第1話ー②

文字数 2,870文字

 失礼にならない程度に清之助様を見ていると、父様の柔らかな声が聞こえた。
「恐れながら、娘にはまったく身に覚えがないようなのですが」

 丁寧に言葉を返す父様に、早野様は不機嫌に鼻を鳴らした。
「事実だと認める者の方が少ないだろうな」
「そもそもですが……娘の噂というのはどこから仕入れたものなんでしょう?」
「とある筋から、としか言えんな」
「それでは真偽の見極めができません。それが事実であるという証拠はなんです?」
「話した者は、私には信頼できる者だからだ」
「しかしそれが誰かは言えないと?」
「そうだ」
「それではこちらも認めることはできません。
 私にとって信頼に足る者は、その者ではなく我が娘です。ですから娘が違うと言えば、その噂は真ではない。つまり、噂は嘘ということになりますよ。
 お互い北町奉行所の同心となって久しいですが、そんな屁理屈で事件が解決したことなんてありますかね?」
 考えるように言う父様の前で、早野様は怒りで顔を赤くしていた。
「屁理屈ではない!!」
「では証拠を見せてください」
 父様は淡々と早野様に言った。
「不義理をはたらいた者たちに見せる必要はない」
「では、娘が密通しているという男の名を教えてもらえますか?」
「娘が通じている相手の男を知りたいなら、隣にいる本人から聞けばいいだろう」
「こちらはそんな男はいないと言っていますから、聞きようがないでしょう。
 『自分の信じるものが真実』という早野様の理屈で、私にとって娘の意見が真実ということになっているのですから。早野様が証拠を見せぬ限り、こちらの真実も揺らぎません」
 どうやら早野様は全然話が通じない方らしい。
 しかも自分の理屈を使って言い返された早野様は、怒りすぎて顔が赤黒くなり始めている。一方父様は屋敷に来たときから変わらず涼しい顔をしていた。むしろ早野様を少し追い込んで楽しんでいる感じすらして、人が悪いなと思った。でも、父親としてはとても頼もしいとも思う。

「これだから武士の矜持を忘れたものは」
 早野様は急に話を切り替え、不敵に笑った。
「早野家と小澤家は今まで五年以上の間、縁を繋ごうとする間柄だった。
 そちらの粗相が原因とはいえ粗雑に扱っては義理を欠くと思い、こうやって穏便にことを進めようと情をかけてやっているというのに……それもわからんのか。
 これだから商いに手を染めるのは良くない。こちらの情けも理解できなくなるようだ」
 これのどこが穏便なのだろう?
 私に疑いをかけて蔑んだあげく、父様のことまで侮辱するなんて。父様が町人に部屋を貸すなど商いをしているのはたしかだけれど、それは他の同心もしている。我が家だけが言われる理由はない。
 それなのにここまで馬鹿にされなくてはいけないなんて。婚約を破棄したいのならしたらいい。別に私も望んでなんていないのだ。
 流石に腹立たしくて膝上で重ねていた自分の手をぎゅっと握った。

 すると急に視線を感じた。
 そっと顔を上げると、許嫁の清之助様がこちらを見ていた。
 ここでは根も葉もない泥仕合のようなやり取りをしている中でも、清之助様の目は澄み切っている。そしてなにかに驚きを覚えているのか、すこし目を見開いているようにも見えた。

 どうしてそんな顔をしているのだろう?
 私を自分の家や父のことを侮辱されて、何も思わない人間だと思っていたのだろうか?

 さっきから誰とも視線を交わすことなく一心不乱に畳を見つめていたはずの人が顔を上げるくらいには、何か思うところが合ったのだと思う。
とはいえ、清之助様が何を思っているのかは想像できない。それができるほどこの方を知らないのだから。
少し不快に思いながらも、できるだけ自然に視線をそらして静かに息を吐いた。

 部屋に沈黙が訪れてから少ししたあと、父様はさきほどからと全く変わらない様子で微笑みながら話し出す。
「言わんとすることは概ねわかりました。では早野殿のお望み通りに我が娘、凛と清之助殿の婚約は破棄ということにしましょう」
 父様はこちらに少し顔を向け尋ねてきた。
「凛もそれで構わないね?」

 私は絶対に誤解をされないように、はっきりと告げた。
「はい、構いません」
「……では、そういうことで」
「確認を取らずとも決まっていたことだ」
そう言いながら早野様は、まだ何か言いたそうに父様へじとっとした視線を向けていた。
「……ああ。あと、今まで我が家からお渡ししていたものは、先日の分を最後としていいですね?」
 何のことだろう?
 その言葉に清之助様も引っかかったのか、ちらりと自分の父親へ視線を向ける。早野様は息子を見ることなく、父様を見ながら腕を組んだ。
「もちろん、今までの分の取り返そうなんてしません。あれはこちらの『心遣い』ですから」
「……当然だ」
 笑みを崩さない父様に、ずっと高慢な態度を崩さなかった早野様が動揺するのが見えた。
 父様は『心遣い』と言っていたけれど、返す返さないの話になる心遣いといえば、大体察しがつく。おそらくお金か、それに近いものだろう。
 その話で私はすべてを理解した。
 早野様は我が家からの『心遣い』を返さない理由が欲しかったから、ここまで私が覚えのないことで責めてきた。私を悪者にすることで、返さない理由を作りたかったのだ。

 早野様も父様も、北町奉行所で同心をしている。一応武家ではあるけれど、いただく俸禄はそこまで多くはないらしい。詳しいことはわからないけれど「同心の稼ぎは町人なら十分、武士なら不十分」というのが父様の口癖だった。武家らしく振る舞うだけでもお金がかかるし、そのうえ立場が上の人たちとの付き合いなどでもお金が出ていく。
 父様はお役目に支障が出ない程度に商いをしているけれど、早野様はさっきの言葉から察するに、そういうこともしていないのだと思う。だから生活が苦しく、父様の『心遣い』が必要だったということなのかもしれない。
 でもそうだとすると、早野様の着物が少し気になる。

「最後にこちらから、一つだけお願いがあります」
「なんだ」
「この件は必要以上に口外しないようお願いします」
「私がそのような無粋なことをするとでも?」
「いえいえ、念のためです。我々はそのどこかから流れてきた噂については認めていません。ただ、我が家と縁をつなぐことをお望みではないことはわかったので、婚約破棄に同意したというだけです。
 それが間違っても噂を認めたような言われ方をされては困ります。早野様の輩下の者も含め、妙な噂を流さないことを約束してください」
「あいつらは私に忠実だ。私が言えば口をつぐむ」
「ではそのように必ずご指示ください。できれば――」
「くどいぞ小澤」
「……それは失礼。私どもはこれで失礼します」
 父様が丁寧に頭を下げたので、私も続いて頭を下げた。
 早野様は目を閉じて両手を前に組んだまま、何も反応しなかった。礼をしない自分の父を一瞥したあと、清之助様は父様に視線を送って軽く会釈した。
 そして流れるように私に視線が来るのに気づいた私は、視線を伏せたまま部屋を後にした。

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登場人物紹介

小澤凛(こさわりん)

南町奉行所の同心を父に持つ武家の娘。

小澤彦右衛門(こさわひこえもん)

南町奉行所の同心。

早野清之助(はやのせいのすけ)

南町奉行の同心を父に持つ武家の長男。

早野平三郎(はやのへいざぶろう)

南町奉行所の同心。

小澤夏生(こさわなつき)

凛の母。お夏とも呼ばれている。

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