第三話 其の二

文字数 3,602文字

「……凛、殿……?」

 その声かけに、私は思わず息を呑んで立ち止まった。
 声を掛けてきたのは、元婚約者である早野清之助様だった。隣にいるのは弟のようで、顔立ちが昔見た清之助様に似ていた。歳は私よりも三、四つは下だろうか。

 清之助様とお会いしたのは婚約の破棄を言い渡されたとき以来で、その後は一度もお会いしていない。私にとんでもないあんな言いがかりをつけて許嫁を解消され、瓦版で根も葉もない話を江戸の街中に広げられたのだから、会うわけがないのだけれど。さらにそれを機に私は家を出てしまったから、なおのこと早野家とは縁が無くなっていたのだった。

 私は武家の娘として生きるよりもやりたいことがあったからいい。根も葉もない噂で晒し上げときは悲しかったけれど、今はいい機会を作ってくれたことを感謝したいくらいだ。
 小澤家は三月近く経った今も白い目で見られている。最近はほとんど無くなったらしいけれど、噂が立った頃は誰かが屋敷の門に私のことが書かれた瓦版を貼られたり、ごみや汚物を撒かれたりして大変だったらしい。
 父様は「お前がいなくなってからでよかったよ」と笑って話していたけれど、私が“いなくてよかった”なんて思えるはずがない。私に立てられた噂のせいで家族が嫌な思いをするのは、とても受け入れられることではなかった。

 あの事件は、この人のせいじゃない。この人の父親がやったことだ。それは分かっている。けれどだからといって、この人を見て何も感じないわけじゃない。
 でもこの人に当たるようなことはしたくない。
 なんで言いがかりをつけて我が家を辱めた家の人が、私に話しかけてくるのだろう。よくそんなことができるな、と思ってしまう。
 でも無視して通り過ぎればよかったのに、驚いて立ち止まってしまった。一生の不覚だ。戸惑いと怒りと冷静で痛い気持ちが頭の中でぐるぐるする。
 ここで目立つことをしたら、噂から逃れせっかく築いた今の暮らしをまた失うことにもなりかねない。そんなことになれば、今度こそ行く場所を失ってしまうだろう。
 尼寺か、最悪身を売ることも考えないといけなくなる。それだけは絶対避けなければいけないと思った。
「……何か御用でしょうか?」
 努めて冷静な声で告げると、清之助様は少し戸惑ったように視線を彷徨わせた。
「こんなところにいて、大丈夫なのか?」
「……どういうことでしょうか? 私は江戸にいてはいけないということですか? それとも、どこかの尼寺にいるとお思いでしたか?」
 できるだけトゲのない言い方を選ぼうとしているけれど、どうしても怒りが言葉を鋭利にしてしまう。清之助様は慌てたように「いや、そうではなくて」と言った。
「凛殿や小澤の家のことを聞かなくなったので、てっきり家から出ずに過ごしているのかと……」
「家からは出ます。でないと一人では生きていけませんので」
「ひとり……?」
「はい。先の一件のあと、私は小澤家を出たのです。今は小澤の名を捨て、ただの“凛”として一人で暮らしています」
「まさか…………」
 清之助様は顔を青くしてすっかり言葉を失っている。隣にいる弟らしき男の子はそんな清之助様を心配そうに見ていた。

 清之助様は急いで自分の懐をまさぐると、財布らしき布の袋を私に差し出してきた。
「これを」
「どういうことでしょうか?」
「あなたが町娘に身を落としているとは知らなかったのです。気の毒に……というか、なんと言えばいいのか……。
 今まで小澤家から世話になった額を考えたら全く足りないのは承知ですが、せめてもの気持ちです。あと何か俺にできることがあれば、なんでも……」
 清之助様は顔を歪め、私に受け取るようにと財布を揺らして催促する。じゃり、と嫌な音がした。

 怒っちゃだめだ。私は前に組んでいた両手を、ぎゅっと握った。
 話を聞く限り清之助様は、自分の父親が小澤家にしたことをおそらくすべて理解している。 だから一番の被害者である私に、少しでも罪滅ぼしがしたいということもわかる。
 けれど、納得のいかないことがあった。
「町娘として生きることは、『身を落とした』と言われるようなことでしょうか?」
 たしかに私は武家の娘という立場を捨てた。けれど出家したわけではない。身を売って暮らしているわけでもない。仮にそうだとしても他人から「身を落とした」と言われるのはいい気分ではないだろう。
 人それぞれ、生きるために必死なのだから。
 それを簡単に「身を落とした」という言葉で片付け、無闇に同情し、お金を渡そうとしてくる。そんな清之助様を見て、自分が怒りを通り越し、血の気が引いていくのを感じた。

