教会の門の内側に立っていたSさんの一件
文字数 1,478文字
私の母教会(洗礼を受けた教会のこと)には、二つの門があった。
一つは、聖堂から前庭を挟んで正面にある正門。
二つめは聖堂左手にある通用門。
土曜日の夜のミサが終われば、私より先に聖堂を出た人々が正門付近で立ち話をしているのが常だった。
だがその夜は違った。
みんな通用門から教会を出ていく。立ち話をする人も、通用門の前でしている。
どうしたのだろうと思えば、正門の内側の暗がりに、一人の男性が立っていた。
もう真っ暗で、北風が吹きすさんでいる。近づいてみればその人は、シャツの上に薄いウインドブレーカーを羽織っているだけで、小さなキャリーを持っていた。
路上生活者のようだ。
私は声をかけてみた。
「すみません、あなた、お腹が空いているのではありませんか?」
その人はやたらと頭を下げながら、「この辺りで路上生活をしています」という。
まだ家を失って日が浅いのか、それともよほどきれい好きなのか、体臭もなく、着ているものもどうにかして洗濯しているようだった。なので私は、
「これから食事に行くところです。一緒に行きましょう」
と誘った。
途中でコンビニに入り、思いつく限り必要そうなものを買い込む。まず食糧。日持ちして、そのまま食べることができて、栄養のあるもの……フルーツグラノーラ。ペットボトルのお茶。ペットボトルがあれば公園の水を持ち運べる。歯磨きセット。石鹸。カミソリ。タオル。カイロ。
(その人は、真っ暗で誰もいない、寒い公園で、裸になって体を洗っているのだろう。一人で)
ラーメン屋に行って、その人と私が食べたいものをじゃんじゃん頼む。ラーメンでもチャーハンでも餃子でも。
「あなたの名前を教えてください」
その人はSさんと言った。名乗るとき、懐かしむような、愛おしむような目をしていたことを忘れない。
Sさんは言った。
「役所に行っても必要な支援を得られません。この辺りで私のような者に支援をしてくれる団体はありませんか? 仕事につけるように……」
私は答えて言った。
「カトリックの教会でも炊き出しがありますが、日が限られています。
生活困窮者の支援に長けた、『救世軍』というキリスト教団体がこの辺りにあったはずです。もしかしたら、そこの人たちなら知恵を持っているかもしれません」
私はその団体の、一番近い住所と電話番号を調べ、メモを渡す。それから、財布にある小銭全てを。朝になったら、その人が電話をかけられるように。電車に乗っていけるように。
「ごめんなさい。私にできるのはここまでです」
あとは頭を下げるしかなかった。
私がこういうことをしたのは、Sさんのためではなく、すべて自分のためだった。
通用門で立ち話をしていた同じ教会の人たちに、沈黙の背中を見たからだ。
子供の頃、幾度となく目にした、私を見捨てる背中を。
私の最良の友でさえ、「そういうとき、私だったら警察を呼ぶ」という。
けれど私自身が私を拒む沈黙の背中にならないためには、こうするしかなかったのだ。Sさんに背中を見せないことは、人助けなどではなく、自分自身のための当然の義務だった。
警察なら誰でも呼ぶだろう。Sさんに必要だったのは、それよりも誰かと食事を共にすることだった。誰かに名乗ることだった。自分に名前があり、他の誰でもない自分自身であることを確認することだったのだ。
人間とは、己の過去を救済する可能性を見つけたのなら、なんでもする生き物なのかもしれない。
Sさんは今どうしているだろうか。
あの夜の出来事で、もう少し生きてみようと思ってくれただろうか。そうであればいい。
一つは、聖堂から前庭を挟んで正面にある正門。
二つめは聖堂左手にある通用門。
土曜日の夜のミサが終われば、私より先に聖堂を出た人々が正門付近で立ち話をしているのが常だった。
だがその夜は違った。
みんな通用門から教会を出ていく。立ち話をする人も、通用門の前でしている。
どうしたのだろうと思えば、正門の内側の暗がりに、一人の男性が立っていた。
もう真っ暗で、北風が吹きすさんでいる。近づいてみればその人は、シャツの上に薄いウインドブレーカーを羽織っているだけで、小さなキャリーを持っていた。
路上生活者のようだ。
私は声をかけてみた。
「すみません、あなた、お腹が空いているのではありませんか?」
その人はやたらと頭を下げながら、「この辺りで路上生活をしています」という。
まだ家を失って日が浅いのか、それともよほどきれい好きなのか、体臭もなく、着ているものもどうにかして洗濯しているようだった。なので私は、
「これから食事に行くところです。一緒に行きましょう」
と誘った。
途中でコンビニに入り、思いつく限り必要そうなものを買い込む。まず食糧。日持ちして、そのまま食べることができて、栄養のあるもの……フルーツグラノーラ。ペットボトルのお茶。ペットボトルがあれば公園の水を持ち運べる。歯磨きセット。石鹸。カミソリ。タオル。カイロ。
(その人は、真っ暗で誰もいない、寒い公園で、裸になって体を洗っているのだろう。一人で)
ラーメン屋に行って、その人と私が食べたいものをじゃんじゃん頼む。ラーメンでもチャーハンでも餃子でも。
「あなたの名前を教えてください」
その人はSさんと言った。名乗るとき、懐かしむような、愛おしむような目をしていたことを忘れない。
Sさんは言った。
「役所に行っても必要な支援を得られません。この辺りで私のような者に支援をしてくれる団体はありませんか? 仕事につけるように……」
私は答えて言った。
「カトリックの教会でも炊き出しがありますが、日が限られています。
生活困窮者の支援に長けた、『救世軍』というキリスト教団体がこの辺りにあったはずです。もしかしたら、そこの人たちなら知恵を持っているかもしれません」
私はその団体の、一番近い住所と電話番号を調べ、メモを渡す。それから、財布にある小銭全てを。朝になったら、その人が電話をかけられるように。電車に乗っていけるように。
「ごめんなさい。私にできるのはここまでです」
あとは頭を下げるしかなかった。
私がこういうことをしたのは、Sさんのためではなく、すべて自分のためだった。
通用門で立ち話をしていた同じ教会の人たちに、沈黙の背中を見たからだ。
子供の頃、幾度となく目にした、私を見捨てる背中を。
私の最良の友でさえ、「そういうとき、私だったら警察を呼ぶ」という。
けれど私自身が私を拒む沈黙の背中にならないためには、こうするしかなかったのだ。Sさんに背中を見せないことは、人助けなどではなく、自分自身のための当然の義務だった。
警察なら誰でも呼ぶだろう。Sさんに必要だったのは、それよりも誰かと食事を共にすることだった。誰かに名乗ることだった。自分に名前があり、他の誰でもない自分自身であることを確認することだったのだ。
人間とは、己の過去を救済する可能性を見つけたのなら、なんでもする生き物なのかもしれない。
Sさんは今どうしているだろうか。
あの夜の出来事で、もう少し生きてみようと思ってくれただろうか。そうであればいい。