第1話ー③
文字数 3,773文字
「嫌な目に遭わせちまったね」
早野様の屋敷を出たあと、隣を歩く父様は申し訳無さそうに言ってきた。さっきより砕けた話し方から、父様も少しほっとしているのがわかった。
「いえ、なんとなく事情は察しましたから。父様こそ大丈夫ですか?」
「私かい?」
「はい。早野様は父様と同じ奉行所で働かれていますし、立場が悪くなったりは……」
「それは平気さ。立場の悪さは今に始まった話じゃない」
父様はからっと笑いながら言った。
普段から父様はこんな調子なのだけれど、こんなことがあってもまったく変わらなすぎるのが逆に気になる。父様は私を気遣ってそう言って明るく振る舞っているようにも見えた。
「申し訳ありません」
「なんで凛が謝るんだ。お前こそなんにもしてないんだろう?」
「それはそうですけど……」
「あいつの腹には何かある。けど貰った金は返したくねえ。だからあんなことを言ってんだ」
それを聞いて自分の予感があたっていたのだと気づいた。
「やはり『心遣い』はお金だったんですね」
「凛の嫁ぎ先が、嫁ぐ前に立ち行かなくなるのは困るからな。お前が嫁ぐ頃には息子の清之助様が家督を継ぐだろう。そうすれば早野家のやり方も変わって、うちの支えなしでもなんとかなると思っていたんだが……。
その前に言いがかりを付けて婚約破棄。しまいには今までの恩も返さないとはね。呆れたよ」
指で顎をなでながら父様は眉根を寄せる。
「返せないほど金を使い、いざとなったらふんぞり返ったまま踏み倒す。あの家の武士の矜持ってのは、随分と都合が良いもんだ」
急におどけて言う父様にふっと笑ってしまう。そんな私を見ながら、父様は苦笑いした。
「本当にすまない、凛」
「父様こそそんなに謝らなくても……またきっとご縁がありますよ」
軽く言ってしまった私に、父様は表情を曇らせた。
「なんだいその他人事みたいな口ぶりは。一応言っておくが、さっき破談になったのはお前の婚約だぞ?」
「それは、わかっていますが……」
「お前が前から嫁入りに無関心だったのは知ってる。今まで嫁ぎ先の早野家のことも、夫になる清之助殿のことも、お前に聞かれたことがねえからな」
「そうでしたか?」
「そうだよ。さっきも、言いがかりを付けられたことは怒っても、婚約が破棄になることには一つも嫌な顔してないからな。清之助殿も驚いたろうよ」
そういえばさっき清之助様と目が合ったのは、私が父様を侮辱されて腹が立った時と、部屋を出るときだけだった。しかも部屋を出るときは意図的に視線をそらしてしまったから、こちらを見ようとしていたかもわからないのだ。
父様の言う通り、私は早野家に限らず、嫁入りそのものに興味がないのだと思う。
下級とはいえ武家の娘であれば、相応の家に嫁いで子どもを産むことが役目とされているのは知っている。けれどそれは周りや風習として勝手に決められていることで、私は望んだものじゃない。
それどころか、この先誰かと夫婦になることすら想像ができないのだ。
いつか恋をするときが来るのかもしれないけれど、少なくとも今日までそんな気持ちになったことは一度もなかった。幼馴染が夫婦になると知らされたときすら、驚いたり喜んだりはしたものの、恋や夫婦になることへの憧れは生まれなかった。
言葉に困っていると、父様は話を戻した。
「早野殿が妙なことをしないといいんだが」
「婚約がなくなりお金も返さなくて良くなったなら、それ以上何かする必要はないんじゃないですか?」
「そう思うだろう? だがここでも武士の矜持が悪さをしそうでね」
「でも、さっき早野様はこの件を口外しないって……」
「うーん。だがあの人は、見栄えと体面を良くすることに命を懸ける人だから」
「あ……だから着物もあんなに立派だったんですね」
「気づいたか。あれはたぶん、黄八丈の黒かな。結構な上物だろう。金がないのに無理をするから、客間の畳があのざまだ」
「畳のこと、父様も気づいていたのですね」
「あれだけ畳から芽が出てるみたいにツンツンしてたら、誰だって気づくさ」
あまりに見ているところが一緒の父様に血の繋がりを感じる。思わず笑ってしまうと、父様も肩を揺らして笑い出した。
父様は普段から、身の丈に合った華美ではないものを身に着けているけれど、いいものを見極める目は持っている。母様はケチだと言うけれど、私はそういう父様が好きだった。
「なーんか……」
ひとしきり笑うと、父様は再び難しい顔をした。
「……父様?」
「嫌な予感がするなぁ」
