第11話:夢子の子供と銀行の融資

文字数 3,028文字

 その後、奥さんがいつも通り妻有の里で仕事をしてる時に急に気分が悪くなった。パートの叔母さんが、もしや、おめでたとかと思い一緒に産婦人科について行き妊娠4ヶ月とわかり直ぐに達夫の勤める銀行に電話が入った。達夫は、うれしいやら心配やらで混乱。達夫の奥さんが妻有の里に戻ると店長が、おめでとうと言いでも大きな戦力が失うのは、きついと苦笑いした。

でも無理しなくても人数は何とかなるから大丈夫と言ってくれた。出産予定日が10月20日と言われた事を母に言うと大喜びしてくれた。母は、うちの子供は達夫一人だから達夫の次の世代ができると言うことは最高にうれしいんだよと大粒の涙を流して喜んでくれた。それも見ていた無口な父が達夫の肩をたたいて、でかしたと一言、言うと、うれし泣きした。

 翌日から産休に入って母が奥さんを本宅に住まわせ四六時中面倒見てくれた。そうして大きなお腹をして暑い夏、汗びっしょりなり苦しそうに歩いていた。やがて涼しい風が吹く9月、10月となり、みるみる奥さんの腹は突き出てきた。それを見た母が、きっと男なよとそっと言った。お腹をける回数も多いようで苦しそうだった。

 そして10月18日に陣痛がきてタクシーで立川共済病院の産婦人科に入院し1979年10月21日、早朝、2950グラムの男の子「安田健一」を無事出産。達夫は、その日、急遽、銀行に連絡して有休を取り奥さんを見舞いに行った。病室に入ってくるやいなや達夫に向かって、もー大変だから、この貸しは返してもらうよと言い達夫に甘えた。

 達夫が、よくやった御苦労さんと奥さんの頭をなでると号泣、なかなか泣き止まなかった。すると赤ちゃんも同時に泣くので大変。先生が来て安産でしたよと言い問題なければ数日後に家に帰れますと言ってくれ言ったとおり5日後に家に戻ってきて本宅の床の間に寝てもらい母が面倒見てくれると言ってくれた。

 父も毎日、見に来て可愛いなと言ってくれた。名前を考えていると達夫が健康が一番だから健一で良いのではと言うと奥さん同意し健一に決めた。その結果、長男、安田健一の誕生となった。習字の上手い父が安田健一と筆で立派な字を書き、その部屋に飾った。近くの親戚の叔父さん叔母さんが健一を見に来るようになり普段静かな安田家もにぎやかになった。

 翌月11月21日、立川の諏訪神社に初宮参りをしてきた。来年は庭に大きな鯉のぼりを買ってやろうなと達夫の父が言った。この年を終えて達夫の資産は1200万円となり銀行でも中堅になったが営業で外勤する事なく計算の検算の毎日が続いた。勤務年数と共に年収も増えた。やがて1980年を迎え、ケチな両親が珍しく健一にお年玉を1万円くれたのには驚いた。

 孫は目に入れても痛くないと言うが本当に可愛いのかも知れない。奥さんの方は健一に母乳を飲まれて腹が空いてしょうが無いようで四六時中、食べていた。その分、広い庭で散歩した。その後の検診でも母子ともに健康で問題なく、やがて春、3月、4月が過ぎて5月の連休に達夫と奥さんと子供と両親の5人でタクシーで立川のデパートに行き5月人形と鯉のぼりを見てきた。

 そして数十万円を出して豪華な五月人形と大きな鯉のぼりを買ってくれた。あのケチな両親がこんな大金をすっと出すとは、昔、絶対にあり得ない事であり孫の力ってすごいと実感。後日、デパートから送ってくれる事になり近くの妻有の里に立ち寄り食事をすると店の人が入れ替わり立ち替わり健一の顔を見に来ては可愛いねと言ってくれ奥さんは破顔一笑だった。

