第9話
文字数 3,654文字
僕たちが生者だということを知らない帆芸さんの提案は、無茶苦茶だった。
「大丈夫。すでに死んでいるから、痛みは無い。怖いのをちょっと我慢すればいいだけの話だ」
僕と新田と杏は互いに顔を見合わせた。自分たちが生きていることを伝えなければ、帆芸さんは無理矢理にでも僕たちを尻尾に乗せ、ぶっ飛ばしそうで怖い。
「あの、帆芸さん。ずっと、内緒にしていたことがありまして……」
「なんだ?」
新田と杏は帆芸さんのことを怖がっているみたいなので、僕が代表して説明することにした。
「実は僕たち、生きているんです……。生きたまま、〈深海町〉に来てしまいました……」
帆芸さんは、「なんだ。そんなことか」と苦笑した。
「ここに来たばかりの奴は、みんなそう言うよ。悲しいが、認めるしかないんだ。自分が、死んだってことをな」
「いえ、そうではなくて!」
僕は必死の形相で、帆芸さんに訴えた。
「僕たちは本当に、生きているんですよ!」
「だから、それは……」
「ほ、本当です!」
新田と杏が同時に叫んだ。二人も、このままではマズいと思ったのだろう。僕と並んで、帆芸さんへと口々に想いを伝えた。
帆芸さんは僕たちを、死んだことを受け入れられない可哀想な子供だ、とでも思ったのか、憐みを込めた目を向けてきた。
でも、僕たちがしつこく生きていることをアピールすると、「もしかしたら……」と迷いが生まれて、
「いや、そんな馬鹿な。だが、仮にお前たちが生きていたとしても、どうやってそれを証明するんだ?」
質問に対する答えが用意できず、僕は頭を抱えた。
そのときだった。新田が、いきなりズボンをめくりあげて、絆創膏が貼られた膝を帆芸さんの目の前にもっていった。
「見てください! これ! 昨日、校庭でサッカーをしたときに、ずっこけて擦りむいた傷です!」
絆創膏にはうっすらと血が滲んでいた。それを見た瞬間、帆芸さんはただでさえ大きな目を、よりいっそう大きくした。
「〈深海町〉にいる連中は、みんな死人だから血はでない。それなのに、お前は……」
帆芸さんはブツブツと呟き、そして、
「……なんでこんなところに来たんだ」
静かに、だが極めて厳かな声で言った。
「お前たちは、絶対に来てはいけなかった。生きている人間がここに来ることができるということは、
死んだはずの人間が化け物みたいな姿になって復活する。まるでフィクションの世界だが、そうなる可能性もあるかもしれない。
帆芸さんは多分、違うと思うけれど、転生ではなく転移を望む人間は、間違いなくいる。現実世界に戻る道があると知ったら、〈深海町〉の人口が減ってしまうだろう。
「一度死んだら、その人生は終わりなんだ。やり直しがきかないから、命というのは尊いんだ。……死ぬ前に悪いことばかりしていた俺が言うのもおかしな話だがな」
僕と新田と杏は、話をした相手が帆芸さんでよかったと安心した。僕たちを
「とにかく、その話は二度と口に出すな。お前たちはさっさと、現実世界に帰るべきだ」
わかってはいるが、問題はその方法だ。僕たちを上の階へ尻尾でぶっ飛ばす方法以外に、何かないのだろうか。
「うッ!?」
突然、帆芸さんの体がぐらりと傾いた。
「帆芸さん、どうしたんですか!?」
僕はポケットからマッチ棒を取り出し、火を灯して、帆芸さんの体を照らした。
帆芸さんの全身に、太い紐のようなものが巻き付いているのがわかった。よく見るとそれは、イカの触腕のような形をしている。それだけじゃなく、スティギオメデューサの触手に似た特徴的な帯状の物体も絡みついていた。
「へっへっへ……。ガキ共が大声で喋っているから、居場所を見つけるのは簡単だったぜぇ」
そんなことを言いながら、崖の淵からのそりと姿を見せたのは、スティギオメデューサの旗口さん。
「さっきはよくも、アタシたちの食事を邪魔してくれたね! そのガキ共と一緒に、あんたも食ってやる!」
ダイオウイカの倉上さんも一緒にいる。二人揃って、こっそり僕たちのあとをつけていたのだろう。獲物を横取りした帆芸さんに、とんでもなく怒っている様子。帆芸さんはダイオウイカとスティギオメデューサの腕と触手に縛られ、口を塞がれ、身動きが取れず、言葉を発することもできない状態になってしまった。
僕は、昔読んだ、とある海洋生物学者の観察記録を思い出した。