いつもあっけらかんとしている父様が、めずらしく疑り深くなっている。
「こんなことがあったので、少し色々心配になっているだけですよ。きっと大丈夫です」
「まーた、そんな他人事みたいに」
苦笑いする私に「お夏にはそんな調子で言うなよ。ひと月は不機嫌になる」と父様がたしなめた。お夏こと夏生 は私の母様の名前で、私の嫁入りを誰よりも真剣に考えてくれている人でもあった。
今日のことも、聞けば母様が顔を真っ青にするのは間違いない。そして父様を半月はなじって、早く次の嫁ぎ先を探してくるようにと顔を見るたびに言うのだろう。
父様がやつれ、家の空気が当分の間ずっしりとするところまで想像できたので、私は首を縦にふった。
少しでも気を紛らわそうと、私は話を切り替えることにする。
「そういえば、この前持って行ってくださった『あれ』どうでしたか?」
「ああ、あれか。親方に見せたら、筋が良いって褒めてたぞ。誰の作かと聞かれたくらいだ」
その言葉に、ずっと重かった心がすっと軽くなるような気がした。
「教えたのですか?」
「まさか」
「え、なぜです」
「自分の娘の作ったもんを自慢しにきたみたいで、小っ恥ずかしいだろ」
鼻をかきながら言う父様に、私も自然と笑みがこぼれた。
私にはやりたいことがある。
だからこそ、もし武家の娘としてお嫁に行けなくても、それはそれで構わないと思っている。別のことに一生を捧げればいいと思っているからだ。地位を捨てることになっても構わないとすら思っていた。
結婚がなくなれば好きなことをできるようになるかもしれない。
そう考えれば、今日の出来事がむしろ良いことのようにも思えていた。
しかし数日後、父様の嫌な予感が私をさらに追い込むことになる。
婚約が破棄になって五日ほど経った頃。
奉公先の奥方様が、お屋敷の掃除をしていた私を呼びつけた。
お仕えしている奥方様は、母の遠戚にあたる。奥方様は父様より上の地位である『筆頭与力』を務める寺嶋家の長男、寺嶋忠晶 様に嫁いだ。そのおかげで、私は花嫁修行の一環として寺嶋様のお屋敷へ奉公に上がることができていた。
奉公が決まったのは許嫁が決まったすぐあとなので、もう五年ほど働かせてもらっている。
声をかけて奥様の部屋に入ると、向き合うように座って一礼した。
「奥方様、どうかされましたか?」
「凛。貴女は先日、婚約がなくなったと言っていましたね」
「それがなにか……」
「貴女についての良くない噂が立っているようです。急ぎ家に戻ってお父上とお夏に相談なさい」
「わ、わかりました」
どんな噂かは教えてくれそうにない。けれど奥方様の顔を見る限り、かなり深刻な噂が出回っているように見えた。
嫌な予感がする。それと同時にうんざりした。
噂の内容も出どころもあらかた予想できているけれど、だからといって当たれば取り消せるわけでもない。
奥様の傍で色々学びながら働き、いただいたお給金を少しだけ使ってやりたいことをする。そんな暮らしができれば、私はそれで十分なのに。
奥様は床の間の脇に飾られた、小ぶりで少し不格好なちりめん細工の人形を見ていた。それは私が奥様に教わりながら最初に作ったちりめん細工だった。
綿の入れ方がまばらなせいでこれから妖怪にでも変身しそうな女の子の人形で、どちらも左右の目の大きさが揃っていない。出来上がったもののあまりの不格好さに肩を落とす私を見て「では私にくださいな」と奥様が受け取り、それ以来ずっと同じ場所に大切に飾ってくれている。
今はあまり人形は作らないのだけれど、今はもうその時よりも手芸の腕が上がっている。「作り直したものを差し上げます」と言っても、奥様は「これを気に入っているの」と言ってほかの者を受け取ろうとされなかった。
奥様の部屋にいると、かつて自分が作った不格好な人形が目に入ってしまって恥ずかしくなる。けれど当時の私の頑張りを大切にしてくれている感じがして、奥様の優しさに日々実感し、感謝する理由にもなっていた。
「私は、貴女がどのような者かを知っています。ですからこれからもここで働いて構いません。それができなくても、何か力になれることがあればするつもりです。それだけは言っておきますよ」
「……ありがとうございます」
急いで家に帰ると、先に帰ってきていた父様が床の間を背に、いつになく厳しい顔で座っていた。母様は襖を背にして父様に対して横向きに座り、私を見上げた。
「凛、こちらに座りなさい」
「はい……」
ただならぬ空気におずおずと座ると、父様が重々しく口を開いた。
