第5話 納税者たち

文字数 9,733文字

 年が改まり、佐藤は杉山と調査に出かけた。
 町の中心部の歓楽街で、飲食店を歩いて回った。ひと晩に、二〇軒は回ることになっている。
 あるスナックに、立ち寄った。営業の様子を確かめるためだった。
 夜中の八時近かった。通りは闇に包まれている。飲食店の看板や照明があちこちに光っている。
 店主らしい恰好の男が、入り口の前に立っていた。向かい合って立つ男は、パンチパーマをかけ、鼻ひげを生やしていた。運動着姿で、ズボンのポケットに両手を突っ込んで、大股を開いていた。仁王立ちの姿だった。
 店主と男は、遊戯器械の貸し出しか、買い入れの件で取り込み中のようだった。
 杉山が、店主らしい男に話しかけた。
「すいません。市の税務課なんですが、お店の方ですか? 」
 店主も男も、杉山の方を見た。
「お店の様子を見に来たんですが」
「あっ、そうですか」
 店主はとっさに応じた。しかし、もうひとりの男の方は声を荒げて、どなった。
「てめえ。この野郎」
杉山も佐藤も、その男を見つめた。
「人が話してるとこに、横から突っ込んでくるんじゃねえ」
 杉山はひるんで、二,三歩後ずさった。
 男は杉山より、一〇歳以上若く見えた。しかし、言葉や態度に遠慮はない。大股開きのまま、微動だにしなかった。
「あっ、どうも失礼しました」
 これ以上その場にいると、殴られるかもしれない。
 あっけにとられていた佐藤を、杉山は導いた。
「次、行きましょ」
 佐藤は思った。杉山は、他人に対して礼儀を弁えないところがあるのかもしれない。しかし、他人から脅されて形勢が悪くなると、さっさと手を引いてしまう。要領がいいのか、臆病なのか、自己中心的なのか。

 二月に入り、税務調査は続いた。
 佐藤は、農村地域の高台にある立派な屋敷に行った。室内も立派で、主人の着ている物も異国風だった。主人は、東南アジア人の妻に、市街地の駅前に風俗店を開かせていた。
「おいくつになります? 」
 五〇絡みの主人は、若い佐藤の顔を見て尋ねた。調査の質疑応答とは関係ない世間話だった。
「ああ。私が世界を、放浪の旅をしていた頃の年齢ですね」
 そう言って窓の外の丘陵地帯の風景を眺めた。
「妻とも旅先で知り合ったんですよ」
 佐藤には奇妙に感じられた。ある日本人男性がかつて、青雲の志で世界に旅立った。その男性は今、日本で税務調査を受けて、財布から金を出して、追加で納税しようとしている。
 東南アジアなどの外国人のホステスのいる風俗店は、物珍しさで日本人男性の客を惹きつける。そのため売上げも上がるが、納税が少なすぎることもある。
 三月のその日に佐藤の出かけた先も、外国人風俗店の店主の自宅だった。近くに田んぼの多いアパートだった。店は市街地の歓楽街にある。
 まだ若い店主だった。羽振りの良い紳士には見えなかった。訪問したときは、運動着姿で、即席ラーメンを食べた後のようだった。
 佐藤たちが台所に入っていくと、数人の女性が勝手口から奥の間へ出入りしていた。ホステスたちは、狭い部屋に共同で住んでいた。どの女性も小柄だったが、容姿が整っていた。佐藤たちには理解できない言葉を盛んに話していた。
 店主によると、ホステスたちは、本国ではタレントとして養成されているらしかった。まるで店主が女性たちを囲っているような雰囲気だった。
 窓からは、のどかな田園風景が丸見えだった。その殺風景な風景と、タレントたちの美人顔が不似合いに思えた。

