第8話 かげろうの恋

文字数 5,014文字

 六月のその日、事務所の所長が、所長室から出てきた。
 納税者がひとり、横柄な態度でソファに腰を下ろした。その男は、肩幅が広くて、大柄な体をしている。頭は角刈りで、褐色のサングラスをしている。
 所長も、体の大きさでは負けてはいない。腹の出具合は、確実に上回っている。職員の中には、あの人は、酒の付き合いで所長まで出世したんだと、噂をする者もいる。
 納税者は運送会社の経営者で、ダンプを一〇台以上持って、社員を使って走らせている。所長が出てきたということは、納税額の大きい人物だからだろうか、と佐藤は思った。
 それとも、ダンプ協会と呼ぶような組織があって、男はその組織の幹部なのか。税務行政の協力者のひとりなのか。幹部でなくても、業界団体の関係者のひとりで、顔見知りなのか。
 それとも、気の強いその男が、所長と話がしたいと望んだのか。納税の苦情を言いたいのか。
 税金は現金で、一万円札を束ねて手に持っているようだった。納税が遅れたのか。納期後なら、延滞金のようなものを取られる可能性がある。それを不満に感じたか。
「私ら、税金なんて、一銭だって余計に払いたくねえですから」
 所長に面と向かって、そう言うのが聞こえた。しかし、それ以上の暴言、暴行には及ばなかったようだ。所長も、困った顔で苦笑いしている。ある程度、相手の愚痴を聞いてやろうと腹をくくっているのかもしれない。
「税金てのは、要するに見返りがねえんですよ。所長さん。何に使われるって言ったって、私ら普通の者には目に見えねえんですよ。どこかの店で金を払えば、何かしてくれるけど、税金は払っても払っても、何もしてもらえない。何もくれない。ただ取るだけなんですよ」

 美智子から、再び手紙が来た。
 この間、東京に行って大学のある町を歩いた。野口君の思い出があふれてくるのかと思っていた。でも、そうではなかった。月日が経って、野口への恋心が消えてしまったようだ。
 ミツオ君と、改めて一対一で付き合うようになった。私にとって、ミキオ君がいかに大きな存在であるかが、改めて分かった。野口と一緒に住んでいたときも、ミツオ君との友だち付き合いは続いていた。東京時代の友だちより、今は地元の同級生に親しみを感じる。

