第3話

文字数 685文字

 ある日、僕は彼女とは関係のない場所で、とてもひどく打ちのめされた。
 会社の上司に理不尽な怒りをぶつけられることなんて、生きていれば珍しい事じゃないんだろう。ついでに書類を床に投げつけられる事だって、ニュースで見るひどい事件から見れば全然たいした事じゃない。たぶん、誰かがつまずいて転ぶのとさほど変わらない頻度で、見知らぬどこかの誰かに起きているようなことなんだろう。
 だけど、ありふれたことだからって傷つかないわけじゃない。

 家に帰ってからも、自分が価値のない、出来ない奴のような気持ちが、僕を(さいな)んだ。あるいは逆に、僕をこんな思いにさせた相手を、心の中でおとしめたり、罵倒したりもした。
 どうしようもなく涙が後から後から流れてきて、とてもベランダに出られるような気分じゃなかった。

 壁の薄いアパートだったから、隣の彼女は僕が泣いていることに気が付いていたんだと思う。彼女は家にいたけれど、いつも以上にとても静かだった。僕には彼女がベランダに出て行く気配がないのがありがたかった。

 やがて涙もとまり、部屋の壁に寄りかかってぼんやりと床に座っていると、彼女が歩く音がした。
 パタン、コトン、パタン、ジーッ。
 この音はよく知っている。冷蔵庫を開ける音。そして電子レンジだ。なんで、今。

 チン。

 何だかバカにされているような音だ、と僕が思っていると、「アチチ」と彼女の声が聞こえた。
 (脳天気なもんだな)と僕は心の中で、なんの罪もない彼女に八つ当たりした。

 コン、コン、と彼女が壁を叩いた。そして歩く音がして、カラカラとガラス戸を開ける音がした。彼女がベランダに出たのだろう。
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