第1話 別れと出会い

文字数 9,524文字

 時代は、昭和五〇年代の半ばにさかのぼる。その年の四月、佐藤は関東の出身地の市役所に就職した。
 新しい年度を迎えて、世の中の会社や学校は、活気があふれていた。
 市役所の本庁で辞令交付式に出席した。佐藤はこの町で生まれ育った。東京の大学を終えて、この町に戻ってきた。辞令を手渡す副市長の顔は、それまで見たことはなかった。 大学を卒業するとき、地方の小都市は、都会よりも就職先は見つけづらかった。幸い市役所の試験を受けて合格し、そこを勤め先に決めた。
 研修所で新規採用職員の研修を受けた。同期の仲間たちに出会った。
 職員の中には、赤ら顔の者もいた。卒業した都会の大学では、あまり見かけない顔つきだった。地方の雰囲気が現れているように見えた。
 研修中は、あちこちで地元言葉が聞かれた。地元の高校や大学に通っていた者たちは、都会の生活や言葉を経験してこなかった様子だった。
 自宅が農家をしている市職員も多かった。農作業の時期には、休暇を取る者もあった。農家でなくても、長男だからという理由で、郷里に就職した者も少なくなかった。佐藤もそんな長男のひとりだった。家を継ぐように、親から求められていた。
 女性たちの装いも地味だった。佐藤は、かつての友だちの女子学生たちを思い出した。大学のキャンパスでは、きれいで、おしゃれな、輝くような娘たちをときどき見かけた。しかし、目にする女性たちが地味なのは、公務員という職業柄かもしれなかった。
 この職場環境に慣れるには時間が掛かりそうだと思われた。都会の大学を卒業した仲間たちは、佐藤と同じような感慨を抱いているようだった。

 その後、職場研修で市税事務所に初出勤した。税務の各分野のうち課税を担当した。
「それでは皆さん。新規採用の職員をご紹介します」
 古老に見える総務課長が、二人の新人を手で示した。
 職員たちは椅子から立ち上がった。若い職員の顔に、一斉に視線を向けた。新入職員は、佐藤と中山だった。二人は順番に、先輩職員の前で緊張しながらも、型どおりのあいさつを済ませた。
 それから、二,三週間が経った。
 佐藤が席にすわっていると、男の先輩が近づいてきた。
「佐藤さんは、国立大学の農学部の出なの?」
「いいえ、ぼくは私立大学の外国文学部の出身です」
 先輩社員は、離れてすわっている中山の方を、指で指した。
「ははは、何となく、あっちが外国文学かと思って…。一見して、そんな気がしたから…」
 佐藤は内心で苦笑した。周囲の目には、中山は佐藤よりも多少紳士的で、温厚で礼儀正しく見えるらしかった。
 荒木というその先輩は、別の聞き方をした。
「ちょっと聞いたんだけど、仏教文学、大学でやってたの?」
「仏教ではなくて、フランス文学なんですが…。仏教は、よく分かりません」
 佐藤はほほえんだ。
「ああ、わたしなんか平凡に、経済学部なんだけど…。仏文学って、何かの書類に書いてあったから、仏教かと思って…。ブツじゃなくて、フツなんだね。男で文学部っていうだけで珍しいのに、仏教とはすごいなあって思ってね。ああ、そう。フランス文学…。どういうのか知らないけど、何だか、しゃれてるね」
 荒木は人なつこそうに、佐藤に笑いかけた。
「佐藤さん、独身だよね。あとで、男性陣の付き合いもいろいろあるから、特別企画とか、楽しみにしてて…」
「えっ、何ですか?」
 荒木は周囲に目配せをして、口ごもった。
「あとで、改めて話があるから…。お楽しみということで…」

