第1話:道志村と加藤家の歴史1

文字数 1,775文字

 神奈川県って、東京の隣で、大都会・橫浜を中心に、都会というイメージを持っている人が多いかも知れません。しかし、実際には、南は、三浦半島、三崎港からマグロ遠洋漁業に出かけ、冷凍マグロが有名。西は、箱根、湯河原と言った、観光地がある。さらに、神奈川県の背骨、中央部には、丹沢産地がある。

 そこには、3つ主峰。丹沢山「1567メートル」、塔ノ岳「1491メートル」、蛭ケ岳「1673メートル」がある。その他にも、県西部には檜洞丸「1601メートル」、不動ノ峰「1614メートル」、つまり県央部と県西部、山梨、静岡に近いところにも、1500メートルを超える峰が10以上ある。

 道志村は、その丹沢の北部、別名、裏丹沢とも呼ばれて、素晴らしい自然と、中央を道志川が、ながら、夏は、川沿いのキャンプ場は、首都圏から、大勢の観光客が訪れる。宮ヶ瀬ダムの南部に流れる中津川、本谷川の上流には夏でも冷たい川の水が流れ、夏泳ぐには最高。多分、余り知られていないと思うので、是非、来てみると良い。

 橫浜市をみても、昔は、山と切り立った断崖で、なだらかで広い土地は、少なかった。今の港北ニュータウンも、昔、人が入る事が出来ないような深い林であった。それらを人が住むために、行政が都市計画を考えて数十年かけて開発、言わば作られた町であら。北に行けば、相模湖、その南に、東西に大山から丹沢の山々が連なっている。

 自然も多い、相模原から津久井を抜けて西に向かうと、山梨県道志村に入る。道志村は、山深い、自然の素晴らしい、村の中を水の綺麗な道志川がながれ、クレソンで有名な所。この道志川は、富士山の伏流水を源にした、名水で名高い清らかな水で、昔から橫浜港の水は、外国船の乗組員に、赤道まで腐らずに飲める水として重宝がられていた。

 明治時代に、その道志側の水を、貯水場に貯めて、消毒して、神奈川県、橫浜市の水として、長い間、使わせていただいている。この小説は、その道志村で、昔から、地域の便利屋として、この地域のために働く、若者の話から始まる。自然を愛し、慈しみ、敬い、自然と共に暮らしをこよなく愛する家族の物語である。

 ここは、山梨県道志村、どこかって? 裏丹沢と呼ばれて、神奈川で有名な、丹沢の山々の北側に位置して、昔の神奈川県津久井郡の西側で、山梨の東端に位置している。富士山の伏流水が流れている道志川が道志村を流れて、その水が処理されて、橫浜の飲料水として使われている。

 昔から、名水として知られ、横浜港に立ち寄る外国船が、この水を好んで、使った。その理由は、長期間、飲める水として重宝がられていた。加藤家は、代々、この集落に住み、加藤工務店として名前は、知られている。加藤工務店は、大工仕事、電気工事、配線、ガス、水道の修理、自動車修理まで、何でも修理する仕事を生業としていた。

 現在の当主の加藤吉宗も地元の学校卒業して、この地区の昔からの工務店に、奉公に行き、見よう見まねで仕事を覚えた。また大工の棟梁、左官屋、工事職人に厳しく仕事を教えられた。現在、この地区で、加藤工務店として20km圏内の建築関連の仕事を一手に引き受けて、若い弟子を8人を擁していた。

 大工4人、左官屋5人、パイプ、屋根、金属加工のできる者5人と22人の工務店の社長をしている。地元の農家の娘、加藤タネと結婚し、4人の子供がいる。長男、加藤一郎は、田舎の生活が好きではなく、一刻も早く都会に出たいと考えていた。そのため一生懸命勉強し、県立相模原高校に合格して、かなりの遠距離をバイクで通学。

 卒業後、八王子の東京都立大学経済学部出て、東京のMB銀行入行して、その会社の寮から、銀行勤めを始めた。次男の加藤次郎も、兄の一郎を見習い、県立相模原高校へ合格し、バイクで
通った。そして橫浜市大経済学部を出て、NM証券に入社。その後、橫浜の営業所に配属され仕事をしている。

 長女の加藤一美も田舎暮らし嫌気がさしていた。中学卒業後、自宅から一番近い、県立津久井高校を卒業後、勤めた橋本のスーパーマーケット上司の愛田勝夫と結婚。その後、彼の故郷、秋田へ引っ越していった。次女の加藤夏子も県立津久井高校卒業後、厚木のスーパーマーケットに就職。 そして、上司の崎山俊郎と結婚し、彼の故郷、四国・松山に引っ越していった。
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