第4話 ネグリジェの女

文字数 8,102文字

(前章第3章までのあらすじ)
佐藤は先輩の悦子と恋愛や結婚のことを話す。貴美子と一生会えないかもしれないと不安になり涙を流す。先輩の阿部は豪放な性格だが、恋人との結婚を先方の親の反対で悩んでいる。佐藤はバイトの由美子に気をひかれる。

 九月になり、佐藤は高田から、ある税務調査のことを聞いた。昔のことらしかった。
 その飲食店に行くと、店の中には、店主だけでなく数人の男たちが待ち構えていた。調査に行った職員をじっと見つめていた。
 テーブルの上には、テープレコーダーを置かれていた。
 調査が始まると、店主の隣にすわる男がレコーダーのスイッチを入れた。
「お宅らの言うことをすべて録音させてもらうから」
 調査員は、言葉に気をつけた。後で、ああ言った、こう言ったと言葉尻を取られては困る。男たちに周囲を囲まれて、多勢に無勢だった。無言で圧力をかけられていた。じっと顔を見つめられて、緊張して、不快だったと言う。

 佐藤は久しぶりに、大学のある町で遠藤と再会した。繁華街の歩行者天国で、二人でワインを飲み、好みの本を買った。友の顔を見ながら、自分はあと六年で三〇才になってしまうと思った。
 日本人の名指揮者のクラシックコンサートに行った。荘重な音楽を楽しみながら、自分は学生時代と変わらないと思った。相変わらず芸術趣味に浸っている。これでは、俗世間と直接に接する職場生活が合うわけがない。
 遠藤の自宅に泊まり、話しこんで三時頃に寝た。
 翌日、平田が二人に合流した。遠藤、平田は留年していたが、またヨーロッパに行くらしかった。佐藤は、特に洋行したい願望もなかった。親に遠慮して海外旅行などはする気にならなかった。金も余裕がなかった。
 佐藤は先輩風を吹かせ、二人を誘い、歓楽街のキャバレーに入った。
 飲み直しの段階になり、勤め人で給料をもらっている佐藤が、友人たち二人分の料金を立て替えた。遠藤は酒乱気味で、ホステスたちに夢中だった。佐藤も浮かれて、ホールに出てホステスとチークダンスを踊った。平田はソファーで、上からおおい被さるように、深くホステスの唇にキスしていた。
 佐藤についたホステスも、その気になったようだった。佐藤は望まなかったが、自分からキスしてきて、舌を入れてきた。佐藤は、これが自分にとって初めてのキスかもしれないと思った。処女を奪われた娘の心境に似たものかもしれない。
 夜遅く店を出た。佐藤はホテル代がなくなったことに気づいた。
 遠藤の自宅にまた泊まるのも、気が引けた。遠藤の町まで行って、駅前の二四時間営業の喫茶店に入った。結局、その店で三人で夜を明かした。
 大学時代の旧交を温めて自宅に戻ると、やはり貴美子のことが脳裏によみがえってきた。別れてから、もう半年が経とうとしている。思い出せば辛い。
しかし、別れの辛抱のあとに待っているのは、いよいよ、相手を諦めるという段階だ。最後の破局が訪れつつある。
 貴美子は、秋の同窓会があるらしいと、最後の電話で言っていた。そのときに、貴美子にどんな顔をして再会しようかと、おれはしばらく思案していた。しかし、そんな話は、関係者の中で持ち上がる気配はないことが分かってきた。貴美子と再会する機会さえ巡ってくる見込みはない。

