……逆? デレツン? ……可愛い。彼女は、ずっと、一言一言で耳まで真っ赤になるものだから、愛らしい。
「僕も、好きです。」
「……?」
「あなたのこと。」
「……」
彼女はその赤みがかった肌をさらに真っ赤にして、机に突っ伏した。
僕は、ちゃんと手紙で言われたとおりに、いろんな質問を用意していたのだけれど、でもそんなのはどうでも良くなった。彼女とは、生や死を問うような重たいテーマじゃなくて、どうでもいい会話がしたかった。なんてことのないカップルで居たかった。
「ねえ聞いて聞いて?私の悪魔ジョーク」
「……わかりました。聞くだけなら」
「悪魔がテーブルに、くまを置きました。そこへとある女子がやってきて、こう言いました。」
「ありがとうございます。もう十分です。っていうか、ジョークやるならオリジナルのにしてください。これってパクリじゃないですか」
「バレた?」
「たまたま、僕も呼んだことがあったもので。黒◯女さんが通る!好きだったなー。」
「おっ!気が合うじゃない黒魔◯さんいいよねー」
「隠せてないです」
「ありゃりゃ」
とか。
「私の特技を披露しまーす。50音をなんでも『悪魔』にして返しまーす」
「や」
「八重歯が唇から覗く悪魔」
「さ」
「悪魔サタン」
「め」
「悪魔メフィストフェレス」
「……ズルくないですか?」
「まあまあ続けて」
「み」
「みいみいなく悪魔」
「……全然駄目じゃないですか」
「ひっどーい」
とか。
……改めて僕らの会話を思い出してみると、ひっどいな。支離滅裂だし、内輪ネタだし、つまんないにもほどがある。
1年後、僕が彼女に殺されるなんてことを忘れてしまったみたいだった。或いは本当に忘れてしまったのかもしれない。
一年ぶりに僕は心から笑えた。ような気がした。
「ねえ、君は私のどこが好きなの?」
「……付き合い始めた初日に聞きますか……」
「そりゃ、悪魔だもの。どこが好きなの?」
「……おっぱい?」
「……」彼女は耳まで赤くなった上で、「何よ疑問形でさ、ボケるなら最後までボケ切れよ」
「赤くなってんじゃないですか、突っ込むなら最初から突っこみ通して下さいよ」
「……むぅ」
かわいい。
「き……昨日のやつか、昨日のやつについて言ってんのか」
「……」
口調が崩れてしまっている。
「あれにはもう触るな。あれは私が悪かった。謝るから、もう触るな。」
『謝る』と言いつつ、殆ど強制だったのだけれど、しかし僕は頷くしかない。
「で、真面目に答えてよ」
「……クールなところ」
「他には?」
「食い気味ですね……お茶目なところ」
「それって褒めてんの?」
「褒めてますよ。そのギャップがすっごい可愛いと思ってます」
「……むぐぅ」
照れてる顔がもーかわいい。
「他には?」
「食い気味すぎません?」
「可愛いところですかね」
「それさっきも言ってたじゃん。」
「それだけじゃなくて、仕草の可愛さとか、外見の可愛さとか、そういうのもですよ」
「嬉しいけど嬉しくなーい」
「どういう……意味ですか?」
「可愛いって褒めてもらえて嬉しいけど、見かけ上のことを言われても嬉しくなーい」
「まあまだ初日な訳ですし……」
「じゃあもっと時間が経ったらもっとたくさん私の好きなところが言えるんだな?」
「……多分……」
「抜き打ちテストやっちゃうからねーだ。覚悟しといてよねっ!」
「……うぐぅ」
「可愛い」
「じゃ、じゃぁ、あなたは僕のどこが好きなんですか?」
「……うぐぅ」
「可愛い」
彼女は首元まで真っ赤だった。
もはや彼女の顔が元々赤かったんじゃなかったんじゃないかと思わされる……というか、元々彼女の肌は日焼けして肌が荒れたみたいなピンク色なんだけれど。
「……うーん、わかんない」
「そんなあ」
「わかんないから、だからこうする」
「はい?」
「はむ」
「えっ?」耳たぶをくわえられた。
「はん」
「あっ?」耳たぶを甘噛みされた。
「全部大好き」
「全部、……ですか?」
「うん。」
僕は、その「全部」という言葉の真意を、あるいは問い質すべきだったのかもしれない。「全部」とはどこまでが全部なのか、と。でも僕はそうしなかった。それによって僕達の関係が変わるというのは考えにくいとも思うけれど。
「そろそろ、帰りませんか?」
