2話 新しいエフ
文字数 3,366文字
不思議な出会いの翌日。何食わぬ顔で出社しデスクにつく。家に置いてきたあの人は、大人しくしているだろうか。昨日の観察の結果、どうやらご主人様と認識した人の指示は絶対服従のようなので、一人で外出することはないはずだ。レトルト食品の場所もレンジの使い方も教えてきたから、とりあえず今日一日は生き抜いてくれるだろう。
そこへ同僚の木崎が出勤してきた。察しのいい彼は、こちらの様子を見るなりご機嫌伺いしてくれた。
「おはよう。珍しく元気ないかんじ?それとも気のせい?」
「元気だけど、ちょっと考えごとしてた」
「仕事関係?」
「いいや。昨日の外出時に不思議な人を見てさ。なあ、木崎。変なこと聞くけど、猫耳生やした人を見たことあるか?」
「あるよ」
質問したのはこちらだが、その答えに驚くよりほかになかった。人以外の耳を持つ存在など見たことも聞いたこともなかったし、あれは特殊な装飾だと思っていた俺は、当たり前のように「見たことない」の答えを待っていた。
「擬似家族のことだろう?」
初めて出会う単語に驚き度合いが増す。俺もいい大人で、世間一般のことは手広く理解し把握しているつもりだったのに。俺が思っていた世間は、手が届く範囲の狭いエリア限定だったようだ。
擬似家族の詳細を聞きたくて、木崎を昼食に誘ってから午前の業務開始。いくら集中しようとしても、全然身が入らなかった。
**
あっという間に昼休憩を迎え、通いなれた定食屋に入る。注文を終え、何から質問しようか考えていると、先に木崎が口を開いた。
「いやあでも驚いたよ。蜜谷 からあの質問を受けるとは思ってもいなかった。もしかして昨日、花霞街 通ってきた?」
「うん」
「やっぱりな。あそこはそういう街だから」
「そういうって、大家族が多いとか?」
「いいや。多種多様な家族が住まう街だよ」
眉をひそめる木崎の横顔から、それは素敵な家族像ではないように思われた。恐らく、我が家にいるあの人のような家族たちを指しているのだろう。
「蜜谷は初耳だろうから、少し説明するな。擬似家族、それは端的に言えば人工人間。主に子どもがいないカップルや独り身の方々が家族として迎える、希望の存在さ。とは言え一部の病院や専門店でしか紹介されていないから、知る人ぞ知る、だな。俺が擬似家族について知っていたのは、以前そのメーカーに勤めていたからなんだ」
「へえ。人工ってことは、ロボットなのか?」
「本物の人間だよ、体を構成する要素は俺たちと全く同じだ。けれど、彼らが発生するための命の源、つまり受精卵が人由来ではなく人工的に生成されるからそう呼ばれているんだ。受精卵は特殊装置で育まれ、赤ちゃんであれば約一ヶ月、大人であれば約半年で誕生。つまり家族ができるってわけ」
「なるほど。でもそれって、自分に似てない家族ができるってことか?」
「まさか。だって本物の家族になるために生まれてくるんだぞ。本来あるべき血の繋がりがないという欠点を埋めるため、遺伝子操作により外見をクライアントに似せることは基本中の基本。加えて、誕生前に知性や才能を形成したり、擬似記憶を埋め込むことで“ずっと一緒に生きてきた”という錯覚を持たせることもできる。これは事故や病気で亡くした大事な人を擬似家族化する場合に有用なオプションだな」
「そうか。希望の存在と称される理由がわかる気がする」
「どうかな」
それまで淡々と説明していた木崎が口ごもる。お冷を口にする姿は、さながら冷静さを保つための儀式のようだ。
「俺も最初はそう信じてた。けれど、最近の傾向として、経済的に余裕のある人々が寵愛の対象として購入するケースが増加していてな。昼時だから明言は避けるが、寵愛の意味は察しがつくだろう」
「ああ…まあな……」
