第3話

文字数 3,398文字

 ある日、彼女は──この場合の彼女は即ち悪魔を名乗り、僕と契約したあの彼女であり、交際相手の彼女だけれど、この場合は単に三人称の、英語で言うSHEの彼女だーー予告なく家に来た。
 どうやら彼女は「まとも」にも来れるらしく、インターホンを押しての来訪だった。
 勿論、彼女が来たのは妹も両親も居ない平日の昼間のことだし、服も着ていた。
「ねえ。ふたりで、どっか行こうよ。」
 彼女は僕に、妖しく、艶かしく囁いた。ーー悪魔みたいに。
「いろいろ行きましたけど……遊園地も、水族館も……」
 もう既に契約の期間は半分くらい経っていて、それはつまり僕達の関係はもう半年も続いているという事で。
 デートの時、僕は彼女の提案をすべて呑んできた。僕は女性経験が全く無いから、何処に行けばいいのか全く分からないので、彼女に任せるしかないのだ。
 今度の彼女の提案も、よっぽどのことがない限り受け入れるだろう。
「違うわよ。遠出しよう、ってことだよ」
「遠くですか……」
 実は、僕は自分の住んでいる県から一歩も出たことがない。親が忙しい職業だったから、あまり遠くに旅行できなかったのだ。
 友達も乏しくて、旅行どころか一緒にご飯に行った事すらほとんど無い。
 唯一、僕と一緒に旅行に行ったあいつは──
 いや、こんな話、彼女のその楽しげな表情に対して失礼だ。
 今の彼女はその赤みがかった顔を更に上気させていて、興奮しているのがよく分かる。

 という訳で、ろくに旅行に行ったことの無い僕だから、彼女との旅行に期待していなかったといえば嘘になる。……いや、交際相手と旅行に行くのに期待しないほうがどうかしている。
「楽しそうですね」
「でっしょー?で、だから四泊五日くらいでさ」
「そうですね……」
 ずいぶん長いな、と思ったが、まあ言うのは控えておいた。僕が知らないだけで、泊まりの旅行っていうのはそのくらい長い期間行くのがあ普通なんだろうと思った。
 僕は一千万円をもらって半年ほど経つものの、未だに四分の一も使えていなかった。このへんで、豪遊しちゃってもいいな。
「じゃあ、どこに行きますか?」
「じゃあ……僕は旅行とかしたことないので、決めてもらってもいいですか?」
 話は割とサクサク進んだ。彼女はどうやら、自分が乗り気な時は話を脱線させないでいてくれる。とすると、あの手紙は全然乗り気じゃなかったってことなのだろうか?確かに、ああいう「伝えなければいけないことが決まっている文章」は彼女が苦手としそうな文章である。
 というか、僕が旅行のことを全く知らなかったせいで彼女の言いなりになってしまったせいなんだけれど。
「予算は幾らにすればいい?」
「とりあえず、僕から出せる予算は最大で……50万円くらいですかね」
「よおっし。じゃあ一応聞いとくけど、どこ行きたい?」
「一応……? まあ僕は近場……そうですね、伊豆とかがいいです」
「却下」
「えっ!?否定早くないですか?」
「じゃあ私が決めるからね」
「い、一応ってそういう意味だったんですね……こっわ……」
「むぅ」
「ま、でも僕が自分で、あなたに決めてって言ったんだもんな……」
「そうよ、悪いのはそっちー」
「悪い悪くないの話ですかね……?」
「ふふっ」
 彼女は微笑んだ。彼女の肌は、悪魔だからなのか、赤みがかっていて、薄い桃色をなのだ。
 それが彼女の儚げな印象を際立たせる。
 ……と、いうわけで僕達の行先はハワイになった。

