第10話(最終話) 心の恋人

文字数 15,141文字

(前章第9章までのあらすじ ~ 職場では、様々な税務調査、税金集めの仕事が続く。仕事仲間が交通事故に巻き込まれる。定職についていない昔の同窓生が連絡してきて、自分はサラリーマンにはなりたくないと言う。上司の杉山は職員の転勤の時期に、佐藤に娘を嫁にもらってくれと言ってくる。佐藤は機会を見て断る。)

 日々の生活の中に、春の暖かさの訪れが感じられるようになった。人々の活動にも、どことなく躍動感が漂っている。しかしまだ、時折吹く風には、冬の寒さのなごりが残っている。
 佐藤は、学生時代の友人からの手紙は、いくつも受け取っていた。ところが、意外な人から、今回は手紙を受け取った。相手は悦子だった。
 悦子は職場で、佐藤の席に近づいてきた。目立たない色の封筒をよこした。
「あのう、これ、読んでくれる? 」
 うつむき加減で、周囲に目立たない様子で、佐藤に何か手渡した。
 薄い封筒で、仕事関係の書類がはいっているように見えた。
「何ですか? 」
「あとで読んでくれる? 」
 悦子は小声で言った。
 周囲の人は、職場のざわつきの中で、ふたりのやりとりを気にとめる様子はなかった。
 自宅に帰ってから、佐藤はその書類を開けた。個人的な手紙だった。
 そこには、こう綴られていた。

 人を好きになっていくこと。
 それはもしかしたら、ひとつの逆らいがたい力なのではないでしょうか。
 初めは無関心だったものに、いつの間にか特別な関心を向けていく。
 それは、親近感を覚えて、好意を感じて、もっと話をしてみたい、もっと相手をよく知りたいという気持ちになっていく心です。
 そして、ちょっとしたことで、相手から反応があれば、たちまちうれしくなってしまうのです。
 わたしはそんな楽しくて軽い好奇心で、人に近づいていったことがありました。
 相手に自分というものを受け入れて欲しい、そんな気持ちがどこかに潜んでいたのでしょう。
 ただ、少し恥ずかしかったから、直接に数多くを話したことはありませんでした。
 けれども、そんな楽しい浮き浮きした気持ちは、長くは続きませんでした。

 あるとき、わたしは自分の中にある強い執着心を発見して、愕然としてしまいました。
 いつもその人のことが頭から離れなくなり、一日といえども、無視して通り過ぎることができなくなってしまったのです。
 それは確かに、いつも一緒にいたいという気持ちでした。
 それでも、こういう気持ちというものは、放っておけば、そのまま終わってしまう他はないだろう、ということはわかっていました。
 自分で心を殺してしまったとは思いたくありませんが、現実にはそうなってしまいました。
 また、いったい自分は何を考えているんだろう、と自問自答しました。
 本心を伝えようかどうか悩みました。
 でも、実際には、まるで金縛りにあったように手も足も動かず、ひと言も口から出ませんでした。

 本心とは、いったい何でしょうか。言ったところで、それが果たして実りあるものになるでしょうか。
 そのころ、とても心の渇きを感じて、文学に道標を見いだそうとしました。
 でも、文学は過去の人間の失敗談ばかりで、新しい人間関係を示してくれるようなものはありませんでした。
 失敗談の中にも傑作はあります。
 その女主人公は、恋人など作れる立場にはありません。それが、初めてできた恋人に遊ばれて捨てられてしまいます。
 そのあと、二番目の愛人とは、周囲の手によって引き離されてしまいます。
 みっともないことには、自分がその恋という遊びで使ったお金のために、首が回らなくなります。借金を抱えて、とうとう自殺してしまいます。
 何と、彼女が死んだとき、かつての恋人は大きないびきをかいて寝ていました。
 もうひとりの愛人は、遠い土地でそんなことは知るすべもなかったというのです。
 悲劇と言いましょうか、喜劇と言いましょうか、実りのない恋愛の成れの果てを見たような気がしました。
 人間関係には、必ず終わりがあります。
 それは、死に別れの場合も、生き別れの場合もありますが、これではあまりにむごい。
 どんな人間関係であっても、本気だったら愛情を残したいと、そのときわたしは考えました。
 けれども、どうしてよいかわからず、愛情の欠けらも示すことができずに、時間だけが流れてしまったようです。
 そうして、わたし自身の心のゆとりもなくなってしまいました。
 将来に渡って、良い人間関係を保っていけるのは、好意の段階までだなと思っていました。
 それでも、恋心と好意の間のジレンマに悩みました。
 人には、泣きたくても泣けない場合もあると思います。
 恋に泣くことができるのは、そしてそれが人の目に美しく甘美に映るのは、限られた種類の人間だけです。
 あとは、泣いたってドンキホーテです。

