第6話

文字数 7,291文字

 ────残酷にも、冷酷にも、時間は過ぎる。
 或いは、幸福という名の悪夢を届けに、時間は巡る。

 薄暗い照明の元で、彼女は、自分の前に短刀を置いて、僕のことを見つめた──



 僕たちの間に起こった、いくつかの報告。
 この1年間に、色んなことがあった。
 僕にとって印象深いのは、学校に行ったことだ。
 それはある日の事。今回の「ある日」については、一体いつなのか覚えが無いのだけれど、しかし恐らく10月位だろうと思う。
 僕達の上に、綺麗に色づいた紅葉が輝いていたのを覚えている。
「あの。」
 僕がそれについて考え始めたのが一体いつ頃だったのかは覚えていないけれど、それを誰かに言ったのは確実にそれが初めてだった。
 どういう文脈だったのかなんて覚えていないけれど、しかし僕は彼女にこう言った。

「僕、学校に行ってみようと思うんです」
「えー」
 露骨に嫌な顔をされた。
 前置きとの落差!
「それが霜降り明星の粗品だって分かる奴皆無でしょ」
「あなたは分かってくれたじゃないですか」
「私は悪魔だしね」
「……」悪魔って人の考えてることを読めんのか?……じゃあ、僕が彼女の前でえっちいことを考えたら、それも読まれちゃうんだろうか?
「殺すぞ?」
 凄まれてしまった。っていうかこの小説において殺す、は禁句だろうに……
 だいたい、そんなにひどいことを考えたわけでもない。
「学校ねぇ……勉強とか、ついていけんの?」
「まあ、家でだって気力のあるときは勉強してましたし。」
「へえ……そういうところで無駄に真面目だよねぇ……」
「無駄と言いますか」
「無駄でしょう?」
「無駄かもしれませんけれども」
「学校、私は行って欲しくないなあ」
「なんでですか?」
「君に会える時間が短くなっちゃうから。」
「僕があなたより学校を優先すると思ってるんですか?」
「……」また彼女は赤くなった。
「いつだってあなたに呼ばれたら飛んでいきますとも」
「……ありがと」
「……ちなみに、あなたの方には学校はあるんですか?」
「ないねぇ。悪魔だから」
 どういう「だから」なのか謎だけれど、無いらしかった。それで僕に毎日付き合える訳か。
「じゃあ約束してよ。君が私に会う時間が短くなっても、二人の思いはーー想いはーー変わらない、って」
「勿論ですよ」

 ーー結論から言えば、僕は3日で学校に行くのを諦めた。
 理由は幾つかあるのだけれど、まず第一に学校には居場所がなかった。既にクラス替えから半年が経過して完全に定着してしまった人間関係に、陰キャの僕が入り込むのは不可能だった。
 あと、普通に気持ち悪がられた。
「何突然登校してくんだよ」「クラスの均衡を崩すな」っていう感じで。
 僕が今更普通の生活をするなんて、思い上がりも甚だしかったんだろう。
 4日目、学校に行くべき時間に家を出た僕は、しかし登校できなかった。僕には根性がなかった。自分で居場所を作る努力より、サボりを選んだのだ。ーー僕は、学校の近くの喫茶店に入ろうとした。
 ところが、
「ぎゅっ」
 という擬音が聞こえるくらいに全力で抱きしめられた。
「ひ、ひぇゃっ」
「女の子みたいに驚くのね。ふふっ」
「ど、どうしたんですか」
 彼女だった。ステルスを発揮されると、いちいち全力で驚かなきゃいけないから、やめてほしい。
「学校に行かないの?」
「見てたんですか?」
「いやあ、たまたまだよ」
 そんなたまたまがあるもんかよ。監視されてるのかもしれない。もしかしたらこれって僕の人権が蹂躙されてる? 逆デートDV?
「なんていうか……」
「居場所がなくて、やっぱり行けなかった、って感じかな?」
「まあ、そうですかね」
「……じゃあ、また二人で会える時間が長く取れるね!やったあ!」
 彼女の声に含まれていた「間」みたいなものを、僕は感じたような気がした。
 彼女に努めて明るく振る舞わせてしまったことの方が、僕にとっては不登校の罪悪感より大きくて。僕の優先順位がいつのまにか変わっていることは、さらに僕を憂鬱にさせた。
 それから一度も、学校には行かなかった。

(1714文字)