 一〇月になり、税務の仕事は相変わらず続いた。
 阿部と長谷川が出かけて、その店の調査が始まった。店の経営者の夫婦が立ち会った。長谷川は佐藤の一年先輩で、阿部はそのまた一年先輩だった。
 旦那は、店の経理関係を、女将に任せていたらしく、阿部たちの質問を受けるたびに、女将に聞いていた。
 先輩の阿部は、書類を点検したあと、適切に税金が納められていないようだと、旦那に伝えた。追加で納めてもらいたいと言った。
 旦那は不愉快になり、腹を立てた。追加で納めることがいやだった。正しく納めていないと指摘されたことも、気に入らなかった。
 阿部たちは先ほどから、夫婦の、かみ合わない会話のやりとりを聞いていた。卑屈になる妻と、感情的になる夫の表情を眺めていた。
 旦那の怒りの矛先が向かったのは、女将の方だった。
「おめえが、ちゃんとやってねえからだ。だから、こういうことになるんだ」
旦那は、言い訳をする隣の女将を突き飛ばした。
「馬鹿野郎」
「あっ」
 女将は、店の床の上に倒れ込んだ。
阿部たちは慌てた。長谷川は血相を変えて、とっさに席を立った。女将に駆け寄って、助け起こそうとした。
「大丈夫ですか? 」
 険悪な空気になって、阿部たちは早々に、店を後にした。
 長谷川は、係員の前で状況を説明したあと、瞬きしながら付け加えた。
「奥さんも、かわいそうでしたけど、そのうち、旦那の怒りがこっちに向かってくるんじゃないかって思って、びくびくしました。殴られたりしたら、たまらないですから……」
 佐藤はこの話を、黙って聞いていた。

 時は、佐藤の思いの前を無情に過ぎた。仕事と無関係の、一人だけの世界にまた入る。どうしようもなく貴美子を忘れていく自分が悲しい。
 勤め人の生活の大枠は覚えた。その日その日を何とかやり過ごしていく生活を覚えた。社会人生活には、学生生活ほどの感情の起伏は感じられない。
 貴美子とおれの間に、新しい出来事は付け加わらない。貴美子からは、何の便りもない。年月が過ぎていく中で、わずかの希望を託していた。もしかしたら、何か特別な事情、何かの偶然のせいではないか。しかし、それは虚妄だった。
 ある程度の期間が経ってみると、連絡のないのは、もはや貴美子の意志であることがはっきりと分かってきた。
 愛しているのに愛されない事実は、悲しみと同時に恥ずかしさを運んできた。その感情はわずかな憎しみも生んだ。しかし、その逆恨みは、対象を失って空回りを繰り返した。最後には、穏やかな慕情に変わった。

 時の流れは、貴美子を忘れろ、とそそのかしているようだ。その誘惑に抗しきれず、報われない恋心を抱き続けることの意味を考え始める。
 今頃、他の男と寝ているかもしれない女を、思い続けることが疑問になってくる。貴美子が他の男と結ばれるとき、おれの苦悩と情熱と、流した涙の意味はどうなってしまうのか。
 貴美子が他の男のものになることが許せない、受け入れられない。それが避けられない以上、ねたむ気持ちを押さえつけて、心の中で飼い慣らしていこう、嫉妬の乱暴な刃を抜いてしまおう。
 もっと安易に手に入る女も恋もあったかもしれない。縁のない、つれない女を選んだために、貴重な青春時代の数年間を、棒に振ってしまったのではないか。そのことを後悔し始めた。 

 一一月になり、佐藤は誘われて、苦笑いしながら荒木と風俗店に行った。ピンクキャバレーだったが、下半身は言うことを聞かなかった。
 不器量で太ったホステスは、やかましくて薄暗い店内で、大股を開いて、形だけ上に乗って、ゆさゆさと動いた。
「あんた、上品でいい男だよ」
 佐藤は、この店には下品で良くない客も、ときどき来るのかもしれないと思った。
 風俗店から酔っ払って帰った佐藤は、学生時代を回想して、我が青春に悔いありと思った。二四才の今、自分にできることは何かと考えた。

