第3話 遠ざかる恋

文字数 13,750文字

(前章第2章までのあらすじ~ 佐藤は貴美子を慕って、苦悩し、悲嘆にくれる。旧友の野口と美智子の恋仲が終わりかけていることを知る。先輩に風俗店に連れて行かれ、男たちの遊びを知る。)

 佐藤は、ある雷雨の日、荒れた戸外の風景を眺めながら、関西の貴美子の所に行くことを考えた。貴美子と東京の学生時代を鮮明に思い出した。
 別れてから三ヶ月が経った。それでも、貴美子の手紙が届くのを祈るような気持ちで待った。
 相変わらず、毎朝、郵便受けを確かめに行った。いそいそと玄関口に出かけ、わずかの期待感を持って郵便受けのふたを開けた。いつの間にか、それがささやかな日々の楽しみにさえなった。むしろ、愚かにも期待を持ち続ける自分に、事実を突きつけて納得させるための毎朝の習慣になった。
 郵便物を見ると、その都度失望した。待ってはいない手紙や、期待していない葉書がそこにはあった。

 しかし、かろうじて思い直した。自分は愛されてはいなかったが、嫌われてはいなかった。すると、わずかに惨めな境遇が救われる思いがした。
 せめて、貴美子の口から最後通牒が聞きたかった。はっきりとした決定的な拒絶の言葉を、容赦なく言って欲しかった。
 それなら、自分のいやらしい未練を断ち切ることができる。甘いかすかな期待を滅茶苦茶に壊すことができる。恋の戦場で再起不能となるような強い打撃が欲しかった。自分の恋情の核心にとどめを刺して欲しかった。
 
 おれは、自分が選んだ仕事は、淡々と、真面目に、黙々と続けた。それは時には、失恋の悲しみを癒やすのに役立った。仕事に熱中して、頭の中を目先の事柄でいっぱいにしているときは、貴美子のことは忘れていられた。
 新しい生活の中で新しい人々に囲まれた。新しい場所と人間関係の中で、貴美子がひどく遠くに行ってしまったという思いにとらわれた。寂寥感が胸を締めつけた。
 そんなときには、自分の屈折した恋情や、そのために二人の間に生まれた違和感を度外視したくなった。貴美子と気軽に会うことのできた学生時代が懐かしく思い出された。かつての単なる同級生として、一度でいいから会ってみたいと思った。電話で声を聞くだけでも良かった。
 せめて、怪我や病気などしていないか、元気で暮らしているのかが知りたかった。見知らぬ町の初めての生活で、何を思い、どうしているのか、近況だけでも知りたかった。
  
 おれは、平日は、仕事に紛れて貴美子への思いは、胸の中に押さえつけておいた。しかしそれは、休日を迎えるたびに、心の中にぶり返してきた。
 正直な気持ちが噴出してくるのを、押しとどめることは出来なかった。辛くて、苦しくて、悲しくて、無念で仕方がなかった。最後には、泣き叫びたい衝動だけが残った。
 ベッドに横になって電気を消す。もはや貴美子には一生会えないかもしれないと思う。暗闇に向かって何度も、貴美子の名を呼んだ。
 真夜中に悲哀の重さに、押しつぶされそうに感じる。急に体を起こしてすわり込み、深くうなだれる。恋い焦がれて、自分がだめになってしまいそうに感じる。貴美子のことを夢で終わらせたくない。悩んだ末に、目を赤くして翌朝を迎えた。
 切なくて仕方なかったが、その切なさをいつの間にか飼い慣らした。現実は過酷にも、貴美子との未来を否定した。しかし、満たされない願望を、なお捨て去りたくなかった。その思いを大切にくるんで、胸の中にしまい込んだ。

 いつまでも貴美子を好きな自分でいたかった。心に燃え上がった愛情の炎は、大きく成長したがっていた。しかし、その炎は、貴美子のつれなさを自覚するたびに、押さえつけられ、打ち消された。それが、残念でもったいなく感じられた。
 貴美子は、やっとのことで巡り会い、好きになれた貴重な女性に思えた。その存在は、おれの心をつかんで離さなかった。
 しかし、本当はおれには分かっていた。四年も前に、大学で知り合った時に、皮肉にも、この恋は始まる前に終わっていると直感していた。独りよがりの恋の炎だった。それでも、炎は胸の中で小さく、淡く、虚しく、くすぶり続けた。

