第1話

文字数 4,819文字

「あなたの魂と引き換えに、あなたのどんな願いでも3つ叶えてあげる」
 彼女は言った。

 僕は平均的な高校生であり、強いて言うと、オカルトの類いは苦手だ。
 中学生の妹が一人いるけれど、まあ思春期の兄妹のご多分に漏れず没交渉だ。
 特筆すべき点とすれば、僕のスマートフォンは受験に向けて、解約されてしまったことがある。まだ受験学年じゃないのに、親は気が早くて困る。せっかちなのだろう。
 だから、僕はLINEもやらない。LINEをやらないなんていうのはもしかしたら少数派かもしれないが、でもスマートフォンを持っていないことによるメリットも、きっとあるんだろうと思う。
 例えば、それは僕をオカルトから遠ざける。

 さて、それを踏まえていただいたところで。
 風呂に行こうと思って部屋から出た僕の目の前には彼女が、立っていた。
 この場合の彼女というのはあくまで女性を示す三人称であって、交際相手を表す彼女という言葉ではない。それどころか、僕は付き合ったことが無い。
 自分で言うのもなんだけど、僕は人一倍性欲が強いと思う。だから女子と付き合うことにはかなり興味があるのだけど、それなのあに、或いはそれ故に、全くモテないのだ。

 彼女は美しい造形をしていた。黒い髪は艶かしく、廊下の照明の光を反射して輝いている。顔の輪郭はくっきりとしていて、高めの、しかし主張しすぎない鼻を中心に完全な左右対称だった。細い目には、瞳孔の中に深い赤い色が見える。薄い赤みががった肌に映える色だった。首筋は特に白っぽくて、その色はどこか弱々しくも見える。スタイルのいい、整った細い体から露わになった胸はどこか所在なさげに見えるが、しかし女性経験の無い僕でも分かるぐらい大きい。
 そして、彼女は全裸だった。
「は?」