 ある日、佐藤は先輩の阿部と調査に出た。
 町の郊外には、広大な遊水池が広がっていた。佐藤は、あるニュースのことを話した。
「この間、ある会社が倒産したんですよ。おれ、一度は就職しようと思ったことがあるんです。地元の流通会社なんですけど。もし就職していたら、今頃、路頭に迷っていたのかなと思いましたよ。役所に入っていてよかったなあと思って……」
 阿部は苦笑いしながら言った。
「東京のちょっとした大学出て、戻ってきて、ここいらで、ちょっとしたところに就職しようと思ったら、役所と地元の銀行くらいしかねえからなあ」
 目の前には、広大なアシの原っぱが広がっていた。道は舗装されておらず、人や車はほとんど見えない。渋滞はないが、信号もない。事務所の職員たちは、市街地の幹線道路は通らず、この道を近道として、ときどき利用していた。
 阿部は、車が揺れるのも構わず、スピードを上げた。他には車は走っていない。背の高い草が生い茂り、視界も悪い。
「ちょっと、もうちょっと手加減した方がいいんじゃないですか。ロードレースのコースじゃないんですから……」
 阿部は、声を出さずに笑っていた。そのうち、車体のどこかで、ガタガタと金属音がした。停まって、二人は車から降りた。車体の一部が外れ掛かっていた。
「おんぼろで困るよなあ」
 阿部は、ドアの下についた細長い金属製の板を外した。そのまま荷台に積み込んだ。
 役所の車は、走行の距離や時間が基準に達しないと、新車に替わることはない。税金の無駄使いだと批判の声を上げる向きもある。職員たちは、旧式の車を我慢して使っていることが多かった。
 運転席に戻った阿部は、今度はギアレバーを見た。
「こらあ、何だ」
 レバーを覆うゴムは傷んでいた。引っぱると、外れてしまった。
「どうしようもねえな。修理だな」
 そのまま阿部は走り出した。佐藤が覗くと、一〇センチ四方の穴からすぐ下に、裸の地面が見えた。
佐藤は、このアシの原っぱを、市税事務所にいる間、何度も走ることになった。遊水池は、まるで小さな湖だった。関東の真ん中にこんな土地があるのかと、見るたびに思った。
 阿部は豪放な性格だったが、深刻な問題に悩む一面があった。交際していた女性との結婚を、相手の親に反対されて悩んでいた。父親は実業家で、公務員は嫌いだ、というのがその理由らしかった。
佐藤は佐藤で、近頃バイト嬢の由美子のことを考えることが多くなった。

 平田から、佐藤は電話をもらった。
 平田は遠藤と同じく一年留年して、就職活動の末、広告会社に入った。仲間たちのさまざまな消息が届いた。同じく留年した遠藤は、バイトに精を出している。野口は、美智子と完全に切れた。
 佐藤は平田の電話で思いついて、遠藤に電話した。ある仲間は家業を継いで、比叡山で修行し、寺の住職になる。大学院に進んだ別の仲間は、アルジェリアでフランス語の通訳のアルバイトをしてきた。
 佐藤は、仲間たちの様々な活動に勇気づけられる思いがした。自分は、やりたかったことがたくさんあったのに、それらを諦めて現状に甘んじているような気がした。

 佐藤は感じた。田舎に住んでいると、豊かで眩しい自然の光が、人の体に染み込んでくる。ゆったりとした空間は、ひとりひとりに十分に与えられている。それらは、都会では得られない魅力だ。
 佐藤はまた、東京に出かけた。学生街の喫茶店で休憩し、ホテルにチェックインした。田口と大型書店で待ち合わせた。古書店街の古本市を見て回った。二人は日頃から、芸術、教養を好んで向学心が旺盛だった。田口は、昨夜は趣味の書道の仕上げで徹夜していた。
 翌日、繁華街を歩いているときに、かつてパリのホテルで偶然に会った学生時代の女友だちを見かけた。パリに続いて東京と、滅多にない巡り合わせが続いた。交際相手と一緒に歩いていて、デートの最中のようだった。
 佐藤はふと思った。自分は二四才になったが、まだ愛し合える人と巡り合っていない。
 佐藤は、田舎がつまらなくて都会にでかけていくが、一方で都会に来ても、やはりつまらないと感じた。都会の懐かしい場所には、あの学生時代は残っていない。求めているのは場所でなく、過ぎ去った時代なのだと思い当たった。自分は、過ぎていった月日を惜しんでいるのだ。

