第6話

文字数 669文字

 それから数日の間、彼女はベランダに現れなかった。日曜日、今日は会えるかな、と、ビールとつまみを買い込んだ。いつもよりも少しだけ豪華な食べ物でふくらんだビニールの袋をぶら下げて帰ってくると、アパートの前に引っ越しのトラックが停まっていた。
「誰か引っ越して来たのかな?」と思った。近づいて行くと、トラックにエンジンがかけられ発車した。その後ろから小さな軽自動車が続いている。
 引っ越して来たのではなく、誰かが引っ越していくのだ。

 ハッとしてアパートの二階を見上げた。その軽自動車はアパートの駐車場で彼女の部屋の駐車スペースに停まっていたいたものだと唐突に気が付いたからだ。
 彼女の部屋の窓には、いつもかかっているカーテンがない。
 少しは可能性を残しておいてくれればいいのに、(あるじ)を失った部屋は、なぜすぐにわかるのだろう。僕には一目で彼女が行ってしまったことが分かってしまった。
 走り去った軽自動車を振り返ると、窓から手がニュッと伸びてパッと手を開くと、また引っ込んだ。彼女の長い髪が風にさらりと流されたけれど、シャンプーの香りはもう僕には届かない。

 彼女は行ってしまったんだ。

 僕は彼女の顔も名前も知らなかった。彼女は表札を出していなかった。そうだ、話したことすらなかったんだ、と僕は思い当たる。
 ただ同じ時間に、壁に隔てられたベランダの、こっち側とあっち側に立っていただけだ。

 だけど僕は何も知らない彼女に、もう一度会いたかった。今度は彼女の声を聞いてみたい。彼女の顔を見て、話したい。一緒に夜空を見ながら、お酒を飲んでおつまみを食べたい。
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