「あなたの魂と引き換えに、あなたのどんな願いでも3つ叶えてあげる」
 彼女は再び繰り返した。
「とりあえず、部屋に入ってください。」
 僕は、全裸の女性と自分の部屋の前で話しているところを他人に見られる可能性を危惧して、彼女を部屋に入れた。
 今思えば、彼女を部屋に入れてしまったことこそ、僕の一年間の最初の失敗であり、ここで彼女を追い出せていれば、110番通報でもしていられたら、僕の一年間は全く違うものになっただろうことは想像に難くない。
 運命というものを信じているらしい彼女からしてみれば、どんな選択をしても最後の結果は変わらないというのかもしれないけれど。
 しかし僕はその美しい彼女を追い出すという選択を、思いつけなかった。
 誰にも見られていないことを確認するように、僕はドアから顔を出してキョロキョロと見回す。
 しかしこの家には今、僕しかいなかった。両親は共働きだし、妹は学校だ。
「何なんですか?」
 僕は尋ねた。動転していて質問にとりとめがなかったとは思うけれど、しかし突然に美しい全裸の女性がやってきて、正気を保てるほうがどうかしている。
「悪魔の契約をしに来たの。あなたの魂と引き換えに……」
 またその文言を繰り返そうとする彼女を制止して、僕は再び尋ねた。
「意味がわかりません。そもそも、あなたは誰なんですか?」
「悪魔よ」
「……悪魔?」
「ええ、悪魔よ。君も、私のことは悪魔、と呼んでくれていいわ」
「……」
 全く意味がわからない。埒が明かない。固有名詞は?悪魔は一般名詞で、具体的な固有名詞もあるんじゃないのか?
 そんな疑問は、尋ねてもなんの意味もないだろうと、心の中に秘めておくことにした。尋ねたところで答えてはくれそうにないし。
 また、彼女の人間離れした美しさや少し変わった肌の色は、悪魔であることの証左であると納得したーー納得してしまった。僕は、悪魔と名乗る彼女の実在を納得してしまったーー
「よろしく」
「……」
 僕は、悪魔が差し出した手に、無言で手を重ねた。
 悪魔の手は暖かった。
 彼女が人ならざるものと判明しても、しかし初めて女性に触れた経験は僕の童貞心をくすぐる。
「にゃ。私の胸に興味ある?触りたいの?」
「い、いえ?そんなことないですけど」
「ふふっ」
 彼女の微笑みは、僕の心を暖かく融かし、解きほぐされているような錯覚を覚えた。
「3つの願い。何がいい?」
 僕は今、悪魔と契約しようとしている。
 悪魔と契約という事例は、世界には意外とあるのだと言う。大体の場合、天才が早死をすると、それは悪魔のせいだ、ということになるのだ。天才性は悪魔によって与えられたものであり、契約期間が終わったからその天才は死んだのだ、と。
 しかしそれは凡人の天才への僻みだったり、異端を軽蔑する宗教キャンペーンだったりで、本当にそんな契約があるはずはない。無いはずなのに、しかしここには悪魔がいて、契約を迫ってくる。
「と、とりあえず服を着てください。服を」
 結論を出すのを先送りにするために、僕は彼女に服を着せようとした。
「えー。でも、持ってなーい」
 確かに、彼女は手ぶらだったけれど、悪魔には物質具現化能力とか、無いのか?
「じゃあ僕の服でいいですか」
「えー。ってことは、君は年上おねーさんの素肌に直接触れたズボンをこれから一生履くのかい?」
「……」
 僕は無言で怒っているアピールを試みたが、伝わらなかったみたいだ。彼女は悪びれる風もなく、淫らな全裸を見せつけてくる。
「じゃ、じゃあ」
 僕の部屋は我が家の二階にあって、バスルームは一階なので面倒なのだが仕方ない。
「これでどうですか」
 僕はバスルームからバスタオルを持ってきて、ぐるぐる巻きにしてやった。
「ちょっと、これキツくない?」
「さっきの仕返しですよ」
「言葉に暴力で対処するなんて、卑怯だぞ」
「言葉の暴力というのもありますし、……っていうかキツイなら巻き直せばいいでしょう」
「うーん」
 彼女がバスタオルを脱ぎだしたので、僕は後ろを向く。
「大丈夫だよー」
「ひ、ひぃっ!」
 悪魔は、あろうことか大胆なポージングで挑発的に僕を見上げていた。渡したバスタオルは、扇情的に僕の興奮を刺激するばかりで、彼女の大事な所を隠すために全く機能していない。
「女子の全裸ぐらいで、そう怖がるなってドーテー」
「童貞だろうがでなかろうが怖いですよ!」
 喋っているうちに、彼女はバスタオルを巻き直し終わった。
 ……しかし、彼女の胸はタオルによって寧ろ強調されてしまった感すらある。目のやり場に困る。 大体、なんで僕が童貞前提で話を進めるんだよ。
「でも事実でしょ?っていうか初体験が高校生は少数派でしょ」
「もしかしたら僕は少数派かもしれませんよ⁉」
「多数派でしょ」
「そうですけど!」
 楽しかった。久しぶりに、他人とのコミュニケーションをした。しゃべる相手が悪魔だろうと、楽しいものは楽しかった。
「君って、真顔怖いよね」
「そうかもしれませんけど、だったらなんですか?」
「いや、別に……でも、なんだか思いつめている、みたいな。そんな印象を受けるよ」
「そうですかね」
 それはなかなか斬新な見方だ。この一年間の間に、僕の印象はそんなふうに変化してしまったのか。
「今にも自殺しちゃいそうで、怖い」
「自殺、ですか……」
 なんだか、彼女のその何気ないセリフは、僕の心の深い部分を抉った気がした。でもそれだってきっと錯覚だろう。実際、彼女はそのセリフを本当になんの意味もなく言ったみたいだし。
「で?願いは何かな?3つだよ?」
 後回しにした僕の願いを、決断しなければならない。
「願い事の条件はなんですか?」
「うーんと、……常識でわかるっしょ?」
「…………じゃあ、魂を抜き取られるのはいつですか?」
「願いが叶い終わった時点または契約が成立してから24年経った時に、君は私に魂を抜き取られるわ。だから、24年以上かかる願いは聞けないわよ?」
「……そうですか。」
「決めたかしら?3つだけよ?」
「……」僕は頷いた。
「まず一つ目は、お金が欲しいです。」
「ふむ。いくら?」
「1000万円」
「あら。君の人生はまだ24年もあるのに、1000万円だけ?謙虚である必要はないのよ?」
「僕の人生は24年もありませんし、謙虚でもありませんよ。」
「ふうん?」
「まあ、多すぎるお金は却って身を滅ぼしかねませんし。」
「あー。……」
 彼女は実例を知っているのか、二度三度、繰り返し頷いた。
「次に、一年間、彼女がほしいです。」
「へえ…………。どんな?」
「可愛い娘がいいです」
「そりゃそうだろうね。はははっ」
「……」馬鹿にされているような気がする。
「一生童貞、恋愛経験ゼロでは終わりたくないって?」
「まあ、……そうですね」
 実際、僕の動機なんてその程度しか無かった。
「でも、なんで一年間?」
「24年間も付き合ったら、僕がきっと彼女に飽きてしまうから、あんまり長い期間は付き合いたくないんですよ」
「それは、なんだか謙虚、というより卑屈だね」
「よく言われますよ」
「最後の願いは?」
「最後の願いは……」僕は、噛みしめるように、彼女のセリフを復唱する。
「僕を、殺してください。できれば、あなたに殺してほしい。」
「…………」
 彼女は長いこと沈黙していたが、最後に、小さく頷いた。どうやらそれは、同意のサインだったらしい。
 意外なことに、3つ目の願いについて彼女は僕に何も聞かなかった。
「他に、細かい要求があれば、3つの文面に書き足せるよ?修正したいとこがあったら、何でも言っていいんだよ?」
「…………」
「なんでもいいよ、何か無いの?」
「……あ、僕を殺すの……」
「うん」
「最後ですよ?」
「うん?」
「他の2つが遂行される前に殺さないでくださいよ?残る僕の彼女を悲しませないで下さいよ。」
「何言ってんのさ。当たり前じゃん。君には常識とか無いの?」
「酷くないですか……?」
「さて、契約の発効日はいつがいいかな?今日?それとも明日?大学受験が終わるまで待っててあげてもいいよ?」
 話を強引に変えられてしまった。
「明日、で、お願いします。」
「まいどありいっ!」
 バスタオルにくるまれた悪魔は、破顔した。
「じゃあ、契約を確認しましょー。」
「……」
「君は、私に、一年と一日後魂を差し出す。その代わり、私は君に明日、1000万円と可愛い彼女を差し出すし、一年後、私は君を、殺す。」
「ええ、必ず殺してくださ……」