 そのうちに、深まりも近づきもしない関係に、投げやりな気持ちが出てきてしまいました。それは、仕方のないことでした。
 ところが、それと同時に、愛情を持っていた心までが朽ちていくのです。
 救われない気分、近くにいることの苦痛、きのうとの断絶。
 結局、自分自身の中に割り切れないものを残している以上、仕方のないことだったかも知れません。
 そうして、ゆううつな日々が続きました。
 けれども、実体の伴わない愛情が、砂上の楼閣に過ぎないことを思い知らされるときが、間もなく来てしまいました。
 正直言って、わたしにはショックでした。
 どうしてこんなことになってしまったのだろうと思いましたが、あとの祭りです。
 何日か涙がこぼれました。
 でも、不思議なもので、自分の心にけりを付けてしまうと、愛情が跡形もなく消えてしまったのです。
 わたしは、その人と話をする気持ちが、全然起こらなくなってしまったのです。
 話をしたところで何になるのだろう、という気持ちになってしまったからです。
 あとには、砂をかむような殺伐としたものが残りました。

 そんなわけで、わたしにとってつまらない日々が続きました。
 でも、あるときふと、その人の繊細な心を見たような気がしました。そのとき、何だかすべてに対して、心が許されたような気がしました。
 頑なに拒まれてしまうことに対する心の疲労はありました。
 にもかかわらず、愛情の純粋な上澄み液だけが、ろ過されたような気がしてきました。
 その人からは、絶対に選ばれることはあり得ない。そんな諦観でしたが、それでわたしの心は随分と和らいだのです。
 ただ現実に、その人が特定の女性を選んだときには、わたしがその人に対して持っている感情は、どうなるのでしょうか。
 再び、消えてなくなってしまう性質のものでしょうか。
 もしそうだったら、わたしはもう一度、心を転化して、そのことを素直に喜べるような気持ちに、早くなりたいと思っています。
 わたしは今、こんな気持ちを持って、日々を生きているのです。

 手紙を一読して、佐藤は戸惑いと同時にうれしさを感じた。
 一方の戸惑いが生まれたのは、この手紙が自分に対する愛情の告白に近いと感じたせいだった。
 悦子はおれに夢中になっている。その気持ちを持て余している。心の中に恋情があり、それに対する葛藤がある。おれとの関係が深まることに対する願望と不安が渦巻いている。そのせっぱ詰まった気持ちは、おれも持て余してしまう。
 もう一方のうれしさは、女性から恋情を伝えられて、心が温かくなるのを自覚したせいだった。相手は、以前から魅力的と感じていた女性だった。確かにこちらも好意を持っている。
 しかし、この恋情には明るい面ばかりでなく、暗い面もある。夫も子どももいるのに、悦子はおれとの交情を欲しがっている。夫以外の男への熱い思いを抱えている。
 悦子の抱く不倫の意識は、言葉にも態度にもはっきりとは出ていない。しかし、心情には確かに、背徳が潜んでいる。その点では、悦子は実質上、すでに夫を裏切っているのかもしれない。
 佐藤は、見方によっては、ふたりの男に心を寄せる悦子は欲張りだと思った。
 一方では、悦子の人間性の一端を見たように感じた。文面から、悦子が知的でプライドの高い女性だということが読み取れた。所々に、不満や非難の気持ちも描かれている。
 また一方では、この手紙に対して他人事のように驚きの感情を覚えた。
 世間にはこんな女性もいるのか。いつもと変わらない様子で勤めに出ている妻が、こんなにも職場の男のことで心を揺らしている。世の中の夫の多くは、このような実情を知っているのだろうか。
 これを知ったら、夫はどう思い、どうするだろうか。怒りで感情的な行為に走るのだろうか。その行為の矛先は悦子に向かうのか、佐藤にも向かうのか。
 考えてみると不思議だった。杉山も悦子も、職場で佐藤のすぐそばに座って仕事をしている。それなのに、杉山は佐藤に娘を嫁にもらってくれと言い、悦子は佐藤に自分はあなたを慕っていると伝えてくる。二人とも、それぞれが何をしているのか知らずにいる。
 悦子の心の中で、恋心はどうやって生まれたのか、佐藤は考えてみた。
 佐藤がこれまでに悦子に示した言葉や行動が、悦子の心と体に火を付けたのかも知れない。その炎が少しずつ、大きく燃え上がっていった。
 体の接触、性的な接近は、一度だけあった。温泉観光地のホテルで、チークダンスに誘って体を抱きしめ、自分の体を押しつけた事実があった。
 遊び男の目から見れば、出来心で軽く手を着けたら、純情な人妻が本気になったという見方もできるか。しかし、肉体の関係を持ったわけではなかった。

