第7話
文字数 3,677文字
倉上さんは広げた腕を地面に叩きつけ、ブレーキをかけて止まった。僕と新田と杏は、弾力のあるゴムみたいな触腕に巻かれ、ゆっくりと地面に降ろされた。高野森さんの家から離れて、まだ三分くらいしか経っていないのに、地面に立つことになるとは思わなかった。辺りは変わらず真っ暗闇なので、中深層に到着したのではない。きっと、倉上さんは疲れたから、休憩の時間をとりたくて止まったのだ。
僕はマッチ箱をズボンのポケットから取り出し、手探りで一本摘み、箱の側面に擦って火を点けた。掲げると、新田と杏の姿と、倉上さんの触腕が見えるようになった。周囲に障害物一つ無いので、僕たちは今、学校のグラウンドみたいな広場にいるらしかった。
「ちょっと待ってね。今、友達を呼んでいるから」
倉上さんは、二本の触腕を振りながら言った。止まったのは休憩ではなく、友達と合流することが目的だったみたいだ。
「旗口 さんっていう、アタシよりも身体が大きい人なの。いつもこの辺を散歩しているのよ」
ダイオウイカは深海生物の中でもトップレベルの大きさを誇るので、それよりも大きな生物となると、それこそ、おとぎ話などのフィクションの世界に登場する、怪物のモデルとなったような伝説級の生物の可能性が高い。あるいは、クジラのような、超大型哺乳類だろうか。ゾッとするような見た目の生物でなければいい、と僕は心の中で願った。
「……あっ! 来た!」
倉上さんが腕を振る。マッチ棒の火が、旗口さんとおぼしき生物の姿を照らした瞬間、僕と新田と杏は、悲鳴を上げて抱き合った。
ビニールハウスのような、透明なドーム型の巨大傘と、そこから伸びる四本の太い帯状の触手。触手の長さは数十メートルを超え、巨大な傘のような頭部を支えている。そいつは、いまだ生態が謎に包まれている、ある意味、未確認生物みたいな奴だった。
「コーイチ! この化け物はなんなの!?」
「クラゲ!? でも、デカすぎじゃない!?」
「クラゲの中で、一番大きな無脊椎動物だよ……!」
学名は、〈スティギオメデューサ・ギガンティア〉。日本名では〈ダイオウクラゲ〉と呼ばれている世界最大級のクラゲが、旗口さんだった。
過去に発見された個体の中には、傘の直径が一メートルを超えるものがいたが、旗口さんの傘は、軽く三メートルを超えている。
触手も太く、まるで、体育で使う長いマットを傘からぶら下げているように見える。全長は恐らく、二十メートルを超えているだろう。ダイオウイカに匹敵するレベルの、巨大生物だ。
「旗口さん! この子供たちを見て! 凄いでしょう!?」
「ん、ああ……。本当だ、子供がここに来るなんて凄いね……」
どこに目があるのかわからないが、旗口さんは僕と新田と杏の姿を確認できているみたいだ。
「大人が落ちて来ることはあったけれど、子供は初めてよねぇ!」
「そうだね。でも、あんまり
「そんなこと無いわよ! 子供が一番、
「そうなのかなぁ? 食べたことないから、わからないや」
僕と新田と杏は、倉上さんと旗口さんの会話を聞きながら、キョトンとしていた。
美味しいだの、美味しくないだの、この巨大生物二匹はなんの話をしているのだろう。
「とりあえず、男はアタシが貰うから!」
「二人も? じゃあ、オレは女の子だけしか食えないの?」
「当たり前でしょう! アタシが見つけた餌なんだから、アタシが取り分を決めるのは当然でしょうが!」
「ん~……。まぁ、それもそうだね。うん、オレは女の子で我慢するよ」
「あ、あのっ!」
会話がなかなか終わらないので、僕は我慢できなくなって叫んだ。
「二人は、なんの話をしているのですか?」
「なんの話……?」
数秒間をおいて、倉上さんと旗口さんは大声で笑い出した。
「あっはっはっはっ! この状況になって、まだあんたたちは気づかないのかい!?」
「おめでたい頭だな。羨ましいよ」
小馬鹿にするような二人の笑い声に、僕は少しイラッとした。
「何がおかしいんですか?」
「あんた、アタシのこと良い人だと思っただろ。だからアタシを信用して、ここまでついて来た。違うかい?」
僕たちは倉上さんを良い人だと思い、信用して、ついて行った。それしか生き残る選択肢が無いと思って選んだ道が、今になって、間違いだったのではないかと僕たち三人は勘付き始めた。