 彼女は、あっけなく消えた。現れるときもさるときも、唐突な彼女だった。──その唐突な消え方は、なんだか、僕が「殺して」と言ったことに反応して怒ったみたいに感じられた。悪魔のくせに、人殺しについては臆病なんだろうか。だとしたら、なんだか悪いことをしたかな、と罪悪感も覚えた。
 彼女が帰ってから……彼女が消えてから、唐突に僕はあの契約を「しない」という選択肢を思いついた。
 僕は別に、死ぬ必要はなかった、と気付いた。しかし、当然ながら後悔はなかった。どこまで情報を聞こうと、どんな冷静になっても、僕はあの契約をしただろうし、願いの内容はあれだっただろうと思う。
 まあ、どうせ契約をしないという選択肢は、「常識的」に駄目だろう。
 僕は一年ぶりに家の外へ出た。
 ドアを開けると、窓越しにではない本物の太陽と青空が見えた。
 彼女に刺された言葉の傷跡が、再びチクリとする。
 自分でもなぜだかわからなかった。
 庭を出て、道路をキョロキョロと見回す。

 遠くの方に、全裸の女性が歩いていたような気がした。
 僕は110番しなくては、と身構えたのだけれど、瞬きしたらいなくなってしまった。

 不思議なことに、僕は今日がとても楽しかった。

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登場人物紹介

「僕」


名前:非公開

年齢:非公開

経歴:非公開

職業:非公開

誕生日:非公開

血液型:非公開

属性:引きこもり

「彼女」


名前:非公開

年齢:非公開

経歴:非公開

職業:非公開

誕生日:非公開

血液型:非公開

属性:悪魔

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