 佐藤は今後の悦子と自分の関係に考えを巡らせた。
 端的に言えば、双方がその気なら、機会を見つけて心と体を結びつけるのが自然と思える。心の欲望を満たすために、体の欲望を使う。
 悦子の文面には性的な表現はなかった。しかし、心情の吐露の向こうに、男を知っている女の肉欲の乾きが垣間見えた。
 恋心の言葉の先には肉体関係が待っている。これ以上近づけば性関係が生まれ、問題が起こるかもしれない。悦子は結婚しているから、不安感や罪悪感を抱いている。それは、独身の佐藤も同じだった。
 しかし、男の立場なら、成り行きで性欲を先行させることもできる。佐藤の脳裏には、好色な想像を生まれた。佐藤の中の遊び男は、性欲のはけ口になる女を見つけたような気がした。
 
 一方で、佐藤の脳裏には、今後の思わしくない結果もよぎった。本能的な行動の果てに、どんな社会的な影響や制裁を受けるのか。
 もしふたりが不倫の関係を持ったら、それぞれの世間体や人生が大きく変わってしまうのだろうか。
 自分も悦子も、まじめな人間なのかもしれない。もっと不まじめな人間なら、どちらかが結婚していようと、遊びで関係を持ってしまうのかもしれない。しかし、まじめな人間は、そうはいかない。真剣に悩む。
 美しいバラにはとげがある、と昔から言われている。
 悦子の下半身は、前から感じているとおりハチの体型に似ている。悦子がハチだとすれば、それは毒のあるスズメバチやアシナガバチだろうか。不用意に手を出すと、あの豊かな下半身から毒針が出るのか。
 刺されると、性の虜になってしまうのか。性的関係にのめり込んで、社会生活に狂いが生じて、世間を渡るのが難しくなるのか。人から批判され、無視され、苦境に立たされるのか。
 佐藤は、すぐには行動に出なかった。どうすればいいか迷った。君子危うきに近寄らず、の態度を取るか。それとも、据え膳食わぬは武士の恥、と解釈するか。 とりあえず様子を見て、何かの機会が来るのを待ってみよう。

 美智子からも手紙が来た。
 話が進んで嫁入りが決まった。ずっとミキオ君を見つめていれば良かった、と今は思っている。
 手紙を読んだ佐藤は久し振りに、美智子の家に電話を入れた。母親が出て、佐藤の名を聞いた。
「そうですか。今、出掛けております。お名前は伺っております。何か御用ですか? 」
「はっ、ええ…。いえ、結婚おめでとう、と言おうと思いまして…」
「それは、ありがとうございます。そうですかあ。何かとねえ、娘のことですから、心配で……」
「はあ、そうですね」
 嫁入り先が決まって、ほっとした感じの母親の応対だった。美智子は、佐藤のことを気のおけない友人として、折りに触れて母親に話しているらしかった。
 同棲までした野口のことは、何も喋っていないのか。喋っているとしたら、どの程度までか、佐藤には見当がつかなかった。 そう言えば学生時代に、親が上京して来ると言って、美智子が部屋の片づけにあわてていたのを思い出した。同棲している野口の気配を消すためだった。
 やがて、新婚の門出を知らせる葉書が、美智子から届いた。
 裏側に印刷された写真の中で、美智子は、ミツオ君と一緒にウェディングケーキに、ナイフを入れていた。初めて見るミツオ君は、野口より美男子で、どこか安心感を持てるような気がした。
 佐藤には、美智子の波瀾に満ちた男性遍歴も、一応の幕を閉じたらしく思えた。しかし、野口は今でも、思い出せばめそめそと泣いているのだろうか。
 六月になると、収税課の若い職員が、あることがきっかけで、職場をしばらく休んでいることが分かった。職場の仲間が、その事情を佐藤に話した。
「何だか、たちの悪い納税者に脅されたみたいなんだよ。税金取りに行って、このままだと差し押さえになってしまうとか、伝えたらしいんだ。そしたら、渋々、税金払ったんだね。ところが、飲食店の親父らしいんだけど、これから交通事故と火事には気をつけた方がいいぞって、言ったらしいよ。相手は、職員の名前を知っているからね」
 周囲の職員も、同情を寄せた。
「あの人、奥さんと小さい子ども、いるからね。心配で、悩んで、落ち込んじゃったみたいなんだよ。相手は、どこまで本気だったんだか知らないけど。それで、休んでいるんだよ。ただの脅し文句だろうっている人もいるけど。危ない筋の人間なのかなあ……」
 そのあと、当の職員は上司の助言を受けた。警察に相談に行った。口先で脅すだけでも成立する犯罪もあるらしい。