ある年に観察されたマッコウクジラの皮膚に、ダイオウイカとおぼしき生物の吸盤の跡が残っていた。海中に生息する生物の生態系ピラミッドの頂点に位置するマッコウクジラでも、サイズによっては序列の位置が変わることがある。相手が自身と同サイズであれば、捕食者ではなく、捕食される側に回ることも深海では少なくないのだ。
帆芸さんは自身と同じサイズの倉上さんと旗口さんから不意打ちを受け、捕食される側に回ってしまったのだ。いくら力の強い帆芸さんでも、巨大生物二匹が相手では分が悪い。
「どうしよう、このままだと帆芸さんが……!」
僕は急いで思考を働かせた。
巨大生物相手に、人は素手で勝つことはできない。人間の祖先は武器を扱うことを学習し、人より大きな獲物を狩ることに成功した。
人には知恵という武器があるのだ。それは、使い方次第では、どんな生物にも匹敵する、最強の武器となる。ここにある物を用いて、僕が、帆芸さんを助けるんだ。
僕はキッと表情を引き締め、巨大生物二匹に襲われている帆芸さんに向かって、勢いよく駆け出した。
「おい、何をする気だよ!?」
「コーイチ待って!」
新田と杏の声を無視して、僕は走った。倉上さんと旗口さんは気づいていない。不意打ちを仕掛けるなら、今だ。
「くらえっ!」
僕は火の点いたマッチ棒を投げつけた。狙いは倉上さん——ダイオウイカの巨大な目だ。
水生物の体温は、低い水温に適した温度に調節されているため、熱が苦手だ。中には例外もいるが、基本的に、熱いものが苦手。強火で炙った魚がすぐ焦げてしまうように、ダイオウイカも、火で炙れば皮膚に火傷を負う。マッチ棒の小さな火では〈イカぽっぽ焼き〉にすることはできないけれど、驚かすくらいはできるはずだ。
「うわッ!?」
巨大な目玉にマッチ棒が命中した瞬間、倉上さんは悲鳴を上げて飛び退いた。体を拘束していた触腕が僅かに緩み、その隙を狙って、帆芸さんは反撃を繰り出す。全力で頭部を振り、緩みをさらに大きくし、その勢いのまま、倉上さんの頭にかぶりついた。
そこからは一方的な展開だった。帆芸さんは倉上さんを鞭のように振り、旗口さんの頭部へ叩きつけた。巨大なクラゲ傘がボヨンとへこみ、戻った反動を利用して、帆芸さんはもう一発、強烈なダイオウイカ型鞭を旗口さんの頭部へ叩きつけ、最後はゴミを掃けるように尻尾で両者を谷底へ突き落とした。
「邪魔が入ったな。もう大丈夫だ」
帆芸さんは、なんてことないように言っているが、僕と新田と杏はまだ緊張していた。
仮に、すでに死んでいる身だとしても、誰かに襲われることは怖いことだ。僕は、自分がクジラほど大きな体の生物であっても、巨大生物二匹に襲われて、正気を保っていられる自信がない。
けれど、帆芸さんは襲われることに慣れているのか、すぐに思考を、僕と新田と杏を上の階へ送る話に戻していた。
「お前たちには悪いが、やはり、俺にはお前たちを上に吹っ飛ばすことしかできない」
喋りながら、帆芸さんは、先ほどの戦いで嚙み千切ったであろう、ダイオウイカの触腕を僕と新田と杏の前にペッと吐き出した。
「そのイカの腕をクッションに使えば、打ち上げの衝撃を弱められるかもしれない」
僕と新田と杏は、一刻も早くここを出たいと思った。そのためには多少の痛みも覚悟する必要がある。やるしかない、と決意を固め、三人で帆芸さんの尻尾に歩み寄った。
「おっ。やる気になったか」
帆芸さんは僕たちが登りやすくするために、尻尾を地面にくっつけた。
そのとき、ボトッと何かが落ちる音が聞こえた。
そして次の瞬間、僕たちの正面から、強烈な閃光が放たれた。
「うわっ!?」
予想外のフラッシュに僕たちは対応することができず、みんな揃って目を閉じた。恐らく、真正面から光を浴びたであろう帆芸さんが、野太い唸り声を上げた。
「……騒々しいわね。一体なんなの?」
女の声が聞こえた。距離はそう遠くない。僕たちの傍に、誰かが現れたのだ。
僕はまぶたを擦って、無理やり目を開けた。さっきまで何もなかった場所に、光り輝く物質が付着している。その上に、赤黒いポンチョのようなものを被った女性が立っていた。僕と新田と杏を誘拐し、超深海層の住み家に放置した張本人。コウモリダコの高野森さんだった。
「大丈夫。すでに死んでいるから、痛みは無い。怖いのをちょっと我慢すればいいだけの話だ」
