1話 裸足の捨て猫
文字数 3,371文字
耳に付く蝉の声、つきまとう逃げ水。俺は夏が苦手だ。暑さで頭の回転が鈍るし、何より汗まみれの自分の姿が好きではない。こうして外に出れば、三分と経たずに高温多湿になる背中。今日も客先訪問の後、静かな住宅街を駅に向かってひたすら歩く。そこは普段来ることのない高級住宅街、各々シンプルな外観ではあるが一軒の敷地面積が広く、豊かな暮らしを想像させた。自分には縁遠い世界だと自嘲しながら、額に光る汗を拭う。けれどまたすぐに光り始め、抗うことを諦めた。
ようやく住宅街を抜ける直前で、初めて住人らしき人に出会った。クリーム色の外壁に守られた白亜の豪邸、その門の前。カーテンで閉ざされた二階の窓を見つめる一人の人がいる。
近づくにつれ、その不思議な佇まいに視線が囚われた。身長はおそらく俺と同じくらい、170センチ前後だろう。色白で細身の体から滑らかに伸びる四肢、そこに無駄な体毛はなく艶肌。日の光を浴びた頭髪は眩い輝きを放つ。これだけなら「綺麗な人だ」で終わるだろう。だがその人はサイズの大きな白Tシャツをワンピースのように纏い、裸足で、まるで叱られて家を追い出された子どものよう。この炎天下で熱せられたアスファルトの上に裸足でいるなど、もしや暴力の一種だろうか。心配になったが最後、気づけば足が勝手にその人の方へと方向転換していた。より近づくにつれ、気になる部分をもうひとつ発見。その人は猫耳カチューシャをつけている。ただ事ではないと確信し、勇気を持って声を掛けた。
「あの、大丈夫ですか?」
数秒経っても反応がなくもう一度言おうかを思ったが、その人はゆっくりとこちらに顔を向け、ゆっくりと首を傾げた。そこには何の感情もないように見えた。
「なあに?」
「足、熱くないですか?」
「熱いけど、ボクが着られるのはこれだけだから。大丈夫」
Tシャツの裾を摘んでいる様子から、この人は靴を所持していないのだろうと思った。そして“ボク”と自称しているが、声も顔も仕草も中性的で、その性別は判断しかねた。しかしそれはどうでもよくて、足を守ることが先決。鞄の中を探っても残念ながら靴がわりになるものはなく、取り急ぎ自社パンフレットを踏み台にしてもらうことにする。
「これどうぞ。少しは熱いのが緩和できると思うので」
「ボクは、ご主人様以外の人からモノはもらえない契約なの」
ご主人様と、契約。その言葉には不信感より先に、怒りがこみ上げた。相手の体を労わらないやつにご主人様を名乗る資格などなく、むしろそんな理不尽な契約が存在していいはずがない。この人の頭に鎮座する猫耳カチューシャもご主人様とやらに命令されて身につけているのだろうか。そう想像してしまっては、可愛いはずの猫耳が災いのもとに見え、両手を伸ばさずにはいられなくなる。これを外せば、この人も自由になれるはずだ。
「あの、何があったか知りませんが……」
猫耳は、取れなかった。想像以上に滑らかな毛質に撫でられ、心地いい余韻が残る手のひら。相手は頭を押さえてこちらを凝視し、頷き、淡い微笑みを浮かべた。
「わかったよ。これから貴方が新しいご主人様なんだね」
「え?いや……」
予期せず抱きしめられ、体が硬直する。相手は汗まみれのこちらのことなどお構いなしで、長い睫毛で首筋をくすぐり、細い指で胸元をなぞった。全身がざわめき恐怖が思考を占拠、いよいよ頭が機能不全に陥りそうになる。慌てて理性を呼び戻し、相手を引き剥がした。
「ご主人様は、お遊びの気分じゃないの?」
「俺はご主人様でもないですし遊びもしません。これにて失礼します。足、お大事に」
何が何だかよくわからないが、とりあえずこの場を離れたくて足早に逃げる。しかし、後を追う足音に決意がかき消されて終わった。無駄に強すぎる正義感を打ち捨てたかった。溜息混じりに革靴を脱いで、駆け寄る足元にそれを向ける。