「うん、そうだね」
行きは1人──独りだった道を、帰りは2人で歩く。
たったそれだけの違いなのに、隣に人がいるかいないかの違いだけなのに、でも僕に見える景色は全く違って見えた。
──歩く方向が逆になったから、景色が変わったのはそのせいだけなのだろうけれど────
帰り道にも、僕達は色んな話をした。
好きなゲーム、好きな音楽、好きなマンガ、好きな本。
僕達はパズルのピースみたいに、驚く程話が合った。それは必ずしも意見が同じだという訳じゃなくて、僕達は度々議論になった。でも、お互いに議論は好きだった。
「きのこの山派?たけのこの里派?」
「絶対きのこですね。あの独特の質感とか形状とか」
「たけのこでしょーよ!人気度がもう、たけのこの方が圧倒的に上なんだから」
「そうなんですか?でもきのこの方がチョコがたくさん載ってるって話ですよ?」
なんで二人共きのこの山やたけのこの里についてこんなに詳しかったのかは謎だ。
「家まで送りましょう、と言いたいんですけれど…………どこに住んでいるんですか?」
「プライバシーよ」
「そんなあ」
「嘘よ、嘘」
「……。」
「でも、私は悪魔なのよ? 君の理解できるような場所には住んでないわよ」
「僕の理解できない場所……? そんな場所あるんですか?」
「まあ、そうね……異次元空間みたいな物を想像してもらえばいいわ。」
「そうですか……じゃあ行ける所までで良いですよ、ついて行かせてくださいよ」
「それだと私が送って貰うんじゃなくて君を案内する事になっちゃうわよね?」
「……」
「ま、楽しいからいいわ」「まあ、楽しいからいいじゃないですか。」
被った。
僕達は顔を見合わせて、笑った。
──この笑顔で、僕のこの1年間が報われた気持ちになってしまったことは、いい事なのかどうか分からないけれど。
彼女は僕と別れる時に、再び僕の唇にキスをした。
なんで僕は、あくまで仮の彼女に、1年間だけの関係に、こんなに感情移入してしまうんだろう。……とか、そんなことを考えようともせず。僕はとりとめもなく、惚けたように初めてできた自分の彼女の事をずっと考えていた。
僕はベッドじゃなくて布団派だ。貧乏ゆえの負け犬の遠吠えとかじゃない。旅行のときとかにベッドで寝るといつも寝付きが悪いのだ。断じて負け犬の遠吠えではない。わんわん。
僕は自分で布団を干す。
しかし、自分で布団を干すのは一体何年ぶりなんだろう。初めてかもしれない。母親にいつも「布団を干すのくらい自分でやりなさいよ」といわれるのを思い出したから、自分でやった。
ベランダに出ると、朝の空気が心地よかった。ちなみに、そのあと母親には「今日は雨が降るから干しちゃだめ」と言われた。急に活発になった僕に対して、母はなんだか怪訝そうだった。もっと喜んだり、褒めてくれればいいのに。子の心親知らず、とかってやつか?
今日の僕は機嫌が良かった。
布団を干したことは、間接的にだけでなく、直接的にも僕のハッピーに結びついた。布団を干さなければ危なかったと思う。
というのも、布団の下に手紙が埋まっていたのだ。封筒には宛先も送り主の名も無かった。封もされていない。買ったままの状態、という感じだった。しかし、誰からの手紙かは想像が付く。
僕はなんだか勿体無くて朝ご飯のあとまで開けないことにした。
僕は朝ご飯をダイニングで食べた。
父親の仕事について僕は殆ど知らないのだけれど、とにかく朝が早い仕事なので、既にダイニングにはいなかった。
しかし、妹がダイニングにいた。
「ああっ‼‼お兄ちゃん!」
いい年をして僕のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ妹のことを、まあ僕は大好きなんだけど、でもどうかしてると思うときもある。
「食卓でご飯食べるのなんて久しぶりじゃん!一年ぶりとか?なに、1年ぶり記念?」
妹はちょっとウルっと来てしまったようだった。
そういう所が、僕はどうかしてると思うのだけれど。人がダイニングでご飯を食べるだけで泣かれちゃ僕は碌にご飯すら食べられない。
「今日は学校に行くの?」
妹は無理に自然を装ってそう尋ねた。けれど、僕がダイニングで食事をしたくない理由の1つがその質問である事を、妹は知っているんだろうか?