 夏のある日、佐藤は久し振りに、野口と美智子が身を寄せて暮らしていた東京のアパート街に足を運んだ。その町には、二人の青春と恋愛の屍が眠っているように思えた。
 その時、近くを走る国道の彼方に、めらめらと立ち昇る透明な炎を見た。暑い陽差しの中でそのかげろうは、何かを暗示しているように思えた。
 野口と美智子は、あの頃、三年の歳月をかけて、何か青春の象徴のようなものを、共同で作り上げた。それはもう過去に隠れてしまい、今では束の間の幻影に過ぎない。若さの燃焼する暑い夏が終われば、跡形もなく消え去ってしまう。そのあとにはもはや、果てしない冬が続くばかりだ。
 しかし、別れるくらいなら、二人はなぜ、わざわざこの街で暮らし始めて、激しく愛し合ったのか。佐藤の中の頑固な何者かが、その素朴な疑問を繰り返した。
 野口が他の女と結婚し、それでもなお美智子のことを慕い続けて、この世を去って行くとしたら……。恐らくそうなるのだろうと予想した。佐藤はどうにもやり切れない思いを味わい、人が諦めることを自分だけは投げ出すまいという気になった。
 そして、今にも野口が一念発起し、ミツオ君から美智子を奪い取ってしまうことを期待した。

 夏になって、佐藤は二十七才の誕生日を迎えた。
別れて三年以上経って、時に流されて貴美子を忘れられるような気がした。
 それでも急に、あの時代の貴美子を手に入れなかったら、自分の人生は嘘だと思った。
 おれは本心に反して、貴美子をもう好きでない自分になろうと、これまでわざと努力してきた。その結果、あるとき、もはや愛していないことを自覚した。自分の恋愛感情が、大きな転換期を迎えていることを感じた。
 それまで、貴美子を知る学生時代の親友に、貴美子への思いを、隠してきて語らなかった。しかし、心に余裕ができて、何かの機会に初めて、親友の遠藤や平田に貴美子にかつて結婚を申し込んだことを告白した。

 ある日、阿部が結婚することになったという知らせが届いた。結婚を反対された失恋からどうやら、立ち直ったらしかった。あるいは、失恋の未練を断ち切ったようだった。相手は、テニスの合宿の時に連れてきた、どこかの職場の女性だった。

 生きていると、良いことも良くないことも、前触れなく起こる。
 朝の出勤で、佐藤は時間に追われ、あわてて出かけた。脇道から大通りに出るとき、車が通り道を空けてくれた。その前を通ると、バイクがぶつかってきた。バイクは死角になっていた車線を走っていた。
 相手はバイクと共に、鼻から血を流して倒れていた。佐藤は気が動転したが、相手に駆けよって、車に乗せて病院に運んだ。
 病院から警察に電話した。
 相手は、鼻を三針縫ってもらった。怪我の内容は、打撲と擦り傷だった。
 警察官の指示で、佐藤は現場検証に立ち会った。
 佐藤の家族も、心配してやってきた。職場から、上司の課長と菅原が来た。
 菅原は、もう今の職場で二度も、交通事故に遭っている。同じ職場で、佐藤が三回目の事故を起こしたことになる。
 佐藤は、相手を自宅まで送り、話をした。
「どうも済みません」
「昔、柔道をやっていたんですよ。それで、少し受け身が取れたんで良かったんだと思います」
 二人は、互いが話の通じない、非常識な相手ではなくて良かった、と言い合った。バイクの男は、佐藤より一〇歳くらい年上だった。
 警察から電話が掛かってきた。佐藤と相手は一緒に、警察署に出頭した。
 佐藤は、被疑者供述書というものを取られた。年配の警察官が言った。
「相手の方は、軽い怪我で済んで良かったね」
「はい」
 佐藤は、さらに悪い結果を想像して、うなだれた。
 業務上過失傷害で、あとで検察庁に呼び出されることになった。相手は、佐藤が誠意を尽くしてくれているので、なるべく穏便に取りはからって欲しい、と警察官に言ったらしかった。
 家に帰って、両親とまた相手の自宅に行った。見舞金と果物を持っていった。
 相手のバイクと佐藤の自家用車は、修理に出した。