 しばらくの間、望んではいなかったが、貴美子のことを忘れようと努めた。
 しかし、忘れたつもりでも、そのうちにふと思い出した。忘れることは出来そうになかった。すべてを永遠に忘れ去ることは、心がけて出来ることではないようだった。
 一方、諦めることは出来そうだった。貴美子と恋人になりたいとか夫婦になりたいとか、わずかな期待が頭を持ちあげる。そんなとき、その期待を打ち消してしまう。それなら出来そうだった。しかし、諦めることは、別れることより更に大きな悲しみだった。
 そうしているうちに、思い出も期待も、心の中に浮かんでくる回数が減ってくる。その色合いも薄まっていく。

 今となっては、住んでいる所が遠く離れてしまって、出会いの機会はない。大きなすれ違いの出来事も、小さな心理的な葛藤さえも起こりえない。住む場所が遠く離れてしまったことは、大きな問題だ。
 その問題は別にしても、貴美子がおれに恋心を抱いて、その気持ちがおれに傾くことは、もはやあり得ないだろう。
 万が一そうなっても、その時は、もう手遅れだ。今度はおれが、ある意味で不遜な態度に出る。ある時はおれを愛して、別の時には、おれを愛さない。そんな女の心を、おれは許さない。信じないだろう。
 おれは、貴美子がおれに振ったことに腹を立てている。おれに惚れなかったことが、無性に悔しい。悲しみを感じている。おれを好きになってくれない女を好きになったことも、悔しく思う。
 それでも、将来、貴美子がおれのことを思い出して、良い返事を出来なかったことを後悔することもあるかもしれない。
 おれのように貴美子を強く愛して、プロポーズしてくれる男は、おそらく貴美子の一生のうちに数えるほどしかいないだろう。貴美子はおれの思いの掛け替えのなさを、未来のある時点で理解してくれるかもしれない。
 それなら、報われることのなかったおれの心も、少しは救われるかもしれない。

 貴美子は、鼻っ柱が強くて、うぬぼれの強い、思い上がっている女のように見えることがあった。男に愛されることがあっても、愛し合うことはできないように見えた。
 いつも、強い自分を捨てきれないように見えた。弱い自分をさらけ出すことができないように見えた。いつも架空の自分を作っているように見えた。形式的にはひとりの男を伴侶にしても、一生、愛の不在を嘆くかもしれない。愛し合うことのない関係は、愛とは言えないからだ。
 それほど男に持てていたのか。他にいくらでも当てがあったのか。好きになった男に捨てられて、ぼろぼろに傷ついて、涙を流したことはないのかもしれない。

 おれの心の中に燃え上がった炎が、貴美子の拒否によって、徐々に消えていくのが寂しい。見込みがないと分かって、自分の気持ちを無理矢理に押さえて、忘れるように心がけていく、そのことが嘆かわしい。

 貴美子はかつて、酔ってはいたが、おれの肩に頬を乗せた。あるときは、「教えてくれる?」と冗談でおれをからかった。あるときは、おしゃれに着飾ってキャンパスを歩いていた。何度も、意味ありげに思える視線を、おれに投げていた。しかし、おれからのデートの誘いには応じなかった。
 おれが悲しんでいるのは、離れて住んでいることや二度と会えないかもしれないということではない。貴美子がおれを愛してくれなかったという、動かすことのできない事実なのかもしれない。

 貴美子は、やがてどこかの男と、見合いか恋愛で出会う。結婚して平凡な主婦になり、普通の夫婦生活を送っていく。そう考えるとき、世の中というのは、実につまらないと感じる。
 もしかしたらおれは、貴美子が他の男と恋愛しようと結婚しようと、結局はたった一度だけ、おれを愛して、おれのものになってさえくれれば、それで満足できるのかもしれない。おれの恋は独りよがりなのか。いや、独りよがりでない恋など、この世にあるのだろうか。

