第三話 其の四

文字数 2,538文字

「元気でしたか、凛」

 奥方様は部屋に入ってくるなり駆け寄るように、お辞儀をしていた私に近づいてきた。
 顔を上げると、いつもあまり表情を大きく変えない奥方様が、泣きそうな顔で私を見ていた。私もそれを見るだけで目頭が熱くなった。
「奥方様、大変ご無沙汰しております」
「元気でしたか、凛」
「はい、おかげさまで元気に過ごしております」
 瓦版が出た日、私を家へ送り返すときに、私になにがあろうとここで働いていいと奥方様は言ってくださった。しかし母様に止められ、しまいには小澤家を出ることになって、こちらに奉公へ来ることはできなくなってしまった。
 けれど奥方様が掛けてくださった言葉が、私を勇気づけてくれたのは言うまでもない。
「この方は……?」
 奥方様は私の隣で不格好にお辞儀したまま動かない三吉に目をやる。
 私は苦笑いしながら三吉に顔を上げるように言うと、おずおずと面を上げた。私は三吉が私の兄弟子であること、そして若手ながら人気のつまみ細工職人であることを奥方様に説明する。三吉は照れくさいのか、奥方様以外のところへ視線をうろうろとさせた後、所在なさげにうつむいた。
「見習いの凛だけでは、奥方様のご要望を理解できるか心配でしたので……ついてまいりました」
「そうでしたか。それはありがとう、三吉」
「い、いえ……」
 奥方様は「弟弟子思いの方のようですね」と言いながら、少しからかいまじりに私へ言ってくる。勘の鋭い方だから、三吉がどういう性分の人なのかうっすら察しているのだと思う。私が苦笑いすると、奥方様は笑みを深くした。
 奥方様は私が武家の娘であることや、遠縁であることは伏せながら、私の近況や暮らしぶりを聞いてくださる。私も三吉に察せられることのないように、住んでいる長屋の名前が面白いことや、近所におばあちゃんの友達がいることなどを話した。
 すると奥方様は小さくうなずきながら聞いた後、優しく目を細めた。
「楽しくやれているようですね。以前ここにいたときよりも、いきいきしているように見えます」
「はい。まだまだ慣れないばかりですが、充実しています」
「もしつらそうだったら、またうちで働くように言おうと思ったのに……必要なさそうですね。残念だわ」
 きっと奥方様は、私を心から心配してくださっていたのだろう。それが言葉から伝わってきて、また泣きそうになった。このままだとまずいと思って、私はお礼を言いながら慌てて話を変えた。
「それで……奥方様のために、どのような物をご用意しましょうか?」
「落ち着いた色味のつまみ細工の簪をお願いしたいの。若い娘がつけるような揺れる飾りとかではなくて、私がつけてもおかしくないような……。お願いできるかしら」
 すると急に、ずっと話を聞くだけだった三吉が自信のありげに「もちろんでございます」と言う。大きな花のつまみ細工であれば落ち着いた印象になると言いながら、三吉は奥方様がよく着る着物の色柄などを聞いていく。それを聞きながら、作るものを大体想像できたようだった。
 こういう三吉の姿を見るのは初めてで、少し頼もしいなと思った。
「では十日後に、作って持ってまいります」
「あ、あと……これはできれば、なのだけれど……。凛が作ったものがどこかについていたら嬉しいわ」
「それは……」
 私はまだ見習いで、細工所で何かを作ったことすらない身だ。奥方様の気持ちは嬉しく、希望に応えたい気持ちはあるけれど、親方が許してくれるとも思えなかった。
 返答に困っていると、三吉がまたもや口を開く。
「親方に相談しますが、おそらくご希望に添えると思います」
 三吉は平然と言うけれど、そんなことを言って大丈夫なのだろうか。
 無理なことを安易に引き受けて、ダメだったときに奥方様ががっかりするところは見たくない。
「楽しみにしていますよ、三吉、凛」
 奥方様の期待に、私は心の奥で三吉を恨むのだった。



 細工所までの帰り道、私は三吉と歩いていた。
「あんなこと言ってしまって、大丈夫だったんですか?」
 奥方様のご希望とはいえ、見習いの私が作ったものをうちの細工所の品として出していいとはとても思えない。ダメだったらどうするのかを問うつもりで少し責めるつもりで問うけれど、三吉はまったく気にしていない。
「平気、平気。親方も、オレが面倒見るっていえば許してくれる。オレが手直しすれば餓鬼の手習いも立派な品物になるからな」
「すごい自信ですね」
「うちから直々に買いたいって言ってくれた奥方様の希望を、無闇に断ることなんてできねえだろ。向こうはそれなりに偉い、お侍の奥方様だぞ?」
 言われてみればそうだ。おそばにいた頃の記憶が強すぎて忘れていたけれど、向こうは南町奉行所の筆頭与力の奥方様で、私たちは江戸に暮らす職人の弟子と見習いでしかない。私たちがそれを突っ返すようなことはそうできることじゃない。
 自分の立場を思い出して、奥方様が前よりも遠い存在になってしまったと思った。少し、寂しい。
「そうですよね……」
 三吉はうつむく私に、「でもな」と話し続けた。
「オレも小さい頃、どうしようもない代物を父さんが直して品物にしてくれた。今度はオレが、それをやればいいだけだ。だから、そんなに心配する必要はねえよ」
 私と奥方様の本当の関係を知らない三吉は、私が自分の作ったものが奥方様のお眼鏡に叶うか心配していると思い、慰めてくれているらしい。本当は違うことに気がいっていたのだけれど、珍しく気遣ってくれる三吉に思わず頬が緩んだ。
「三吉兄さんはいい人ですね」
「はっ!? 別にそんなんじゃねえよ。お客の気持ちに応えようとしてるってだけだ」
 声を裏返らせる三吉に思わず笑ってしまうと、三吉はバツが悪そうに頭をかいた。
「着いてきてくださって、ありがとうございました」
「なんだよ、本当はオレと行きたくなかったくせに」
「そんなことないですよ? 案外頼りになるなって思いました」
「案外ってなんだよ、やっぱり馬鹿にしてんだろ」
「そんなことないですって」
 不満そうに腕を組む三吉にそんなことないと返していると、少し離れた道の脇からこちらを見ている人がいるのに気付いた。
 それの人は、もう会いたくないと思っていた人だった。

 清之助様だ。
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登場人物紹介

小澤凛(こさわりん)

南町奉行所の同心を父に持つ武家の娘。

小澤彦右衛門(こさわひこえもん)

南町奉行所の同心。

早野清之助(はやのせいのすけ)

南町奉行の同心を父に持つ武家の長男。

早野平三郎(はやのへいざぶろう)

南町奉行所の同心。

小澤夏生(こさわなつき)

凛の母。お夏とも呼ばれている。

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