第13話:夢子に3人の子と商売繁盛

文字数 2,375文字

 また荻窪、吉祥寺、武蔵小金井、国分寺、国立の立川6店舗は最初から4人体制で開始したが最初は慣れなかった。お客さんを待たせることもあったが慣れてくると4人でこなせる様になりピークはランチの11時半から13時。その次が夕方18時から20時の時間帯。各店舗に大型冷蔵庫を1台ずつ設置。営業時間は朝9時から夜21時の12時間とした。

 店舗が二倍になったが3月までは販売数量は1.5倍程度。5月の連休明けの頃から、この店が近所で認知され徐々に客足が伸び7月には1.8倍になり8月は多少減ったが10月には2倍を超えた。12月には2.5倍に増えた。都心に近く店舗の方がお客さんが多い様だ。1982年は新しい店舗の売り上げが近所の口コミで増えてきて立川の別館では忙しく製造をしていた。

しかし24時間製造をしていると午前中に時間が空くので機械の掃除やメンテナンスをするようになった。その後1982年の妻有の里の利益は2億1千万円で終了。1983年を迎え3月を過ぎると店舗の売り上げが増え以前の3倍位の売上になり今年も最低30%以上の利益増が予想された。4月5日、夢子さんが体調不良を訴え、産婦人科で3度目の妊娠がわかった。

 出産予定日1983年10月20日。さすがに店長も銀行員って意外に好き者なんだと奥さんと笑った。また産休に入り来年の10月頃、復帰します告げた。連絡を受けた達夫は、おもわず、まかたと言った。それで銀行中が笑いの渦となった。家に帰ると達夫は夢子に、ご苦労さんと言いゆっくり休めと言った。この話を母に言うと家族は多い方が良いよと喜んだ。

 私たちには達夫だけしか子供がいないが3人の孫ができるのはうれしいよと喜んでくれ本宅の床の間に来る様に言った。さて妻有の里は最初にオープンした店舗が販売数量を伸ばして夕方に分のおかずとして買う人が増えてきた。そのため3割増しの売上になった。口コミで売上が徐々に増え様だ。今年オープンした店舗も期待出来そうだった。

 半製品をトラックに乗って運び運搬時間は1日3回、8時、11時、15時と決めた。もし在庫がある場合はキャンセルの電話をいれることにした。冬場は水餃子の作り方の紙をつけると、注文が増えた。しかし作って欲しいという要望もあったが手間がかかりすぎるので冷えたら美味しくないという理由で断った。

 その後、今年は3億円ペースで順調に売れ、8月の暑い夏を越えても昨年の3割増しのペース出売れた。秋、更に売上が伸びた。10月20日に安田家に3kgの大きな男の子が誕生。次男で健二と命名し5日後に安田家に帰ってきた。その知らせを聞いた老人ホームに入っている祖父母の84歳の安田繁と82歳の安田弥生がやってきた。

 ひ孫の3歳の安田健一と1歳半の安田峰子を見て、可愛いねと大喜びした。そして孫の安田達夫と夢子さんに3人の子供を産んでくれてありがとうと出産祝いの厚いのし袋をくれた。お礼を言って、お茶を飲んで帰っていった。帰った後のし袋を開けると300万円が入っていた。父にどうしようかと相談するとケチな金持ちだから気にせず、ありがとうと言えと笑った。

 お礼を言い、ありがたく頂戴した。さて話を妻有の里の話に戻すと、今年も徐々にお客さんが増え、年の瀬が近づいてきた。12月15日、遂に利益が3億円を達成し店舗売りが増えると共に人数が足らなくなった。そのためパート職員を20人採用した。来春、店舗の店員数を4人から6人に増やして対応し年末を終えて最終的に1983年の利益は3億3千万円となった。

 一方、1983年の達夫の資産は1600万円に増え1984年を迎えた。達夫と夢子は両親と孫の7人で諏訪神社に初詣でに行き新しい命に感謝し家族の健康と繁栄を祈った。1984年は新年から妻有の里の売上は順調であり今年は店舗で新しい商品を考えよう提案。珍しいもので手がかからなくて美味しい中華のデザートを作ろうと考えた。

 新製品候補としてオーギョーチ「愛玉子」、杏仁豆腐、ごま揚げ団子、冷たいジャスミン茶がリストアップされ、これらの食品の原価率を計算してみるといけそうなので試験的に売れ行きの落ちる6月から販売してみた。暑い季節に良いようでオーギョーチ「愛玉子」、杏仁豆腐が売れ出して、供給が間に合わないほどになった。

 そこは中華の達人の腕で1回に作る量を増やして需要に追いついた。運送が間に合わない時には地元の運送業者に配送をお願いした。そして夏場の売上の落ちを止めた。ただ、ごま団子は人気がなく中止、ジャスミン茶を夏場無料サービスも好評で来店客が増えて売上増につながった。そして10月15日に夢子が、職場に復帰してきて別館の作業を手伝うように言われた。

 今年は昨年の利益の20%増位だったが中華デザートのお陰で夏場以降、売上が伸びてきた。10月末で30%増までなった。その後も来客数の増加と共に順調に売れていき1984年12月末で利益が4億円に迄に増加した。これによって三井銀行の融資分を全て返し終わった。また新しい調理師免許を取る若者が毎年10人程度になった。

 遂に妻有の里で1984年終了時点で調理師免許所有者が30人を越えた。1984年末の達夫の資産は3千万円に増えた。その後1985年を考え、もっと効率的は製造方法はないか中国人料理人2人と相談しオーギョーチや杏仁豆腐の寒天の容器も2倍にしてジャスミン茶の製造も大量に大きなヤカンで濃いお茶を入れてた。

 それを大きなたらいの中に入れた氷の中に注いで作る方法などのアイディアを出し、更に中華街の問屋から購入していた原料を台湾の業者に一括大量注文をし、直接、現金取り引きする事で40%の購入単価を下げることができた。その後、別館での製造にも限界が見えてきた事を店長に報告した。
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