 なるはずだった……。

 翌週。

「いやいやちょっと待てよ待てよ待てよ待てよ待てよ待てよ待てよ」
「口調口調」
「す、すいません……」
 なぜ僕が謝ったんだ? ここで謝るべきは僕じゃなくて、……
「うん。私達はハワイに行くことになってて、そしてハワイには行けない。」
「分かんない分かんない二重に分かんない分かんないの二乗だよ」
 なんで、ハワイなの?
 なんで、行けないの?
「…………ごめんなさいっ!」
「…………謝る前に、説明してもらえますか……?」
「私達はハワイに行こうとしていたのよ。」
「えっと……僕の意見は……? 僕は近場でって言ったのに……」
「まあまあ」
「それで、どうしたんですか?」
「ごめんなさいっ‼」
「……いや、だからよくわかんないんですけど、まだ僕は「ハワイに行けない」ってことしか分かってないんですけど。もっとちゃんと説明してくださいよ?」
「ハワイの出発日を、1週間間違えてたの!」
「……というと?」
「ハワイに本来行くべきだった日は一週間前だったのよ」
「……忘れてたとですか?」
「博多弁なの? ……いや、いまさっきまで「早くハワイに行きたいな〜」って思ってた……ついさっき航空券を見て愕然としたくらい……だし……」
 彼女は本当に辛そうだった。彼女の真紅の瞳孔はいかにも申し訳なさそうに細く、俯いた彼女の顔は、なんだかくすんだ色をしているように見えた。
 僕は早く彼女が薄いピンク色の笑顔をしてほしいと思った。
 実際は辛いのはお金を出した僕なのだけれど……でも彼女の辛そうな顔を見ていると、僕の辛さは大した事無いんじゃないかと言う気がしてくる。
 ……あ、そうだよお金はいくら戻ってくるんだ?
「50万円、全額返すよ……私にだって、人間世界の貯金はあるもの……」
 ああ、これは悪魔ゆえなのか? これが小悪魔ってやつなのか?
 小悪魔は人間がやってるやつか……
 彼女の哀れな声が、仕草が、僕をくすぐる。くすぐられて、今にも泣き出してしまいそうだ……
 こっちはつられ泣きなんて柄じゃ無いのに。僕としては、ここで男気を見せなければ。
「……別に、あなたの貯蓄から出す必要はありませんよ。これ以上気にしないで。全部忘れても大丈夫」
「ううっ。……ありがとう」
 その、大きめの瞳を潤ませて上目遣いに見る彼女の視線に、これ以上怒ることのできる人間など皆無だろう。それができる奴は悪魔だ。……彼女も悪魔なんだけれど。
「だ、大丈夫ですか? とりあえず、いくら残ってるんですか?」
「……20万円くらい。」
 半分以上残っていないのか……まあ、いい。
「いいですよ。どうせ、僕のお金はあなたにもらったものなわけですし。」
「それは、つまり、あなたの命引き換えに、なのに……」
 彼女のその嗚咽混じりの声を聞いていると、僕の声も詰まりそうになる。彼女もまだ泣いていないのに、僕が泣きそうだ。……いや、30万円を溝に捨ててしまったら、泣くのが普通なのか?
「いいんですよ。別に、僕は3つ目の願い以外、要りませんし……」
「ううっ……ううっ、……」
 なんで彼女が泣いたのか、女性経験の無い、というか男女問わず交友範囲のほぼ無い陰キャの僕には全く分からなかった。
 とにかく、僕に分かるのは彼女が泣いているという事実だけだ。
 彼女が悲しくて泣いているにしろ、嬉しくて泣いているにしろ、怒って泣いているにしろ、それ以外の何かにしろ、泣いている人のそばに誰かがいるべきだ、ということも僕は知っている。
 だから、僕は彼女の左肩に左手を伸ばした。
 そして、そのまま彼女を抱き寄せた。
「なにも、心配はいらないんですよ。旅行はまた今度行けばいいんですし、お金はまだ余っています。なに、僕は僕の親に養ってもらっているわけで、たとえ一年の途中で1000万円が尽きても問題はないんですし。」
 と、言おうと思って、辞めた。
 もし僕が思っているのと、全く違う理由で彼女が泣いているんだとして、彼女のフォローをしようとしてもし彼女を余計に傷つけてしまったら……と、怖くなったのだ。
 だから僕はその内容を思うだけに留めて、彼女を僕の左胸に押し付けるようにしてそれに代えた。

 唐突に、彼女は消えた。
 僕は彼女の重さを失って、座っていたソファから転げ落ちた。
 これじゃ、僕が支えられていたみたいじゃないか、と馬鹿らしくなって、そのあとソファに再び這い上がって、横になった。
 なんで、帰っちゃったんだろう? と考えていたら、僕の妹が帰ってくる時間だった。
 家に知らない女性が上がり込んでたらまずいか……でも、挨拶くらいしてくれればよかったのに……
 気付くと僕は眠っていた。
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登場人物紹介

「僕」


名前:非公開

年齢:非公開

経歴:非公開

職業:非公開

誕生日:非公開

血液型:非公開

属性:引きこもり

「彼女」


名前:非公開

年齢:非公開

経歴:非公開

職業:非公開

誕生日:非公開

血液型:非公開

属性:悪魔

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