時間、鳥の時間、一瞬と永遠を想う能力
文字数 1,634文字
一本の桜の木。普段は忘れられているような。市の所有地で、公園にするには狭すぎる、遊具を置く余地もない、そんな一角になんとなく桜が植えられている。
春先になると、小さな固いつぼみがつき始め、それが心を開くようにほころびゆく。花が咲く……二分咲き、三分咲き……町の人々は、その木が桜の木であったことを思い出す。七分咲き……八分咲き……おじいさんが連れ合いに言う。
「もう二、三日で満開だな」
そして満開の日!
道ゆく人々がその枝振りを見上げている。小さな子供が手を掲げて、舞い散る花びらを捕まえようとしている。犬の散歩をする人。犬の黒い鼻には、桜の白い花びらがちょこんとついている。
たった一本の桜の木が、町の人の時間をどれほど豊かにしていることだろう?
私は川べりを散策することを覚える。六月の日没後には蛍が乱舞する川べり。いくつもの黄緑色の光がついては消え、ついては消えながら複雑な軌道を描く。ずっと見ていたかった。立ち去りたくなかった。
その川には、秋から春の間、真鴨が渡ってきた。冬の朝はマイナス10℃。川面 は凍りつき、その上に雪が積もっている。真鴨の群れの大部分は、流れがあって凍結を免れたところに着水するが、氷の上に降りた鴨たちはスケートのように滑っていく。
この真鴨たちに、餌をやるおばあさんがいた。私にも餌をやらせてくれた。ボウルいっぱいの刻んだ野菜くず。
やがてこの真鴨の群れは、私の頭上を飛んで通り過ぎるとき、黄色いくちばしでグワッ、グワッと鳴き騒ぐようになった。挨拶するみたいに。
こんなことがあった。
その真鴨の餌やりのおばあさんは、一人暮らしの私を気にかけて、菜園でとれた野菜をよく持たせてくれた。ある夏、食べきれないほどたくさんのキュウリをくれるので、私は同僚に尋ねてみた。
「Hさん、うちにキュウリがたくさんあるのだけど、少しもらってくれない?」
Hさんは噴き出し、声を上げて笑った。
「あのね、うちにはトラウマになるほどキュウリの山があるの!」
その人のお宅は一軒家なのだが、朝起きると玄関に箱いっぱいのキュウリのお裾分けが置いてあるのだそうだ。
真鴨に話を戻そう。この鴨たちは、日が沈むと、数羽ずつの群れを作って順に巣に帰っていく。私はふと思い立ち、真鴨が川を去る時間を計る。
最初の群れが飛び立つのは17時51分。最後の群れが飛び立つのは17時54分。あとには少数のカルガモが残る。
ある朝、凍りついた雪をザクザクと踏みながら川べりを歩いていると、どこからかお味噌汁の匂いが漂ってくる。目を向けると、その家からは野菜を刻む音。
すると、一羽の真っ白い鷺が――恐らくダイサギだろう――翼を広げて飛んできて、その家の屋根にとまった。
私はふと、幸せとはこういうことかと思う。
味噌汁を作っている人の頭の上には、大きくて白い鳥がいて、快晴の冬の朝日に輝いている。それはそれは美しいのだけど、家の人は、そのことを知らないのだ。
歩を進めると、集団登校の小学生に会う。みんなランドセルにクマよけの鈴をつけている。子供たちが走ると鈴が一斉に鳴る。
通りすがるとき、子供たちが口々に挨拶する。おはようございます!
私は見送る。おはよう。いってらっしゃい。おはよう。おはよう。走ると危ないよ……。
朝早くに小説を書いていると、家のそばにイカルが来て、「ヒコヒコヒー」と愛らしい声で鳴くようになった。
イカルが鳴き始めるのは6時31分。それが、二日もすると6時29分に鳴き始める。珍しい。鳥の体内時計でも間違えることがあるのか。また数日すると、6時27分に鳴き始める。そのとき理解した。
鳥の時計が間違っているのではない、朝がくるのが早くなっているのだ。もう春がきているのだ!