 七月に入って、佐藤は仕事で、飲食店の税務申告の登録を受け付けた。
 来訪した客は、三〇絡みで、細身の若いラーメン店の店主だった。開業直後だった。本性は隠して、おとなしくしているように見えた。
 数日後、地方版の新聞記事のひとつを見て、佐藤はびっくりした。
「これ、この人、この間おれが登録した人ですよ。目の前で書類に記入してもらいましたよ」
 職場の仲間たちは、驚いて苦笑いした。
 それは傷害事件の記事だった。新規開店したラーメン店に、客が入った。酒に酔っていて、ふて腐れた顔で言ったらしい。
「このラーメンはまずいなあ」
 店主は、これを聞きつけて応じた。
「何? もう一度言ってみろ」
「まずいから、まずいって言っているんだよ」
 ふたりは喧嘩になった。
 激高した店主は、包丁を握って、客の腹を刺した。
 警察官がやってきて、店主を逮捕した。
 先輩の高田が、真面目な顔つきで言った。
「やっぱり、この仕事は、時々危ない人を相手にするからね。言葉に気をつけていないと、佐藤さんも危なかったかもね」
 佐藤も苦笑いした。
「本当ですよね」

 職場のバイト嬢たちは、佐藤と同じように東京の生活を経験している者が多かった。親に言われて、不本意ながら出身地に戻ってきている。中には、佐藤が学生時代に友だちづきあいした女子学生たちよりきれいな女性もいる。人事担当者が、容姿を気にかけているらしい。
 バイト嬢の由美子は小柄で小太りだったが、顔は美人だった。佐藤は、気持ちが向かっていた。由美子が職場のどの男を選ぶのか、それが分かったときに自分はどうするのか、気になった。職場には、恋や結婚に興味を抱く若い男女が多かった。
 ある日、佐藤は税務の新任研修のあと、先輩のひとりに誘われて、他の新人と一緒に、マージャンに付きあわされた。先輩は、独身で職員寮に住んでいる。競馬やマージャンなどギャンブルに目がなかった。その日は、とうとう徹マンになってしまった。
 職場では、麻雀のほかにも様々な遊びが流行っていた。昼休み、終業後を利用して、将棋や囲碁をたしなむ職員が多かった。佐藤も先輩の何人かと、将棋をときどき差した。
 佐藤は初めて、先輩の阿部の恋人を見た。美女と野獣といった組み合わせだった。風の便りで、二人はすでに男女関係を結んでいると知った。
 独身の先輩の太田は、バイト嬢の由美子をテニス、海水浴などに誘っていた。佐藤は、それが気になった。

 ある日の昼食時、佐藤は寛いだ気分で喫茶店の座席にすわっていた。向かいには、職場の先輩の小林悦子がいた。
 最初、悦子はバイト嬢の女性と一緒に、食事を取ろうとしていた。
「おれも一緒に行っていいですか? 」
 佐藤の申し出は快諾された。
 しかし、バイト嬢の女性の都合が悪くなり、結局、悦子とふたりきりになった。
 そこは、職場のそばの良く知られた喫茶店だった。静かな住宅街の中にあり、付近では、比較的しゃれた造りの建物だった。社員の中でも、主に若い人が利用していた。
 食事がある程度進んだところで、悦子は問いかけた。
「佐藤さんは、大人の男性の魅力があるわよね。男ぶりがいいから、自分から行けば、彼女はすぐに出来るるわね。佐藤さん、アルバイトさんで誰か、どう? アルバイトの人は、職員の誰かと結婚すること、多いじゃない」
「ああ、そうですね…」
「佐藤さんは、あまり結婚したいと思わないの? 」
 佐藤は少し考えた。
「思わないですね」
 首を横に振って、きっぱりと言った。
「だって、男と女が結びつくのって自然でしょ? 」
 佐藤は腕組みして、宙に目をやった。
「ひとりきりで生きているのが自然ですね。誰でも、もともとひとりで生まれてきて、ひとりで生きていくわけですから…。第一、女は必要じゃないって思うことがあるんですよ。おれ、ひとりで暮らしていけるし、自由気ままに毎日の生活を楽しんでるから…」
 悦子は食い下がった。
「でも、いつまでもそうしてはいられないでしょ? 親だって、いつかいなくなるし…。そのうち自分が年を取ったら、病気になったり事故にあったり、何か問題を抱えることだってあるでしょ? そんなとき、ひとりじゃいられないわ。勿論、世間体もあるだろうし…」
「病気のときに看病してくれる人が欲しくて、あらかじめ、わざわざふたりで暮らし始めるってこと?」
「そうは言わないけど。例えばの話よ」
「それはわかるけど…。つまり、結婚して家族を作っておくってことかな? 性とか愛とかのつながりの他に、家族としての助け合いが必要ってことかな? 最初は、男と女の、愛情と性欲に満ちた結びつきがあって…」
 悦子は性欲という言葉を耳にすると、急に目を伏せた。
「やがて、子どもが生まれる。夫は父親になって、妻は母親になっていく。恋人同士という関係ではなくなってくる。一家族の構成員になっていく。果たして家族って、そんなに必要なものかな?」
 悦子は軽くため息をついた。
「世の中がみんな、佐藤さんみたいな独身主義だったら、人類はやがて滅亡するわね」
「そうですね、多分ね。でも、大丈夫でしょう。おれみたいに考えてない人が大多数だから…」