僕と新田と杏は互いに顔を見合わせた。自分たちが生きていることを伝えなければ、帆芸さんは無理矢理にでも僕たちを尻尾に乗せ、ぶっ飛ばしそうで怖い。
「あの、帆芸さん。ずっと、内緒にしていたことがありまして……」
「なんだ?」
新田と杏は帆芸さんのことを怖がっているみたいなので、僕が代表して説明することにした。
「実は僕たち、生きているんです……。生きたまま、〈深海町〉に来てしまいました……」
帆芸さんは、「なんだ。そんなことか」と苦笑した。
「ここに来たばかりの奴は、みんなそう言うよ。悲しいが、認めるしかないんだ。自分が、死んだってことをな」
「いえ、そうではなくて!」
僕は必死の形相で、帆芸さんに訴えた。
「僕たちは本当に、生きているんですよ!」
「だから、それは……」
「ほ、本当です!」
新田と杏が同時に叫んだ。二人も、このままではマズいと思ったのだろう。僕と並んで、帆芸さんへと口々に想いを伝えた。
帆芸さんは僕たちを、死んだことを受け入れられない可哀想な子供だ、とでも思ったのか、憐みを込めた目を向けてきた。
でも、僕たちがしつこく生きていることをアピールすると、「もしかしたら……」と迷いが生まれて、
「いや、そんな馬鹿な。だが、仮にお前たちが生きていたとしても、どうやってそれを証明するんだ?」
質問に対する答えが用意できず、僕は頭を抱えた。
そのときだった。新田が、いきなりズボンをめくりあげて、絆創膏が貼られた膝を帆芸さんの目の前にもっていった。
「見てください! これ! 昨日、校庭でサッカーをしたときに、ずっこけて擦りむいた傷です!」
絆創膏にはうっすらと血が滲んでいた。それを見た瞬間、帆芸さんはただでさえ大きな目を、よりいっそう大きくした。
「〈深海町〉にいる連中は、みんな死人だから血はでない。それなのに、お前は……」
帆芸さんはブツブツと呟き、そして、
「……なんでこんなところに来たんだ」
静かに、だが極めて厳かな声で言った。
「お前たちは、絶対に来てはいけなかった。生きている人間がここに来ることができるということは、
逆もあり得るかもしれない
。〈深海町〉の住人に知られたら、現実世界がゾンビだらけになってしまうぞ」死んだはずの人間が化け物みたいな姿になって復活する。まるでフィクションの世界だが、そうなる可能性もあるかもしれない。
帆芸さんは多分、違うと思うけれど、転生ではなく転移を望む人間は、間違いなくいる。現実世界に戻る道があると知ったら、〈深海町〉の人口が減ってしまうだろう。
「一度死んだら、その人生は終わりなんだ。やり直しがきかないから、命というのは尊いんだ。……死ぬ前に悪いことばかりしていた俺が言うのもおかしな話だがな」
僕と新田と杏は、話をした相手が帆芸さんでよかったと安心した。僕たちを
おもちゃ
にしようと企んでいた倉上さんや旗口さん、誘拐犯の高野森さんが相手だったら、大変なことになっていただろう。〈深海町〉にいる人全員が、良い人ではないのだ。「とにかく、その話は二度と口に出すな。お前たちはさっさと、現実世界に帰るべきだ」
わかってはいるが、問題はその方法だ。僕たちを上の階へ尻尾でぶっ飛ばす方法以外に、何かないのだろうか。
「うッ!?」
突然、帆芸さんの体がぐらりと傾いた。
「帆芸さん、どうしたんですか!?」
僕はポケットからマッチ棒を取り出し、火を灯して、帆芸さんの体を照らした。
帆芸さんの全身に、太い紐のようなものが巻き付いているのがわかった。よく見るとそれは、イカの触腕のような形をしている。それだけじゃなく、スティギオメデューサの触手に似た特徴的な帯状の物体も絡みついていた。
「へっへっへ……。ガキ共が大声で喋っているから、居場所を見つけるのは簡単だったぜぇ」
そんなことを言いながら、崖の淵からのそりと姿を見せたのは、スティギオメデューサの旗口さん。
「さっきはよくも、アタシたちの食事を邪魔してくれたね! そのガキ共と一緒に、あんたも食ってやる!」
ダイオウイカの倉上さんも一緒にいる。二人揃って、こっそり僕たちのあとをつけていたのだろう。獲物を横取りした帆芸さんに、とんでもなく怒っている様子。帆芸さんはダイオウイカとスティギオメデューサの腕と触手に縛られ、口を塞がれ、身動きが取れず、言葉を発することもできない状態になってしまった。