「すまない凛。お前は当面、嫁入りはできないかもしれん」
「良くない噂があったと奥方様から聞きましたが、一体どんな……」
「お前が密通して……子を孕んだと」
早野様の屋敷を出たあと、隣を歩く父様は申し訳無さそうに言ってきた。さっきより砕けた話し方から、父様も少しほっとしているのがわかった。
「いえ、なんとなく事情は察しましたから。父様こそ大丈夫ですか?」
「私かい?」
「はい。早野様は父様と同じ奉行所で働かれていますし、立場が悪くなったりは……」
「それは平気さ。立場の悪さは今に始まった話じゃない」
父様はからっと笑いながら言った。
普段から父様はこんな調子なのだけれど、こんなことがあってもまったく変わらなすぎるのが逆に気になる。父様は私を気遣ってそう言って明るく振る舞っているようにも見えた。
「申し訳ありません」
「なんで凛が謝るんだ。お前こそなんにもしてないんだろう?」
「それはそうですけど……」
「あいつの腹には何かある。けど貰った金は返したくねえ。だからあんなことを言ってんだ」
それを聞いて自分の予感があたっていたのだと気づいた。
「やはり『心遣い』はお金だったんですね」
「凛の嫁ぎ先が、嫁ぐ前に立ち行かなくなるのは困るからな。お前が嫁ぐ頃には息子の清之助様が家督を継ぐだろう。そうすれば早野家のやり方も変わって、うちの支えなしでもなんとかなると思っていたんだが……。
その前に言いがかりを付けて婚約破棄。しまいには今までの恩も返さないとはね。呆れたよ」
指で顎をなでながら父様は眉根を寄せる。
「返せないほど金を使い、いざとなったらふんぞり返ったまま踏み倒す。あの家の武士の矜持ってのは、随分と都合が良いもんだ」
急におどけて言う父様にふっと笑ってしまう。そんな私を見ながら、父様は苦笑いした。
「本当にすまない、凛」
「父様こそそんなに謝らなくても……またきっとご縁がありますよ」
軽く言ってしまった私に、父様は表情を曇らせた。
「なんだいその他人事みたいな口ぶりは。一応言っておくが、さっき破談になったのはお前の婚約だぞ?」
「それは、わかっていますが……」
「お前が前から嫁入りに無関心だったのは知ってる。今まで嫁ぎ先の早野家のことも、夫になる清之助殿のことも、お前に聞かれたことがねえからな」
「そうでしたか?」
「そうだよ。さっきも、言いがかりを付けられたことは怒っても、婚約が破棄になることには一つも嫌な顔してないからな。清之助殿も驚いたろうよ」
そういえばさっき清之助様と目が合ったのは、私が父様を侮辱されて腹が立った時と、部屋を出るときだけだった。しかも部屋を出るときは意図的に視線をそらしてしまったから、こちらを見ようとしていたかもわからないのだ。
父様の言う通り、私は早野家に限らず、嫁入りそのものに興味がないのだと思う。
下級とはいえ武家の娘であれば、相応の家に嫁いで子どもを産むことが役目とされているのは知っている。けれどそれは周りや風習として勝手に決められていることで、私は望んだものじゃない。
それどころか、この先誰かと夫婦になることすら想像ができないのだ。
いつか恋をするときが来るのかもしれないけれど、少なくとも今日までそんな気持ちになったことは一度もなかった。幼馴染が夫婦になると知らされたときすら、驚いたり喜んだりはしたものの、恋や夫婦になることへの憧れは生まれなかった。
言葉に困っていると、父様は話を戻した。
「早野殿が妙なことをしないといいんだが」
「婚約がなくなりお金も返さなくて良くなったなら、それ以上何かする必要はないんじゃないですか?」
「そう思うだろう? だがここでも武士の矜持が悪さをしそうでね」
「でも、さっき早野様はこの件を口外しないって……」
「うーん。だがあの人は、見栄えと体面を良くすることに命を懸ける人だから」
「あ……だから着物もあんなに立派だったんですね」
「気づいたか。あれはたぶん、黄八丈の黒かな。結構な上物だろう。金がないのに無理をするから、客間の畳があのざまだ」
「畳のこと、父様も気づいていたのですね」
「あれだけ畳から芽が出てるみたいにツンツンしてたら、誰だって気づくさ」
あまりに見ているところが一緒の父様に血の繋がりを感じる。思わず笑ってしまうと、父様も肩を揺らして笑い出した。
父様は普段から、身の丈に合った華美ではないものを身に着けているけれど、いいものを見極める目は持っている。母様はケチだと言うけれど、私はそういう父様が好きだった。
「なーんか……」
ひとしきり笑うと、父様は再び難しい顔をした。