「よかったらこれ履いてください」
「ご主人様は、お靴いらないの?」
「今はいらないです。それとご主人様って呼び方はやめてください」
ちょうど通りかかったタクシーを止め、そのままアパートへと向かってもらった。もちろん隣には謎の人を乗せて。
**
目的地に到着し、素早く玄関へと押し込む。御近所さんに見られてあらぬ噂を立てられるのは面倒だった。ワンルームの狭い室内をゆったり観察する相手を横目に、俺はクローゼットを開く。
半強制的ではあるが謎の契約を破り自由になったこの人には、自由に生きて欲しい。そのはなむけとして、衣類一式を贈り、普通の見た目を手に入れてもらおうと思った。偶然にも俺は衣料品メーカーに勤め、職業柄サンプル品など市場に出回らないものをいただく機会が多々あり、真新しい洋服がクローゼットにストックしてある。それを渡したら、お引き取り願おう。
あの人の雰囲気に似合いそうな服を見繕い振り向いたものの、そこに見えた光景に驚きもう半周して元に戻る。ベッドに寝転がり捲れ上がったシャツの裾から、丸いお尻が見切れていた。
あの豪邸に住む人物がたとえ世界一有能な人でも絶対に仲良くなれない、いやなりたくない。再燃した嫌悪感をなんとか見送り、取り出した洋服をソファに置いてから下着を収納している引き出しの最奥を探る。温めておいた一張羅がまさかこんな結末を迎えるとは思わなかったが、箪笥の肥やしとして生涯を終えるよりましだろう。
「まずはこれ履いてください」
「これなあに?」
「下着です」
「どうやって履くの?」
このような会話は自分の子どもとやる予定だったのだが、仕方なくジェスチャーで伝えると相手は恥じる様子もなく目の前で履こうとするので目を逸らした。
「履けましたか?」
「うん」
「じゃあ……!?」
勢いよく目を逸らすのはこれで何度目だろうか。
「ご主人様、これ似合う?」
「……下着に似合うとかないんでシャツ下ろしてください……」
「うん」
何が悲しくて恋人でもない人様の下着姿を見ねばならないのだろう。けれど一瞬で「太腿が綺麗だ」なんて判断してみせた煩悩まみれのこの脳を焼き切ってしまいたい。やはりあれは箪笥の肥やしにしておくべきだった。
「ねえご主人様」
こちらの葛藤には気付いていない様子で、その人は俺のネクタイに手を添えた。
「ボクに、これちょうだい」
「え、これですか?」
「うん。これは首輪でしょう?ボクに首輪してほしい」
「いや、これは首輪じゃないですし、あなたに着けるつもりもないです」
「どうして?ボク、いけないことした?ご主人様もボクのこと嫌いになったの?」
はっきりと「ご主人様にはなりません」と断りたかったのに。寂しそうに眉尻を下げる表情は、どこか孤独の痛みを感じさせ、ついに辞退表明は音にならなかった。
「あなたの行動が不快なわけでも、嫌いになったわけでもないです。ただ、首輪を着ける必要性を感じないだけです」
「そう」
短く返事をして抱きつき、耳元でありがとうと囁いた。そして何かを始めそうな手つきで背中を撫でるものだから、俺はまた勢いよく体を引き剥がした。
「感謝はお遊びで伝えるものじゃないの?」
この人の言う“お遊び”の意味がわかりはじめた。けれど“お遊び”は、そんな気軽に持ち出していいものじゃないはずだ。
「ボクはご主人様にお礼がしたい。それにボクはそれが上手だよ。それでも、イヤ?」
「嫌とかそういう問題ではなくて。俺にとってそれは感謝の気持ちとして受け取るものではないんで」
「でも……ボクにはそれしかできない。そうやって、生まれてきたから……それが、ボクの存在理由で生きる意味」
眼前に迫る、艶やかな唇。
「ねえご主人様。ボクとお遊びして。ボクにお礼させて。ボクに、生きる意味をちょうだいよ」