僕は、昔読んだ、とある海洋生物学者の観察記録を思い出した。
ある年に観察されたマッコウクジラの皮膚に、ダイオウイカとおぼしき生物の吸盤の跡が残っていた。海中に生息する生物の生態系ピラミッドの頂点に位置するマッコウクジラでも、サイズによっては序列の位置が変わることがある。相手が自身と同サイズであれば、捕食者ではなく、捕食される側に回ることも深海では少なくないのだ。
帆芸さんは自身と同じサイズの倉上さんと旗口さんから不意打ちを受け、捕食される側に回ってしまったのだ。いくら力の強い帆芸さんでも、巨大生物二匹が相手では分が悪い。
「どうしよう、このままだと帆芸さんが……!」
僕は急いで思考を働かせた。
巨大生物相手に、人は素手で勝つことはできない。人間の祖先は武器を扱うことを学習し、人より大きな獲物を狩ることに成功した。
人には知恵という武器があるのだ。それは、使い方次第では、どんな生物にも匹敵する、最強の武器となる。ここにある物を用いて、僕が、帆芸さんを助けるんだ。
僕はキッと表情を引き締め、巨大生物二匹に襲われている帆芸さんに向かって、勢いよく駆け出した。
「おい、何をする気だよ!?」
「コーイチ待って!」
新田と杏の声を無視して、僕は走った。倉上さんと旗口さんは気づいていない。不意打ちを仕掛けるなら、今だ。
「くらえっ!」
僕は火の点いたマッチ棒を投げつけた。狙いは倉上さん——ダイオウイカの巨大な目だ。
水生物の体温は、低い水温に適した温度に調節されているため、熱が苦手だ。中には例外もいるが、基本的に、熱いものが苦手。強火で炙った魚がすぐ焦げてしまうように、ダイオウイカも、火で炙れば皮膚に火傷を負う。マッチ棒の小さな火では〈イカぽっぽ焼き〉にすることはできないけれど、驚かすくらいはできるはずだ。
「うわッ!?」
巨大な目玉にマッチ棒が命中した瞬間、倉上さんは悲鳴を上げて飛び退いた。体を拘束していた触腕が僅かに緩み、その隙を狙って、帆芸さんは反撃を繰り出す。全力で頭部を振り、緩みをさらに大きくし、その勢いのまま、倉上さんの頭にかぶりついた。
そこからは一方的な展開だった。帆芸さんは倉上さんを鞭のように振り、旗口さんの頭部へ叩きつけた。巨大なクラゲ傘がボヨンとへこみ、戻った反動を利用して、帆芸さんはもう一発、強烈なダイオウイカ型鞭を旗口さんの頭部へ叩きつけ、最後はゴミを掃けるように尻尾で両者を谷底へ突き落とした。
「邪魔が入ったな。もう大丈夫だ」
帆芸さんは、なんてことないように言っているが、僕と新田と杏はまだ緊張していた。
仮に、すでに死んでいる身だとしても、誰かに襲われることは怖いことだ。僕は、自分がクジラほど大きな体の生物であっても、巨大生物二匹に襲われて、正気を保っていられる自信がない。
けれど、帆芸さんは襲われることに慣れているのか、すぐに思考を、僕と新田と杏を上の階へ送る話に戻していた。
「お前たちには悪いが、やはり、俺にはお前たちを上に吹っ飛ばすことしかできない」
喋りながら、帆芸さんは、先ほどの戦いで嚙み千切ったであろう、ダイオウイカの触腕を僕と新田と杏の前にペッと吐き出した。
「そのイカの腕をクッションに使えば、打ち上げの衝撃を弱められるかもしれない」
僕と新田と杏は、一刻も早くここを出たいと思った。そのためには多少の痛みも覚悟する必要がある。やるしかない、と決意を固め、三人で帆芸さんの尻尾に歩み寄った。
「おっ。やる気になったか」
帆芸さんは僕たちが登りやすくするために、尻尾を地面にくっつけた。
そのとき、ボトッと何かが落ちる音が聞こえた。
そして次の瞬間、僕たちの正面から、強烈な閃光が放たれた。
「うわっ!?」
予想外のフラッシュに僕たちは対応することができず、みんな揃って目を閉じた。恐らく、真正面から光を浴びたであろう帆芸さんが、野太い唸り声を上げた。
「……騒々しいわね。一体なんなの?」
女の声が聞こえた。距離はそう遠くない。僕たちの傍に、誰かが現れたのだ。
僕はまぶたを擦って、無理やり目を開けた。さっきまで何もなかった場所に、光り輝く物質が付着している。その上に、赤黒いポンチョのようなものを被った女性が立っていた。僕と新田と杏を誘拐し、超深海層の住み家に放置した張本人。コウモリダコの高野森さんだった。