 初夏を迎え、職場では暑気払いの話が持ち上がった。今年の会場は、町の中心街にあるホテルの屋上のビアホールに決まった。
 佐藤は、職場の仲間たちとエレベーターに乗って、ホールに足を踏みいれた。
 夜空を天井にして、勤め人らしい客があちこちのテーブルに陣取っていた。頭上には装飾用なのか、万国旗が渡してある。
 佐藤の仲間たちは、気の合う同士で集まり、テーブルに着いた。
 乾杯すると、大声で話したり笑ったりし始めた。日頃の仕事のうっぷんを晴らすかのようだった。
 酒が進んだところで、佐藤は悦子の隣の席に移動した。男性の独身の職員は、未婚の女性の所に多く集まっている。
 佐藤と悦子は、午前中に職場で囲碁を楽しんだ。女子職員にしては珍しく悦子が、男性職員の娯楽に興味を示したのだった。
 その成り行きでふたりきりで話をしても、周囲にはその関係を特に疑う空気もないようだった。
「佐藤さん、顔が赤くなるのね。飲み過ぎたの? 」
「えっ、そうですか? 」
 悦子は滅多に佐藤と視線を合わさず、うつむいて話すのが常だった。
 佐藤は、正面から佐藤を見ようとしない悦子を、少しからかってみたくなった。
「男って、女性の魅力というか美しさというか、そういうものに感動することがありますよ。女の人っていうのは、あれですね、いつも男より気をつかっているというか、緊張しているようなところ、ないですか? 」
「緊張っていうか、あんまり出しゃばっちゃいけないっていう心がけはあるわね」
「男の視線にさらされるっていう緊張感は、あるでしょう? 」
 周囲の雑音がうるさくて、佐藤はときどき、悦子の耳元に口を近づけて話した。悦子も耳の近づける所作を、ときどき見せた。
「うーん」
 悦子は、視線を宙に遊ばせた。
「おれも実は、ときどき、その種の視線を小林さんに送るんだけど、そういうときってわかるんじゃない? 」
 悦子はそっぽを向いてほほえんだ。
「そうねえ、わかるときってあるわね、何となく…」
「強く何かを望んでるんだよね、そういうときって…」
 悦子はくすくすと笑った。
「見られていることを強く意識すると、その人はもっときれいになるって話ですね。やっぱり、美は緊張感から生まれるんですよ」
「じゃあ、いつも緊張していなきゃいけないのね。疲れそう…」
 佐藤はうなずいて笑った。

