第1話   転入生

文字数 5,618文字

 夜が白み始め、やがて昨日と同じ様な、一日が再び始まる。
 主人公の平野誠は、目が覚めて、半身を起して、ベッドサイドにある、金属製のパイプの手すりをつかんだ。
 ……冷たい……
 誠は、手を引っ込めながら、窓の外を見た。
 窓の外に見える木々を見て、夏の頃は、あんなに新緑の緑に溢れ、生気のある木々だったのに、冬になった今では、生気を失った、大地に、むき出しなっている木々の枝の様子が、彼に死後の世界を想像させて陰鬱な気分にさせている。
 誠はフラフラと、家の台所に行って、朝食のごはんを家族と一緒に食べた後、出かける準備を始めた。
 リックサックに、筆記道具を放り込んで、リックを背負うと、誠は、玄関を飛び出して車に飛び乗った。

 誠の向かう所は、世間一般の普通の会社でなくて、精神障がい者達が、集まる所である。
 なぜ、そこに行くのかというと、彼は精神障がい者だからである。精神障がい者は、虐げられた歴史があって、一昔前、ならば、病院に押し込まれて、そこで、一生暮らすしかなかった。
 しかし、最近の精神病の潮流で、精神病を抱えた人達は、病院から出て、一般社会で、健常者と共に暮らす社会にしようと言う、機運が少しずつ高まっている時代だからである。
 ただ、そうは言っても一般の健常者の中には、精神障がい者を、理解が出来ない人達もいて、スンナリトはいかないようだ……。
 そこで、最終目的の社会復帰と病院との間に、ある程度症状の安定した精神障がい者が集まる、中間施設が出来るのは、当然の成り行かも知れない……。
そういう場所を、「○○作業所」と言って、全国のあちらこちらに出来ている。

 作業所『ハトさん』も、その流れに合わせて、何年も前に開所している。
 そこでは、病状が安定している精神障がい者が集まって、月曜から金曜までの間、内職の作業を軸に、支援員と呼ばれる職員と共に、精神障がい者の抱える色々な悩みに折り合いをつけながら暮している。

 誠は、車のシートに体を沈めて、寒風が吹きつける中、地域活動支援センター作業所『ハトさん』に向かった。
 誠には、夢があった。
 ……立派に社会復帰を果たし、その手に、ビックマネーを掴み、愛する人と共に、幸せに暮らす……
 それは、思った様には、叶わない事に気付かない訳ではないが、だからと言って、代替の夢も、浮かばなかった。

 そんな、叶い難い夢を、実現するために、誠は、取り組むべき、下位の目標を立てた……。
 ……リーダーシップを発揮して、内職作業の生産を、上げて、その成果を、今まで馬鹿にした奴らに、叩き付けて見返してやる……
 そんな風に、誠は、下位の目標を立てた。
 だが、薬で、ラリッている、一介の精神障がい者の誠に、それが、出来る訳がなかった。
 それでも、そうする事によって、誠は、「人は変われる」と信じて、どんな風に、変わればいいのかも分からず、細々と、そんな所を目指していた……。

 車は、K市の駅前の中心街を外れて、郊外に走って行くと、誠は、程なく作業所の駐車場に到着した。
 建物の周りには、作業所にしている家を貸している、大家さんの畑がある。そこで、採れた青菜を、大家さんが、時々、差し入れしてくれる。
 そんな、大家さんの作った、雪堀大根は、ビミな味がする。
 大家さんの近所には、精神障がい者の理解がある。

 誠は、そこから少し歩いて作業所の門をくぐると、風除室を通って玄関の引き戸を開けた。そこに、友達の鍋島悠作がいるのを見つけた。悠作は、上着にヤッケの防水コートを、着て、下は、ゴアゴアの茶色のズボンをはいている。
 小柄に見えるやせ気味の体型に乗った頭は大きく、顔は、青い血管の浮き出た広いオデコに、銀縁のメガネをかけて、如何にも賢そうな雰囲気を醸し出している。

 「お早う、悠作」
 誠は、中にいた、悠作に挨拶をした。
 悠作は、視線を誠に向けて、にっこり微笑むと……。
 「お早う、マコたん」
 そういって、お互いに、朝の挨拶をして、仲良く二人で、休息室に向かった。

 休息室には、3,4人の作業所の利用者がいた。
 その中の利用者の純と光ちゃんが、話していた。
 「就活したけど、ダメだった、精神障がい者は、どこにも(会社に)行けないんじゃないか」
 彼は、大きな体を丸めて、両腕を両足の内側収めて小さくなっている。同じ傷を持った、利用者の純が、光ちゃんに、やさしい言葉をかける。
 「ここでゆっくりして、また探したら?」
 光ちゃんは、青い顔をして、激昂する。
 「そういって、俺は、何年我慢してきたんだよぉ!」
 光ちゃんの激昂が収まると、カクカクと、動きながら大人しくなった。
 光ちゃんの気持ちがわかる、利用者達は押し黙り、その辺一帯に、暗い空気が包んだ。