「……父様?」
「嫌な予感がするなぁ」
いつもあっけらかんとしている父様が、めずらしく疑り深くなっている。
「こんなことがあったので、少し色々心配になっているだけですよ。きっと大丈夫です」
「まーた、そんな他人事みたいに」
苦笑いする私に「お夏にはそんな調子で言うなよ。ひと月は不機嫌になる」と父様がたしなめた。お夏こと
今日のことも、聞けば母様が顔を真っ青にするのは間違いない。そして父様を半月はなじって、早く次の嫁ぎ先を探してくるようにと顔を見るたびに言うのだろう。
父様がやつれ、家の空気が当分の間ずっしりとするところまで想像できたので、私は首を縦にふった。
少しでも気を紛らわそうと、私は話を切り替えることにする。
「そういえば、この前持って行ってくださった『あれ』どうでしたか?」
「ああ、あれか。親方に見せたら、筋が良いって褒めてたぞ。誰の作かと聞かれたくらいだ」
その言葉に、ずっと重かった心がすっと軽くなるような気がした。
「教えたのですか?」
「まさか」
「え、なぜです」
「自分の娘の作ったもんを自慢しにきたみたいで、小っ恥ずかしいだろ」
鼻をかきながら言う父様に、私も自然と笑みがこぼれた。
私にはやりたいことがある。
だからこそ、もし武家の娘としてお嫁に行けなくても、それはそれで構わないと思っている。別のことに一生を捧げればいいと思っているからだ。地位を捨てることになっても構わないとすら思っていた。
結婚がなくなれば好きなことをできるようになるかもしれない。
そう考えれば、今日の出来事がむしろ良いことのようにも思えていた。
しかし数日後、父様の嫌な予感が私をさらに追い込むことになる。
婚約が破棄になって五日ほど経った頃。
奉公先の奥方様が、お屋敷の掃除をしていた私を呼びつけた。
お仕えしている奥方様は、母の遠戚にあたる。奥方様は父様より上の地位である『筆頭与力』を務める寺嶋家の長男、
奉公が決まったのは許嫁が決まったすぐあとなので、もう五年ほど働かせてもらっている。
声をかけて奥様の部屋に入ると、向き合うように座って一礼した。
「奥方様、どうかされましたか?」
「凛。貴女は先日、婚約がなくなったと言っていましたね」
「それがなにか……」
「貴女についての良くない噂が立っているようです。急ぎ家に戻ってお父上とお夏に相談なさい」
「わ、わかりました」
どんな噂かは教えてくれそうにない。けれど奥方様の顔を見る限り、かなり深刻な噂が出回っているように見えた。
嫌な予感がする。それと同時にうんざりした。
噂の内容も出どころもあらかた予想できているけれど、だからといって当たれば取り消せるわけでもない。
奥様の傍で色々学びながら働き、いただいたお給金を少しだけ使ってやりたいことをする。そんな暮らしができれば、私はそれで十分なのに。
奥様は床の間の脇に飾られた、小ぶりで少し不格好なちりめん細工の人形を見ていた。それは私が奥様に教わりながら最初に作ったちりめん細工だった。
綿の入れ方がまばらなせいでこれから妖怪にでも変身しそうな女の子の人形で、どちらも左右の目の大きさが揃っていない。出来上がったもののあまりの不格好さに肩を落とす私を見て「では私にくださいな」と奥様が受け取り、それ以来ずっと同じ場所に大切に飾ってくれている。
今はあまり人形は作らないのだけれど、今はもうその時よりも手芸の腕が上がっている。「作り直したものを差し上げます」と言っても、奥様は「これを気に入っているの」と言ってほかの者を受け取ろうとされなかった。
奥様の部屋にいると、かつて自分が作った不格好な人形が目に入ってしまって恥ずかしくなる。けれど当時の私の頑張りを大切にしてくれている感じがして、奥様の優しさに日々実感し、感謝する理由にもなっていた。
「私は、貴女がどのような者かを知っています。ですからこれからもここで働いて構いません。それができなくても、何か力になれることがあればするつもりです。それだけは言っておきますよ」
「……ありがとうございます」
急いで家に帰ると、先に帰ってきていた父様が床の間を背に、いつになく厳しい顔で座っていた。母様は襖を背にして父様に対して横向きに座り、私を見上げた。
「凛、こちらに座りなさい」
「はい……」
ただならぬ空気におずおずと座ると、父様が重々しく口を開いた。
「すまない凛。お前は当面、嫁入りはできないかもしれん」
「良くない噂があったと奥方様から聞きましたが、一体どんな……」
「お前が密通して……子を孕んだと」