 その日は珍しく、佐藤は喫茶店で昼食をとった。
 昼食には、普段は職場で弁当などを食べることが多かった。しかし、それに飽きることもあった。仕事の雰囲気から離れたくなることもあった。
 そんなところに、悦子がひとりで店内にはいってきた。他に顔見知りの人はいなかった。
 佐藤は少し頭を下げてあいさつすると、悦子を自分のテーブルに招いた。
「変なこと聞きますけど、悦子さんは、幸せを感じるときって、どんなときですか? 」
「幸せ? そうねえ…。あんまりないなあ。何だか幸せを感じている暇もなくて、毎日生きている感じ…。それも幸せってことなのかな? 」
「ぼくの場合は例えば、五月の連休の晴れ上がった日に、どこかの観光名所を訪ねて、気に入った曲でも聴きながら、眩しいくらいの新録を眺めるんですよ。それだけでもう、そういう雰囲気の中に包まれてしまえば、限りなく幸せになれるんですよ。そういうときって、それだけで十分で、他には何も要らないって感じですね」
「そういうのって、わかるような気がするけど…。でも、一時的なものでしょう? 」
「いや、その一時的な感じが、普段の生活感覚よりずっと重要に思えるわけよ。感動することの喜びを感じるんです。生きている間に、できるだけ多くの感動の瞬間が欲しいと思うんです」
 佐藤は笑った。
「うーん。確かに、きれいな風景を見ると、ああ、きれいだなあって思うけど…」
 悦子も、それはわかっているという調子で、二度三度うなずいた。
「そういうのって、心理学で何ていうの? 」
 佐藤は、悦子がかつて、大学で心理学を専攻していたのを思い出して尋ねた。
「うーん、精神病の一種かな? 」
「精神病? おれが病気? 」
 佐藤は驚いて、おどけた表情を見せた。
「ううん、違う、違う。病気じゃなくて…、何て言うか、感受性の強い人の場合ね、病気だか正常だか、区別のつけられない場合ってあるんじゃないかしら…」
「そういえば、今まで何度か、正気でなくなったような気がする」
「佐藤さんて、発狂の気があるの? 」
「あるかもね。一日の終わりに床について、眠りにはいるまでのまどろみの時間も好きですからね。夢想の空間が広がるんですよ」
「要するに、現実は嫌いなの? 」
「嫌いですね。夢の世界にばかり逃げこむんですよ」
「現実回避じゃない、逃避よ」
「いや、それほどせっぱ詰まった状況じゃないんですよ。ただ、現実が気に入らないんで、夢想に憧れるんですね」
「でもねえ。わたしも昔は、非現実的なものに憧れていたけど、最後は現実に戻ってくるのよね。生活のこまごましたことが、どうしたって第一じゃない? 」
「それもそうですね。夢ばかり見ていても、あしたの生活がやっていけないってことですよね?年齢を重ねて大人になっていくと、そういうことになるかも知れませんね」
 佐藤は店の壁時計を見あげた。
「そろそろ時間だから、行きますか? 」
 佐藤は先に席を立った。午後の仕事が始まる。
 店を出て、ふたりは会社に向けて通りを歩き始めた。
「おれ、嫌いなんですよね、ありきたりのことが…。ありきたりの人生とか、ありきたりの出来事とか、よく世間にあるでしょう? よくある話の主人公になるのが、いやなんですよ」
「例えば、どんなこと? 」
「例えば、三角関係の当事者とか、女に振られる男とか、それからよくある遊びですね。マージャン、パチンコ、酒飲み。きのうもきょうも同じ、去年も今年も同じ、そんなのがいっぱいあるでしょう? 」
「平凡な人では、いたくないのね? 」
「そういうことですね。常に光っていたい」
「いい心がけだと思うけど…」
「実際には、口でそう言っていながら、いつの間にか、よくいる人間になっちまってる」
 佐藤は自嘲的に笑った。
「でも、いいわ、佐藤さん。夢がある」
 ふたりのうしろから車が走ってきた。
 佐藤は、悦子をかばおうとした。手を伸ばして悦子の肩を軽く抱き、引き寄せた。すぐに手を離した。
 佐藤は、悦子の体に触れたことで、悦子が何か言うかと思った。
 悦子はほほえみながらうつむいた。何も言わなかった。
「夢?」
 佐藤は悦子を見つめて、瞬きした。
「夢は、失いたくないですね。夢がなくて、人形みたいに毎日、機械的に生きるようになったら、本当に寂しい。生き生きとして楽しんでいかないと…。熱くないとだめですよ、いつも…。ちょっと買い物します」
 佐藤は悦子を先に行かせた。近くの商店に用があって寄った。
 それから、職場の建物の入口に入ろうとした。そのとき、野中美香とすれ違った。美香は、小走りで佐藤の方に近寄ってきた。悦子はすでに、建物の中にはいっていた。
 美香は目を大きく開いて、かすかな笑みを浮かべながら、佐藤に尋ねた。
「どこに行ってきたの? 」
「あっ、ちょっとお昼ご飯で…。たまたまふたりだけになって…」
「あ、そう」
 美香はその場で、立ち話を始めた。
「悦子さんのお母さんはね、歌人なのよ」
「歌人って、短歌なんか作る人ですか? 有名なんですか? 」
「良く知らないけど…。だから、悦子さんも短歌が作れるんだって…。頭、いいもんね。一流の国立大学、出てるでしょ? 子どもの頃から厳しく育てられたらしいわよ」
「そうですか」
「銀行員の旦那さんとは、お見合い結婚。幸せだけど、無難でおもしろみのない人生って、本人は思ってるのかな? それが、この間、旦那さんが単身赴任になっちゃったんだって…。話し相手になってやったら? 」
 美香はにやにやしながら、疑い深そうな目を佐藤に向けた。佐藤は苦笑いを返した。
 悦子は自分と同じように、型にはまった人生から逃れたい願望があるのかもしれない、と佐藤は思った。