 一二月になり、係長の杉山は、滞納処分の手伝いで、近づくと危ないと言われる納税者の自宅に、佐藤を引き連れて向かった。
 佐藤は、新人の自分をどうして、わざわざ危険な人物の所に連れて行くのかと思った。杉山にはどうやら、若い職員に、担当業務の厳しい現実を見せてやりたい気持ちがあるらしかった。あるいは、仕事に対する自分の真面目な態度、他の職員より勇気のある人格を示したい気持ちがあるようだった。
 杉山は、アパートのドアの前に立ち、ノックした。反応はなかった。またノックした。
「どちらさん? 」
 男の太い声が聞こえた。
「市の市税事務所です」
 杉山はドア越しに話しかけた。
「市税? 」
「はい」
「ああ」
「税金が納まってないもんですから」
 数分待ったが、反応はなかった。
 杉山は試しに、ノブをつかんで回した。ドアを開けた。
 すると一瞬、裸の女が、杉山と佐藤の目の前を横切った。
「あっ」
 杉山はとっさに声を上げ、すぐにドアを閉めた。
 丸裸ではなかった。透き通るネグリジェを着ていた。今見たのは、若い女だった。さっとこちらに視線を投げた。

 杉山と佐藤は、その場に立ち尽くした。
「まずかったかな? 」
 杉山が言うと、佐藤は困った顔で杉山を見つめた。
 もしかしたら、男と女の営みの最中だったか。取り込み中だったか。そんなところを、杉山はぶしつけにドアを開き、中を覗き込んだ。
 二人とも黙っていた。緊張していた。
 気性の荒い相手は、鬼の形相でつかみかかってくるかもしれない。
「てめえら、この野郎。死にてえか」
 凄い剣幕で出てきたらどうするか。突き飛ばされるか。殴られるか。刃物なんか持っていたら……。
 とりあえず謝ろう。確かに、ドアに鍵はかかっていなかった。しかし、無断で開けるのは良くない。
 やがて男が出てきた。思ったより若かった。薄着を羽織った肩口から、入れ墨が見えた。角刈りの頭で、目鼻立ちは整っていた。
 怒った表情でもなく、迷惑そうな表情でもなかった。少し照れているのか、驚いているような顔つきに見えた。
「すいません。取り込み中に、お邪魔しまして」
 杉山は、二度三度丁寧に頭を下げた。
「ああ、いやいや。税金ね。分かりました。金はあるから、近々納めますよ」
「そうですか。あのう、納付書はありますか? なければ置いていきますが? 」
 佐藤は、すぐに立ち去りたい気持ちでいた。空気が悪くならなければいいと願っていた。
「ああ、納付書? いや、ありますから、大丈夫です」
「そうですか? じゃあ、よろしくお願いします。どうも、失礼します」

 車に戻った杉山は言った。
「あの人は、真っ昼間からやっているのかね? いいな。おれも、やりたくなっちゃったなあ」
 佐藤は杉山には視線は投げず、苦笑いした。
「でも、ちゃんと鍵、締めてやった方がいいよね」
「夢中だったんですかね? でも、一時は、どうなることかと思いましたよ」
「そうだよね。自分だって同じことをされたら、怒るもんね? 」
 杉山は走り出した車の中から、もう一度アパートの方を振り返った。佐藤は、この人は勇気があるのか、怖いもの知らずなのか分からない、と思った。
 かつて、職場の誰かが言ったことがあった。
「税金屋は凄いよ。所得のある者からは、相手が誰だって、偉くったって、危なくたって、税金取るからね。納税は、国民の三大義務のひとつだからね」

 佐藤は、ときどきバイト嬢の由美子とその友達と、事務所のそばの喫茶店で会った。昼食をとりに、そこに出かけ、顔を合わせると同じテーブルで食事した。
 二人とも大人っぽくて、器量よしだった。しかし、佐藤の心中には、失恋の過去へのこだわりがまだ残っていた。二人の男性関係も分からなかった。
 職場で昼休みになると、佐藤は時には、阿部と一緒に近くの農道をマラソンした。広がる田んぼの風景の中に住宅が点在していた。すがすがしい気持ちになった。
 土曜の午後、佐藤は、ある先輩と将棋を指した。一勝負を終えて、外に出た。町の書店に寄り、古い街並みを眺めた。晴れた空を眺めて、由美子とデートする場面を夢想した。
 
