第16話:祖父の死と財産分与

文字数 3,070文字

 1987年の夢子の目標は調理師試験を合格する事、昨年の合格者が勉強に使った本を借り、毎晩、勉強を開始。工場の生産量も増え3交代制でも人手が足らなくなったので今年も近くの中学と高校で20名とパート・アルバイトさんと40名を募集して採用。店長と夢子が製麺機械屋に通い詰めて5ヶ月目の1987年3月にやっと納得がいく腰のある蕎麦ができた。

 その機械をトラックで工場に持ち込み4月からへぎ蕎麦の製麺を開始した。機械屋は販売用の綺麗な製品を作り完成しだい、ミキサーと製麺機で8千万円で購入した。そして、その会社のへぎ蕎麦セットをビニールの袋つめする機械も月5万円でリースした。この機械は1時間で2百人分の「へぎ蕎麦」を作れる性能で月に1回のメンテナンス作業も依頼。

 そして「へぎ蕎麦セット」を売り出した。最初は5百個ずつ製造して試験的に販売したが千個ずつになり6月を越える頃には千個では足りない日が出るようになった。夏場にも販売が減ることはなかった。4人前で1500円で販売していった。トッピングに天ぷら、唐揚げ、かき揚げなどの売上も上がって来た。10月過ぎると1500食前後、売れる様になった、

 店長が製麺機の試験器も安く譲ってと頼むと、宣伝に全面的に協力してくれれば無料で提供するというので製麺機の宣伝を引き受けた。この製麺機の使用マニュアルをつくる手伝いもした。製麺機も数台、注文があった様で、その会社の社長も喜んだ。12月の年末には1日で2千食を超える注文があった。そうして1987年は「妻有の里」の利益総額、約15億円で終了。

 1988年となり、へぎ蕎麦のポスターで知名度も高まり三波春夫効果もありへぎ蕎麦の注文が1日あたり1600食を越えた。そして、かつては売上の落ち込む梅雨時と夏場、冬場にそれ程大きく落ち込まなくなった。今年は多分22から23億円の利益が見込まれた。夢子が工場長として活躍していた1988年3月18日、突然。祖父、安田清の危篤の知らせが入った。

 急いで立川共済病院に駆けつけると枕元に安田達夫と両親と自分の子供達3人が来ていた。長女の峰子が、お爺ちゃん頑張ってと手を握ると、うれしそうに峰子を見つめる祖父だった。しかし、だんだん意識が遠のいて行くのがわかった。30分位しただろうか、急に看護婦と医者がきて、脈をとり瞳孔をみて、ご臨終ですといった。

 祖母は大きなショックを避けるために老人ホームにいた。なんとも言えない雰囲気になり廊下に出ると、次男の健二が、お爺ちゃん死んだのと言うので長女の峰子が神様に召されて天国に行ったのよと言うと両親が泣き出した。峰子は優しくて賢い子だねと頭をなでてくれた。その後、自宅に戻り達夫が葬儀社や親戚に手際よく電話をした。

 そして、お通夜を3日後の土曜日、葬式を4日後の日曜日に立川市斎場で行う事にした。お通夜の日は寒い日で本宅の床の間に遺体を安置して和室とリビングを開け広げて近所の親戚、友人など20名が参加。故人の昔話をした。近くに住む親戚の安田駒子さんが安田清さんが結婚して、子供ができなくて悩んでいた。

 しかし、やっと男の子・安田治さんを授かった時は大声を上げ泣いたのを見たと話した。その後、安田治さんが結婚して長男の安田達夫さんが生まれたのを、いつも、うれしそうに親戚の所で話したのが、いじらしかったと話した。すると、すすり泣く声が聞こえた。続けて喪主の安田治が安田家は今後も安田達夫の3人の子がしっかりと守っていくと告げた。