 自宅に戻った佐藤は、保険会社に電話して、事故のことを連絡した。今後の保険の手続きや、相手方の体が心配だった。
 事務所の所長は、相手方に見舞いに行くと言った。その旨電話すると、相手はアパート暮らしだから、役所の偉い人に来られても困る、今は具合も良くないとの返事だった。佐藤は所長に訳を話した。
 その日は、飲み会の予定が入っていた。気が進まなかったが出席した。先輩のひとりは、酒の席で自分にも経験があると言った。車で子どもをはねてしまった。相手は、役所の人間を嫌っている人だった。いろいろ苦労した。
 佐藤は、相手に申し訳ないと感じた。自分の方に非があると思った。しかし一方で、相手が示談で、法外な要求をしたら、簡単には納得できないと思った。
 佐藤は暗い気持ちになった。生きていてもろくなことがない。災いは忘れた頃にやってくる。生活の煩わしさは、こちらは嫌っているのに、向こうから勝手に押し掛けてくる。
 この頃、佐藤は、先輩から頼まれて、知り合いの自宅で家庭教師をしていた。趣味で英会話の講座にも通っていた。生活があれこれ忙しすぎると、思わない出来事に見舞われるのかもしれないと感じた。
 その晩は、事故のことが頭から離れなかった。両親に迷惑をかけてしまった、と思った。

 翌日、車は避けてバイクで出勤した。早朝に行われた労働組合のストライキに参加した。相手を見舞った。
 相手は、自分は安月給の調理師だと言った。妻と子ども一人と、アパートに暮らしている。南関東の出身で、近くに相談相手もいない。この事故は裁判沙汰にはせず、穏便に済ませたい、との意見で一致した。相手はおとなしそうな人で、誠実そうだった。
 車とバイクの修理の見積が出来上がってきた。
 職場の付き合いで、ボーリングとテニスをした。佐藤は、事故の疲れが、心にも身体にも一気に吹き出して、寝込んでしまった。
 静かにおとなしく生きようとしているのに、人生が、運命が、世間がそうさせてくれない。そう思った。

 数日後、佐藤は、母と一緒に見舞いにいった。相手は包帯もとれて、元気そうだった。相手に連絡を取らずに黙っていると、心配になり、気をもむ。互いのそんな気持ちになっていることが分かった。会って様子を窺えば、安心できる
 その日は、久しぶりに車を運転してみた。
 しばらくバイクの通勤が続いていた。ハンドルを握ってみると、やはり、事故のことが思い出された。車の運転は緊張した。注意深く前に進んだ。以前と違って、怖くなってしまった。二度と衝突したくない。

 ところが、その後一週間、佐藤が顔を見せなかったので、相手が電話で不平めいたことを言ってきた。
 そちらは、どう思っているのか。こちらは、自分は大して悪くないのに、ぶつけられて痛い思いをした。仕事も休んで、家にいる。どうしてこんな思いをしなければならないのか。
 そちらには道義的責任があるとか、自分は精神的損害を受けたとか、そんな言葉を口にした。
 佐藤は思った。感情のすれ違いがあるのかもしれない。確かに自分のした過ちと向き合うのがいやで、相手から足が遠ざかっていた。相手は小心者なのかもしれない。怒りや不安で混乱したか。それとも、自分が冷淡なのか。相手は示談を急いでいる風だった。
 佐藤は、保険会社に連絡して、物損と人身損害の賠償金などを決めた。
 人生なんて、望まないのに、次から次からいやなことが起こる。そんなものかも知れない。良いことは次から次へと終わっていく。
 職場で納税者から文句を言われ、交通事故で相手から文句を言われる。人生ってろくなことがない、と思った。

 季節は秋口に入ったが、佐藤は、やはり事故のことが気がかりだった。
 同期の中山は、自分の体験談を話した。
 車を運転していて、突然、男の人が道路に飛び出してきた。ブレーキを踏んだが間に合わなかった。男の人は、運転席の目の前で、跳ね上がるようにボンネットに乗っかって、道路に落ちた。幸い命に別状はなかった。中山は、死ななくて良かったと思った。
 目撃者がいた。あんたは悪くない。向こうが勝手に飛び出してきたんだ。警察にそう言ってやる。
「いやな思いはしたけど、何とかその件は納まってね」
 中山は、遠くを見るような眼をした。

 佐藤は、相手と会って示談をした。
 佐藤は、この事故の加害者だった。相手は被害者だった。佐藤には、過ちを償う責任があった。結局、金を払って問題を解決する方法に、佐藤は多少疑問を感じた。
 相手は言った。金が欲しいと言っているんじゃない。でも、このいやな思いを消すことが出来るなら、かえって金で解決した方が気が楽だ、と今は思っている。もうこのことは、早く忘れたい。
 相手は、佐藤の尋ねる慰謝料の金額に、あるところで納得した。保険会社の査定より、いくらか多い金額だった。余分な金額は、佐藤が貯金を下ろして用意した。夏の楽しい旅行の前に、現金で支払った。
 いやな日常とは異質の時間の中で寛ぎたかった。金銭的に少し損はしても、相手と同じで、もうこの件とは、おさらばしたかった。