 先輩たちの勘違いは、なおも続いた。
 女子職員の美香も、佐藤がすわっているところに寄ってきた。
 小柄な体つきで、明るい表情で元気な様子だった。新人に好奇心が湧いたような顔つきだった。
「あのう、こんにちは。佐藤さんて、普通科の人なの?大学って、普通科ってあるの?」
 佐藤は、ちょっと変わった人だなと思った。外見のわりには、女子学生のような、幼くて純粋な雰囲気を持っている。
「はあ、どうですか…、普通科は高校にしかないと思いますけど…」
 佐藤は、首をかしげながら答えた。
「でも、普通科って聞いたから…」
「ぼくは、フツウカではなくて、フツブンカです。フランス文学なんですよ」
「ああ、フツって、フランスの意味なの? そうなんだ。フランスなんだ…」
 美香は笑いながら、改めて珍しいものを見るような顔つきをした。
 佐藤はあとで知ったが、美香は三〇歳前後の中堅職員で、既婚者だった。

 美香には、自分と同じ年格好で、悦子という友だちがいた。悦子は美香と違って、佐藤と同じ課に属していた。
 悦子は、佐藤が自己紹介したとき、先輩風を吹かすことはなかった。まるで自分が新人のように礼儀正しかった。
「小林です。よろしくお願いします」
 背筋が伸びていた。両手を前で揃えて、あいさつした。にこやかで上品な印象だった。しかし、言動のあちこちに色気が漂っていた。
 長い髪で、両目は、まつげが長かった。よく見ると、大きな目は燃えるような印象だった。奥で光っているような気がした。
 佐藤はぶしつけと感じながらも、悦子の顔を見つめた。悦子は反射的に目を伏せた。
 佐藤は、悦子が自分の好奇心に気づいたと感じた。美香には覚えない感情を、悦子には覚えた。

 職場では、佐藤の席から悦子のうしろ姿が見えた。佐藤は、その体つきに興味を覚えた。
 悦子はよく、体にぴったりと合ったブラウスやスカートを身に着けてきた。
 なで肩で、肩口の線は腰に向かって絞り込まれていた。背中には、黒くて長い髪が垂れていた。一度絞られた体の線は、のびやかに滑らかに、大きく腰に向けて広がっていた。豊かな肉づきだった。佐藤は、何か昆虫のハチのような体型を思い出した。ひとりになると、悦子の体つきを思い出すことがあった。
先輩の荒木は、小声でにやにやしながら言った。悦子は、職場では美人社員と見られているようだった。周囲の注目を浴びていた。
「ただ今、ふたり目の子どもを仕込んでいる最中らしいよ」
 悦子はもう結婚していて、夫は銀行員で、小さい子どもがひとりいるらしかった。
 佐藤は悦子のことをあれこれ夢想した。時には想像の世界で、男と女として大胆に交わった。

ある日、仕事明けに先輩に誘われて、マージャンをした。ある先輩が、新人の佐藤に助言した。
「公務員は昔から、遅れず、休まず、働きすぎずって言われているからね。気長に定年退職までやっていった方がいいよ」
「あっ、そういうもんなんですか? 」
 佐藤は苦笑いして見せた。他の先輩たちも、にやにやした。佐藤は、心の中では、そんな人生をいやだと感じた。
 職場は、所長や課長や係長や先輩や、同僚たちに囲まれる環境だった。学生時代と全く違う環境で生きることにとまどった。個人が組織に抱え込まれて、個性を発揮できないような気がした。
 その後も、先輩の富田や阿部や太田たちとマージャンをやって、時には負けた。
 佐藤の父親は自営業者だった。佐藤は子どもの頃から、サラリーマン生活がどんなものか分かっていなかった。その後の数ヶ月、仕事、マージャン、酒のサラリーマン生活が続き、こんなものかと感じた。嫌気が差すこともあった。

 小春日和の日に、佐藤は田口と二人で、出身地の町の中を散歩した。ビリヤードや卓球を楽しんだ。田口は、地元の親友だった。隣町の市役所に勤めていた。言わば同業者、雇用先の違う公務員仲間だった。二人は、文学や芸術の話題で意気投合していた。
 大学時代の親友の遠藤から手紙が届いた。
 佐藤は四年で卒業したが、遠藤は留年していた。文学部のクラスでは、なぜか留年する男子学生が多かった。人から言われたとおりに勉強することを嫌ったか、ボヘミアンを気取っていたのかもしれない。留年することにわずかな満足感を覚えている者もいるようだった。
 自分は大学に残り、思い立たなければ佐藤に会えない、そのことが不安だ、と書いてあった。平田は、バイトに明け暮れて、授業料を稼いでいる。これから社会人になる佐藤は、勤め先で気苦労の多い日々を過ごすことと思う。
 平田は、遠藤と同じく佐藤の親友だったが、同じように留年していた。