 その後、佐藤は職場で初めて、人事異動の時期を迎えた。勤め人は、辞令一本で知らない職場に飛ばされる。気にとめていたが、一年目の佐藤には辞令は出なかった。事務所では、恒例の送別会が行われた。佐藤は、職場や人事異動の人間観察は面白いと感じた。
 平田から連絡があった。遠藤は、ある教授の履修の単位が取れそうになかった。その単位がもらえないと、また一年留年してしまう。それで、教授のところに、父親と一緒に、高い日本酒を持って頼みに行った。
 ところが、教授は、成績の書き換えを親子で頼んでくる態度に憤慨した。「帰ってくれ」と父子を追い返した。結局、遠藤は二年目の留年生になった。それでも、ふさぎ込まずにバイトをしているという。
 遠藤本人からも手紙が届いた。
 二回目の留年が決まり、意気消沈している。授業料と実家への入金のため、バイトしている。一日一二時間働いている。でも、女とギャンブルに夢中になる中年の会社員たちに囲まれている。今のバイトは、そのうち辞めようと思う。

 桜の開花する四月になり、花見の場所が人々の話題になっていた。
 春になって軽装の女性が目立つようになった。職場では、タンクトップやホットパンツでやってくる会計事務所のきれいな女性が、佐藤の目を惹いた。
 佐藤の社会人二年生の年が始まった。
初年度は、勤め先の内部も外部も含めて、いろいろな人と出会い、付きあった。初めて覚える仕事が、目の前に次々と出てきて、その対応に追われた。
 何らかの圧力をかけるくる団体や特異な人種を相手にすることがある。職員たちは骨が折れて、ストレスがたまる。特に若い職員は相手から見下される。
一時期、職場では、退職者のバーンアウト症候群が話題になった。自分が退職した後も、仕事というものは続く。個人は組織の中の歯車に過ぎない。仕事に精励するのはいいが、そのことを自覚しよう。そのために健康を損ねないように注意しよう、と佐藤は思った。
それでも一年が経って、職場での生活は何とか落ち着いてきた。担当の仕事にも慣れてきて、気分的に少し楽になった。

 ある日、佐藤は、井上という先輩と組んで、調査に行った。飲食店の店主は、三五,六歳の男だった。先輩の井上が、様々な理由から納税の額が足りないと伝えた。その場で、店主は怒りを表して怒鳴った。
「そんな金は、払わねえよ」
 杉山は、事務所に戻った井上から事情を聞いた。
「私の手には負えませんから、係長にお任せしたいんですよ」
 同行した佐藤は、新人で若くて、要領を得ない。
 杉山は電話を店主にかけた。相手は、がみがみと文句を言った。杉山は頭を抱えながら、言葉は丁寧に説得を続けた。時間をかけて、何とか相手を納得させた。
 苦労して電話を終えた後で、佐藤に向かってしみじみとした顔つきで言った。
「けんかするわけにはいかないから、我々としては、ずっと我慢するしかないんだよね。佐藤さんが、これから、こういう仕事で三〇年も働くんかと思うと、気の毒になっちゃうなあ」
 佐藤は、五〇歳を過ぎて白髪が出て、顔に皺の寄った杉山の顔を見た。苦笑いしながら思った。
 できればそんな生活は送りたくない。しかし、仕方がないだろう、世間では誰でも働いている。いやなこともあるだろう。一生懸命働いて、気がつくと年を取っている。一家の主は家族のために働き続けて死んでいく。
 一方で、杉山とは違う見方も出来るのではないだろうかと思った。人生は悪いことばかりではない。良いこともある。