僕は今日から数えて、丁度1年前から、学校に通っていないのだった。簡潔にいえば不登校。
もちろん、僕が不登校になった理由というか、キッカケはちゃんと有るのだけれど、それを僕の自分勝手だと言うのも正しいと思う。
でも、家族には、妹には言われたくなくて、僕はダイニングに降りてこないのだ。
では今日なぜダイニングで食事をしたかと言うと、気分、ということしか出来ない。昨日の経験が強烈すぎて、別の人とコミュニケーションしないとやってられない、って感じだったのでは無いかと思う。
僕は妹の問いかけに、
「行かない」
とだけ答えて、自分の部屋に戻った。
僕は自分の部屋に戻って、封のされていない封筒(これって、封筒と呼んでもいいのか?)を開く。
しかし、……僕は今日明らかにテンションがおかしい。昨日のせいだとしたら、しかし昨日のことは「お前の余命は1年だ」という決定であり、寧ろ僕は嘆いたり落ち込んだりすべきな筈である。謎に構ってはいられない。ましてその謎は僕の感情に関する謎である。考察するだけ無駄である。それより、この封筒の中身を確認しよう。
思ったよりたくさんの紙が入っている。4枚くらいあるか?
とりあえず、もともと布団が敷いてあった所にぶちまける。
便箋が二枚と、領収書みたいなやつと、地図が出てきた。
とりあえず、便箋を読む。
文字がうまいと思った。
その便箋は手書きだったのだけれど、落ち着いていて、丁寧で、安心感がある文字だった。利発で聡明な印象を受ける。女性の字であることは間違いないが、昨日の彼女だろうか?しかし彼女がこれを書く姿、というのは想像し難い。なにせ裸なのだ。全裸でこんなきれいな文字が書けるものか。
書いてあった内容を全部書いてもいいのだけれど、しかしそれをやると話が長くなりすぎてしまうだろうから自粛する。
箇条書きで要約すると、二枚の便箋に書いてあったのは、
・君の彼女になるべき人はある喫茶店でまっている。喫茶店の位置は地図に書いてある。
・千万円については、あとで銀行の専用の口座に振り込む。詳細は別途の資料にある。
・質問は喫茶店で待っている君の彼女に聞くように。
ということであるのだけれど、こんなことのために便箋二枚をびっしり埋められるだなんて一種の才能だろう。
まあ、話の脱線が酷かっただけなんだけど。(あの話の内容で「DVDってドメスティック・バイオレンス・ランクDの略なんだって」とか、「幼女と童女と少女の違いって何か知ってる?」とかってそれ方でそれるなんて、只者ではない。そして、西尾維新のファン度も只者ではない。いや、だからまた伝わらない)
僕は全力で体を洗い、顔を洗い、親が去年買ってくれたのにそのままになっていた新品のシャツを着た。
そして大急ぎで、地図に示されている喫茶店へ行くべく、駅を目指した。
僕の最寄り駅から電車に乗ろうと券売機に向かったところで、気付いてしまった。僕はお金を持っていなかった。
その場でくずおれた僕は暫く呆けていたのだけれど、まあそのままでいても埒が開かない。再び僕は家へ帰り、母親の追及を大胆に全部無視して、今度はちゃんと持ち物を確認して、家を出た。
以降その喫茶店に辿り着くまでに特筆すべき点はない。
普通に、なんの不都合もなく喫茶店まで辿りついた。
一年間の空白があっても電車は、或いは世の中は何も変わらないだなんて、喜ぶべきなのかどうなのか。
しかしそもそも僕が降りた駅は僕の知らない駅だった。新しい駅、というふうには見えないからただ利用したことがないだけだろう。そもそも一年間では新しい駅なんて作れないのか。と、合点して、指定の喫茶店に向かった。
楽しみだった。
人生はじめての彼女とはどんなひとなんだろう。
僕が一年後に死ぬだけで、可愛い彼女が手に入る。夢みたいな体験じゃないか。あくまで能動的に、僕は幸せを享受できるのだ。
喫茶店の中に入った時ふと不思議に思ったのは、僕は彼女の顔を知らない。席も知らない。一体どの席へ座ればいいんだろう?