 佐藤が返事を送ると、遠藤はまた長い手紙をよこした。
 遠藤は留年組の仲間と会って、長話をした。休学後に復学した者もいる。親からの仕送りなしでバイト生活を続ける者もいる。野口は、美智子の妹が上京してくるので、その住居を探してやっている。
 女友だちからもらった卒業の時の写真に、和服姿の裕美が写っていて、じっと見つめてしまう。
 裕美は、遠藤が交際している女性で、もう卒業していた。
 佐藤は、仲間たちの便りを読んでいるうちに、東京の街と下宿の生活を恋しく思った。

 一方、美智子からも手紙が届いた。美智子は、卒業して山陽地方の実家に戻っていた。
 佐藤は、地方の無聊をかこつ必要があると感じていた。出来るだけ異った文化圏の人間と交わろうと心がけた。そこで、同級生の遠藤や美智子を相手に文通を始めた。
 美智子は、遠方の異性の文通相手として丁度良い存在だった。気楽に心を通わすことができた。また、美智子と特別な男女関係に陥る心配もなかった。
 というのは、美智子の過去の男性関係を、間近で知っていたからだった。美智子は学生時代に、二人の共通の男友だちの野口と同棲していた。
 美智子との文通には、ある種の興味も働いていた。美智子と野口の交際の行き着く果てを、まるで自分のことのように見定めたい気持ちも持っていた。
 美智子は、しばらく親の庇護のもとで生活していた。そのうち、地元の会社に、事務職のアルバイトとして就職した。
 手紙で美智子は、自分たちが結婚の適齢期にいることを、盛んに語った。周囲がうるさいが、自分の納得の行く結婚をしたいと書いてきた。美智子には、都会で野口との恋に陥る前に、郷里で交際していた相手がいた。美智子は、ミツオと呼んでいたが、佐藤はどういう字を書くのか知らなかった。一度は途絶えたその交際を、郷里に戻ってから、どうやら復活させたようだった。

佐藤は上司や先輩や同僚たちに囲まれて、朝から晩まで、義務としての仕事に従事した。学生時代と全く違う環境で生きていることを実感した。新しい時代の息吹を、全身に感じた。
 一方で、五時に会社が退けて、明るいうちに家に帰ってくる。すると、ぼんやりして、この生活はつまらないと思った。自室にこもり、物思いにふけることが多かった。
 人々の寝静まった夜遅い時間に、ひとりでウイスキーの酔いに身を任せる。淡い照明の下で、思い出の断片が、ゆっくりと静かに心に芽生えてくる。
 好きだったが、卒業で別れた女子学生の貴美子のことをよく思い出す。

 卒業の祝賀会のとき、仲間たちと一緒に記念写真を撮った。貴美子は自分のカメラで、佐藤と一緒に映っている写真を撮ってくれるように、女友だちに頼んだ。あの写真は、佐藤には送られなかった。貴美子のアルバムの中に収まってしまうのだろうか。
 祝賀会のあと、仲間たちの一行は、夜の繁華街のディスコに流れていった。その二次会に、佐藤は参加した。別れの興奮と感傷のうちに、仲間たちは散会して、佐藤は、なすすべもなく貴美子の背中を見送った。
 下宿に戻ると、あの後ろ姿が、最後の見納めになるかもしれないと思われてきた。居ても立ってもいられなくなった。近くの公園まで、雨の降る闇の中を走っていった。公衆電話から貴美子の自宅に電話をかけた。