 職場の人々の中には、佐藤はわがままで、態度がでかい。ふてぶてしくて、生意気で、温室育ちだと考えている者もいるようだった。
佐藤の方では、口には出さなかったが、職場を俗物の集団だと見ていた。一部の職員たちは幼稚で、単純で、平凡に思えた。学生時代は、佐藤は哲学や文学など難しい事柄に興味があった。
 自分は他人を気にしなくても、他人は自分を気にすると考えていた。住みづらい世の中だと、昔から感じていた。中学で生徒会長になった頃から、意図しなくても目立ってしまう自分に気付いた。時には人目を避けるようにして生きてきたような気がしていた。冷静に、自然体で生きていきたいと望んでいた。
 佐藤はある日、職場の付き合いで、無理して酒を飲んだ。もともとあまりアルコールは強い方ではなかった。飲み過ぎて、吐き気に襲われた。
 役所勤めは嫌いだと感じた。早く辞めたいと思った。
 刺激や情報や、若い女性との接触の少ない田舎に、嫌悪感を覚えた。
 一方では、都会の若者たちの乱れた性風俗に不快感を覚えた。処女と結婚できない恐れを感じた。
 市民大学の講演会に、地元の友人の田口と一緒に出かけた。佐藤の部屋で、夢中で恋愛や文学や芸術のことを議論して、田口は帰っていった。それは夜明け前の四時頃まで続いた。田口と語り合う付き合いは、この後も長く続いた。

 暑い七月になっていた。それでも、夜は少し気温が下がって過ごしやすくなる。
佐藤は、窓の外の闇を眺めて、夜はいいと思った。自分がどこにいるのか、忘れてしまう。どこにでもいるような気がする。昼は、時間と空間の中のどこに自分がいるのか、はっきりと分かる。その自覚から生まれる悩みを、夜の闇は忘れさせてくれる。

 貴美子のことを考えると、別れて四ヶ月経った今でも、涙が出るような熱い思いを味わう。貴美子に振られたことは、おれの二〇数年の人生の中では、屈辱的な、絶望的な出来事だ。辛くて、悲しくて、悔しくて、耐えきれない。あとどれだけの時間があれば、貴美子を忘れられるのか。
 貴美子に会いたい。電話で声だけでもいいから、会いたい。手紙の文面だけでもよい。どんなに些細なものでも、形のないものでもよいから、貴美子に関係する何かが欲しい。それに触れたい。

 ひとつだけ、人生の全体に関わるような大きな疑問がある。
 おれは本気で愛して、求めても得られずに、貴美子と別れてしまった。おれが愛していようが、愛するのをやめてしまおうが、反対に憎み始めようが、そんなことは関係ない。おれの心情とは無関係に年月は過ぎ、二人が再会することはないだろう。
 そうやって、やがてこの世を去っていく自分の運命を、おれは人生の最後の最後で受け入れられるのだろうか。

 映画で、貴美子に似た女優が男と交わるのを見た。豊満な体ではなかった。しかし、飾り立てて、妖艶な姿態を見せ、おれは情欲を覚えた。
貴美子は女盛りを迎えて、これからますます魅力的な女性になるだろう。卵に目鼻といった風情の端正な顔立ちだった。スタイルが良くて、女らしい丸みのある体をしていた。
細く引き締まった腰とそこから尻に下がるなだらかな線や、一度間近に見た股間のくぼみが、目の前に迫ってくる。抱きしめたかった。服を脱がせて体を交わらせてみたかった。
 おれが貴美子と肉体関係に陥ったら、廃人になるまで情欲にふけるかもしれない。おれ以外の男が、その色香をものにして、その中で溺れるのかと思うと、苦い心持ちになる。
おれはどうして、貴美子の魅力にとりつかれ、あんなにも深く惚れ込んでしまったのか。
 貴美子と将来の夫が交わす性生活は、平凡に続くかもしれない。一方、おれと貴美子の間で、性交渉がもし実現したら、それは、おれの人生にとっては大きな意味を持つだろう。