僕は知っている顔を見つけて、とりあえず話をすることにした。知っている顔、とは、まあ読者諸氏の大方の予想通り、昨日の彼女だ。
思わず二度見してしまった。彼女の第一印象が全裸だから、服を来ている姿を想像するのは難しかったのだけれど、なるほど、可愛かった。
ああ。僕は彼女の外見を表現する時「可愛い」を濫用してしまう。これじゃ僕は彼女に恋をしているみたいじゃないか。僕はこれから一年間の交際相手に会うというのに、これじゃ駄目だ。僕は彼女に会う、と言うより遭う、という感じで、しかし声をかけてしまった。声をかけないという選択肢に思い至るのは、やはりというべきかなんと言えばいいのか、声をかけたあとだった。
「あれ、こんなところでなんですか?僕の恋路を眺めるとかだったら辞めてくださいよ」
「なんだよ。君は僕をそんな悪趣味な人間だと思っているのかい?」
「ええ。」
「頷くなよっ!」
「今日はどうしたんですか?」
「いや、だから……」
懸命な読者諸氏にはもうこの先の展開が読めているかもしれないね。読めてない人は推理してみればいいさ。
ところが僕は馬鹿だった。
「そういえば、昨日はなんだかすいませんでしたね」
「ん?」
「怒ってたんじゃないですか?」
「怒ってなんかいないよ。怒ってなんかいない」
そう、彼女は奇妙に二度繰り返した。
「別に君は気にしなくていいよ。私は魂を頂く立場。君のほうが立場は上だ。」
「へえ、そうなんですか。」
正直に言えば、よくわからなかったので受け流した。
「僕の彼女になる相手、って、誰なんですか?」
「ええ?めっちゃ可愛い子。」
と言われたので、店内を見渡す。しかしがらんとした店内には女性の姿は見当たらない。マスターだけは女性だったけれど(女性のマスターの事をマスターと呼んでもいいのか?)、まさかその人が僕の彼女になるのだろうか?
確かにそのマスターは可愛かった。あの人が僕の彼女になったら……つい妄想が膨らんでしまう。
でも、僕のタイプにドンピシャという程ではない。胸の大きさも足りないし、もっと女の子らしい仕草もして欲しい。
クールよりキュートだろ!?
「……」
昨日の彼女に、白い目で見られた。
「っていうか、女性のマスターの事はミストレスって言うんだよ」
「そ、そうなんですか」
心を読まれてしまった。ってことは、僕の妄想もバレてるんだろうか……?恥ずかしい。
「でもさあ?ミストレスよりもっっと可愛い人が他にいるでしょうよ?」
「はい?女性はこの店内にミストレス…?さん、しかいないように見えますが」
「もう1人ー!」
「……つまりは、どういう事ですか?」
「こういう事よ」
と。
言って。
彼女は僕の唇に、
──唇を──重ねた。
ファーストキスを奪われた。
「ん」
硬直している僕の、唇の中に彼女の舌が入ってくる。
その舌べらのざらついた感触に僕は身構えてしまうのだけれど、すぐにそんなことどうでも良くなってしまった。
目の前の彼女の事と、彼女の唇の事しか考えられなかった。
当然ながら初めての僕は彼女のなすがままで、全く身動きが取れない。
彼女に、一方的にリードされて、僕の舌を舐め尽くされてしまった気分だった。
唇を離した後、彼女は僕の両眼を見つめて、そう言った。
「好きです。──1年間、付き合って……もらえるかな?」
僕は覚悟を決めていたけれど、でもやっぱりどうしようも無かった。っていうか、美しい女性とのキスからの告白って全世界の全男子の憧れじゃねーか。
彼女の瞳は、奥の方が深い赤で、僕は吸い込まれそうになる。一年が経たないうちに魂を取られては叶わない。僕は意を決して。
「はい。」
頷いた。
ちゃんと首が縦に動いたかどうか、自信はない。
もしかしたら顎が僅かに動いただけだったかもしれない。
しかし彼女には伝わったらしかった。
彼女は返答の代わりに、頬を赤らめてはにかんだ。
……可愛かった。
僕は頷いた後も、頷かないという選択肢を考えなかった。
気付いたら、僕は通路で立ちっぱなしだった。入店して、そのままの状態でキスをしてしまったことになる。はっずっ!