「そんな世の中の流行を汲み取った各メーカーが様々なオプションを開発し、さらにその傾向が加速した。肌の質感調整程度ならまだいい。獣の耳や尻尾を生やしてみたり、肉感的なプロポーションや、逆に中性的な体格も人気だったかな。……口に出すのも嫌だけど、そっち方面の才能を持たせることもクライアントの采配次第だ」
求められて生まれてくるのに、その容姿だけでなく才能すら自分で選ぶことができないなんて。誕生前から存在意義を設定された彼らに、生きる楽しみは感じられるのだろうか。胸を締め付けるこの切なさは、どうしてだろう。
「あの花霞街は、そういった個性的な家族を迎える人が数多く住む街なんだ。当時担当してた大口のお客様があそこに住んでて、獣の耳や尻尾を生やした人々を何度となく見てる」
別のことも聞こうと思っていたのに、それ以上は何も聞けなくなった。重量感のある情報に心も頭も膨満感で苦しい。しっかりお礼を伝えて、運ばれてきた昼食に箸をつけた。お気に入りの定食なのに、味がよくわからなかった。
**
帰宅し玄関を開けると、ぱたぱたと足音が近づいてきてミルクの香りに包まれた。そして伸ばされた両手を避けきれず、あえなく抱きしめられる。
「ご主人様、お帰りなさい。ねえ、お礼欲しくなった?」
「欲しくないです。暑いのでどいてもらってもいいですか?」
「じゃあ、あっちの涼しいお部屋に行ったらお礼欲しい?」
「そういう意味じゃないです」
リビングへと進みカバンを定位置に置いて、冷蔵庫を開ける。麦茶を取り出すついでに中身を確認したが何も減っておらず、レトルトも手がついていない。まさかと思ってゴミ箱をのぞいてみたが、食品らしきゴミは一つも増えていなかった。
「あの、今日何か食べました?」
「ミルクを飲んだよ」
「それ以外は?ご飯とかおかずとか?」
「ボクは冷たいミルクとご主人様の愛があれば十分」
健康面からは全く不十分に思え、急いでリンゴを剥いてミルクと一緒に出した。
「これから夕飯作りますけど、取り急ぎこれ食べてしのいでください」
リンゴは見つめるだけで手を出さず、ミルクのカップに顔を寄せまるで猫のように屈んで飲んだ。顔をあげ、口元から滴る白い雫。すかさずティッシュに手を伸ばし、口元とテーブルの上を綺麗に拭きあげる。お出迎えの時にミルクの香りが出迎えた理由がわかった。
「コップは手に持って飲んだ方が飲みやすいと思いますよ」
「前のご主人様は、こうやってミルクを飲むボクが可愛いって言ってくれたよ。ボクはもう、可愛くないの?」
「そういう意味で言った訳じゃないです。可愛いかどうかは気にせず、飲み物はしっかり飲んでください」
俺を真似てコップを手に持ち飲んだのに、口の端からミルクがこぼれて部屋にミルクの香りが充満した。子どもみたいだと思った。
「ご主人様、なんで笑ってるの?ミルクこぼすの楽しい?」
「いや、あなたの……」
そこでふと、まだ名前を聞いていないことに気づいた。
「あの、名前教えてもらっていいですか?今更ですが、呼びにくいんで」
「エフだよ。六番目だからエフ」
「六番目?」
「そう。六番目の、愛猫。前のご主人様がそう言ってた」
「……そうですか」
「うん。でもご主人様が望むなら、新しいお名前をちょうだい。ご主人様が好きなように呼んでね」
急にそう言われたってネーミングセンスに自信はないし、ちょうど良い名前も思いつかない。
「そのままエフって呼びますね」
「うん、わかった」
「でも、六番目じゃなくて、六月六日のエフです。その日が俺の誕生日なので、そこにちなんでのエフです」
「なるほど。同じエフだけど、ボクは新しいエフに生まれ変わったんだね」
ゆっくりと近づいてくる口元を受け止める代わりに、リンゴを突っ込んで押し返した。
「ちなみに俺は蜜谷奏 です。ご主人様って柄じゃないんで、名前で呼んでください」