 貴美子にもう二度と会えないのかと考えて、身震いする。
 思い出せば、今でも胸が熱くなってくる女。愛しても、愛してはくれなかった女。約束しておきながら手紙をくれなかった女。二度と会うことのない女。他人のものになってしまう女。
 おれを愛していないから、いつでもおれと会えると思っている女。自分から愛していたおれにしてみれば、もう永遠に会えないとしか思えない女。あんなにも欲しかったのに、どうしても手に入らなかった女。
 おれと結びつく星の下には生まれてこなかった女。こんなおれの強い思いとは別に、多分今頃は、平凡な若い女性の生活を送っている女。

 貴美子は、あの頃、おれから軽く話しかけてもらえるのを待っているようだった。
 しかし、貴美子には取っつきにくい面があった。それは自他共に認めていた。わがままで頑固そうだった。無愛想で、冷淡で、高慢に見えた。気まぐれで、我が強い女に見えた。
「手相を見てもらうと、将来は別居か離婚でしょうってと言われるの」
 そんなことを、まるで自慢するように言ったことがある。そんな、気を持たせるような、気になるようなことを、わざわざ口に出して言う女だった。
 おれは、何となく占いの結果を納得した。自虐的な、自意識過剰な女性だった。悪魔的な、男を狂わし、惑わす魅力を持った女に見えた。そういう雰囲気を持っている女だった。 裕福な都会生活を望んでいるように見えた。生活感が希薄に見えた。贅沢で、若くて世間知らずに見えた。
 それらの欠点も、あばたもえくぼで、おれには魅力に見えた。自分には合わない女性に見えたが、気がつくと惚れていた。それが、ある意味で、あの女をつけ上がらせてしまった。

 貴美子は、おれの心を受け取らなかったことで、一生に関わる損をしたのではないか。
 それとも、これから大好きな人と一緒に暮らして幸せになれるのだろうか。おれと結婚するよりも、幸福になれるのだろうか。
 貴美子や貴美子と過ごした時代への強烈な思いを断ち切る。貴美子を忘れ、諦める。この土地で平凡な女性と結婚して、ずっと生きていく。
 そんな人生は味気なくて、何と詰まらなくて、虚しいのか。
 押しが足りなかったんだろうか。嫌われても嫌われても、追い続けるべきだったかもしれない。時に貴美子を邪険に扱った自分の馬鹿さ加減に、今となっては反省させられる。
 もしかしたら、おれは欲しいものが手に入らずに、子どものように駄々をこねているだけかもしれない。

 手紙をくれなかった貴美子に感謝すべきかもしれない。
住所が分かっていたら、おれは盛りのついた犬のように、貴美子の住む町に飛んでいった。貴美子の前で、恥も外聞もなく自分をさらけ出し、愛情を告白して、醜態を演じた。持てあました心情を、焦った表情で訴え、発情した動物のように貴美子の体を求めることさえした。あるいは自分の家族を心配させ、貴美子の家族を心配させるような行動に出た。そんなことが起こっていたかもしれない。
 思えば、涙声で別れを惜しんだおれの様子で、貴美子はおれとの接触を絶たないと自分が苦況に絶たされると、察知したのかもしれない。

 貴美子は、年上の、包容力のある、頼りがいのある、魅力的な男性を捜しているようだった。同級生のおれは、そのような種類の男ではなかったようだ。
 やがて、貴美子と性的に結ばれる男が現れる。その男は、貴美子の体に分け入っていく。貴美子は抱き締められ、男はおおい被さる。
 おれ以外のそんな男が、きっとこの世のどこか知らない所にいる。おれはその男に、強い嫉妬を覚える。貴美子は、本当はおれのことが好きだったはずだ、と勝手に思う。

 多分、将来、貴美子が結婚したという知らせが届くとき、おれの衝撃は手に余るだろう。その頃の友人のひとりがおれに、衝撃の大きさは分からずに、それを告げる。
 おれは悲しんだり、泣いたりしないかもしれない。ただ茫然となって、身動きできなくなるかもしれない。すべてが終わったと心の中で繰り返す。もっとも、結婚したという知らせそのものが届かないほど、貴美子と疎遠になってしまっているかもしれない。
 貴美子を諦めて、おれが貴美子よりも先に結婚する。あるいは貴美子が、好きな男を見つけて、おれより先に結婚する。そうなってから、貴美子と再会したいとは思わない。
 しかし、おれは冷めた目で将来を見ている。