 振り返ってみると、貴美子と別れて、とうとう一年が過ぎた。貴美子との出会いと別れで、自分の本当の恋は終わったと感じた。もはや、この恋愛問題は、貴美子からは離れて自分だけのものになった。
 そのうち、一年三ヶ月が過ぎた。
 佐藤の心の中で、もはや会うことのなくなった貴美子は、一種の幻影になった。
 しかし、不思議なものだ。目に映る、現在の、周囲の女性たちの多くは、おれの興味をあまり引かない。ところが、目に見えない、過去の思い出の貴美子が、おれを今でも強く魅了する。
 思えば、例え貴美子と結ばれて幸福に暮らしても、やがて、離別か死別の時が来る。そして、現在の時間は、刻一刻と過去の時間になっていく。
 それならば、いつでも好きなときに、心を時間の中に飛ばせて、過去を、再び現在と同じ時間に変質させることもできるのではないか。そうなれば、夢の中で、幻想の中で、自分が死ぬときでさえ、またその時代を生きられる。貴美子との恋を体験できることになる。
 夢の中に、貴美子が後ろ姿で現れた。そのまま去っていった。せめて結婚の知らせでも届けば、諦めもつくものを、と思った。 

 五月のある夕方、加藤が収税課の方で騒いでいた。加藤は、富田が転出したあとに、佐藤の係に入ってきた。黒縁のメガネをかけて、細身で、紳士然としたところがある。
「川崎さんには、参ったなあ。おれの名前、言っちゃうんだもん」
 小太りで機転の利く川崎は、加藤が収税課にいたときの後輩だった。
 収税課は、その日、滞納者あてに電話催告を行っていた。期限までに税金を納めず、しばらく経っている人に、職員が催促の電話をする。
 川崎は、言い訳する。
「いや、だから、税金、納まってないんで、良くないことですから、納めてくださいって言ったら、何、てめえ、名前、何てんだって、聞かれたんですよ」
「じゃあ、自分の名前、答えればいいじゃねえの。自分で電話してるんだから……」
「いや、だから、記録表に、担当、加藤って書いてあったから、加藤って答えちゃったんですよ」
 加藤は呆れて、はっはっはと笑った。川崎も気の強い方で、加藤を上目づかいに見て苦笑いした。
「おれはもう、担当は外れたんだから……。そこは、危ないとこだよね? 」
「そうみたいですね」
「おれの名前、相手に覚えられちゃうよ」
 滞納者の中には、暴力をふるうような、危ない人物や組織もある。行政に圧力をかける団体もある。
 税金の賦課、徴収は、合法的な行為だ。しかし、担当職員が、度を過ぎた精神的、肉体的な損害を受けては、元も子もない。警察のような犯罪対処の権力も能力も、元より持たない。職員たちには、ただ業務を進めるだけでなく、臨機応変な態度が求められる。
 佐藤も、税務の仕事に嫌悪を感じていた。職場で他人を相手にして、緊張感を覚えることがよくあった。手の震えがある。マージャンでも、税務調査でもそうだった。以前から続いていた。社会人の始まりの時期も影響していたのか、精神的な不安定を、ときどき感じていた。

 遠藤から手紙が来た。新聞配達を始めた。夜型から朝型に変わった。
 平田も便りをくれた。
 野口は、新聞社の山奥の出張所で、所長と男二人で暮らしている。自分は女性問題で孤独を味わった。人は寂しさをいやすために、恋愛、結婚をするのだと感じる。
 実社会の人たちは、自分たちと違って芸術に関心が薄い。フランスにもヨーロッパにも、あまり関心がない。学生時代が懐かしい。ひとりでヨーロッパを旅行して歩いて感じた。
 美智子も、手紙をよこした。
 大型連休は、家族と中部地方に旅行した。佐藤とは、自分の町で会えなくて失礼した。
 野口とのことは、今では夢のようだ。かつて自分は、ミキオがいたのに野口の方に行ってしまった。大学卒業前には、また別の同級生とお付き合いをした。
 野口は、三年生の秋に、音大の女子学生との合コンに出た。そのことが、自分には大きなショックだった。その時に、その同級生が、東京に会いに来てくれた。それから付き合いを始めた。
 今は、誰とも結婚したいとは思わない。
 佐藤は、この話を知って、気まずかった。佐藤もこの合コンに出ていて、美智子もそのことを知っていた。