「アタシが良い人に見えていたのなら、アタシには演技の才能があるかもね」
「その子たちが世間知らずなだけじゃないの?」
「お黙り!」
倉上さんは大きな腕で旗口さんの頭部をボヨンと殴った。
「おい
倉上さんの言葉に、僕と新田と杏は愕然とした。
僕は、今はっきりわかった。倉上さんは良い人ではなく、保護者のいない隙を狙って子供に接近し、誘拐した、第二の高野森さんだったのだ。
すべてを悟った瞬間、僕と新田と杏は互いの身体を寄せ合い、ガタガタと震えた。
「どうせ死人だ。二度も死にはしないから安心しな。その代わり、転生するまでお前らはアタシたちのオモチャになってもらうよ」
倉上さんと旗口さんが押し潰すように迫って来たのを見て、僕は両目を強くつぶった。
「……オォオオオオオオオオオオオオッ!」
地鳴りのような咆哮と、地震に似た揺れを感じ、目を開けた。
今のは、聞いたことがある。海に住む生物を紹介するビデオに登場した〈ある生物〉が似たような声を発していた。
揺れは段々と大きくなっていき、ついに、僕と新田と杏はまともに立っていることができなくなり、地面に尻餅をついた。
瞬間、何かが暗闇の中からもの凄い勢いで飛び出した。それは、牙の生えた口を大きく開けて宙に浮く、一匹の巨大なクジラだった。
「あんたは……!?」
倉上さんが何か言おうとしたが、最後まで言い切る前に、彼女の巨体は、同じく巨大な体を持つクジラの体当たりによって空中に吹っ飛ばされた。
続けて、クジラは旗口さんの頭部に噛みつき、獲物を銜えたサメみたいに激しく頭を振って、最後にブンッと倉上さんが吹っ飛んだ方向へ投げ飛ばした。
「ち、ちくしょう! 邪魔が入ったわ!」
「帆芸 か!? あの野郎、オレたちの邪魔をしやがって!」
「逃げるよ!」
「くっそ! 覚えてろよクジラ野郎!」
捨て台詞を吐いて、倉上さんと旗口さんは転がるように闇の中へ消えて行った。
「大丈夫か?」
見上げるような巨体から、優しい男の声が聞こえた。
食べられそうになったところを、目の前にいる、このクジラが助けてくれた。状況を理解してはいるけれども、ダイオウイカレベルの巨大なクジラに見下ろされている恐怖で、僕と新田と杏は固まってしまっていた。
「……俺は帆芸だ」
クジラが名乗った。この人も〈深海町〉の古株なのだろう。肉体は完全に——見た目の特徴から、恐らくマッコウクジラだろう。その姿になってしまっていた。
「危ないところだったな。倉上と旗口は、超深海層に根城を構え、ここへ落ちて来た上層の住人を捕らえて、
そこまで喋って、マッコウクジラの帆芸さんは溜息を吐いた。
「お前たちは、助けてもらったのに礼の一つも言えないのか?」
僕たちはハッと我に返って、ぺこぺこと頭を下げた。
「ここを出たいなら、俺の背中に乗れ。中深層まで連れて行ってやる」
ついさっき、騙されたばかりだったので、僕たちは迷った。
どうする、と相談し始めると、帆芸さんはまた、溜息を吐いた。
「俺のことが信用できないなら、好きにしろ」
「ま、待ってください!」
新田と杏と相談の最中だったが、僕は立ち去ろうとした帆芸さんを呼び止めた。
「お、お願いします! 僕たちを乗せてください!」
「ええっ!?」
勝手に決断して、新田と杏に悪いと思う気持ちはある。
だが、なんにせよ、僕と新田と杏だけで、上の階層へ行くのは無理だ。ここにいるのは巨大な生物に変化した人ばかりなので、地形も巨大生物専用に造られているはず。子供だけではよじ登ることができない場所も絶対にあるだろう。
帆芸さんが良い人か悪い人かはっきりしない。けれど、僕は直感で決めた。帆芸さんを頼るしか他に道は無い、と……。
「お願いします」
「……いいだろう。乗れ」
ドシン、と地面に垂らした尻尾に向かって、僕は新田と杏の手を引いた。
「コーイチ! マジで乗るの!?」
「あたしたち、今度はクジラの餌になるかもしれない……」
「でも、これしかないよ」
新田と杏が不安になるのもわかる。だが、賭けにでなければ、どうにもならない。人は一人では何もできないが、子供が数人集まったところで、必ずしも、問題を解決できるとは限らないのだ。
帆芸さんの大きな背中に座ると、地震みたいな揺れが起こった。