 貴美子とは、こんな会話を交わした。
「増田さんて、好きな人いるの? 」
「えっ、別にいませんけど……」
「いや、相手がいるって言うんなら、おれも諦めがつくんだけど。本当か嘘か知らないけど、いないって言うからさ。おれの気持ち、分かってるよね? 」
「私は、佐藤君に対して、そういう気持ちになれないから…」
「おれは、増田さんのことが好きなのに、どうして増田さんはおれのことを好きじゃないんだろうな? 」
「世の中ってうまくいきませんね」
「おれ、増田さんのこと、愛してた。ずっと好きだった。おれ……。おれと結婚してくれって言ったら、困るだろうな? 」
 佐藤は涙声になった。
「ちょっと、やめてよ」
「でも、それくらいの気持ちあるよ、おれ」
「明日の朝になれば、気持ちが変わりますよ」
「他の男に取られるの、いやだ、おれ」
「あたしだって、いやでしょう? 」
 佐藤は口ごもってから、言った。
「あっちの町に遊びに行ったら、会ってくれるかな? 」
「ええ。遊びにいらしてください」
「ああ」
「今度の同窓会で会いましょう」
「同窓会なんてあるの? 」
「秋にあるそうよ」
 貴美子は、気軽に先の予定を口にした。しかし、そのあと、同窓会で二人が再会することはなかった。
「でも、会ってみたら結婚してました、なんて、たまらないよ」
「手紙、書くわ。文通しましょう」
 貴美子は言った。
「住所、教えてよ」
「ええ」
「あっ、だめだ。公衆電話で傘指してるから、書けないや」
 佐藤は、屋根のない公衆電話の前に立っていた。一方の手に受話器を持ち、他方の手に傘を差していた。雨を防いでいて、メモは取れなかった。
 電話を切りしなに、単純な気持ちで、貴美子に頼んだ。
「手紙、ちょうだいね。おれの住所は変わらないからさ」
「ええ」
 貴美子は頷いた。
 電話を切ったときに、佐藤はあることに、はっと気がついた。貴美子もそのことに気づいたかもしれない。それは、貴美子が手紙を出さなければ、佐藤からは連絡の取りようがない、ということだった。佐藤は、貴美子の新しい住所も電話番号も知らない。二人の関係は、これで完全に途切れるという予感がした。
 あとから思うと、メモをとらなかったのは、恋の失敗の原因のひとつだった。そのことが、そのあとの辛くて、味気ない事態を導いた。些細な偶然が、佐藤の運命を決めた。連絡先が分かっていたら、恋が好転しなかったとしても、貴美子とせめて、そのあとの連絡くらいは取れたかもしれない。
 その頃、世の中には、携帯電話など持っている者はいなかった。下宿部屋には、電話も引かれていない。公衆電話には、屋根はついていなかった。

 ずっと以前のクラスコンパの晩に、貴美子は深酒して、佐藤の隣に身を寄せたことがあった。佐藤はその肩を抱いたが、貴美子が語ったのは自分の失恋についてだった。貴美子の心は、身体を寄せた佐藤にではなく、どこかの遠い男や出来事に向かっていた。
 そのとき、佐藤は将来にわたって、三つの絶望を思った。それを今、改めて思い出す。 ひとつは、貴美子が佐藤を愛していないという現にある絶望。もうひとつは、貴美子がやがて他の男と愛し合うという、先に待っている絶望。そして最後の最大の絶望は、そうなった貴美子を、佐藤がもはや愛さなくなるという絶望だった。さらに言うなら、自分も他の女性を愛し始めるという絶望だった。
 それでも、肩口に感じた貴美子のぬくもりが、佐藤の愛しさを募らせた。そしてとうとう電話で、愛情を告白した。しかし、貴美子の側には、好意以上の気持ちがないことが分かった。
 佐藤は見得を切って、諦めた風を装った。電話した翌日に、声をかけて言った。
「昨日は悪かったね。忘れてよ」
 それなのに、卒業の別れの土壇場に来て、アルコールの勢いで、「結婚してくれないかな」と呟いた。めそめそと泣きながら、「愛してた」と口走った。