 六月に入り、佐藤があるピンクキャバレーに調査に行った時のことだった。立ち会っていた男のひとりが、困った顔つきで言った。
「隣の店から用心棒代を払えって言われているんですよ。払うのは払うにしても、そういうのは、経費で落ちますか? 」
 税務事務所から見ると、どちらも要注意の風俗店だった。
 同行の先輩は、自分たちの扱っている税金は、所得ではなく売上げにかけているものだから、経費で落とすという考え方とは関係がない、と説明した。

 佐藤は、時が次から次へと流れていくのを残念に思った。もう二五才になろうとしていた。希望も実現せず、恋愛もまとまらず、結婚の予兆もない。
 生活が忙しくて、仮眠をよくとった。不意に下宿時代と同じように、夜中に目覚めた。深夜で、鳥の鳴き声、犬の遠吠えが聞こえた。
 自分は女のことばかり考えて、女ばかり望んでいるような気がした。
 そんなある日、珍しくひょうが降った。

 七月に入ったが、事務所は、夏の盛りを迎えても、クーラーの設備がなかった。扇風機が大きな音を立てて、あちこちで回っていた。外から入ってきた客が、驚いて言った。
「今時、役所なのにクーラー、入ってないのかい? 」
 佐藤はその日、先輩の井上と一緒に調査に出かけた。
 調査には、店主の隣に担当の税理士が立ち会っていた。どこかで高い地位で退職したらしい元税務職員だった。
「どうも、そちらさんのやり方は……」
 調査が進むと、市の調査の方法を批判し始めた。そのうち、自分の現役時代の経験を、引き合いに出して自慢した。井上は、いらいらしてきて、抗議した。
「税理士さん、随分と高圧的な態度ですね」
 二,三日後に、本庁の人事課から事務所に連絡が入った。相手の税理士が、井上と佐藤の二人を左遷させろ、と言ってきたと言う。職場では小さな騒ぎになった。
 人事課の担当者が、事務所に事情を聴きに来た。結果的には、人事課も職場の上司も、二人を批判することはなかった。人事課は、職員に非はないということで、この件は対処すると連絡してきた。佐藤と井上は安心した。
 係長の杉山は、佐藤にその場の様子を尋ねた。
「私は、ほとんど黙っていたんです。井上さんが主に話をしますから……」
「どんな話の具合になったの? 」
「井上さん。テーブルを叩いたんですよ」
 杉山は、少し驚いた顔をした。
「あっ、そう。ドンで叩いたの? 」
「ええ、ちょっと、まずいかなあ、と私は思ったんですけど……」
「それは、相手に対して良くなかったかな? 」
 杉山は首をかしげた。
「バーンて叩いたの?」
「まあ、バーンていうより、ドンて感じです。興奮していたんですよね。私も、随分この税理士は、いちいち文句を言うなあと思っていました」
「井上さんも、頭はいいんだけど、正義感の強いところがあるからね」
 佐藤は苦笑いした。
「私なんか、左遷させろってと言われたって、今は末席みたいなところにすわっているんで、いったい、ここからどこに左遷させられるのか分かりませんよ」
 佐藤の苦笑いに、杉山も笑った。
 佐藤は改めて、税金屋はいやな仕事だと思った。仕事のときの対人的な震えは、しばらく続いた。

 八月に入り、二人の課税課の職員が、収税課の手伝いで、あるところに納税の指導に行った。現金で受領して戻ってきた。主人が不在で、妻が支払ったとのことだった。
 後で主人から電話がかかってきた。その言い分はこういうものだった。
「女子どもを脅して、金取って、何が面白いんだ。おれがいたら、払ってない」
 差し押さえなどという刺激的な言葉を、職員は出したようだった。妻は、それで不安になったらしかった。
「元々、払わないこと自体に、法律上の問題があるんですから」
 担当課長に事情を聞かれた職員は、そう答えた。
 職場では調査の日々が続いた。
 相手にいくらの税金をかけるか、佐藤の悩みは続いた。風俗店の経営の実態は、不可解だった。経営者は不気味だった。ホステスには、日本人も外国人もいた。外国人が日本人と少し違う表情で、片言の日本語を使うのを見ると、奇妙な感覚を覚えた。