別の生きる意味を見出しましょう、そう伝えるつもりだった。けれど代わりに抱きしめた。己の生きる意味すら曖昧な自分には、その言葉を発する勇気を溜める時間が必要だった。
「お礼はあとにしてください。いつか必ず、受け取るので」
顔元ではたと動く猫耳。
俺はその日、猫を拾った。
ようやく住宅街を抜ける直前で、初めて住人らしき人に出会った。クリーム色の外壁に守られた白亜の豪邸、その門の前。カーテンで閉ざされた二階の窓を見つめる一人の人がいる。
近づくにつれ、その不思議な佇まいに視線が囚われた。身長はおそらく俺と同じくらい、170センチ前後だろう。色白で細身の体から滑らかに伸びる四肢、そこに無駄な体毛はなく艶肌。日の光を浴びた頭髪は眩い輝きを放つ。これだけなら「綺麗な人だ」で終わるだろう。だがその人はサイズの大きな白Tシャツをワンピースのように纏い、裸足で、まるで叱られて家を追い出された子どものよう。この炎天下で熱せられたアスファルトの上に裸足でいるなど、もしや暴力の一種だろうか。心配になったが最後、気づけば足が勝手にその人の方へと方向転換していた。より近づくにつれ、気になる部分をもうひとつ発見。その人は猫耳カチューシャをつけている。ただ事ではないと確信し、勇気を持って声を掛けた。
「あの、大丈夫ですか?」
数秒経っても反応がなくもう一度言おうかを思ったが、その人はゆっくりとこちらに顔を向け、ゆっくりと首を傾げた。そこには何の感情もないように見えた。
「なあに?」
「足、熱くないですか?」
「熱いけど、ボクが着られるのはこれだけだから。大丈夫」
Tシャツの裾を摘んでいる様子から、この人は靴を所持していないのだろうと思った。そして“ボク”と自称しているが、声も顔も仕草も中性的で、その性別は判断しかねた。しかしそれはどうでもよくて、足を守ることが先決。鞄の中を探っても残念ながら靴がわりになるものはなく、取り急ぎ自社パンフレットを踏み台にしてもらうことにする。
「これどうぞ。少しは熱いのが緩和できると思うので」
「ボクは、ご主人様以外の人からモノはもらえない契約なの」
ご主人様と、契約。その言葉には不信感より先に、怒りがこみ上げた。相手の体を労わらないやつにご主人様を名乗る資格などなく、むしろそんな理不尽な契約が存在していいはずがない。この人の頭に鎮座する猫耳カチューシャもご主人様とやらに命令されて身につけているのだろうか。そう想像してしまっては、可愛いはずの猫耳が災いのもとに見え、両手を伸ばさずにはいられなくなる。これを外せば、この人も自由になれるはずだ。
「あの、何があったか知りませんが……」
猫耳は、取れなかった。想像以上に滑らかな毛質に撫でられ、心地いい余韻が残る手のひら。相手は頭を押さえてこちらを凝視し、頷き、淡い微笑みを浮かべた。
「わかったよ。これから貴方が新しいご主人様なんだね」
「え?いや……」
予期せず抱きしめられ、体が硬直する。相手は汗まみれのこちらのことなどお構いなしで、長い睫毛で首筋をくすぐり、細い指で胸元をなぞった。全身がざわめき恐怖が思考を占拠、いよいよ頭が機能不全に陥りそうになる。慌てて理性を呼び戻し、相手を引き剥がした。
「ご主人様は、お遊びの気分じゃないの?」
「俺はご主人様でもないですし遊びもしません。これにて失礼します。足、お大事に」
何が何だかよくわからないが、とりあえずこの場を離れたくて足早に逃げる。しかし、後を追う足音に決意がかき消されて終わった。無駄に強すぎる正義感を打ち捨てたかった。溜息混じりに革靴を脱いで、駆け寄る足元にそれを向ける。
「よかったらこれ履いてください」
「ご主人様は、お靴いらないの?」
「今はいらないです。それとご主人様って呼び方はやめてください」
ちょうど通りかかったタクシーを止め、そのままアパートへと向かってもらった。もちろん隣には謎の人を乗せて。