「奏……さま?」
「“様”はいらないです」
“様”が一番違和感を感じる部分なのだが、すぐに言い慣れるだろうと期待して訂正せずにおいた。しかし翌朝には「ご主人様」に逆戻りしていた。慣れが必要なのはこちらかもしれない。
そこへ同僚の木崎が出勤してきた。察しのいい彼は、こちらの様子を見るなりご機嫌伺いしてくれた。
「おはよう。珍しく元気ないかんじ?それとも気のせい?」
「元気だけど、ちょっと考えごとしてた」
「仕事関係?」
「いいや。昨日の外出時に不思議な人を見てさ。なあ、木崎。変なこと聞くけど、猫耳生やした人を見たことあるか?」
「あるよ」
質問したのはこちらだが、その答えに驚くよりほかになかった。人以外の耳を持つ存在など見たことも聞いたこともなかったし、あれは特殊な装飾だと思っていた俺は、当たり前のように「見たことない」の答えを待っていた。
「擬似家族のことだろう?」
初めて出会う単語に驚き度合いが増す。俺もいい大人で、世間一般のことは手広く理解し把握しているつもりだったのに。俺が思っていた世間は、手が届く範囲の狭いエリア限定だったようだ。
擬似家族の詳細を聞きたくて、木崎を昼食に誘ってから午前の業務開始。いくら集中しようとしても、全然身が入らなかった。
**
あっという間に昼休憩を迎え、通いなれた定食屋に入る。注文を終え、何から質問しようか考えていると、先に木崎が口を開いた。
「いやあでも驚いたよ。
「うん」
「やっぱりな。あそこはそういう街だから」
「そういうって、大家族が多いとか?」
「いいや。多種多様な家族が住まう街だよ」
眉をひそめる木崎の横顔から、それは素敵な家族像ではないように思われた。恐らく、我が家にいるあの人のような家族たちを指しているのだろう。
「蜜谷は初耳だろうから、少し説明するな。擬似家族、それは端的に言えば人工人間。主に子どもがいないカップルや独り身の方々が家族として迎える、希望の存在さ。とは言え一部の病院や専門店でしか紹介されていないから、知る人ぞ知る、だな。俺が擬似家族について知っていたのは、以前そのメーカーに勤めていたからなんだ」
「へえ。人工ってことは、ロボットなのか?」
「本物の人間だよ、体を構成する要素は俺たちと全く同じだ。けれど、彼らが発生するための命の源、つまり受精卵が人由来ではなく人工的に生成されるからそう呼ばれているんだ。受精卵は特殊装置で育まれ、赤ちゃんであれば約一ヶ月、大人であれば約半年で誕生。つまり家族ができるってわけ」
「なるほど。でもそれって、自分に似てない家族ができるってことか?」
「まさか。だって本物の家族になるために生まれてくるんだぞ。本来あるべき血の繋がりがないという欠点を埋めるため、遺伝子操作により外見をクライアントに似せることは基本中の基本。加えて、誕生前に知性や才能を形成したり、擬似記憶を埋め込むことで“ずっと一緒に生きてきた”という錯覚を持たせることもできる。これは事故や病気で亡くした大事な人を擬似家族化する場合に有用なオプションだな」
「そうか。希望の存在と称される理由がわかる気がする」
「どうかな」
それまで淡々と説明していた木崎が口ごもる。お冷を口にする姿は、さながら冷静さを保つための儀式のようだ。
「俺も最初はそう信じてた。けれど、最近の傾向として、経済的に余裕のある人々が寵愛の対象として購入するケースが増加していてな。昼時だから明言は避けるが、寵愛の意味は察しがつくだろう」
「ああ…まあな……」
「そんな世の中の流行を汲み取った各メーカーが様々なオプションを開発し、さらにその傾向が加速した。肌の質感調整程度ならまだいい。獣の耳や尻尾を生やしてみたり、肉感的なプロポーションや、逆に中性的な体格も人気だったかな。……口に出すのも嫌だけど、そっち方面の才能を持たせることもクライアントの采配次第だ」