「旅行いこ?」
 彼女は僕の家に来ていた。
 お家デート、と言えば聞こえはいいのかもしれないが、自分の部屋に彼女をあげてもやることはない。それどころか、僕の部屋は臭いんじゃないか、とか、ゴミが落ちてなかったかな、とか、気になってしまうのだった。
 しかし、彼女との初対面が僕の部屋(正確には僕の部屋の前の廊下)だから気にしていても仕方ないとも思う。
 思うのだけれど、でも僕の部屋に来るときに連絡しないのは本当ににやめてほしい。この前なんて、彼女は特殊能力ステルスで唐突に僕の部屋に来たことがあった。......あの時は全力で叫んだ。怖かった......
 それはともかく、僕の部屋には彼女が居た。
 彼女は僕が薦めた小説を読んでいて、僕は彼女に薦められて別の小説を読んでいた。これじゃ仲が良いんだか悪いんだかわからないな、と思いつつ、僕はページをめくる手を止めない。
 僕が彼女に薦めたのは「2001年宇宙の旅」だ。有名すぎて説明の必要があるのかわからないけれど、「モノリス」といえば、シムアースでも活躍している有名アイテム......いや、話がそれて戻ってこれなくなるので、この辺で辞めておこう。
 彼女はSF小説に食わず嫌い的な一方的な悪意を抱いていて、だから僕がそれを無理やり読ませたら楽しそうに読んでくれた。
 僕はインキャだけれど、インキャだからこそ本は好きなのだ。インキャ=オタクという認識も間違っていて、僕はオタク文化はラノベ以外認めていないので。
 ......文章が乱れてしまった。
 彼女が僕に薦めたのは「ドグラ・マグラ」だ。
「これを最後まで読んだ人は全員狂うらしいから、読んでみて」と、渡されたので読んでいる。
 ......自分の彼氏を狂わせたいのか? ......怖えよ。
 ーー僕たちにはもう時間が残されていない。今日は「最後の日」から数えてのこり2週間。
 それを僕たちは気付いている。でも、二人ともそれについては触れない。それに触れたら、まるで僕たちの関係は終わってしまうような気がして、絶対に触れない。
 彼女はもう2001年宇宙の旅を読み終わったみたいで、僕の方を向いていた。
 奥のほうが赤く輝いている瞳が、僕を見つめている。
「なんですか?」
「旅行行こ?」

 行くことになった。
 冗長になるので決める詳細は省くが、僕が伊豆が良いと言い、彼女がハワイが良いと言った。議論は延長線上だったのだが、結局、50万円を溝に捨てた経験のある僕が折れた。なんでだよ。
 ......この際にも彼女がハワイに行きたいということに驚かざるをえない。彼女に常識はないのだった。
 再び最悪の事態が起こるのを防ぐため、旅行日程は僕が決めるし、二人で全力で確かめることは条件にしたが。彼女は僕にサプライズが用意したかったのか、あまり乗り気ではなかったけれど、この期に及んでチェックをされたくないとはどういうことなんだ。
 とりあえず、僕の初海外に向けて、聞いておきたいことがいくつかある。
「パスポートってどうするんですか?」
「どうすると思う?」
「物質具現化……みたいな?」
「ちがーう」
「……どうするんですか?」
「諦めが早いなあ、君は。もっと考えろよ」
「……」
「パスポートは普通に持ってるよ?この世界にも戸籍を持ってるもん」
「……そうなんですね……」
 僕の中で悪魔のイメージがどんどん変わっていく……いや、元々悪魔について深く考えたことも無いので、変わると言うほど変わった訳でもないのだけれど。
「見る?」
「…………見ません」
 僕はその日だけなぜかとても思慮深くて、パスポートを見ると彼女の名前が分かってしまうことに気づいてしまった。気付いたら、もう見るという選択肢は無かった。……僕は、彼女の名前を彼女の口から聞きたかったから──
 僕達の間で決めた万全のチェック体制のことを思えば、本当は彼女のパスポートが偽造じゃない事も確認すべきなのだろうけれど、でも確認しなかった。