 佐藤は、また職場の運動会に参加した。市税事務所に勤め始めて以来四回目だった。
 就職して四年が過ぎた。初めての時に比べると、佐藤の身辺事情も変わり、周囲の人々も変わってしまった。
 労働組合の動員で、東京都心の目抜き通りで、スクラムを組んでデモ行進をしてきた。日当で、職場の後輩と少し高いステーキを食べた。
 この頃の夜は、いつも予定が入っている。多忙な毎日だ。家庭教師、英会話講座、夜間調査、職場の飲み会。
 市役所に在職している同じ大学の出身者の親睦会が開かれた。
 佐藤は、阿部の結婚式に出席した。新婚旅行はエジプトらしい。招待客の若者たちが誘われた二次会にも出た。

 平田から電話があった。
 交際していた二〇才の九州出身の女性が、両親も賛成しているのに、平田との結婚をためらっている。それで困っている。悩んでいる。
 時代は変わり、世代は変わっていく。
 美智子からは、結婚式が済んだと手紙が届いた。
 デパートには、バイトとして三年も勤めた。今は、自宅で主婦をしている。ミキオ君と新婚でルンルンしている。

 一一月になり、地元の有名な企業の社員の宿舎を借りて、職場の宿泊研修があった。
 佐藤は先輩の女性職員と、宴会場で隣り合わせになった。
「佐藤さんは、ご結婚はまだなんですか」
 女性は、そう切り出した。
「いやあ、なかなかうまく行かなくて」
 二人で笑い合った。そのうち、四〇歳を過ぎて、やはり独身のその女性は、身の上話を始めた。
 かつて恋人を交通事故で亡くした。結婚しようと思っていた男性だった。その人は、夜中に酒に酔って、バイクを運転した。ふらついて電柱にぶつかって、そのまま息を引き取った。
 佐藤は、そんな辛い話を率直に話してくれる女性に、好感を持った。どうしてそんな個人的な話を自分にするのか、理解できなかった。女性は普段から、にこやかな人柄だった。その時も、しみじみと微笑みながら、昔の話をした。月日が経ったせいらしかった。
 佐藤も酒の席だったせいで、身の上話をした。
「大学卒業のときに、実は結婚を申し込んだんですよ。いい返事は、もらえませんでした」
「そうですか」
 女性は、同情するような表情をした。
「女性は、男性から求婚されることってあまりないですか? 」
「そうね。普通は、女にとって、本気で求婚してくれる男性なんて、一生のうちにひとりか二人だと思うわね。いい返事は出来なくても、きっとその人の思い出には、佐藤さんはずっと残っていくと思いますよ」
 佐藤は視線を反らして、微笑みながら、うつむいた。

 交通事故の件は、程なく行政処分の通知が、検察庁から佐藤のところに届いた。
「刑事訴訟法を読んできました」
 事情聴取で佐藤は、神妙な気持ちで正直に言った。検察官は少し驚き、にやりと笑った。
質問には淡々と答えた。示談して民事の責任を果たしていることが、検察官の心証を良くしているようだった。
そのあと、佐藤は生まれて初めてだったが、刑事罰の罰金を支払った。

 係の飲み会、事務所の飲み会が続いた。
「佐藤さんとお話しするの、久しぶりよね」
 課の送別会の時、悦子が話し始めたのは、最近の職場の悲劇だった。佐藤は、悦子の手紙も気になっていた。
「野中さん、本当にかわいそうだったなあ」
 入院していた野中美香は、末期がんが原因で他界していた。悦子は、親しかった女友だちの死にうちひしがれていた。
「子どもさん、まだ小さいのよ。本当にかわいそうだな。旦那さんが献身的に尽くしてくれたのかどうかわからないけど…。家の外で若い女の子と遊んでいたりしたら、本当に妻としては、やり切れないわよね」
「そうですね。元気で明るい人だったから、あんな人が早く逝ってしまうのは、世の中は皮肉ですよね」
「あたしはショックだなあ。境遇が似ているだけにね」
「野中さんで思い出すのは、ネクタイのことだな」
「ネクタイ? 」
「あの人、おれが背広の商標をつけたままだって言うんですよ。商標ってありますよね。良く知りませんけど。ちょっときれいな色の着いた、紙でできているやつです。おれは飾りだと思っていたんですよ。新入社員で、ネクタイも上手に締められないから…。そしたら、それじゃあ、値札をつけて歩いているようなものだからって言って…。はさみを持ってきて、切ってくれたんですよね」
 佐藤は苦笑いした。
「恥ずかしかったけど…。この人、面倒見のいい人だと思いましたね」
「ああ、そうなの。いい人って、先に逝っちゃうのかな? 」
 悦子は遠くに目をやった。
「憎まれっ子、世に憚る、みたいなもんですか? 悦子さんは、いい人じゃないんですか?」
「うーん。悩みだけは多いのよ」
 佐藤は話題を変えて、小声で言った。
「この間の手紙、読みましたよ」
 悦子は恥ずかしそうに下を向いた。
「あたし、ごめんね。変なこと、しちゃったかな…」
 佐藤の目は、悦子ののど元や足に向かった。
 しかし、人妻と付き合う気持ちはなかった。その本心は口に出さなかった。笑いながら、婉曲的な言い方で答えた。
「心の恋人っていうことも、世の中にはありますよ」
 悦子は微笑みながら、黙っていた。