 遠藤から手紙が、また来た。
 野口のバイト先に行ってきた。野口は一二月に、美智子に会いに山陽地方に行ってきた。とうとう二人の関係は終わったらしい。野口は酒の席で、しみじみと言ったという。
「こうやって男同士の関係が続くのは、どうしてだか知ってるかい? 性関係がないからだよ」
 その言葉には重みがあったという。
 野口のアルバイトは、プールの監視員だった。もうひとりの留年組が来たので、三人でビールを飲んだ。二人は、労働より生活を重視している。
 フランスに私費で留学していた同級生の女性は、日本に帰ってきた。若者向けの情報誌の編集に携わっている。どうやらフランス男性と性関係を持ったようだ。

 年の瀬になると、佐藤は一年の歳月と共に、貴美子の心がまたひとつ遠く離れたことを惜しんだ。初詣でには、事態の好転を祈って、神前で柏手を打った。失恋の痛手を忘れようとして、仕事にがむしゃらに打ち込んだ。
 しかし、心の中には、貴美子を忘れようとする気持ちと、それを恐れる気持ちがせめぎ合っていた。
 一年近く経っても、貴美子を思い出せば、佐藤の目からは涙がこぼれた。しかし、愛情は現実の対象を失い、ただ悲しい記憶に涙腺が反応しているだけだった。
 おれの生活は、貴美子のいないところで過ぎていった。学生時代は、貴美子の言葉と素振りで、一喜一憂していた。今は、その頃とは異質の時間が流れている。
 おれの肩先に載せた、酔った貴美子の頭の重みが、ときどき思い出された。時に甘く、時に厳しかった貴美子の声が、どこからから聞こえてくるようだった。
 そのうち、心の中で、虚しい内面の言葉が堂々巡りを始めた。おれが問いかけても、貴美子は答えない。おれが自分で答えを見つける。ひとりで会話を続ける。
 今や貴美子の顔の造作も、はっきりと思い出せない時もある。おれの呟く貴美子の名前だけが、孤独な部屋の虚空に反響する。
 執念深い炭火のような情愛と、それを取り巻く苦悩が、夜の闇の中に溶け出す。もはや一生会うことのない貴美子は、おれにとって死んだも同然だ。

 夢の中で、幻想の中で、貴美子は実在しない幻の女と化した。その女はある時は、切なそうな表情でこう言った。
「ずっと連絡を待っていたの」
 娼婦のようなうつろな目で、色めかしい衣服を着て、おれの首に腕を巻きつけた。
 またある時は、俯き加減でこう尋ねた。
「本当に結婚してくれるの? 」
 行儀の良さは、典型的な箱入り娘のようだった。
 別の時には、貴美子は他の男に好きなようになぶり者にされて、狂ったような目をしていた。目の前に現れた貴美子の姿に、おれはその場に凍りついた。無言の目で、こう言っているようだった。
「あなたが助けに来てくれなかったから、私はこんな目に遭ったのよ」
 また別のときには、貴美子は、誰かとの間に生まれた子どもを抱いて、幸せそうな顔をしていた。おれの目の前を通り過ぎ、流し目を送った。貴美子がこう言ったように聞こえた。
「あなたが、もたもたしているからよ」
 おれは泣き出すのも忘れて、その場に立ち尽くした。

 ある日、おれは、職場の二〇歳くらいのアルバイトの女性に尋ねた。
「嫌いというほどでもない男から結婚を申し込まれたら、どんな気持ちがする? 」
 女性は瞬きして、少し考える様子を見せた。
「やっぱり、うれしいんじゃないですか? 」
「うれしいかな? 他にどんな感じがする? 」
「ううん……。びっくりするんじゃないですか? やっぱり、うれしいですよ。だって、佐藤さんだったら、どう思いますか? 」
「うん。やっぱり、うれしいかな? 」
 おれは笑いながら、そういうものかと納得した。
 あのとき、貴美子は、少し怒っているような、電話の向こうの様子だった。考えてみれば確かに、おれは酔っていて、冷静な精神状態ではなかった。しかも、それまでの二人は、結婚という言葉が出てくるような関係ではなかった。
 それでも、若い男女の自然な心情として、やはり貴美子はおれのプロポーズの言葉を、内心ではうれしく感じたのだろうか。もしやおれは、貴美子にとっては、初めての求婚した男性となったのか。そうだとすれば、貴美子は求婚された事実を、いつまでも忘れずにいてくれるだろうか。そう考えると、おれにはわずかの心の慰めになった。

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