 僕の場合はーー
 当然ながらパスポートなんて持っていないので申請することになった。
 さて、親からどうやって署名を得れば良いのだろうか......?
「ふっふふふふ」
 怪しい笑い声が背後でするが、無視する。
 親に、「これに署名してー!」って、それ以外の欄を隠して記入させれば記入してくれるだろうか? いや、でももしかしたら申請する役所の窓口のその場で確認しろって言われるかもしれない。そもそも、そんなわけのわからない文書に署名はしないか......僕の両親は確かに放任主義だけどそこまで馬鹿じゃない。
「ひひひ」
 怪しい笑い声は無視。
 僕はパソコンを開いてグーグルにアクセスする。パスポートに必要な書類を確認してみようと思ったのだ。
 申請書と、本人確認書類と、証明写真と、......思ったよりたくさんある。しかも未成年は申請書に親の署名が必要だし、本人確認書類は親の分も二人分必要らしい。
 どうしたものか......こうなったら、親に(悪魔のことは言わないにしても)正直に、海外旅行に行きたいからパスポートを作らせてくれ、と頼んでみようか?
 でも駄目だろうな......
 それより気になるのは、パスポートの申請に一週間も掛かってしまうという事だ。そんなにのんびりしていたら、僕が死んでしまうじゃないか。
「ねえ、ねえってば」
 彼女が甘えた声を出す。その声が思ったより可愛かったから、僕はくるっと振り返る。
「わたしが書類を書いてあげよう」
「......は?」



 結論から言えば、何も起こらなかった。
「一人でパスポート取らせに行くなんて酷い親だなあ」
 なんて、窓口の係員に同情までされてしまった。
 家に帰ると、さも当たり前のように彼女は本を読んでいた。「2010年宇宙の旅」。
「ああ......書類を提出したら、もう後には引けませんよ......」
「出せたの?よかったじゃーん」
「刑事罰ですよ......5年以下の懲役または300万円以下の罰金またはその両方ですよ......」
「まあまあそう固いこと言うなよー」
「いやいやそういう問題じゃないですよ......」
「大丈夫。私の文字の模写技術はすごいんだから!」
「それ以外の所でバレることだって大いにありえますよ......もし家に電話が来たら一発ですよ?」
「じゃあ君が電話を全部取ればいい」
「そんなことしたら外出できなくなるじゃないですか」
「まあなんとかなるってっ!」



 6日後。僕は完成したパスポートを取りに行った。紺色と言うよりは黒いと言ったほうが良いような、なんだか濁った色をしている印象を受けた。これは僕の罪悪感のせいだろうか......?
「すぅ…………ふぅぅぅ......」
 窓口でパスポートを受け取ると、見た目よりも重かった。僕はため息をつく。
 僕はもしかすると、取り返しのつかないことをしているんじゃないか、というような気がする。
 でもそんなこと言ったら、あの時彼女に出会ってしまった時点で僕は既に取り返しがつかないのだ。
 或いは......二年前ーー正確には一年と十ヶ月と三週間だーーのあの日から......
 っていうか、こんな管理体制で日本は大丈夫なのか?



 パスポートも手に入ったので、僕が旅行のプランを計画することにした。これ以上不確定要素を残しておいて堪るものか。どこにも彼女の邪魔が入らないようにと計画したら、10分刻みのプランができてしまった。
「君って無駄に真面目どころじゃないわね」
「どころじゃないとまで言いますか......」
 これじゃ駄目だ、と思って、僕は結局彼女に丸投げした。海外旅行で時間に縛られたくないという常識は僕にだってある。
 僕たちは、ハワイのあるホテルに泊まることになった。彼女がネットで見つけてきたのだ。どうやら高級なホテルらしく、ちょっとワクワクする。

 ハワイの写真を見ていると、今からでも潮風の匂いがするような、そんな錯覚に囚われる。僕は砂浜に立っていて、緑がかった美しい海がパノラマワイドに広がっている気がした。
「勿体無いなあ。ハワイに行くまで、ハワイの景色は取っとけばいいのに」
「予習しないと、失敗するかもしれないじゃないですか」
「あのねぇ......ここまで来て失敗なんて気にするのよそうよ?」
「......その自信はどこからくるんでしょうね......」
 飛行機の時間は二人で30回確認した。僕なんて、時刻表は空で言えるし、空港の地図も全部描けるレベルだ。
 そして今、ちゃんと搭乗口にいる。
 ちゃんと、一時間半前には空港についている。国際線に乗るのだし、用心に越したことはないのだ。