 佐藤の職場での仕事は、私生活とは関係なく続いた。仕事は恋愛と違って、心の揺れ動きとは別のところで続けられる。淡々と始まり、終わる。
 ある日、仕事の量がこなしきれなくなって、珍しく休日に出勤した。
 一つの仕事が終わらないうちに、次の仕事がはいってくる。通常の勤務時間では処理しきれない。もたもたしていると、また次の仕事がはいってくる。それぞれの仕事には期限があって、相手は待ってくれない。仕方なく休日に仕事をすることになる。
 ひとしきり働いてから、佐藤は仕事の手を休めた。
 窓の外に数人の人影が見えた。
 そばにすわっている職場の先輩が言った。その人も、やはり同じように残業していた。
「あれ、悦子さんの旦那さんだよな? 」
 悦子が家族と一緒にいた。かたわらに夫と子どもが立っていた。
 夫は、中肉中背の普通のサラリーマンに見えた。まじめそうな、落ち着いた雰囲気の人だった。
 何組かの男女とその子どもたちが、マイクロバスに荷物を積みこんでいた。
 職場の福利厚生事業で、家族連れでテーマパークに行く企画が、以前に発表された。悦子の家族はそれに参加するらしかった。
 見ていると、何かの拍子に悦子の家族が一斉に笑った。笑い声が聞こえてきそうな、楽しそうな光景だった。
 ひとつの笑いが、家族三人を結びつけているように見えた。佐藤は、その笑いが自分とは何の脈絡もないと感じた。 
 夫は表面上は、妻子に恵まれて幸せそうに見える。一方佐藤は、自分ははぐれオオカミのように、孤独にさまよっていると感じた。
 自分はあの夫を、寝取られ男にした。こっそりと知らない間に悪事を犯した。佐藤は罪悪感を覚えた。

 悦子の表情は穏やかだった。それは佐藤の前で見せるひとりの女としての姿とは異なっていた。
 悦子はときどき、戸惑いや不安や焦りを醸し出していた。その不安定な負の力が、かえって女性的な、性的な魅力を形作っていた。
 しかし、家族と一緒の悦子の様子からは、男を惑わす色香は影を潜めていた。もっと日常的で安心感があり、落ち着きがあった。
 母親として妻として、家族の中に自然に溶けこんでいるように思えた。家族の一員として、悦子はそこに立っていた。緊張感がなく、平凡な主婦の姿を示していた。
 佐藤は悦子の中に、二重人格のような人柄を見たように思った。八方美人のような、その場限りの、相手次第で変わる変幻自在な人格を見た。
 状況に応じて役割を使い分けている。しかし、意識的にそうしているのか、あるいは無意識にそうしているのかわからない。
 佐藤は自分も、悦子と同じように不倫相手の役を、平気な顔で演じればいればいいのかもしれないと思った。ふたりのことは、そっと静かに秘密にしておけばいい。
 しかし、どちらかが秘密を隠しておくことに耐えられなくなるかもしれない。あるいは、偶然に秘密が露見する事態になるかもしれない。そうなったら、そのときは悲劇が生まれる。自分たちが困るだけでなく、周囲にも迷惑がかかる。
 佐藤は、悦子は自分との関係を終わらせた方が幸福かもしれないと思った。自分との関係を続けることは、先の見えない不幸の渦中に飛びこんでいくようなものだ。
 一度でも禁を破ったら、その先に待っているのは、ある意味で地獄かもしれない。二十代の自分は、地獄よりも天国に向けて生きていった方がいいのではないか。悦子を見限る、悦子との将来を諦める。ここで関係を断つ。ひとときの想像の中の戯れと割り切る。