 店長が、いつ頃出てこられる聞くと7月頃には出ますと言ったが最初は朝10時から夜8時までで良いですかと言うと1日8時間、11時から7時までで良いと言った。店長が実際料理しなくてもチェックをして指導して欲しいと言ったので気を使ってもらってありがとうとお礼を述べた。食後、挨拶して自宅へ戻った。6月、梅雨時期はオムツが乾かず困った。

 梅雨が明けた7月15日に電話して来週月曜の17日から店に出ますと妻有の里の店長に連絡した。その後また達夫の奥さんの仕事が始まり達夫は相変わらず定時に出勤して定時に帰る仕事の毎日。妻有の里の別館も近くのマンションの人が来る様になり忙しくなったがチキンの持ち帰りとタンドリーチキン定食、唐揚げ定食も売れ行き好調で持ち帰りも含めて妻有の里に利益の70%も占めていた。

 奥さんが給料を月給制でなく時給で払ってもらった方が良いと店長に言うと、そうしようと言い時給1200円にした。暑い夏を迎えると2時からの休憩時間に店長がエアコンの効いた部屋に布団を引いて達夫の奥さんを寝かせてくれた。そんな話が耳に入った。たまに達夫も妻有の里に昼飯を食べに行き唐揚げやタンドリーチキンを実家の両親のお土産に買ってきた。

 秋風が吹き10月になり足早に寒さがやってきたと思うと12月、今年の年末の達夫の資産は1250万円に増えた。やがて1981年を迎えた。両親と家族3人の5人でタクシーで諏訪神社に初詣でに行き家族の健康と発展を祈願。1月の寒い日に妻有の里から達夫に電話がかかり奥さんに2人目の赤ちゃんが誕生した様だと連絡が入った。

 奥さんが家に帰ってきて予定日が7月28日だと知らせた。その話を本家の母に話すと喜んでくれ今度は女の子が良いねというと、父が、どっちでも健康な子なら良いと、ぼそっと話した。奥さんが、またお世話になりますというと、母が、顔を見るのが楽しみだよと笑った。明日から産休に入りますと妻有の里の店長に伝えてきたそうだ。

 達夫は、入社して10年目にして総勢5人の電算部の課長に就任し年収は特殊手当込みで1千万円を超え、同期入社の大卒さんの年収を超えた。この頃には大手銀行の電算化委員会の委員に選ばれて、使うべきソフトウェアの話をするまでになった。奥さんと健一は本家の床の間で生活して両親が初孫の健一をうれしそうに面倒を見てくれた。

 達夫は実にありがたいと思ってはいるが恥ずかしくて直接は言えなかった。年が明けても妻有の里のスパイシーチキン、餃子の持ち帰りが好調。店長が今年は総菜屋みたいに持ち帰り専門の店舗を出店を考えた。それには銀行からの融資が必要で困っていた時、夢子さんの旦那が銀行員だと言うことを思い出し、達夫の所で電話してきた。

 この当時、あまり景気が良くなかったので銀行側では、是非、話を聞こうと言った。そして妻有の里の定休日、水曜日に店長の広瀬政夫さんを三井銀行に呼んで現状の売上と利益をと新しい事業計画と聞いた。利益率を見て融資、承りますと言った。新しい店舗は今後の展開も考えて立川、国分寺、三鷹、武蔵境、吉祥寺、荻窪駅に5店舗人数は20人で考えていると言った。

 すると融資希望金額は5千万円と店長が言うと了解と融資部長が答えた。その頃にはパートさんが38人で調理師を目指す新入社員が5人入り大所帯になっていた。その後、店長の広瀬さんが不動産屋を回って5店舗の候補を6つ探してきて副店長と話合って多少高くても良い立地の5件を選び不動産屋に電話し翌日契約に行き必要な機材を購入する手はずを整えた。

 その3日後に各店舗に設置完了して若手の加藤貴之、北島智と山北幸雄の3人を店長にしてパートのおばちゃんで料理の上手な20人を交代で派遣して働いてもらうことにした。その後、新たに20人のパート・アルバイトを雇った。
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