「今の私は、武家の娘ではありません。ですが、日に日に一人で生きられるようになっていく自分を誇らしく思っています。誰かの妻となり、母となることしか求められない自分よりも、よっぽど生きがいがあります。楽しいのです。
 この思いは金子をいくら持っているかや日々何が食べているかなどでは測れません。自分の心が決めるのですから。
 それを、そんな簡単な言葉で貶めないでください」
「すみません。貶めるつもりはなく……ただ、あなたを助けたくて」

 立ち止まっている時間が長くなってきたからか、往来の人の目が少しずつしつこいものに変わっている。人が多く行き交う人も立ち止まる人も多いとはいえ、このまま話し込んでいるのは良くない。私達を知る人に見つかったらお互い良いことはないから、早く話を終わらせたかった。

「お気持ちはありがたいのですが結構です。では、失礼いたします」
 会釈して通り過ぎようとすると、清之助様が私の方に振り返って尋ねてきた。
「町暮らしで、何かお困りのことは本当にないですか?」
「ありません。さっき仕事もみつかりましたし、順調です。声を掛けるのはこれっきりにしてください」
「ですが……」
「兄上……」
 周りの視線に気づいたのか、弟さんも止めに入る。
「あなたの言葉を借りるなら私はもう、町娘に身を落とした人間です。しかも自ら望んでですから、あなたに助けてもらう義理はありません。私には私の、生き方があります」
 じっと見上げ、怒りが声に乗らないようにできるだけ落ち着いて話し続ける。
「それに、もし私が以前のように武家の娘として暮らしたいと言ったら、あなたに何ができるというのですか?
 あなたがお父様を押し切って、あのことは嘘だったと言って回るのですか?
 それとも同情して、悪女として名を馳せてしまった私に生活に困らない金子でもくださるのですか?」
 早野家の懐事情を知っているのに、意地悪なことを言っている。それは分かっている。けれどもう、清之助様に嫌われてでもここから離れたかった。清之助様にこれ以上付き合って、やっと手が届きそうになっている理想の生活を逃したくない。

「どちらも無理でしょう?」
 清之助様に向かって皮肉っぽく笑う自分は、まるで本物の悪女みたいだ。でも背に腹は代えられない。
「お家の状況を考えたら、私に情をかける暇なんてないはずです。
 我が家に散々迷惑を掛けておきながら、自分の家のことはどうでもいいと思っているのですか? それこそ失礼です。
 私のことは忘れてください。それだけでは良心が痛むというなら、私ではなく、あなたが大切に思う人になにかして差し上げてください。
 もう、関わらないで」
 私は吐き出すように思うことすべてを告げる。
 もう一度お辞儀をして、私は逃げるようにその場をあとにした。

 私は急ぎ足で自分の長屋に戻ってくる。
 幸い誰も表には出ていなかったのでそのまま自分の部屋に入り、一人土間にかがみ込んだ。
 あの人に会うまで、今日は人生で最高と言ってもいいくらいの日だった。やっと仕事も決まって、あとは自分の努力次第だと思っていた。
 それなのに会いたくない人に会い、いらぬ同情に腹が立ってしまった。そしてその場から逃げ出すために色々言ってしまった。嘘は言っていないけれど、だからといってなんでも言って良いわけじゃないことくらいは、私にも分かっている。
 私だけが悪いとは思わない。そもそも声を掛けてくる方がおかしいとすら思う。でもだからといって嫌味や皮肉を言っていいわけじゃない。
 あれで良かった、痛み分けだと思う反面、自分は悪くないからこそもっと毅然とした態度でやり取りするべきだったとも思う。自分のなかでずっと堂々巡りをしている。
 私が今できることは、明日から見習いの仕事を頑張って、正式に弟子として認められるための努力だ。それ以外のことは考えたところで仕方がない。すっぱり、切り替えよう。

 「……なんで会っちゃったんだろう」
 江戸にはこんなに人がたくさんいるはずなのに、どうして。
 気持ちの整理がまったくつかないまま、あとで近所のおばあちゃんがお漬物を持って会いに来てくれるまで、ずっと土間にうずくまっていた。
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登場人物紹介

小澤凛(こさわりん)

南町奉行所の同心を父に持つ武家の娘。

小澤彦右衛門(こさわひこえもん)

南町奉行所の同心。

早野清之助(はやのせいのすけ)

南町奉行の同心を父に持つ武家の長男。

早野平三郎(はやのへいざぶろう)

南町奉行所の同心。

小澤夏生(こさわなつき)

凛の母。お夏とも呼ばれている。

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