 もし、これから数年あと、貴美子の夫を見る機会があったとする。そのとき、貴美子は、口で言っていたのとは違って、平凡な男の妻になっていることだろう。おれをあれほど夢中にさせて、高所から見下ろしていた女の、それが成れの果てだ。おれは落胆することになるだろう。
 恐らく、貴美子がおれにとって大きな価値があるのは、おれが貴美子の心と体を獲得できないからだ。もし、それが他の男のものになってしまったら、もはや熱愛の対象ではなくなってしまう。どこにでもいそうな、ひとりの人妻に過ぎない。おれとはもはや無関係な女になる。

 少しずつだが、貴美子を忘れていく。今でも、貴美子のことを考えると、恋の喜びと失恋の悲しみが、渾然一体となって押し寄せ、息苦しさを覚える。
 貴美子の名を虚空に呼びかける。貴美子と結ばれる生活は夢に終わり、一生続くかもしれないおれだけの夢想になる。

 しかし、あの魅力的な女が、おれのことを考えてくれた。最後まで快い返事はよこさなかったが、たとえ片時であろうと、おれを自分の恋人や夫にしたらどうかと想像した。色々と迷い、そのあとで否の返事をよこした。
 おれは、これまでにおれに心を打ち明けてくれた女たちのことを忘れない。それと同じように、貴美子も一生、おれのことを忘れないだろう。
 相手が受け入れてくれなくても、愛してくれなくても、自分から愛し続けることはできる。それは以前から分かっていた。それだけでも、十分生まれてきたかいがあると、ときどき思う。

 おれの側の片思いで、一連の騒動は終わった。人はなぜ、自分を好きになってくれない相手を好きになってしまうのか。
 しかし、貴美子を一方的に愛したことは無駄骨だったと、おれは考えたくない。貴美子と、男と女の心情が重なり合わなかったことは悲しい。しかし、おれの気持ちは確かに、貴美子に届いた。
 人生は短い。誰でも老人になる。やがて、貴美子はおれを忘れ、おれは貴美子を忘れるだろう。二人は、ゆっくりと静かに、この時の中を漂いながら流れていく。やがて生を閉じるその時まで、確実に同じ空の下で生きていくだろう。
 人生では、後戻りは効かない。すべては一度きりの出来事だ。片思いだろうと両思いだろうと、相手に向けられる恋は一度きりだ。

 貴美子を愛していたころ、貴美子に危害を及ぼす者から守ってやりたい、と思うことがよくあった。それが、愛情に自然に伴ってくる感情だと思っていた。
 ところが、それほど愛しく思っていた貴美子から、自分の求愛を拒まれた。すると、冷淡かも知れないが、守ってやりたい気持ちが幾分冷めた。
 ここまで来て、もうこれ以上貴美子を愛することは無駄ではないかと考え始める。
 これからの自分の態度や行動も、考え直してみよう。起こりそうもないことを想像してみる。いつかどこかで、貴美子が何らかの窮地に陥るとする。例えば、好きになった男から捨てられるとする。そのあと、傷心のうちにおれに心を寄せてくる。
 おれはしかし、もう貴美子のために、何もしてやる気にはならないのではないか。貴美子がおれをかつて拒んだように、おれも同じくらいのはっきりとした態度で、無関心を示すことになるだろう。おれは潔癖なのかもしれない。
 一度自分を振った女とは、うまくやっていけない。もう貴美子に対するおれの愛情は、死んでしまったのかもしれない。貴美子が与えた屈辱は、死ぬまで決して忘れない。

 あの女は何か勘違いしていたのではないか。少しくらいきれいだからといって、いい気になっていた。あんな我の強い、気位の高い女が男と一緒になって、うまく行くはずがない。これからの人生で、あの女はきっと、悩み、苦しみ、傷つくだろう。世の中は、個人の自分勝手をいつまでも許しておくほど甘くはない、寛大ではない。
 もうあんな女はどうなろうとかまわない。もう知らない。ひどい女だ。一生会いたくない。あの女には、おれが泣いた分だけ辛酸をなめてもらいたい。
 おれの傷心をいやすには、貴美子を一生憎み続けることも一法ではないか。女に振られた悲しみをいやすには、できるだけ長い間、その女を忘れているのがいい。
 一方で、貴美子を思い出すたびに憎らしいと思う。かといって、具体的な行動に出ることはない。復讐することは出来ないし、その気もない。もう生きている間、再会する見込みは薄い。


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