きたないキリスト教徒
文字数 1,729文字
私が思うに、キリスト教には二つの極がある。
「きれいなキリスト教」と、「きたないキリスト教」だ。
手元にある本を紹介しよう。
『釜ヶ崎と福音――神は小さく貧しくされた者と共に』
(著:本田哲郎 岩波書店 岩波現代文庫)
著者の本田氏はフランシスコ会の司祭で、「よい子症候群」の自分に苦しんでいた。そんな自分を変えて下さるようにと必死に神に祈り、聖書を原語から読み直す。その試みの中で浮き彫りになってきたイエス、読み落とされてきたイエスの姿は、あまりにも惨めなものだった。
イエスの誕生という出来事について、著者はこう記述する。
『きれいな星を飾った馬小屋で、羊たちに囲まれて、といったロマンチックなクリスマス・メッセージではないのですよ』
ヨセフは親族じゅうから爪弾きにされ、マリアは出産という命がけの営為を、家畜小屋という不衛生極まる場所で行わなければならなかった。馬糞の悪臭が立ち込めている場所で、オギャアと産声をあげた赤子イエスを見にきたのは、当時罪人 とされていた羊飼いたちだった。
(※ユダヤ教の律法では安息日の労働は禁止されており、草を求めて長距離を歩く羊飼いのように律法を否応なく破らざるを得ない人々は罪人とされていた)
著者は路上生活者を支援し、路上生活者と共に働き、路上生活者と共にミサをあげる。社会の最底辺の生活を余儀なくされる人々の中に神の働きを見るのだ。著者がとらえる「神の子」イエスの姿もまた、社会の最底辺の者だ。食い意地の張った酒飲みのイエス。無学のイエス。誰にも尊敬されず、罪人の仕事である石切として生活するイエス。そこには、クリスマスやイースターを盛大に祝う教会、キリスト教のきらきらした気配は微塵もない。
私はカトリックの教会で洗礼を受けた。
きらきらした世界だった。
教会の一員として迎えられたとき、青年会の一人が親切に教えてくれた。
「あの人はA家の人、あの人はB家の人……」
教会内のグループを、家単位でわけることができるのだ。
カトリックでは洗礼を受けるとき、女性であれば『代母 』というのを立ててもらわなければならない。その人を信仰生活の模範とする、のだそうだ。
洗礼前、聖書講座を受講しているとき、先輩の信徒がニコニコしながら伝えてくれた。
「あなたの代母が決まったよ。某カトリック高校で教鞭をとっておられた、
身元。
教会 は、私の想像以上に家や身元がものをいう世界だった。不安になる。身元どころではない私に居場所はあるだろうか?
代母になるという女性がかつて教えていた、某カトリック高校のパンフレットが信徒会館に置いてある。
『当校ではキリスト教精神にかなう生徒を見定めるべく面接を行なっており……』
なんだかそんなようなことが書いてある。
お嬢様学校だ。私の知らない、きらきらした世界。
キリスト教精神にかなうと選別された生徒にさらにキリスト教教育を施してなんになるのだろう。「キリスト教精神にかなわない」とふるいにかけた相手にこそキリスト教精神について教育が必要ではなかろうか。矛盾を感じる。
「あなたの家族は洗礼を受けないの?」
ある熟年女性の信徒が尋ねる。私は答える。
「私に家族はおりません」
「あら、どうして?」
「幼少期の虐待等を理由に、絶縁しました」
すると女性はきらきらと目を輝かせる。
「あら、かわいそうに、大変だったわね。うちは大家族でね、本当に賑やかだったのよ。その温もりを
ああ、そうかい。よかったね。私は怒りを押し殺す。どこから目線だよ?