「振り落とされないように全力でしがみつけ。途中で人数が減っても、次は助けないぞ」
ズズズ、と音をたてて、帆芸さんは腹這いで暗闇の中を進み始めた。
僕はマッチ箱をズボンのポケットから取り出し、手探りで一本摘み、箱の側面に擦って火を点けた。掲げると、新田と杏の姿と、倉上さんの触腕が見えるようになった。周囲に障害物一つ無いので、僕たちは今、学校のグラウンドみたいな広場にいるらしかった。
「ちょっと待ってね。今、友達を呼んでいるから」
倉上さんは、二本の触腕を振りながら言った。止まったのは休憩ではなく、友達と合流することが目的だったみたいだ。
「
ダイオウイカは深海生物の中でもトップレベルの大きさを誇るので、それよりも大きな生物となると、それこそ、おとぎ話などのフィクションの世界に登場する、怪物のモデルとなったような伝説級の生物の可能性が高い。あるいは、クジラのような、超大型哺乳類だろうか。ゾッとするような見た目の生物でなければいい、と僕は心の中で願った。
「……あっ! 来た!」
倉上さんが腕を振る。マッチ棒の火が、旗口さんとおぼしき生物の姿を照らした瞬間、僕と新田と杏は、悲鳴を上げて抱き合った。
ビニールハウスのような、透明なドーム型の巨大傘と、そこから伸びる四本の太い帯状の触手。触手の長さは数十メートルを超え、巨大な傘のような頭部を支えている。そいつは、いまだ生態が謎に包まれている、ある意味、未確認生物みたいな奴だった。
「コーイチ! この化け物はなんなの!?」
「クラゲ!? でも、デカすぎじゃない!?」
「クラゲの中で、一番大きな無脊椎動物だよ……!」
学名は、〈スティギオメデューサ・ギガンティア〉。日本名では〈ダイオウクラゲ〉と呼ばれている世界最大級のクラゲが、旗口さんだった。
過去に発見された個体の中には、傘の直径が一メートルを超えるものがいたが、旗口さんの傘は、軽く三メートルを超えている。
触手も太く、まるで、体育で使う長いマットを傘からぶら下げているように見える。全長は恐らく、二十メートルを超えているだろう。ダイオウイカに匹敵するレベルの、巨大生物だ。
「旗口さん! この子供たちを見て! 凄いでしょう!?」
「ん、ああ……。本当だ、子供がここに来るなんて凄いね……」
どこに目があるのかわからないが、旗口さんは僕と新田と杏の姿を確認できているみたいだ。
「大人が落ちて来ることはあったけれど、子供は初めてよねぇ!」
「そうだね。でも、あんまり
美味しくなさそう
だね……」「そんなこと無いわよ! 子供が一番、
噛みごたえがあって美味しい
はずよ!」「そうなのかなぁ? 食べたことないから、わからないや」
僕と新田と杏は、倉上さんと旗口さんの会話を聞きながら、キョトンとしていた。
美味しいだの、美味しくないだの、この巨大生物二匹はなんの話をしているのだろう。
「とりあえず、男はアタシが貰うから!」
「二人も? じゃあ、オレは女の子だけしか食えないの?」
「当たり前でしょう! アタシが見つけた餌なんだから、アタシが取り分を決めるのは当然でしょうが!」
「ん~……。まぁ、それもそうだね。うん、オレは女の子で我慢するよ」
「あ、あのっ!」
会話がなかなか終わらないので、僕は我慢できなくなって叫んだ。
「二人は、なんの話をしているのですか?」
「なんの話……?」
数秒間をおいて、倉上さんと旗口さんは大声で笑い出した。
「あっはっはっはっ! この状況になって、まだあんたたちは気づかないのかい!?」
「おめでたい頭だな。羨ましいよ」
小馬鹿にするような二人の笑い声に、僕は少しイラッとした。
「何がおかしいんですか?」
「あんた、アタシのこと良い人だと思っただろ。だからアタシを信用して、ここまでついて来た。違うかい?」
僕たちは倉上さんを良い人だと思い、信用して、ついて行った。それしか生き残る選択肢が無いと思って選んだ道が、今になって、間違いだったのではないかと僕たち三人は勘付き始めた。
「アタシが良い人に見えていたのなら、アタシには演技の才能があるかもね」
「その子たちが世間知らずなだけじゃないの?」
「お黙り!」
倉上さんは大きな腕で旗口さんの頭部をボヨンと殴った。
「おい
ガキ共
