第1話ー⑥
文字数 1,967文字
「私もそのつもりです。この家を出て、一人で暮らします」
この言葉には、さすがの父様も驚いたようだった。
それがどこまで叶うかはわからない。若い女の一人暮らしは、苦労することだらけなのは間違いない。けれどこの江戸という街には、一人で暮らす女の人は全くいないわけじゃない。あまり若い人は見ないけれど。それにそれぞれ事情があるとしても、絶対に暮らせないわけではないことはわかっていた。
「なにを馬鹿なことを……そんなこと貴女にできるわけがないでしょう。野垂れ死ぬだけですよ」
母様はすかさず私に呪いのような言葉をかけてくる。
不安がないと言ったら嘘になる。でも、ここで負けるわけにはいかない。一度家を出たら、もうこの家に戻ってこれないだろう。それなら最後に言いたいことを言おうと思った。
「それはやってみないとわかりません。でも、母様よりはうまくやれる自信があります」
母様は驚いて目を大きく見開いたあと、ぐっと目を細めて私を睨む。私の言葉に笑ってしまった父様は、口の端が上がっている口元を、そっと自分の手で覆った。
「母にそんな口のきき方をして良いと思っているのですか?」
「まだ私を娘だと思ってくださっていたのですね。すぐに尼寺へ送ろうとしていたので、もう縁を切るつもりだと思っていました」
淡々と伝える私をよそに、母の顔が薄化粧でも隠せないくらい、怒りで赤くなっていく。
私は小さいときから色々な手習いをしているし、寺嶋様のお屋敷への奉公で一通りの家事などもこなせるようになっている。
奥方様のご厚意で裁縫だけでなく三味線なども少し教わった。炊事についても、母様が辞めさせてしまった下女の代わりに食事を作ることがたびたびあった。『怪我の功名』としか言いようがないけれど、この歳の武家の娘としてはそれなりにできることも多いのだ。
それに、つまみ細工のかんざしの職人になるという夢もある。職人はさすがに厳しいとしても、それがだめなら裁縫の仕事もできるし、料理屋の給仕や煮売屋みたいなことだってできるかもしれない。
江戸には女の働き口が少ない。けれど、まったくないわけではないのだ。
「私は一人で生きていきます」
母様をしっかりと見て言った。
この数日で、私が武家の娘として生きるのは難しくなったかもしれない。けれど私は私として生きていくことはできる。
私は誰に嫁ぐかということに興味がない。もともと色恋も良くわからないから、親たちに決められなければ嫁入りする機会は無いだろうと思っていた。
むしろ私は働いてお金を貰って生きることの方に興味がある。その中でも、身につけた技で生きる『職人』への憧れが強く、もしできるなら自分もその道を志したいと思っていた。
そう考えると今の状況は夢を叶えるにはむしろ好機で、それであればここにいる必要はない。
初めてにして散々言い返された母様は、私を静かに睨んで怒りをつのらせていた。
今までその姿を見るたびに、数日は家の空気が悪くなるなと暗い気持ちになっていた。この顔になっているときの多くは兄様が母様の思い通りに結果を出さなかったときか、父様と揉めたときか、もしくは下女が母様の逆鱗に触れてしまったときだった。つまり私からすると「とばっちり」だ。家の家事が増えたり、小言を言われたりといろいろと面倒事が増えて、父様や兄様も黙ってしまうから、家がいつもよりも静まり返るのだ。
けれど私は間もなく家を出ていく。もう気にする必要がないとわかるだけで、こんなに母様の顔色がどうでも良くなるとは思わなかった。
とはいえ、家に残る父様には申し訳ないと思う。いつかお詫びをしようと思った。
「父様、今、長屋に空きはありますか?」
「一昨日出てったばかりのところがひとつある。あんまり綺麗ってわけじゃねえが」
「構いませんから、そちらを今日から貸してください。家賃も払います。では支度をするので失礼します」
奉公で身につけた、武家の娘らしい丁寧なお辞儀をしてなめらかな動きで立ち上がる。しずしずと部屋を出て振り返って膝をつくと、怖い顔をしたままの母様が私を見ていた。
「あとで絶対に後悔しますよ」
「はい、楽しみです」
私は笑顔のまま、部屋の襖を丁寧に閉めた。
自分の部屋に戻ったあと、私はふうっと大きく息をついた。
もうあとには引けない。さっきまで丁寧に襖を閉めていた手先が震えている。
これは怖いからじゃない、楽しみだから震えている。新しい挑戦に武者震いをしている。そう思いながら、指先だけ妙に冷えてベタつく手をこすり合わせた。
身に覚えのないことで選択肢を奪われたり、自分以外の人が決めたことに振り回されたりする人生は終わりにする。たとえそれで本当に野垂れ死ぬようなことになってしまったとしても。