 その時、休憩室につながる廊下の先の、ロッカー室から、白熱電球の明かりが、休憩室に漏れてきた。
 周りの数人の利用者が、そっちの方を見た。
 そこに、可愛い女の子がいる。
 ここの作業所の人気者の飯島綾香である。
 女性のわりに長身な綾香は、赤と白のラインの入った、フカフカの毛糸のセーターに、暖かそうな裏地のついた茶色のズボンを履いている。

 ここの利用者の中に何人か、綾香の好きな人がいるのを知っている。
 ただ、誠は、綾香とは、年の差があって、年上の彼女との間に距離がある。
 「寒いですね」
 綾香の愛らしい、声がする。
 みんなは、綾香に気づいて、口々に親しみを込めた、挨拶をする。 
 「あやかさん! お早う」
 満更でもない綾香は、みんなにニッコリと、満身の笑顔を浮かべた。彼女の存在が、利用者達の清涼剤になって、そこ老若男女に関わらず、愛らしい姿を見たものは、微笑ましさを感じてさせている。

 綾香さんを好きな人達の中に光ちゃんがいる。ちょっと、太り気味だが、ネガテイブナ・思いが少ないのか? グリーンの色の服を好んで着ている。
 特徴的なのは、光ちゃんの動きが、カクカクしていて硬い所である。

 そして、いつも、静かにしていたかと思うと、「そうですよね、そうですよね……」と、言って、助走をつけて、ラインを踏み切ると、思い切り「ははっは」と、大声で笑い、相手を笑わせようとするが……。
 光ちゃんは、いつも、そこで、気の抜けた風船のように、力尽きてしまい、再び、大人しくなる。

 たまにしか来ない人たちがいる中で、誠は、悠作、綾香、光ちゃん達が、『作業所ハトさん』に、頻繁に通って来るので、何となく、彼らと気心が知れている。
 誠は、悠作の隣に座ると、綾香に、そばに来る様に呼んだ。
 「あやかさん、こっちに来ないか?」
 「ええっ」
 安い女じゃないよと、お高く留まったが、嬉しそうな誠の顔を見て、(何かあるのかな?) 淡い期待をすると、綾香は、誠の傍の少し離れた所に座った。
 光ちゃんは、そんな誠の様子を羨ましそうに見ていた。
 「光ちゃんもこっちに来る?」
 悠作が、光ちゃんを誘った。
 「はい」
 そういって、カクカクと動きながら、誠の正面に座って、睨み付けた。
 悠作は、この展開を、陰でクスクスと笑っている。

 誠は、光ちゃんを無視して、仲間たちに朝見た、ニュースの話を始めた。
 「ニュースを見たんだけど、フィギュア・スケートの大会で、羽生結弦さんが、クルクル回って……」
 悠作も話す……。
 「そうそう、四回転ジャンプや、三回転、三回転半のコンビネーションジャンプを、決めて優勝したのを見て、とってもカッコ良かったー」
 仲間たちは、「うん、うん」と頷いた。
 そんななか、光ちゃんは誠に対して挑戦的になる。
 助走をつけて、「それがどうしたん」と、でも言いたかったのか?
 「そうですね、そうですね」
 そう言って、闘争心を高めて、誠をじっと見た。すると、殺伐とした空気が、仲間たちの辺りに漂って、何か起こりそうな奇妙な興奮を感じ始めた。

 その時、事務所の部屋から電話のベルが鳴った。
 支援員さんたちは、別の対応をしていて、電話のベルは、中々鳴りやまなかった。
 仲間達も、喋るのを止めて電話のベルに聞き耳を立てた。
すると、誠は、そのようすを見て、仲間たちの前でボケをかました。
 「今の電話に、電話だけに、中々デンワ……」
 仲間たちは、誠のボケにあ然として、フリーズする。
 すると、悠作が、大きな頭を後ろに、のけぞらせて、「ははっは」と、大笑いすると、仲間達は、顔を見合せて、「あははっは」と大笑いした。
 その事で、光の挑発的な勢いは、風船の空気が漏れて、小さくなる様に萎んでいった。
 作業所『ハトさん』では、何も起こらないのが、何時もの日常だった。

 綾香は、そこで、最近、支援員さんから聞き出した、『作業所ハトさん』のニュースを、仲間たちに言った。
 「そういえば、今日、新しい利用者が、入ってくるんだそうです」
 「そうなんだよ」
 悠作が答えた。
 綾香は、体をモジモジさせながらコメントする。
 「いい人だといいわね」
 「うん、うん」
 誠は、綾香の意見に賛同した。すると、カクカク動いている光ちゃんに、仲間たちの視線が集まった。
 「そうだね」
 光ちゃんは、それだけ、仲間たちに言って、黙り込んだ。
 仲間たちの輪は、その後、自然に消滅した。