。お前ら、知らない人にはついて行っちゃあいけないって、お父さんとお母さんから教わらなかったのかい?」倉上さんの言葉に、僕と新田と杏は愕然とした。
僕は、今はっきりわかった。倉上さんは良い人ではなく、保護者のいない隙を狙って子供に接近し、誘拐した、第二の高野森さんだったのだ。
すべてを悟った瞬間、僕と新田と杏は互いの身体を寄せ合い、ガタガタと震えた。
「どうせ死人だ。二度も死にはしないから安心しな。その代わり、転生するまでお前らはアタシたちのオモチャになってもらうよ」
倉上さんと旗口さんが押し潰すように迫って来たのを見て、僕は両目を強くつぶった。
「……オォオオオオオオオオオオオオッ!」
地鳴りのような咆哮と、地震に似た揺れを感じ、目を開けた。
今のは、聞いたことがある。海に住む生物を紹介するビデオに登場した〈ある生物〉が似たような声を発していた。
揺れは段々と大きくなっていき、ついに、僕と新田と杏はまともに立っていることができなくなり、地面に尻餅をついた。
瞬間、何かが暗闇の中からもの凄い勢いで飛び出した。それは、牙の生えた口を大きく開けて宙に浮く、一匹の巨大なクジラだった。
「あんたは……!?」
倉上さんが何か言おうとしたが、最後まで言い切る前に、彼女の巨体は、同じく巨大な体を持つクジラの体当たりによって空中に吹っ飛ばされた。
続けて、クジラは旗口さんの頭部に噛みつき、獲物を銜えたサメみたいに激しく頭を振って、最後にブンッと倉上さんが吹っ飛んだ方向へ投げ飛ばした。
「ち、ちくしょう! 邪魔が入ったわ!」
「
「逃げるよ!」
「くっそ! 覚えてろよクジラ野郎!」
捨て台詞を吐いて、倉上さんと旗口さんは転がるように闇の中へ消えて行った。
「大丈夫か?」
見上げるような巨体から、優しい男の声が聞こえた。
食べられそうになったところを、目の前にいる、このクジラが助けてくれた。状況を理解してはいるけれども、ダイオウイカレベルの巨大なクジラに見下ろされている恐怖で、僕と新田と杏は固まってしまっていた。
「……俺は帆芸だ」
クジラが名乗った。この人も〈深海町〉の古株なのだろう。肉体は完全に——見た目の特徴から、恐らくマッコウクジラだろう。その姿になってしまっていた。
「危ないところだったな。倉上と旗口は、超深海層に根城を構え、ここへ落ちて来た上層の住人を捕らえて、
おしゃぶり
みたいにして遊ぶ異常者だ」そこまで喋って、マッコウクジラの帆芸さんは溜息を吐いた。
「お前たちは、助けてもらったのに礼の一つも言えないのか?」
僕たちはハッと我に返って、ぺこぺこと頭を下げた。
「ここを出たいなら、俺の背中に乗れ。中深層まで連れて行ってやる」
ついさっき、騙されたばかりだったので、僕たちは迷った。
どうする、と相談し始めると、帆芸さんはまた、溜息を吐いた。
「俺のことが信用できないなら、好きにしろ」
「ま、待ってください!」
新田と杏と相談の最中だったが、僕は立ち去ろうとした帆芸さんを呼び止めた。
「お、お願いします! 僕たちを乗せてください!」
「ええっ!?」
勝手に決断して、新田と杏に悪いと思う気持ちはある。
だが、なんにせよ、僕と新田と杏だけで、上の階層へ行くのは無理だ。ここにいるのは巨大な生物に変化した人ばかりなので、地形も巨大生物専用に造られているはず。子供だけではよじ登ることができない場所も絶対にあるだろう。
帆芸さんが良い人か悪い人かはっきりしない。けれど、僕は直感で決めた。帆芸さんを頼るしか他に道は無い、と……。
「お願いします」
「……いいだろう。乗れ」
ドシン、と地面に垂らした尻尾に向かって、僕は新田と杏の手を引いた。
「コーイチ! マジで乗るの!?」
「あたしたち、今度はクジラの餌になるかもしれない……」
「でも、これしかないよ」
新田と杏が不安になるのもわかる。だが、賭けにでなければ、どうにもならない。人は一人では何もできないが、子供が数人集まったところで、必ずしも、問題を解決できるとは限らないのだ。
帆芸さんの大きな背中に座ると、地震みたいな揺れが起こった。
「振り落とされないように全力でしがみつけ。途中で人数が減っても、次は助けないぞ」
ズズズ、と音をたてて、帆芸さんは腹這いで暗闇の中を進み始めた。