 九月になって、佐藤は高原の避暑地に出かけた。
 大学時代に、その高原で一緒に、仲間たちと山荘で夏のひとときを過ごした。佐藤、遠藤、平田、野口、美智子たちが、その中に含まれていた。
 しかし、今回は男の連中だけが集まった。女子学生の面々は、それぞれ結婚したり、それらしい噂が伝わって来ていた。今回の旅行を提案した男たちは、女子学生たちには強いて呼びかけなかった。
 野口は、仕事をようやく終えて、真夜中に車で飛ばしてきた。仲間たちは再会を喜び合い、酔うままにはしゃぎ回った。
 野口は大いに元気で、以前より更に活動的になっていた。
「おれ、田舎に戻ってから、随分持てるようになっちやってさ。もう、そうだな……」
 指折り数え始めた。
「一〇人はやったな。うん」
「へえ、よくそういう女がいるな」
 佐藤は尋ねた。
「手当り次第だよ。相手は選ばなかったぜ」
 その後の近況を語るうち、仲間のひとりの口から美智子の名前が出た。野口は、佐藤が美智子と手紙のやり取りをしていることを知った。野口の表情は急に曇った。
「あのあと、いろんな女と付き合ったけどさ、やっぱりおれにとって美智子は初めてだったから、存在が大きいんだよ」
野口は酔いが回り、パンツから裸の脚をむき出しにして、部屋の中を歩き回った。
「あいつ、今、どうしてる? 教えろよ」
「付き合ってんの、いるみたいだよ」
 他の仲間たちは、佐藤と野口に視線を集めた。野口にとって、美智子との別れが青春の痛手であることは、皆が知っていた。
「それでどうなんだよ? 結婚したのか? 」
 野口の顔が歪んだ。
 野口は別れて以来、美智子の消息を全く知らないらしかった。
 佐藤は言葉を濁した。野口は、台所の椅子にすわり込んだ。
「どうして教えてくれないんだ」
 そう叫んで壁に何かぶつけ、佐藤たちに背を向けてうなだれた。
 もう別れて三年が経ち、二人は別々の新しい生活にはいっているのに、野口はいまだに忘れられずにいる。
 そう思って、佐藤はうっかり口をすべらせた。
「来年の三月の大安だってさ」
 仲間たちは一斉に佐藤を見て、野口の反応を待った。野口は佐藤の言ったことが聞こえたのか聞こえなかったのか、黙っていた。
 そのうち、近くの山荘でキャンプファイアーが始まったようだった。佐藤たちの山荘からは、炎に照らされた若者たちの姿が見え、元気の良い歌声がじかに聞こえた。
 野口と気の合う友人は、外に出て浮かれて、買ってきた花火を楽しんだ。飲んでいるのに、ドライブだと言って、夜の山道に車で繰り出していった。
 やがて帰ってくると、野口はもう蒲団に横になっている佐藤の所に来た。また美智子のことを尋ねた。他の仲間たちは眠ってしまった。
「でも、我慢して聞くかい? 」
「ああ、今さら、焼けぼっくいに火が点くわけじゃなし、何を聞いても大丈夫だよ」
「来年の三月に、結婚式挙げるそうだ」
「相手は、前の男か? 」
「そう」
 布団の上にすわり込んだ野口は、むくれて黙り込んだ。
「お前、結婚申し込まなかったのか? 」
 佐藤は低い声で尋ねた。
「何度も言ったよ。結婚してくれって……」
「だって、美智子もお前のこと好きだったんだろ? 」
 しばらく沈黙があった。
「多分、おれがあいつの体を求めるようになってから、嫌いになったんだよ」
 ふと佐藤は、まだ間に合うかもしれないと思った。たった一度きりの人生だ。美智子が他の男の妻になることをどうしても許せないとしたら、野口は今、何か行動を起こすべきではないのか。
 しかし、佐藤の口からはそんな考えと正反対の言葉が出た。
「じっと耐えて、彼女の幸せ祈ってやれよ。思い出だけ美しく抱いて……」
 野口は蒲団に顔を沈めた。
「あーあ」
 大きな声でそう嘆いてから、泥酔したまま、佐藤のそばで仰向けになった。
 佐藤はしばらくの間、眠った振りをしていた。野口と佐藤だけが目覚めている夜の沈黙に耐えた。野口は耳元で、絞り出すような声で繰り返した。
「美智子、美智子」
 佐藤は、二人の別れが理不尽に思えて、いたたまれない気持ちになった。社会人になった野口の顔つきは、学生時代のひ弱さが影をひそめて逞しくなっていた。それが、学生時代の初め、美智子を求めて、まだ得られなかった頃の苦悩の表情に戻った。暗がりの中で、野口の頬を伝う涙が光った。

 就職して二年半が経ち、佐藤の社会人としての生活は、枠組みがしっかりしてきた。学生時代の恋愛の煩悶も遠いものに思われた。
 佐藤はその日、都会に出かけたついでに貴美子の旧宅を訪れた。そこは、東京の郊外で、駅のそばに建つマンションだった。
「ああ、これか」
佐藤はため息をついて思った。この場所から、あの頃、貴美子は毎日大学に通っていたのか。
 自分の恋は、残念な結末を迎えた。しかしその前に、何かの機会を見つけて、もっと早く、この場所に来るべきではなかったのか。そんな大切な場所に、今頃になってようやくおれはやってきている。
 建物の入口あたりで、子どもが二,三人、声を上げて遊んでいた。おれは、それを見て思った。貴美子もここで、こんな風に子どもたちが遊んでいる光景を見たのかもしれない。腰をかがめ、何か声をかけたのかもしれない。
 そんなときには貴美子も、おれは数えるほどしか見たことのない笑顔を、子どもたちに向けていたのだろう。というのも、あの頃の貴美子は、冷たく装って見えることが多かったからだ。

 入口を入ったところにある郵便受けには、現在の住民の名前が書かれていた。しかし、その下には確かに、貴美子の苗字がかっこ付きで書いてあった。マジックインキで軽く書き殴ってあった。
 今までその文字は、大学関係の書類などで、何度も自分の目で見てきた。貴美子の面影を思うときには、同時に念頭に浮かべたこともある。
 その郵便受けは、どんな人間の手紙を待っていたのだろう。貴美子は、どんな相手の連絡を期待していたのだろう。事務的な通知も、個人的な手紙もあっただろう。もしかしたら、その中には、おれからの手紙も含まれていたのかもしれない。
 想像を巡らせているうちに、貴美子はこの町に住んで、確かに自分と同じ大学時代の四年の歳月を過ごした。そういう実感が、おれの胸の中にじわじわと広がった。