 佐藤はもう、見合い話が持ち上がる年齢に達していた。同年代の友人の何人かは、男ひとりの生活を、既に卒業していた。
 昔の仲問から、突然に結婚式の紹介状が届いた。中学校の同級生だった。
 佐藤は、ひとりでドライブして帰った後だった。土曜の午後の晴れ上がった天気に、喜ぴを感じていた。
 結婚の被露宴は盛大に行われた。お色直しして現われる新郎新婦の姿は、さながら何かのショウの主役だった。本来、一組の男女が契ることに意味のある結婚が、その形式面だけが強調されていた。ふたりの主役は、好意的な視線の中で、見せ物になっていた。
 そんな中にも、一大決心をした真剣さが、友の表情に読みとれた。学生の頃は、よく駄洒落を言って、人を笑わせていた友人だった。
 佐藤は想像した。友人は抱擁の中に、女の生きた息使いを感じた。その女を、誰よりも親しい人間にしようと、本気で考えたのだろう。
 同じく紹待にあずかった数人の旧友と、式の終わったあとで、喫茶店に入った。お前はまだか、と言い合ったとき、一抹の寂しさを、佐藤は感じた。それは、友人たちのように、先に置いてけぼりを食った寂しさとは違っていた。
 そうではなくて、皆が徐々に身を固めていくうちに、共に生きた時代が過ぎていくことへの口惜しさだった。友情が恋情に匹敵する時代もある。そこには、確かに、二度と戻らない、語り尽せない貴重な時間が流れていた。

 あとで、よくできたショウの主役のひとりに会ったら、笑いながら月並みなことを言われた。
「佐藤ちゃんは、理想が高いんだろう? 」
 そういう見方をすれば、同級生は妥協したということになる。
「まだ失恋のショックから立ち直れないんだよ」
 佐藤は苦笑いして、お茶を濁しておいた。
 しかし、独身でいることの特別な理由など、何もなかった。理想が高いと言っても、高が知れている。その高さを他の男たちは低いと思うかも知れない。相手にも理想があるからこそ、相思相愛で結びつく男女は幸運なのだ。相手を見つけてしまった友の顔に、仕事をひとつ終えた人間の安堵と余裕に似たものが窺えた。

 佐藤は、大学時代への未練を覚えた。夏の夜に、自宅で祭ばやし、カエルの声、蝉の声、農機具の音を聞いた。田舎の風物の雰囲気に、それと対照的な都会の大学の学問的な雰囲気を思い出した。田舎に戻った時は、人生の転換期だった。
 しかし、思い直した。仕事の最中は、自分が都会にいても田舎にいても関係がない。田舎の自然も、都会の町も忘れてしまう。
 自分の居場所を気にかける人もいる。しかし、気にかけない人もいる。その人は一度だけの一生で、どこで生きるかでなく、どうやって生きるかを考える。
 若干二五才の今の自分の身の上を思う。これからどこに行くのか、どんな生き方をするのか。 

