4話 ういんな

文字数 2,820文字

今日も今日とて定時きっかりに上がり、フルーツと値下げされた弁当を買って帰宅する。靴を脱いでもエフの足音はせず、静かにリビングに入るとエフはベッドで目を閉じていた。すでにシャワーを浴びたのだろうか、所々毛先が湿っぽい。Tシャツのネックラインから覗く華奢な鎖骨に、細めの顎とすっきりとした鼻筋。いまだにエフの性別は不詳だけれど、何にせよ、第一印象のとおり「綺麗な人」であることに変わりなかった。

同時に、そこには儚げな雰囲気も潜んでおり不思議な魅力になっている。それはどこからやってきているのだろう。生まれる前に設定された個性なのか、あるいは生後得た経験が醸し出しているのだろうか。何となしに考えていると、エフがもぞもぞと動き出した。

「おかえりなさい」

「ただいま」

「一緒に寝る?」

「まだ寝ないよ。夕飯にするぞ」

ひとまず汗だくのシャツを脱いで部屋着に着替える。開放感に包まれるこの瞬間が何だか好きだった。ついでに全身をストレッチさせ脱いだ衣類に手を伸ばすが、そこにあるのはスラックスとベルトだけ。

「ご主人様のシャツ、大きいね」

Tシャツの上から当てているだけかと思ったら、エフはしっかり俺のシャツに着替えている。いつもはのんびり動くのに、どうしてこういう時だけ素早く動けるのかが謎だった。

「いや、それ汗まみれだから脱げって。新しいシャツにしたら?」

「これがいい」

シャツと一緒にエフ自身を抱きしめながら「ご主人様の香りがする」と呟いた。幸せそうに甘みを増す目元、揺らめく耳。ともすれば一歩踏み出しそうになる衝動を引き留め、キッチンに向かった。


エフは俺のシャツを着たままテーブルにつき、冷えたブドウとミルクをゆっくり味わっている。その横で鮭弁当を摘んでいると、エフがその一角に視線を止めた。どうやら赤いタコさんウインナーが気になるようだ。

「食べる?」

「これなに?」

「ウインナー。柔らかい肉だよ」

箸で口元まで持っていくと、タコの足を数本噛みちぎって食べた。

「ういんな美味しい」

「ウインナーな」

フルーツに加え、買い物リストにウインナーが追加された瞬間だった。



シャワーから出ると、エフはカーテンの下に潜って外を眺めていた。考えてみたら、ここに来てからエフは一歩も外に出ていない。周りの目を気にした俺自身の指示ではあるものの、やはり不健康だし、狭い空間に閉じ込めてしまった罪悪感が湧き起こる。夜の世界でなら、人目を気にせず羽を伸ばすことができるかもしれない。

「エフ、散歩でも行く?」

「お散歩行ったことない。お散歩、楽しい?」

「楽しいかどうかわからないけど、気分転換にはなると思う。裏に小さい公園があるから、そこまで行って帰ってこよう」

蚊に刺されぬよう、嫌がるエフにズボンを履かせて早速外に出る。懐中電灯の灯りでは物足りないのか、エフが暗がりを恐れて俺の腕にしがみつくものだから、体温が上がって背中に汗が流れ始める。戻ったらまたシャワーが必須だ。

「エフは夜が嫌いなのか?」

「好きでも嫌いでもないよ。でも夜の外は初めてだから、ちょっと怖い」

「なるほど。これまであまり外出しなかったんだな」

「うん。ご主人様のお家がボクの居場所。外に出る時は、捨てられる時だよ」

「捨てられる?じゃあまさか、エフはあのとき……」

「お外に立ってなさいって言われた。ボクとお遊びしても、もう気持ちよくないんだって」

「はあ!?そんな……」

思わず口をついた怒気にエフが肩を震わせ、俺は咄嗟にお詫びした。「そんな理不尽なことがあってたまるかよ」。その言葉は頭の中で叫んでおいた。擬似家族は、エフは、人間だ。まるでモノのように捨てるなど、言語道断。俺が裁判官なら有無を言わさず極刑を言い渡そう。エフは、気持ちいいか否かの基準で扱われていい存在じゃない。エフには幸せになる権利があるのに。少なくとも俺はそう願いたい。


さすがに二十二時を過ぎた公園には人がいない。遊び相手のいない遊具はどこか寂しげで寒々しい。無論それらで遊ぶ気ではいないので、夜空を見上げると北斗七星がよく見えた。エフも真似して見ていたが、すぐに飽きてこちらを見つめた。

「なに見てるの?」

「星座。ほら、あそこに柄杓っぽいのがあるだろ」

「うーん。よくわかんない。ういんなはある?」

「ういんなはない」

こんなにほのぼのした気持ちになるのはいつぶりだろう。何となく嬉しくなって、エフの頭を撫でた。


帰宅して軽くシャワーを浴び直し、ベッドに潜る。しかし目を閉じた束の間、隣のエフに背中を優しくひっかかれる。すでに眠気に身を預けかけていたので、背を向けたまま返事をした。

「なに?」

「ご主人様は、ボクといて気持ちいい?」

“気持ちいい”の真意はわからない。何を思って聞いているのかも判断出来かねたが、背を向けたまま答えていい質問でないことははっきりわかる。エフの方へと向き直り、微笑みを添えて頭を撫でた。頭部を離れる手をエフが引き留め、手の甲に口づけてから、眠りについた。その寝顔は緩く口角が上がっていて、きっといい夢を見られるに違いない。俺もきっと、気持ちいい夢を見る。


**


「かんぱーい!」

その夜は久しぶりに居酒屋へ。月一恒例の木崎とお疲れ様会の日だった。エフには事前に遅くなることを伝えてあり、日課になった夜散歩もお休みの日だと伝えてある。今頃ウインナーを温めて食べているだろう。それにしても、お店で飲むビールは家で飲むより十倍美味い。喉を撫でる爽快な苦味を堪能しつつ、お疲れ様会が開始を告げた。最初は仕事の憂さ晴らしに盛り上がったが、次第にエフの話題へと切り替わり公園での「ういんな」の話をすると、木崎は顔を綻ばせた。

「何それ。二人とも可愛いんだけど」

「可愛いとか言うなよ」

「ごめんごめん。まあ仲良くやってるみたいでよかったよ。相性がよかったんじゃないか」

「そうかな?でも言われてみれば衝突も不満もない。まあ、冷めてるようだけど、反発し合うほど踏み込まない浅い関係で心理的距離感が遠いのかもな」

「ああ、それでいいんだよ」

デフォルトが笑顔の木崎がやや眉尻を落としている。それは苦い思い出を反芻している証拠だと思った。

「蜜谷には教えておこうか。メーカーに勤務してたとき、俺も擬似家族を迎えたことがあるんだ。だけどそれを理由に会社を辞めた」

「あのさ、言いたくなければ言わなくていいんだけど、辞めた理由聞いても大丈夫か?」

「ああ。それを伝えるために始めた話だから」

そこで木崎が浮かべた微笑みはあまりに痛々しく、先を知る恐怖を微かに植え付けた。けれど彼を止めることなどしない。

「擬似家族が、本物になり過ぎたからだよ」

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