**
目的地に到着し、素早く玄関へと押し込む。御近所さんに見られてあらぬ噂を立てられるのは面倒だった。ワンルームの狭い室内をゆったり観察する相手を横目に、俺はクローゼットを開く。
半強制的ではあるが謎の契約を破り自由になったこの人には、自由に生きて欲しい。そのはなむけとして、衣類一式を贈り、普通の見た目を手に入れてもらおうと思った。偶然にも俺は衣料品メーカーに勤め、職業柄サンプル品など市場に出回らないものをいただく機会が多々あり、真新しい洋服がクローゼットにストックしてある。それを渡したら、お引き取り願おう。
あの人の雰囲気に似合いそうな服を見繕い振り向いたものの、そこに見えた光景に驚きもう半周して元に戻る。ベッドに寝転がり捲れ上がったシャツの裾から、丸いお尻が見切れていた。
あの豪邸に住む人物がたとえ世界一有能な人でも絶対に仲良くなれない、いやなりたくない。再燃した嫌悪感をなんとか見送り、取り出した洋服をソファに置いてから下着を収納している引き出しの最奥を探る。温めておいた一張羅がまさかこんな結末を迎えるとは思わなかったが、箪笥の肥やしとして生涯を終えるよりましだろう。
「まずはこれ履いてください」
「これなあに?」
「下着です」
「どうやって履くの?」
このような会話は自分の子どもとやる予定だったのだが、仕方なくジェスチャーで伝えると相手は恥じる様子もなく目の前で履こうとするので目を逸らした。
「履けましたか?」
「うん」
「じゃあ……!?」
勢いよく目を逸らすのはこれで何度目だろうか。
「ご主人様、これ似合う?」
「……下着に似合うとかないんでシャツ下ろしてください……」
「うん」
何が悲しくて恋人でもない人様の下着姿を見ねばならないのだろう。けれど一瞬で「太腿が綺麗だ」なんて判断してみせた煩悩まみれのこの脳を焼き切ってしまいたい。やはりあれは箪笥の肥やしにしておくべきだった。
「ねえご主人様」
こちらの葛藤には気付いていない様子で、その人は俺のネクタイに手を添えた。
「ボクに、これちょうだい」
「え、これですか?」
「うん。これは首輪でしょう?ボクに首輪してほしい」
「いや、これは首輪じゃないですし、あなたに着けるつもりもないです」
「どうして?ボク、いけないことした?ご主人様もボクのこと嫌いになったの?」
はっきりと「ご主人様にはなりません」と断りたかったのに。寂しそうに眉尻を下げる表情は、どこか孤独の痛みを感じさせ、ついに辞退表明は音にならなかった。
「あなたの行動が不快なわけでも、嫌いになったわけでもないです。ただ、首輪を着ける必要性を感じないだけです」
「そう」
短く返事をして抱きつき、耳元でありがとうと囁いた。そして何かを始めそうな手つきで背中を撫でるものだから、俺はまた勢いよく体を引き剥がした。
「感謝はお遊びで伝えるものじゃないの?」
この人の言う“お遊び”の意味がわかりはじめた。けれど“お遊び”は、そんな気軽に持ち出していいものじゃないはずだ。
「ボクはご主人様にお礼がしたい。それにボクはそれが上手だよ。それでも、イヤ?」
「嫌とかそういう問題ではなくて。俺にとってそれは感謝の気持ちとして受け取るものではないんで」
「でも……ボクにはそれしかできない。そうやって、生まれてきたから……それが、ボクの存在理由で生きる意味」
眼前に迫る、艶やかな唇。
「ねえご主人様。ボクとお遊びして。ボクにお礼させて。ボクに、生きる意味をちょうだいよ」
別の生きる意味を見出しましょう、そう伝えるつもりだった。けれど代わりに抱きしめた。己の生きる意味すら曖昧な自分には、その言葉を発する勇気を溜める時間が必要だった。
「お礼はあとにしてください。いつか必ず、受け取るので」
顔元ではたと動く猫耳。
俺はその日、猫を拾った。