黙っていればよかったのか。本当のことを言わず、家族について口を濁していれば。けれど、神の家でその部分を否定したら、私が神の家を訪れた理由はなくなってしまう。見下されることや、傷つくことを恐れて自分を偽れば、私の精神の最も充溢した部分が損なわれてしまう。
私が私ではなくなってしまう。
だから本当のことを告げ、黙って痛みを受け止める。
これは信仰的な読み物ではない。ただ、一人の惨めな、全然きらきらしていない「きたないキリスト教」の信徒が見聞きした事柄についてのエッセイだ。
「きれいなキリスト教」と、「きたないキリスト教」だ。
手元にある本を紹介しよう。
『釜ヶ崎と福音――神は小さく貧しくされた者と共に』
(著:本田哲郎 岩波書店 岩波現代文庫)
著者の本田氏はフランシスコ会の司祭で、「よい子症候群」の自分に苦しんでいた。そんな自分を変えて下さるようにと必死に神に祈り、聖書を原語から読み直す。その試みの中で浮き彫りになってきたイエス、読み落とされてきたイエスの姿は、あまりにも惨めなものだった。
イエスの誕生という出来事について、著者はこう記述する。
『きれいな星を飾った馬小屋で、羊たちに囲まれて、といったロマンチックなクリスマス・メッセージではないのですよ』
ヨセフは親族じゅうから爪弾きにされ、マリアは出産という命がけの営為を、家畜小屋という不衛生極まる場所で行わなければならなかった。馬糞の悪臭が立ち込めている場所で、オギャアと産声をあげた赤子イエスを見にきたのは、当時
(※ユダヤ教の律法では安息日の労働は禁止されており、草を求めて長距離を歩く羊飼いのように律法を否応なく破らざるを得ない人々は罪人とされていた)
著者は路上生活者を支援し、路上生活者と共に働き、路上生活者と共にミサをあげる。社会の最底辺の生活を余儀なくされる人々の中に神の働きを見るのだ。著者がとらえる「神の子」イエスの姿もまた、社会の最底辺の者だ。食い意地の張った酒飲みのイエス。無学のイエス。誰にも尊敬されず、罪人の仕事である石切として生活するイエス。そこには、クリスマスやイースターを盛大に祝う教会、キリスト教のきらきらした気配は微塵もない。
私はカトリックの教会で洗礼を受けた。
きらきらした世界だった。
教会の一員として迎えられたとき、青年会の一人が親切に教えてくれた。
「あの人はA家の人、あの人はB家の人……」
教会内のグループを、家単位でわけることができるのだ。
カトリックでは洗礼を受けるとき、女性であれば『
洗礼前、聖書講座を受講しているとき、先輩の信徒がニコニコしながら伝えてくれた。
「あなたの代母が決まったよ。某カトリック高校で教鞭をとっておられた、
身元のしっかりした人だから
安心してね」身元。
代母になるという女性がかつて教えていた、某カトリック高校のパンフレットが信徒会館に置いてある。
『当校ではキリスト教精神にかなう生徒を見定めるべく面接を行なっており……』
なんだかそんなようなことが書いてある。
お嬢様学校だ。私の知らない、きらきらした世界。
キリスト教精神にかなうと選別された生徒にさらにキリスト教教育を施してなんになるのだろう。「キリスト教精神にかなわない」とふるいにかけた相手にこそキリスト教精神について教育が必要ではなかろうか。矛盾を感じる。
「あなたの家族は洗礼を受けないの?」
ある熟年女性の信徒が尋ねる。私は答える。
「私に家族はおりません」
「あら、どうして?」
「幼少期の虐待等を理由に、絶縁しました」
すると女性はきらきらと目を輝かせる。
「あら、かわいそうに、大変だったわね。うちは大家族でね、本当に賑やかだったのよ。その温もりを
あなたのようなひとにわけてあげる
のが私の使命だと思ってるの」ああ、そうかい。よかったね。私は怒りを押し殺す。どこから目線だよ?
黙っていればよかったのか。本当のことを言わず、家族について口を濁していれば。けれど、神の家でその部分を否定したら、私が神の家を訪れた理由はなくなってしまう。見下されることや、傷つくことを恐れて自分を偽れば、私の精神の最も充溢した部分が損なわれてしまう。
私が私ではなくなってしまう。
だから本当のことを告げ、黙って痛みを受け止める。
これは信仰的な読み物ではない。ただ、一人の惨めな、全然きらきらしていない「きたないキリスト教」の信徒が見聞きした事柄についてのエッセイだ。