 そして安田家を引き継ぎ、更に繁栄させますから安心して成仏して下さいと涙ながらに話した。その後、親戚の安田幸雄が突然、以前、安田清さんの遺言を預かったので見て欲しいと、その遺言書を達夫の両親と達夫に渡した。その書類を預かり、隣の部屋で読むと、もっている株式の明細と、納屋においてある、焼き物、掛け軸、貴金属、宝石の場所が書いてあった。

 資産は十分にあるから争いを起こさない様にと書いてあり本家を守っている安田治と明美に、半分、その息子、達夫一家に半分に分ける事と明記してあった。屋敷も半分に分けて2家族で仲良く暮らして欲しいと書いてあった。そして、最後に、未来を、ひ孫3人に託したいので、彼らに十分な教育を施してやりなさいと書いてあった。

 この件については両親と達夫夫婦で納得して、その通りにする事を確認した。その後、風呂に入り達夫と夢子と子供3人が離れに行って床についた。翌日は朝6時に起きて夢子さんが台所に立ち朝食の支度をして母が朝食の茶碗などを用意して自由に食べられるように大皿に盛りつけて、小皿を置いて、お客さん達に、召し上がってもらった。

 11時からの葬儀なので、10時半にハイエースと、自家用車4台に分乗して、立川斎場へ向かった。午後1時、葬儀も終わる頃、喪主の安田治が、挨拶して、葬儀の参加のお礼と、今後、子供、孫、7人で、しっかりと安田家の繁栄を引き継いでいきますと挨拶の言葉を話して終了した。その後、お墓までいって達夫達が家に帰ってきたのは午後15時過ぎだった。

 その後、香典袋などを確認し風呂に入って早めに床についた。翌、月曜日からいつものような日々が始まり子供達は学校へ、達夫は銀行へ、夢子は食品工場へ出かけていった。そうして少しずつ暖かくなってきた3月の第日曜日、両親と達夫で納屋を見ることにした。すると、まず、帳面が出て来て、そこには所有している株券の数量と銘柄名と預けてる先が書いてあった。

 トヨタ自動車株2万株、ソニー株2万株、三菱商事2万株、三井物産株2万株、伊藤忠商事2万株合計、10万株を野村證券、日本橋支店の預けてあると書いてあり、古い郵便貯金通帳が入っていて1950年時点で700万円になっていた。その他、掛け軸が10点と伊万里焼と九谷焼の皿と椀と壺、金銀の食器が多数出て来た。その他、庭の地図が書いてあった。

 地図に赤丸した所に金の仏像が3体、埋めてあると書いてあった。早速掘り出した。その他、奥の方に古い大きな金庫があり、鍵のありかも書いてあり焼き物の中からとりだして、開けてみると古文書と書が数点見つかった。また古い小判、金貨、紙幣が箱に入っていた。その後、達夫は、同じ銀行の昔なじみの佐藤君が骨董の趣味があると聞いていたので連絡した。

 そして電話して来てもらい見てもらえる事になった。20分後、佐藤君が到着しポラロイドカメラを手にして納屋の中に入り手際よく写真を撮って回った。1時間位して興奮した様子で出て来て離れに上がり開口一番、すごい金額になるよと言った。お茶を飲みながら、まず、骨董を売るならば、神田の叔父さんの佐藤骨董店が信用できると言った。

 あの叔父さんなら、それぞれの骨董品を買いたい業者を知っているから聞いてから売ると良いと教えてくれ、税控除の方法も詳しく教えてくれた。財産を分けるなら、あまり時間をかけずに、やった方が良いと言い、全面的に協力するから言ってくれと話してくれた。最初は、古銭、大判小判、郵便貯金の通帳、掛け軸、陶器、食器から売ると良いと語った。

 値段がわかり易く売り易いものを、その次に、いつでも売れる金、銀、宝飾品は最後に売れば良いとアドバイスした。大きな金の仏像は現在の価格で5千万円だが、現在、歴史的にみて金は安いので上昇した時に売った方が良いと話した。また税控除については多くの人の名義にして売る事と時間を分けて1年ごとに売る様にするのがコツだと説明してくれた。
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