 僕と悪魔は、AとBの席に並んで座った。はじめての飛行機は、いろんなものが目新しい。テレビの中で、キャビンアテンダントが英語で挨拶をしていた。
 彼女がスマホを取り出す。
「え、持ってるんですか?」
「悪魔だし」
「むしろ、悪魔がスマホ持ってたらイメージぶち壊しですよ……」
「そう?」
「何見てるんですか?」
「魔ブログ」
「黒魔女さんが通る!は、この本の読者層に絶対相応しくないですよ!」
「なんで伝わるのよ」
「実際には、何見てるんですか?」
「大喜利やりたいのね?いいでしょう、乗ってあげる」
「そういう訳じゃありません!」
「つまんなーい」
 僕らは顔を見合わせて笑った。
「そういえば、随分軽装備ですね?」
 ......あれ? 気付いてみると、不安感を煽るほどの軽装備だ。
 僕がわざわざ巨大なキャリーケースを新しく買ったのが馬鹿みたいじゃないか。
「まー私悪魔だから、着替えが要らないもんでね、」
 ほんとか? 汗をかかないって事か......? でもなんにしても予備の服くらいは持っておいても良いような気もするし......あれ? そういえば。
「え、でも海とか行かないんですか?」
「…………海?」
「え、ハワイに行くのなら海でしょう?」
「…………………………………………海?」
「……どうしたんですか?」
「……………………………………………………水着忘れた」
「…………どうしましょう」

 いや、「どうしましょう」も「こうしましょう」もない。水着ぐらい買えばいいのだ。
 だけれど、彼女はすごく落ち込んでいるみたいだった。
「せっかく新しいの買ったのに......ちょっと背伸びしちゃったくらいだったのに......見てほしかったのに......」
 ぶつぶつ呟いている姿は酷く惨めに、哀れに思えたけれど、でも僕はお金で解決することくらいしかできない。
「ハワイについたら新しいの買います! さ、さ、元気出してくださいよ!」
「うう......でも、せっかくの新しいの......」
「......か、帰ったら見せてくださいよ! 市民プールでも行きましょ! それで我慢してくださいよ!」
 なんで僕がこんなにフォローしなきゃいけないんだよ......
 でも、僕の一言一言で顔を明るくしていく彼女を見ていると、僕はもっと声を賭けたくて仕方なくなる。
「うん、そうだね。ありがと」
 彼女はにっこり笑った。
「ひまわりみたいな笑顔」という表現はよく聞くけれど、でも彼女の、なんて言えば良いんだろう......清楚で、それでいて華やかな笑顔を見ていると「薔薇のような笑顔」って感じだ。薔薇の、棘を持っていることによる哀愁も含めてそっくりだと思った。
 哀愁......僕は、彼女がどんな苦労をしているのか全く何も知らないんだな、と改めて思った。



「ハーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーワーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーだああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼‼‼‼‼」

 飛行機から降りるまで、彼女は時差ボケをしたみたいでふらついていた。ずっと顔色が悪くて、この僕を心から心配させるレベルだったのに。
 それどころか、飛行機が着陸するときなんて、怖かったのだろうか、泣いていた。僕は少しでも良くなればと思って彼女のことを抱いていた。ーーのだけれど、それで安心していたのは僕の方だったかもしれないとも思う。はじめての飛行機で、僕は心臓が飛び出るんじゃないかというくらい心拍数が上がっていた。それを彼女に聞かれたかもしれないと思うとぞっとする。この後どんなふうに馬鹿にされるのか......いや、彼女だってこれだけダメージを受けているのだ、彼女もそこまで僕をいじれないだろう。ーー
 ところが、だ。飛行機から降りると、彼女は叫んだ。
 まるでさっきまでの甘えなんて無かったかのように。あるいは、さっきまでの甘えを隠すように、なのだろうか?
 空港内だ。それなりに人はいるし、その周りの人からも痛い視線を浴びているけれど、それも視界に入ってはいないみたいだ。
 彼女はもう一度大きく息を吸って、叫ぶ。
「イイイイイイイイぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぃっ!!!!!!ハワイ最高っっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!」

 彼女の声は、予め耳を塞いだ僕にも届いた。 
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登場人物紹介

「僕」


名前:非公開

年齢:非公開

経歴:非公開

職業:非公開

誕生日:非公開

血液型:非公開

属性:引きこもり

「彼女」


名前:非公開

年齢:非公開

経歴:非公開

職業:非公開

誕生日:非公開

血液型:非公開

属性:悪魔

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