 エレベーターを使い、上に昇った。日曜日の昼下がりの時間帯だった。できればマンションの住人などとは会いたくなかった。幸い、建物の中では誰とも会わなかった。通路は薄暗く、しんと静まりかえっていた。
 かつての貴美子の部屋のドアの前に立った。堅く閉じられたドアは、まるでおれに対する貴美子の心の象徴のように見えた。部屋の内部の作りを見てみたい気もしたが、もちろんそれは、かなわなかった。
 仕方がなくて、かつて貴美子が、その部屋の中で過ごす様々な暮らしぶりを思い描いた。室内の内装は、娘らしく明るく、しゃれている。その中には日常的な姿も、性的な姿もあった。
 外で買い物をしてきてひとり分の食事を作る姿。手持ちぶさたでテレビを見ている姿。
 着替えをしている最中の、下着しか身に着けていない姿。色めかしいネグリジェでベッドに入る姿。
 あるいは、急にかかってきた交際中の男からの電話にあわてて出る姿。相手の男はこのマンションの門の前に自家用車で乗りつける。部屋の中で貴美子と時間を共にしたこともあったかもしれない。
 この部屋の中で、そんな日常生活が恐らく展開していた。その一隅にさえ、四年もの間、自分が一歩も入り込めなかったことが、今更ながら悔やまれた。

 もはや遠く離れた場所から、貴美子を温かく見守るしかない。元気でいるか、幸せに暮らしているかと、中空に向けて呼びかける。あの頃、おれは、性的な興味で貴美子に近づいたことがあった。強引な口説き方で、口先の愛情を語って、厳しく拒まれた。満足な返事が得られなくて、すぐにさじを投げてしまった。
 本当は、もっとじっくりと、貴美子の内面を理解する努力をすべきだったか知れない。自分のことを話し、相手のことを聞く。その繰り返しがもっと必要だったのではないか。おれは相手の警戒心、不安感、苦悩を無視して、自分の感情と意志を強引に押しつけてしまった。

 佐藤は、懐かしさがこみ上げてきて、貴美子の今の生活の様子を、少しでも知りたいと思った。
 帰宅すると、関西で再会した女友だちの美智子に、久しぶりに電話した。
 貴美子は、最近、美智子に電話してきたらしかった。学友の寺島が、わざわざ貴美子を訪ねていったことがあった。寺島は貴美子に、関西の観光地を案内して欲しいと頼み、貴美子は、それを引き受けた。
 貴美子は、関西に行ってから、車の免許を取っていた。駅前で、自分の車に寺島を乗せた。寺島は、女性に警戒心を起こさせることの少ない、明朗で、温厚な性格だった。貴美子は美智子に、どうして、自分がそうしなければならないのかと、苦笑しながら、その出来事を話したという。
 貴美子は、今はデザイン関係の仕事をしていて、毎日、忙しく過ごしている。男性関係のことを聞かせてやるから、一度、関西に訪ねてきたらよいと、関東に住む美智子に言ったという。
佐藤は、今となっては自分の気持ちが、貴美子が結婚しても、それを許せる状態にあることを知った。単なる友だちとして、同じ空の下で元気で暮らしている、その消息を知るだけでも満足できた。美智子の話を聞いて、さわやかな気分になれた。

 おれは、貴美子のために涙を流している時が、皮肉なことに自分が最も幸せに思える。例えそれが悲しくても、幸福なことだと感じる。
 おれは、貴美子と別れてから過ぎ去った年月を数えた。二十六才になり、四年後の三十才の年齢までには、結婚したいと思う。しかし、学生時代を含めると、貴美子に対して、自分の恋心を、すでに六年も費やしている。貴美子のために、無益な青春を送り、諦めの年月を過ごしてしまったように思える。
 貴美子を思うことに、もはや疲れてしまった。別れてから二年が経ち、貴美子を忘れることができるような精神状態に至ったのかも知れない。



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