これから、自分の力で人生を歩むのだ。
この言葉には、さすがの父様も驚いたようだった。
それがどこまで叶うかはわからない。若い女の一人暮らしは、苦労することだらけなのは間違いない。けれどこの江戸という街には、一人で暮らす女の人は全くいないわけじゃない。あまり若い人は見ないけれど。それにそれぞれ事情があるとしても、絶対に暮らせないわけではないことはわかっていた。
「なにを馬鹿なことを……そんなこと貴女にできるわけがないでしょう。野垂れ死ぬだけですよ」
母様はすかさず私に呪いのような言葉をかけてくる。
不安がないと言ったら嘘になる。でも、ここで負けるわけにはいかない。一度家を出たら、もうこの家に戻ってこれないだろう。それなら最後に言いたいことを言おうと思った。
「それはやってみないとわかりません。でも、母様よりはうまくやれる自信があります」
母様は驚いて目を大きく見開いたあと、ぐっと目を細めて私を睨む。私の言葉に笑ってしまった父様は、口の端が上がっている口元を、そっと自分の手で覆った。
「母にそんな口のきき方をして良いと思っているのですか?」
「まだ私を娘だと思ってくださっていたのですね。すぐに尼寺へ送ろうとしていたので、もう縁を切るつもりだと思っていました」
淡々と伝える私をよそに、母の顔が薄化粧でも隠せないくらい、怒りで赤くなっていく。
私は小さいときから色々な手習いをしているし、寺嶋様のお屋敷への奉公で一通りの家事などもこなせるようになっている。
奥方様のご厚意で裁縫だけでなく三味線なども少し教わった。炊事についても、母様が辞めさせてしまった下女の代わりに食事を作ることがたびたびあった。『怪我の功名』としか言いようがないけれど、この歳の武家の娘としてはそれなりにできることも多いのだ。
それに、つまみ細工のかんざしの職人になるという夢もある。職人はさすがに厳しいとしても、それがだめなら裁縫の仕事もできるし、料理屋の給仕や煮売屋みたいなことだってできるかもしれない。
江戸には女の働き口が少ない。けれど、まったくないわけではないのだ。
「私は一人で生きていきます」
母様をしっかりと見て言った。
この数日で、私が武家の娘として生きるのは難しくなったかもしれない。けれど私は私として生きていくことはできる。
私は誰に嫁ぐかということに興味がない。もともと色恋も良くわからないから、親たちに決められなければ嫁入りする機会は無いだろうと思っていた。
むしろ私は働いてお金を貰って生きることの方に興味がある。その中でも、身につけた技で生きる『職人』への憧れが強く、もしできるなら自分もその道を志したいと思っていた。
そう考えると今の状況は夢を叶えるにはむしろ好機で、それであればここにいる必要はない。
初めてにして散々言い返された母様は、私を静かに睨んで怒りをつのらせていた。
今までその姿を見るたびに、数日は家の空気が悪くなるなと暗い気持ちになっていた。この顔になっているときの多くは兄様が母様の思い通りに結果を出さなかったときか、父様と揉めたときか、もしくは下女が母様の逆鱗に触れてしまったときだった。つまり私からすると「とばっちり」だ。家の家事が増えたり、小言を言われたりといろいろと面倒事が増えて、父様や兄様も黙ってしまうから、家がいつもよりも静まり返るのだ。
けれど私は間もなく家を出ていく。もう気にする必要がないとわかるだけで、こんなに母様の顔色がどうでも良くなるとは思わなかった。
とはいえ、家に残る父様には申し訳ないと思う。いつかお詫びをしようと思った。
「父様、今、長屋に空きはありますか?」
「一昨日出てったばかりのところがひとつある。あんまり綺麗ってわけじゃねえが」
「構いませんから、そちらを今日から貸してください。家賃も払います。では支度をするので失礼します」
奉公で身につけた、武家の娘らしい丁寧なお辞儀をしてなめらかな動きで立ち上がる。しずしずと部屋を出て振り返って膝をつくと、怖い顔をしたままの母様が私を見ていた。
「あとで絶対に後悔しますよ」
「はい、楽しみです」
私は笑顔のまま、部屋の襖を丁寧に閉めた。
自分の部屋に戻ったあと、私はふうっと大きく息をついた。
もうあとには引けない。さっきまで丁寧に襖を閉めていた手先が震えている。
これは怖いからじゃない、楽しみだから震えている。新しい挑戦に武者震いをしている。そう思いながら、指先だけ妙に冷えてベタつく手をこすり合わせた。
身に覚えのないことで選択肢を奪われたり、自分以外の人が決めたことに振り回されたりする人生は終わりにする。たとえそれで本当に野垂れ死ぬようなことになってしまったとしても。
これから、自分の力で人生を歩むのだ。