 貴美子の声を最後に聞いた二日あとが、佐藤の引っ越しの日だった。家人がどこかで見つけてきたトラックに乗って、田舎からやってきた。
 前の日に実家から電話をもらったとき、あと二,三日東京にいたいと、帰郷の返事を渋った。家人は、家の都合があるから明日行くから、と言ってきた。
 佐藤にはそれが、悪魔の声のように聞こえた。疫病神が、まるで自分を一刻も早く貴美子のそばから引き離そうとするかのようだった。
 翌日、荷物を積んで、佐藤はトラックに乗った。
 都会での自分の居場所がなくなってしまうのを、身に沁みて感じた。下宿部屋は大学生活の全体に通じていた。初めて結婚を申し込んだ貴美子につながっていた。
 東京には、もう住む場所はなくなる。しかし、その気になれば、すぐにまた来ることができる。しかし、貴美子とは、もう一生会えないかもしれない。少なくとも、貴美子はそういう未来を選んだ。
 座席にすわった佐藤の体は、下宿に背を向けた。去りがたいその場所から、刻一刻と遠ざかっていった。
 貴美子と佐藤の物語は終わりを迎えた。そのことを象徴するかのように、天気は下り坂だった。きらめく細い雨が、鋭く体に突き刺さった。水の糸に包まれた道路や、沿道の風景は、まるで佐藤の心の中そのものだった。雨脚はだんだんと強くなった。
 佐藤は自然に涙ぐんでいた。涙が目に溜まると、それが流れ落ちるのを堪えた。何も知らない家人に、泣き顔を見られたくなかった。何度かさり気なく、手の甲で目を拭いた。
 田舎の実家に着いても、荷物を降ろす佐藤の頬を、涙はひっきりなしに流れ落ちた。夜の闇が訪れると、静かな環境の中で、佐藤は自分の悲しみを持て余した。

 次の日から毎朝、自宅の郵便受けの中を調べた。
 箱を開ける前まで続いていた期待感が、開けた途端に消え去った。学生時代の他の仲間たちからは、何通か便りがあった。しかし、一番期待していた貴美子からは、音沙汰はなかった。
 文通という言葉が出たのは、貴美子の方からだった。佐藤の耳には、それは、いかにも若い娘らしい、親しみのある提案に聞こえた。しかし、その背後に貴美子らしい嘘が隠れていたとしたら……。その場しのぎで、手紙を書くと言ったのかもしれない。
 貴美子の連絡先が分からなくても、誰か共通の友だちを頼って連絡をつけることはできるかもしれない。しかし、連絡がついたとしても、伝えるべき言葉が、もはや見つからない。なぜなら、事の真相は、佐藤の片思いだからだ。貴美子は、佐藤の恋人にも妻にもなるつもりはないようだ。これ以上あがいても無駄だ。明るい未来は見えてこない。
 佐藤は、それ以上の追及は諦めた。

 貴美子の手紙が欲しい。貴美子の書いた文字が見たい。貴美子の持つ雰囲気に触れたい。貴美子の肉声が聞きたい。 
 このまま待ち続けても、手紙は永遠に来ないのかと考えると、心が凍りつくような気がする。
 無駄かもしれないと分かっていて、自分がこれからしばらく、貴美子の連絡を待ち続けることが分かる。みじめで、未練がましくて、滑稽だが、それでも望みをつなぐ。

 佐藤は一日に一度は必ず、家の郵便受けの中を覗く。
 おれは愚かにも、貴美子の手紙が来ると信じている。向こうはおれのことなど忘れて、他の男とよろしくやっているかもしれない。それなのに、片思いのまま待ち続ける。
 せめて、私のことは忘れてください、と書かれた手紙の一通でもよいから、おれの所に届いてくれないか。あるいは、そんなことをする必要はないとまで、思われているのか。
 一ヶ月か、二ヶ月か、半年か、一年か。たった一通の手紙が来ない。このまま、音信が全くないまま、二人は他人になって年月が過ぎていくのか。もしかしたら、生きている間に会うこともなくなってしまうのか。そう考えると、恐ろしくもあり悲しくもある。
 あの別れのとき、おれは貴美子に対して、別れの辛さにあと押しされて、結婚を口にした。貴美子は、その気持ちを真摯に受け止めて、かえって持てあましたか。あるいは、手紙に書く文面に悩んだか。筆を執るのを躊躇させるほどの重荷になったかもしれない。そう考えたら、おれは思い上がっているだろうか。

