第1話ー①

文字数 2,051文字

その日は、雲ひとつなく澄み切った空が広がっていた。
 客間に通され父様と並んで一礼すると、髪につけていたつまみ細工のかんざしの端が軽やかに揺れる。

「今日この場をもって、息子との婚約を解消させてもらう」
 

 突然のことに、私も父様も耳を疑う。
「早野殿、今なんと……」
「だから婚約破棄だ。そなたの娘、(りん )が町で男と仲睦まじく町を歩いていたという話が耳に入った。
 許嫁のいる娘が、ほかの男と深い仲になるとは言語道断。しかも相手は、ただの町人というではないか。分別なく男を漁るような“ただれた女”が我が早野家に嫁ぐ資格はない。
 話がわかったなら婚約破棄を受け入れ、この場を去れ」
 
 これは誰の話だろう?
 状況から考えて、「許嫁のいる娘」というのは私を指している。まったく身に覚えがないのだけれど、婚約者のお父様であられる早野平三郎(はやのへいざぶろう )様は、それを事実だと言う。
 しかも婚約を破棄するというところまで決まっていた。
 ここまで勝手に進められていると、何から話せばいいかわからない。内容が内容だけに、物事にあまり動じない父様も言葉を失っていた。

 
「おい、聞いておるのか」
 こちらの様子を察することもしないで、早野様は一人苛立っている。
 その早野様の隣には早野様の長男で私の婚約者でもある、早野清之助( はやのせいのすけ)様が座っていた。
 清之助様は自分の父に同調も反論もしないで、ただそこにいる。
 口を開くこともなく清之助様は少し視線を落とし、ささくれだった畳を見ていた。彼にとって許嫁の素行の悪さより、古くなってい草がつんつんしている畳の方が、興味があるように見えた。
 
 私の隣に座る父、小澤彦右衛門( こさわひこえもん)は声を潜めて尋ねてきた。
「凛、一応尋ねるが……身に覚えは?」
「もちろん、まったく」
 
 私に恋人はいない。
 我が家は武家の中でも商人や町人など、身分を気にせず人付き合いをする珍しい家だとは思う。だから私も町人にも知り合いやよく話をする人はいるけれど、そんな誤解されるような関係の人も、男の人と二人で町を歩いた記憶もなかった。

 武士の家系である小澤家の娘として正しい振る舞いをすること。武家としての地位があまり高くない我が家でも、それは小さい頃から母に厳しく言われてきた。
 それは私だけでなく、一族を守るためでもある。武家は何か起きたときに一族で責任を負わされることがある。つまり、一族の誰かの失態によって身分や財産を失い、皆で路頭に迷うこともあるのだ。
 最悪の場合、自刃を言いわたされることもあると言われていた。

 そしてなにより、下級であっても武家であることに誇りを持っている人が多い。だから一族の体面を保つことには敏感だ。
 それは家を守るためでもあるし、武士の矜持( きょうじ)もあるのだろう。

 一族で家を守り繁栄させること、武家としての誇りを持ち続けること。
 我が家がその感覚に疎いのか、早野様が過敏なのかはわからない。けれど早野様は私のいわれのない噂を信じ、一大事として受け止めていることはわかった。
 
 我が家と早野家は同じ『同心』という仕事をしている。早野様のお歳は少しだけ父様より上ではありそうだけれど、まるで主従の関係があるかのように一方的な叱責を受ける立場ではないはずだ。
 私の知る限りで考えてみても、噂だけで許嫁の解消を言い出す早野様の動きが、少し過剰に感じられる。何かほかに事情があるのだろうか?
 聞いてみたいけれど、正面から聞いても答えてはくれないだろう。
 父様も似たようなことを考えているかもしれないので、今はとりあえず黙っておくことにした。

 気を取り直して、私は真正面にいる許嫁、清之助様を見る。
 最後にお会いしたのは五年以上前のことだ。私より三つ年上とはいえ、その頃の清之助様はまだまだ少年という感じだった。しかし今は背も伸びていて、顔からは子供らしい丸みとともにいたずらっぽい表情も消えていた。
 感情どころか生気すらあまり感じさせない静かな目元。絵師が筆ですっと線を引いたようなきれいな鼻筋。太すぎず細すぎない整った眉と、角張っていないなめらかな輪郭に品を感じた。
 お母様に似ているのか、お父様であるはずの隣の早野様とはあまり似ていなかった。
 清之助様は佇まいこそ武家の嫡男という雰囲気だ。けれど、歌舞伎役者などにいてもおかしくないくらいの整った顔立ちになっていた。

 かつての面影はなくもない。けれどこの人が自分の許嫁だと言われてもあまりしっくりこない。想像よりも美男子になっているせいで余計に遠い存在のような気がした。
 それに部屋に来てからずっと清之助様は畳に視線を落とすばかりで、何を考えているのかまったくわからない。
 事前にこういう話をすると知っていたなら、私に対する悪口のひとつくらいは頭に浮かんでいるのだろうか。
 でも目の前にいる清之助様には、心どころか魂ごとここにいないような雰囲気があった。


 失礼にならない程度に清之助様を見ていると、父様の柔らかな声が聞こえた。
「恐れながら、娘にはまったく身に覚えがないようなのですが」
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登場人物紹介

小澤凛(こさわりん)

南町奉行所の同心を父に持つ武家の娘。

小澤彦右衛門(こさわひこえもん)

南町奉行所の同心。

早野清之助(はやのせいのすけ)

南町奉行の同心を父に持つ武家の長男。

早野平三郎(はやのへいざぶろう)

南町奉行所の同心。

小澤夏生(こさわなつき)

凛の母。お夏とも呼ばれている。

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