 一二月に入り、職場で人事異動の内示が出た。職員によっては、この時期は毎年、戦々恐々としている。別の職場を希望する者もあれば、昇格を望む者もある。
 ふたを開けてみたら、佐藤は異動の対象になっていた。市税事務所を離れることになった。気持ちの切り替えをゆっくりしたいところだが、四月からは新しい職場で新しい仕事を始めなければならない。どことなく落ち着かない。
 佐藤には、世間の人たちが先を急いでいるような気がしていた。勤め人たちは、せき立てられるようにして、慌ただしい職場の流れに乗っていく。次から次へと与えられた仕事と地位を先に推し進めていくのが、自分の使命だと信じているようにも見える。
 どんどん働け、早く結婚しろ。先輩たちは、若い佐藤に声をかける。
 佐藤は仕事の方は、生計のための収入を第一に考えて続けた。
 結婚の方は、この数年で、バイト嬢など、佐藤がその気になれば恋人になれそうな女性にも、何人か出会った気がした。それでも、その先に進むことはなかった。ときどき、自分は失恋で傷ついて、もう恋などできないのかもしれないと不安になった。

 次の年の初詣に、佐藤は性懲りもなく、自分と貴美子の運命が、できれば好転することを願った。
 今の自分は、ただ生きているだけだ。魅力的な女性を見ても、何も起こらないと分かってるから、その女性に恋心も傾けない。そのうち仕事に巻き込まれて、年だけをいたずらに重ねていく。アルバムで見返す貴美子は、今となっては、もしかしたら幻に過ぎなかったのかもしれない。そうだとすれば、なんと寂しく悲しいのだろう。
 両親は、おれに何度も見合いをさせた。しかし、嫁は決まらなかった。最近では、嫁をもらうよりも先に、家を建ててやることを考え始めている。
 おれは、自分の片恋と、実際の生活の大きな違いにとまどった。人々は恋をして、結婚して、子どもを持ち、年を重ねていく。それなのに、自分はいつまでも、過去の片恋にしがみついて、生活の変化を受け入れようとしていない。
 今となっては、貴美子とともに子どもを育てたり、家を持ったりするのは、かなわない夢になってしまった。

 職場を去って行く者たちの中には転勤する者、定年退職する者とともに、自ら退職する者もあった。市役所に新規採用職員で就職して、二年間勤めた樋口だった。佐藤は、上司に言われて、樋口の指導をしたこともある。
 送別会では、若干二年で公務員を辞める樋口は、いろいろな意味で先輩職員から、はやし立てられた。佐藤は樋口のことが気になった。若干のうらやましさも感じていた。それにsても、自分は、とりあえず命じられたとおりに職場を異動すれば良い。しかし、若年で退職していく樋口は、その先の見通しは立っているのか。
 樋口は、地方の出身地に戻ったことを後悔していた。都会に住みたがっている地方の若者のひとりだった。税金の仕事にも、人からガミガミ言われることが多くて、嫌気が差しているようだった。おとなしい性格だったが、発想は特異だったのかもしれない。。
 その後、佐藤は樋口と、都会に向かう電車の中で一度会った。税務の学校で教えていると言っていた。地元の自宅から通っているらしかった。樋口は、もともと経済関係の学部を出ていた。同じ税金の分野でも、利害関係のある他人と接する実務の面ではなく、教室で学生を相手にする理論の面なら続けられるらしかった。
 そのあと何年か経って会ったときには、佐藤の町の隣の町で子どもの手を引いていた。結婚して子どもが出来たらしかった。出身地に住むことにしたのか、それは分からなかった。

 3月に入り、係の送別会は、町の中ではなく山奥に出かけて、温泉地で楽しもうということに決まった。自家用車に分乗して、仲間たちは出かけた。仲間たちは酒を浴びるように飲んで、敷いてあった布団に潜り込んで寝入った。
 翌日は、キノコ取りに行こう、という話が持ち上がった。ある職員の友人が、旅館のそばに住んでいた。その友人が顔を出し、キノコの取れるところを案内するから、ついてこいと言う。その道の経験者らしかった。
 佐藤は、温泉地に来て、よくあるように飲んで、どんちゃん騒ぎをして、それで帰るつもりでいた。キノコ取りで山歩きとは、そんな酔狂をしなくても、と思った。しかし、誘われるまま、佐藤を含めた数人が、山の中に分け入っていった。
 冬枯れが進んで、はげ山のようなところも多かった。草木が生い茂っていない分だけ、佐藤のような素人には、キノコは見つけやすかった。
 マイタケの話題が出た。手慣れた人や、その道の名人は、マイタケの生える場所を知っている。どの山の、どの斜面の、どの辺に毎年生える。一山二山越えて、県境を越えて、マイタケを採って歩く。その成果を売りに出して、数百万円を手に入れる人もあるらしかった。
 佐藤も興味津々で、マイタケの姿を思い描き、経験者のあとについていった。しかし、この辺によく生えているという場所では、あいにく見つからなかった。
 日が照ってくると、山肌がはっきりと見えた。斜面を登る経験者の後ろ姿を、佐藤は見上げた。空は晴れ上がってきた。
 市税事務所で出会った人たちを、懐かしく思い出した。
                                          (完)
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