 やがて、朝の9時45分になると、支援さん達が、事務所を出て休息室にやってきた。
 利用者の人たちも、それをみて、休息室に、集まると、朝のミーティングが始まった。
 みんな、心に傷を持った利用者たちだ……。

 このミーティングをしている休息室には、ベッドが3台、ソファーが2台あって、部屋の中央には、大きな長方形の短足の家具調テ―ブルが収まる、大きな部屋である。
 「お早うございます」
 支援員さんの有希さんが、利用者の皆さんに声をかけた。すると、利用者の皆は、元気な声で、「お早うございます」と、返事をした。

 その後、利用者のみなさん一人ひとりに、今日の自分の体調を、「下痢、発熱、嘔吐」が、ないかという、クローズの様子と、オープンな体調の様子「眠れなかった」とか「具合が悪い」とか「体調は、バッチリ」などと話して、姿や声の様子から、支援員さんたちは、利用者のみんなの体調を確認した。
 それが終わると、作業の内容の簡単な説明を受ける。
 説明が終わると、作業所の関連の話をする。カラオケ会や、食事会などの日程や、「ハトさん」を訪れる人達の話が、出ることが多い。

 今日は、朝からじっと座っている、新入りの可愛い女性のことについて、施設長の坂井さんから、利用者の皆に、彼女の紹介が始まった。
 施設長の坂井さんは、彼女を見て微笑む…。
 「この人は、小川リサさんです」
 利用者のみんなは、リサに注目した。
 リサは、ふっくらしている体付きに、フードのついたパーカを着て、膝下15センチの赤と黒のチェックの柄のスカートを履いている。
 「初めまして、私は、小川リサです、リサポンと呼んでください、好きな事は、絵を描くことと、誰かを応援することです」
 「おお」
 利用者のみんなは、リサさんを好意的に受け入れた。
 「僕、光です、光ちゃんと、呼んで下さい」
 唐突な物言いだったが、リサは終始微笑みを、絶やさなかった。

 支援員の有希さんが、それを、見届けると、「じゃあ、朝の体操を始めましょう」
そう言って、支援員さんは、「広がれー」と、言うジェズチャーをした。
みんなは、それを見て、休息室の方々に散らばった。

 今日の光ちゃんは、格別に元気一杯だ……。誠は、体操をすると、体が温まるので、結構楽しんでやっている。
「イッチ、ニ、イッチ、二、……」
 やがて、体操が終わると、誠や仲間たちは、支援員さんたちがする、作業の準備を終えるまで待機していた。

 待機していた誠は、施設長の坂井さんから、事務所に来るように言われた。
 誠は、(何だろう?)と、思いながら、待機していた誠は、他の人達を置いて、支援員さんの集まっている、事務所に行った。
 事務所に入ると、窓際に、長足のキッチンテーブルと、その壁に沿うように、パソコンや書類の棚に、個人情報の書類が無造作に並べてあった。

 施設長の坂井さんは、早速、誠に、話を切り出した。
 「他の人に指示を出して、勝手に動かさないでください、支援員でもない、利用者の貴方が言うと、『何だ、支援員でもないくせに…』と、思われて、みんなに嫌われるわよ」
 誠は、その事を聞いて、「ハッ」として、施設長の坂井さんを見上げた。
 ……リーダーの真似ごとをしていた自分の行動が、そんな風に映っていたのか……。
 誠には、その事実を直ぐには、受け入れられなかった。
 施設長の坂井さんは、誠にそれだけ言うと、行ってもいいと云う身振りをしたので、誠は、事務所を出た……。
 「ちっ……」
 誠は、施設長の坂井さんの言葉に怒りを感じた。

 そこで、休息室のソファーに座っている悠作に、この怒りをどう思うか? 聞いてみることにした。
 「悠作、ちょっと来てくれる」
  誠は、支援員さんに言われて、テーブルに新聞を広げて、作業の準備をしている、悠作を呼んだ。
 「何々、マコたん」
 悠作は、大きな頭を揺らしながら、誠の傍にやって来た。傍に来ると、メガネを指で整えた後、ジッと誠を見た。誠は、悠作に言った。
 「あのう、さっき、施設長さんから、皆に指示を、出すと、嫌われるって言われたけど、どう思う?」
 悠作は、「そうだね」と、ストレートに答えた。
 「えっ」
 誠は、その返事の様子に、唖然として、頭が真っ白になると、「ひとは変われる」と言う、「誠の想い」の壁と、なって立ちはだかった。誠は、その壁を、越えられず、「変われない」現実に、打ちのめされて、利用者の皆に働きかける、リーダーシップをしなくなった。

 それからというもの、誠は、周りに干渉しない様にして、怠惰な様子で、何事もないような毎日を、送っていった。

 
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