私はこうしたことを、一生覚えているのだと思う。死んだあとにも記憶だけが永遠に残るのではないかと思うほど。
人って不思議だ。誰も永遠には生きられないのに、永遠を想う能力を持っている。
春先になると、小さな固いつぼみがつき始め、それが心を開くようにほころびゆく。花が咲く……二分咲き、三分咲き……町の人々は、その木が桜の木であったことを思い出す。七分咲き……八分咲き……おじいさんが連れ合いに言う。
「もう二、三日で満開だな」
そして満開の日!
道ゆく人々がその枝振りを見上げている。小さな子供が手を掲げて、舞い散る花びらを捕まえようとしている。犬の散歩をする人。犬の黒い鼻には、桜の白い花びらがちょこんとついている。
たった一本の桜の木が、町の人の時間をどれほど豊かにしていることだろう?
私は川べりを散策することを覚える。六月の日没後には蛍が乱舞する川べり。いくつもの黄緑色の光がついては消え、ついては消えながら複雑な軌道を描く。ずっと見ていたかった。立ち去りたくなかった。
その川には、秋から春の間、真鴨が渡ってきた。冬の朝はマイナス10℃。
この真鴨たちに、餌をやるおばあさんがいた。私にも餌をやらせてくれた。ボウルいっぱいの刻んだ野菜くず。
やがてこの真鴨の群れは、私の頭上を飛んで通り過ぎるとき、黄色いくちばしでグワッ、グワッと鳴き騒ぐようになった。挨拶するみたいに。
こんなことがあった。
その真鴨の餌やりのおばあさんは、一人暮らしの私を気にかけて、菜園でとれた野菜をよく持たせてくれた。ある夏、食べきれないほどたくさんのキュウリをくれるので、私は同僚に尋ねてみた。
「Hさん、うちにキュウリがたくさんあるのだけど、少しもらってくれない?」
Hさんは噴き出し、声を上げて笑った。
「あのね、うちにはトラウマになるほどキュウリの山があるの!」
その人のお宅は一軒家なのだが、朝起きると玄関に箱いっぱいのキュウリのお裾分けが置いてあるのだそうだ。
真鴨に話を戻そう。この鴨たちは、日が沈むと、数羽ずつの群れを作って順に巣に帰っていく。私はふと思い立ち、真鴨が川を去る時間を計る。
最初の群れが飛び立つのは17時51分。最後の群れが飛び立つのは17時54分。あとには少数のカルガモが残る。
ある朝、凍りついた雪をザクザクと踏みながら川べりを歩いていると、どこからかお味噌汁の匂いが漂ってくる。目を向けると、その家からは野菜を刻む音。
すると、一羽の真っ白い鷺が――恐らくダイサギだろう――翼を広げて飛んできて、その家の屋根にとまった。
私はふと、幸せとはこういうことかと思う。
味噌汁を作っている人の頭の上には、大きくて白い鳥がいて、快晴の冬の朝日に輝いている。それはそれは美しいのだけど、家の人は、そのことを知らないのだ。
歩を進めると、集団登校の小学生に会う。みんなランドセルにクマよけの鈴をつけている。子供たちが走ると鈴が一斉に鳴る。
通りすがるとき、子供たちが口々に挨拶する。おはようございます!
私は見送る。おはよう。いってらっしゃい。おはよう。おはよう。走ると危ないよ……。
朝早くに小説を書いていると、家のそばにイカルが来て、「ヒコヒコヒー」と愛らしい声で鳴くようになった。
イカルが鳴き始めるのは6時31分。それが、二日もすると6時29分に鳴き始める。珍しい。鳥の体内時計でも間違えることがあるのか。また数日すると、6時27分に鳴き始める。そのとき理解した。
鳥の時計が間違っているのではない、朝がくるのが早くなっているのだ。もう春がきているのだ!
私はこうしたことを、一生覚えているのだと思う。死んだあとにも記憶だけが永遠に残るのではないかと思うほど。
人って不思議だ。誰も永遠には生きられないのに、永遠を想う能力を持っている。