6話 エフと奏 〜前編・第三条の第一項〜

文字数 2,589文字

「ここに猫はいません」

「何を言うんだい。君の後ろにいるのは正真正銘我が家の飼い猫。佐藤、見せてあげなさい」

佐藤と呼ばれた黒スーツの男性がタブレット端末を持ち出し、眩しい画面をこちらに向ける。「擬似家族契約書」とタイトルのついた資料が表示され、それはどうやらエフを迎えた際にメーカーと締結されたものらしい。その最下部にはエフと自称飼い主「飯田」氏の証明写真が並列していた。

「これでわかっただろう?本来これは立派な窃盗だが、大人しく渡せば警察には言わずにおこう。君もこんなことで人生を棒に振るのは不本意だろうよ」

「“猫”とか“渡す”とかって。もう少し人間らしく接してあげてくれませんか」

「君は何か勘違いをしていないかね?擬似家族は購入者のモノ、購入者の意図でその存在意義は千変万化するんだ。私にとってその子は猫、しからばそれは猫だ。猫が家族で何が悪い。今のご時世、他種多少な家族像があって然るべきだよ」

屁理屈が上手くなることと年季を重ねることが同義なら、早死するのも悪くないと思った。この調子だとこちらが何を言ったところで聞く耳は持たないだろうし、逃走も解決策にはならない。必死に最適解を導き出そうと努力するこちらにはお構いなしに、飯田氏がエフに手を伸ばした。

「帰るぞ」

細い手首を掴まれ、言葉にならない恐怖に怯えるエフと視線が交差した。無意識のうちに体が動き、もう一方の腕を掴んでいた。

「君、いい加減にしないか。往生際の悪い男は出世しないよ」

「エフはあなたに捨てられたと言っています。であればどこにいようとエフの自由ですよね」

「捨てただって?それを証明できるものがあるのかい?猫の嘘でないと言い切れる証拠が」

「家族がそう言っているんですよ、信じてあげないんですか」

「私が飼い猫の言葉を信じるような浅はかな人物に見えるのかな」

彼は絶句するこちらの隙をついて力強くエフの手を引いたが、エフもエフで踏ん張り抵抗を見せた。

「ボクはちゃんと聞いたよ。ボクとお遊びしても気持ちよくないから、外に立ってなさいって言われたもん」

「おやおや知能が欠けているようだね。立っていると捨てるは意味が違うだろう」

「でも、前にそう言われたシーもエイチも帰って来なかった。外に立ったら、戻れないんだよ。だからボクは本当に捨てられた。だから奏と一緒にいるっ」

「お黙り」

強い語気に気圧されついにエフは涙を浮かべる。それを見て覚悟が決まった。絶対にエフを連れて帰る。

「さあ、君もその手を離しなさい。それとも何かね、この子を買い取るかい?まあその身なりから察するに、残念ながら猫一匹買えないだろうけどね」

みるみるうちに拳に力がこもる。

「青年、お待ちなさい」

拳が跳ね上がる瞬前、冷静な声に鎮火させられた。声の主、佐藤さんが割って入り滔々と語り始めた。

「飯田様。先の件は、擬似家族契約書第三条の第一項が適応されます。こちらをご確認ください」

タブレットを差し出すも、すげなく読み上げるよう指示が下った。

「はい。『第三条第一項。乙が…』、乙は飯田様のおっしゃる猫様ですね。ちなみに甲が飯田様です。続けます。『乙が甲との離別を希望した場合、いかなる理由においてもその意志を尊重せねばならない』。項文は以上です。これは人権尊重と身の安全を確保するための重要項目です」

「何を言う。これは単なる口喧嘩じゃないか」

「では、三点ほどご説明差し上げます。まず一つ目。先ほどの猫様のご発言ですが、猫様ご自身のケースのみならず他二名のケースを提示されたことにより、“外に立つ”と“捨てる”の意味の同一性が立証されました。次に二つ目。“奏様と一緒にいる”と、離別の希望を表明されています。これは証言として扱うことが十分可能です。その理由は三点目にあります。この場には当事者の甲乙だけでなく、甲乙間の発言を再現できる証人が奏様と私の二名おり、先のお言葉を言質として扱うことが可能です。ご説明は以上です」

苦虫を噛み潰したような顔を浮かべ、今度は飯田氏が拳を握っている。

「佐藤。不要な発言を許した覚えはないのだが」

「弁護士として必要な発言をしろと仰ったのは、他ならぬ飯田様ではありませんか」

「必要な発言と擁護は違う。まったく、私を満足させる知能を持ったやつはいないのか。佐藤、わかっていると思うがお前も“外に出るといい”」

「ええ、そのように」

憤懣やるかたない様子で立ち去り、高級車で荒々しく走り行く飯田氏。その一部始終を佐藤さんは清々しい目元で見届けていた。

「佐藤さん、ありがとうございます。お陰さまで助かりました。でもそのせいでお仕事なくされたんですよね、申し訳ないです」

「いえいえ、頭をあげてください。あの方は数ある顧客の一人、切られて路頭に迷うわけではありません。これでよかったのですよ」

「そうなんですか?」

「はい。それに、彼のような気分屋さんとは相性があまりよろしくないようでして。ご縁を切る機会を頂き、むしろ感謝申し上げます」

「いえ、そんな」

「どうか卑下なさらず。もしもまたあの気分屋さんがごねるようでしたら、こちらまでご連絡ください。喜んで助太刀いたしますね」

名刺を受け取ると、佐藤さんは優しい微笑みをくれた。

「では、お幸せに」



帰宅する道中エフは震えが止まらず、大丈夫だとなだめても効果は薄かった。家に到着し真っ直ぐベッドに入るなり、エフは俺の胸元に顔を埋めて涙を隠そうとした。

「ご主人様は、あの人を見て、あの人に作られたボクを、どう思った?」

「エフはエフだ。あの人は関係ない」

「本当に?ボクは、ご主人様に本当のことを言って欲しい。嫌いになったなら、嫌いでいい。ご主人様が望むなら、捨ててもいいから」

今のエフには、どんなに温かい言葉も安心材料にはなり得ないと思った。顔を寄せ、額にそっと口づける。するとエフは涙に輝く瞳で茫然とこちらを見上げた。

「生まれも育ちも関係ない。エフはエフだよ。ここに、俺の隣にいてくれて、嬉しいって思う」

「ご主人様・・・」
「名前で呼んでよ。さっきみたいに」

「……奏、ありがとう。お礼が三つ、貯まったよ」

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