 いくら愛しても愛してくれない女。追いかけても逃げる一方の女。いつまでひとりでいるのか。いつ頃、好きな男を見つけて結婚するのか。
 貴美子はおれを愛していない。それが分かっていて、おれはいまだに貴美子を好きでいる。
 あの女にだったら、おれは振り回されてもかまわない。青春の日々を浪費することも、あの女の魅力のためならば、いとわない。恋人になれなくても、美人の取り巻きのひとりで、ただの友だちでかまわない。今は、他に好きな女はいない。

 貴美子にとって、涙を流してまで貴美子との別れを惜しみ、結婚までも仄めかした男とは、一体何だったのか。二四歳の貴美子は、これからどんな男と愛し合って、どんな人生を歩むのか。
 新しい土地が、貴美子の生活の舞台になる。貴美子は、新しい人々と出会う。その中には、貴美子が自分から意識する男や、貴美子を向こうから意識する男もいるのだろう。
 冷めていて、理想の高い貴美子が、関西の新しい環境ですぐに恋に陥るとも思えない。好きな男ができても、八方美人であることをやめないだろう。

 貴美子が自分以外の男と素裸で抱き合って、体を結び合う。そう考えると、耐えられない。あの女の体を、見知らぬ男が自由にするのが許せない。男との交わりは、そのあともずっと続く。それは憤ろしい。忌まわしい。どうしてもいやだ。
 おれはあの女に結婚してくれないか、と言った。ある意味で、それは、あの女の体を抱き締めたかったからだ。あの女の肉体に、自分の欲望を押しつけたかったからだ。肉体同士を結び合わせたかったからだ。
 まさにそうだ。男が女を好きだということは、性関係を持ちたいといううことだ。
 
 日々繰り返す、この失望感が、やがて慢性化するとき、貴美子のことはおれの頭から去っていくのだろうか。おれを愛していない貴美子を、愛しても無駄だからと忘れようと努力する。やがて、本当に貴美子を愛していないおれになってしまうことを恐れる。心の支えにしていた大切なものを失ってしまうような気がする。
 はっきりとした拒絶の返事をもらえたら、どんなに気持ちが楽だろう。承諾も拒否もなく、時間がただ過ぎていく。
 結婚を申し込んだ男として、おれはある程度の期間は貴美子の記憶に残るだろう。しかし、貴美子は理想の男性を捜しているから、おれと恋人同士になるつもりはない。
 貴美子はそう言えば、転勤族だった。新しい土地に移って、新しい人々に会う。しかし、やがてその土地と人々から離れることを、常に意識していたのかもしれない。その点は、おれとは感じ方が違っていたのかもしれない。関東と関西では、交際するためには少し遠いか。

 貴美子がおれを愛していようといまいと、それは貴美子の自由だ。他の男と恋愛しようと結婚しようと、それは貴美子の勝手だ。好きな男に身も心も献げてしまおうと、このおれの好きという気持ちは、誰もどうすることもできない。片思いだろうが何だろうが、その事実は変わりがない。貴美子に子どもができようが、さらには将来、おれに孫ができようが、貴美子はおれの心の妻であり続けるだろう。
 現実の妻は、日常生活の中の長い連れ合いになるだろう。しかし、心の妻は、終生の夢想の中で、心ときめく恋人であり続ける。
 一度好きになった相手のことは、自分が死ぬまで、ずっと好きなままでいるだろう。いくつになっても、そのときの感情を思い出すからだ。貴美子は、おれが生まれて初めて惚れた女性かもしれない。

 前向きに、明るく考えよう。
 貴美子もおれも、東京の大学を卒業して、新しい時代を歩き始めた。貴美子は、両親の住む関西の町に移った。おれは、関東の出身地の町に戻った。
 空を見上げると、離れていても、おれたちは同じ空の下で生きていると思って安心できる。新しい時代と環境のもとで、共に生きる。そのことには、わずかの連帯感を覚える。

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