彼女には窓際に寄ってもらうことにして、僕たちは並んで座った。
静寂。
僕らは数分間、一言も声を発しなかった。
僕はマスター(ミストレス?)にブラックコーヒーを頼んだけれど、でも彼女に何か喋るのは恥ずかしかった。さっきあんな情熱的なキスをしたばかりで、クールダウンができない。
実際、彼女は顔が真っ赤だった。恐らく、僕も同じだったろう。
沈黙は、僕から破った。
「僕の彼女って、あなたってことでいいですね?」
「君には常識ってものがないの?この後、さらに女性が登場する、なんて展開があると思ってるわけ?」
「別に、そういう訳じゃありませんけど……」
「……」
「……っていうか、あなたって自分のことを可愛いと思ってるんですか?」
「……うっせえ」
ツンデレかよ。いや、……逆? デレツン? ……可愛い。彼女は、ずっと、一言一言で耳まで真っ赤になるものだから、愛らしい。
「僕も、好きです。」
「……?」
「あなたのこと。」
「……」
彼女はその赤みがかった肌をさらに真っ赤にして、机に突っ伏した。
僕は、ちゃんと手紙で言われたとおりに、いろんな質問を用意していたのだけれど、でもそんなのはどうでも良くなった。彼女とは、生や死を問うような重たいテーマじゃなくて、どうでもいい会話がしたかった。なんてことのないカップルで居たかった。
「ねえ聞いて聞いて?私の悪魔ジョーク」
「……わかりました。聞くだけなら」
「悪魔がテーブルに、くまを置きました。そこへとある女子がやってきて、こう言いました。」
「ありがとうございます。もう十分です。っていうか、ジョークやるならオリジナルのにしてください。これってパクリじゃないですか」
「バレた?」
「たまたま、僕も呼んだことがあったもので。黒◯女さんが通る!好きだったなー。」
「おっ!気が合うじゃない黒魔◯さんいいよねー」
「隠せてないです」
「ありゃりゃ」
とか。
「私の特技を披露しまーす。50音をなんでも『悪魔』にして返しまーす」
「や」
「八重歯が唇から覗く悪魔」
「さ」
「悪魔サタン」
「め」
「悪魔メフィストフェレス」
「……ズルくないですか?」
「まあまあ続けて」
「み」
「みいみいなく悪魔」
「……全然駄目じゃないですか」
「ひっどーい」
とか。
……改めて僕らの会話を思い出してみると、ひっどいな。支離滅裂だし、内輪ネタだし、つまんないにもほどがある。
1年後、僕が彼女に殺されるなんてことを忘れてしまったみたいだった。或いは本当に忘れてしまったのかもしれない。
一年ぶりに僕は心から笑えた。ような気がした。
「ねえ、君は私のどこが好きなの?」
「……付き合い始めた初日に聞きますか……」
「そりゃ、悪魔だもの。どこが好きなの?」
「……おっぱい?」
「……」彼女は耳まで赤くなった上で、「何よ疑問形でさ、ボケるなら最後までボケ切れよ」
「赤くなってんじゃないですか、突っ込むなら最初から突っこみ通して下さいよ」
「……むぅ」
かわいい。
「き……昨日のやつか、昨日のやつについて言ってんのか」
「……」
口調が崩れてしまっている。
「あれにはもう触るな。あれは私が悪かった。謝るから、もう触るな。」
『謝る』と言いつつ、殆ど強制だったのだけれど、しかし僕は頷くしかない。
「で、真面目に答えてよ」
「……クールなところ」
「他には?」
「食い気味ですね……お茶目なところ」
「それって褒めてんの?」
「褒めてますよ。そのギャップがすっごい可愛いと思ってます」
「……むぐぅ」
照れてる顔がもーかわいい。
「他には?」
「食い気味すぎません?」