求められて生まれてくるのに、その容姿だけでなく才能すら自分で選ぶことができないなんて。誕生前から存在意義を設定された彼らに、生きる楽しみは感じられるのだろうか。胸を締め付けるこの切なさは、どうしてだろう。
「あの花霞街は、そういった個性的な家族を迎える人が数多く住む街なんだ。当時担当してた大口のお客様があそこに住んでて、獣の耳や尻尾を生やした人々を何度となく見てる」
別のことも聞こうと思っていたのに、それ以上は何も聞けなくなった。重量感のある情報に心も頭も膨満感で苦しい。しっかりお礼を伝えて、運ばれてきた昼食に箸をつけた。お気に入りの定食なのに、味がよくわからなかった。
**
帰宅し玄関を開けると、ぱたぱたと足音が近づいてきてミルクの香りに包まれた。そして伸ばされた両手を避けきれず、あえなく抱きしめられる。
「ご主人様、お帰りなさい。ねえ、お礼欲しくなった?」
「欲しくないです。暑いのでどいてもらってもいいですか?」
「じゃあ、あっちの涼しいお部屋に行ったらお礼欲しい?」
「そういう意味じゃないです」
リビングへと進みカバンを定位置に置いて、冷蔵庫を開ける。麦茶を取り出すついでに中身を確認したが何も減っておらず、レトルトも手がついていない。まさかと思ってゴミ箱をのぞいてみたが、食品らしきゴミは一つも増えていなかった。
「あの、今日何か食べました?」
「ミルクを飲んだよ」
「それ以外は?ご飯とかおかずとか?」
「ボクは冷たいミルクとご主人様の愛があれば十分」
健康面からは全く不十分に思え、急いでリンゴを剥いてミルクと一緒に出した。
「これから夕飯作りますけど、取り急ぎこれ食べてしのいでください」
リンゴは見つめるだけで手を出さず、ミルクのカップに顔を寄せまるで猫のように屈んで飲んだ。顔をあげ、口元から滴る白い雫。すかさずティッシュに手を伸ばし、口元とテーブルの上を綺麗に拭きあげる。お出迎えの時にミルクの香りが出迎えた理由がわかった。
「コップは手に持って飲んだ方が飲みやすいと思いますよ」
「前のご主人様は、こうやってミルクを飲むボクが可愛いって言ってくれたよ。ボクはもう、可愛くないの?」
「そういう意味で言った訳じゃないです。可愛いかどうかは気にせず、飲み物はしっかり飲んでください」
俺を真似てコップを手に持ち飲んだのに、口の端からミルクがこぼれて部屋にミルクの香りが充満した。子どもみたいだと思った。
「ご主人様、なんで笑ってるの?ミルクこぼすの楽しい?」
「いや、あなたの……」
そこでふと、まだ名前を聞いていないことに気づいた。
「あの、名前教えてもらっていいですか?今更ですが、呼びにくいんで」
「エフだよ。六番目だからエフ」
「六番目?」
「そう。六番目の、愛猫。前のご主人様がそう言ってた」
「……そうですか」
「うん。でもご主人様が望むなら、新しいお名前をちょうだい。ご主人様が好きなように呼んでね」
急にそう言われたってネーミングセンスに自信はないし、ちょうど良い名前も思いつかない。
「そのままエフって呼びますね」
「うん、わかった」
「でも、六番目じゃなくて、六月六日のエフです。その日が俺の誕生日なので、そこにちなんでのエフです」
「なるほど。同じエフだけど、ボクは新しいエフに生まれ変わったんだね」
ゆっくりと近づいてくる口元を受け止める代わりに、リンゴを突っ込んで押し返した。
「ちなみに俺は
「奏……さま?」
「“様”はいらないです」
“様”が一番違和感を感じる部分なのだが、すぐに言い慣れるだろうと期待して訂正せずにおいた。しかし翌朝には「ご主人様」に逆戻りしていた。慣れが必要なのはこちらかもしれない。