「可愛いところですかね」
「それさっきも言ってたじゃん。」
「それだけじゃなくて、仕草の可愛さとか、外見の可愛さとか、そういうのもですよ」
「嬉しいけど嬉しくなーい」
「どういう……意味ですか?」
「可愛いって褒めてもらえて嬉しいけど、見かけ上のことを言われても嬉しくなーい」
「まあまだ初日な訳ですし……」
「じゃあもっと時間が経ったらもっとたくさん私の好きなところが言えるんだな?」
「……多分……」
「抜き打ちテストやっちゃうからねーだ。覚悟しといてよねっ!」
「……うぐぅ」
「可愛い」
「じゃ、じゃぁ、あなたは僕のどこが好きなんですか?」
「……うぐぅ」
「可愛い」
彼女は首元まで真っ赤だった。
もはや彼女の顔が元々赤かったんじゃなかったんじゃないかと思わされる……というか、元々彼女の肌は日焼けして肌が荒れたみたいなピンク色なんだけれど。
「……うーん、わかんない」
「そんなあ」
「わかんないから、だからこうする」
「はい?」
「はむ」
「えっ?」耳たぶをくわえられた。
「はん」
「あっ?」耳たぶを甘噛みされた。
「全部大好き」
「全部、……ですか?」
「うん。」
僕は、その「全部」という言葉の真意を、あるいは問い質すべきだったのかもしれない。「全部」とはどこまでが全部なのか、と。でも僕はそうしなかった。それによって僕達の関係が変わるというのは考えにくいとも思うけれど。
「そろそろ、帰りませんか?」
「うん、そうだね」
行きは1人──独りだった道を、帰りは2人で歩く。
たったそれだけの違いなのに、隣に人がいるかいないかの違いだけなのに、でも僕に見える景色は全く違って見えた。
──歩く方向が逆になったから、景色が変わったのはそのせいだけなのだろうけれど────
帰り道にも、僕達は色んな話をした。
好きなゲーム、好きな音楽、好きなマンガ、好きな本。
僕達はパズルのピースみたいに、驚く程話が合った。それは必ずしも意見が同じだという訳じゃなくて、僕達は度々議論になった。でも、お互いに議論は好きだった。
「きのこの山派?たけのこの里派?」
「絶対きのこですね。あの独特の質感とか形状とか」
「たけのこでしょーよ!人気度がもう、たけのこの方が圧倒的に上なんだから」
「そうなんですか?でもきのこの方がチョコがたくさん載ってるって話ですよ?」
なんで二人共きのこの山やたけのこの里についてこんなに詳しかったのかは謎だ。
「家まで送りましょう、と言いたいんですけれど…………どこに住んでいるんですか?」
「プライバシーよ」
「そんなあ」
「嘘よ、嘘」
「……。」
「でも、私は悪魔なのよ? 君の理解できるような場所には住んでないわよ」
「僕の理解できない場所……? そんな場所あるんですか?」
「まあ、そうね……異次元空間みたいな物を想像してもらえばいいわ。」
「そうですか……じゃあ行ける所までで良いですよ、ついて行かせてくださいよ」
「それだと私が送って貰うんじゃなくて君を案内する事になっちゃうわよね?」
「……」
「ま、楽しいからいいわ」「まあ、楽しいからいいじゃないですか。」
被った。
僕達は顔を見合わせて、笑った。
──この笑顔で、僕のこの1年間が報われた気持ちになってしまったことは、いい事なのかどうか分からないけれど。
彼女は僕と別れる時に、再び僕の唇にキスをした。
なんで僕は、あくまで仮の彼女に、1年間だけの関係に、こんなに感情移入してしまうんだろう。……とか、そんなことを考えようともせず。僕はとりとめもなく、惚けたように初めてできた自分の彼女の事をずっと考えていた。