 九月のこと、阿部と長谷川が実額調査から戻ってきた。
「いやあ、きょうは参りましたよ。はっはっは」
 阿部は席に着いて間もなく、杉山係長に向かって言った。
「うん。どうだった? 」
 杉山は興味深げに尋ねた。
「いやあ、結構きつかったですよ。なあ、長谷川」
 長谷川は白い歯を出して、苦笑いしてみせた。
「いやあ、一時はどうなるかと思いました」
 あせったような顔つきで、目をぱちくりさせ、肩を上下させた。
 杉山は、訴えるような目を向けた。
「何だい? 怒ったの? 納得しないって? 」
 阿部は口を開いた。
「それがですね。追加で納めてもらうことになるかもしれないって言ったんですよ。そしたら、何だよ、そらあって言って、包丁、投げたんですよ」
 杉山は驚いて、目を大きく開いた。他の係員も顔を上げて、阿部に注目した。
「包丁? ぶつけるように投げたんですか? 」
 佐藤が心配そうな顔つきで聞いた。
「いや、それじゃあ、刺さっちゃうからさ……」
 阿部は首を振って、笑いながら否定した。あきれたような顔を、佐藤に向けてから、下を向いた。長谷川が言葉を継いだ。
「カウンターの上に、手元にさっと投げ出したんですよ。こんな感じで……」
 長谷川は、机の上に鉛筆を軽く投げて見せた。
「でも、包丁ですよね? 」
 佐藤が聞いた。阿部は冷静な目つきで言った。
「あれは肉切り包丁ってやつかな? あの、柄の部分が太くて、しっかりしているやつだよな」
 佐藤が目を細めて、阿部を覗き込んだ。
「あぶないじゃないですか? 怪我でもしたら……」
 杉山が言った。
「それじゃあ、長谷川さんなんか、まじめだから、びっくりしたでしょう? 」
「いやもう、あぶないと思いましたよ」
 長谷川は血相を変えて言った。
「阿部さんは図太いから、まあ、そんなにねえ? 」
 杉山がからかうと、阿部は笑いながら、ふてくされた顔をした。
「それでどうしたの? 」
「いや、とりあえず、その場は仕方ないんで、失礼しますって言って、帰ってきましたよ」
長谷川は付け加えた。
「逃げ出したくなりました。こんなことで包丁なんかで怪我でもしたら、たまんないですよ」
 杉山は一呼吸置いた。
「いばってんの? その人? 」
「まあ、気は強そうですね。短気なんだか、金を払うのがいやで頭に来たんだか、両方でしょうね」
 長谷川は神経質そうな苦笑いを見せた。
「もうお店に入ったときから、何しに来やがったって感じですから」
 阿部も付け加えた。
「にこりともしなかったよな」
 杉山は別の見方をした。
「ああ、そう。二人は若いから、なめられちゃったんかな? 脅されたんだね。脅すのも悪質だけど」
 先輩の加藤は、冷静な観点で意見を口にした。
「しかし、それは場合によっては公務執行妨害とか、脅迫罪とか、そうなる可能性もあるよ。警察が入ってくると……」
 杉山は聞いた。
「包丁は、まな板の上に、ただ置いたって感じじゃなかったんだね? 」
「あれは、置いたんじゃなくて、投げたんですよ。なあ、長谷川」
「そうですね」
 二人は笑いながら、顔を見合わせた。
「だけど、ちゃんと納めてないんでしょ? 」
 杉山の表情が険しくなった。
「まあ、似たような店と比べると、大きく下回ってますね。とても考えられない金額ですよ」
 杉山は阿部の示した資料を見て言った。
「そうだよね。資料の照合結果は? 」
「一致しないですね」
 杉山は腕を組んだ。
「そういうところは、なおさら、きっちりと納めてもらいましょう。相手を脅せば税金が安くなるとか、ごね得だ、なんて、考えられたんじゃあ、困るもんね」
 杉山は、若い部下のかたきをとってやりたいと思ったか、責任者の立場を自覚したようだった。しかし、ひと言付け加えた。
「客入りはあんまり良くないのかなあ?」
 阿部は思い出すように、宙を見やった。
「景気は確かに良くない感じですね。何だか、かかあに逃げられてひとりだ、なんて言ってましたから……」

 しばらく経って、阿部は一週間くらい、仕事を休んだ。通常は、一週間は長すぎる休暇だった。
 仲間うちの話では、以前から続いていた女性関係の悩みが原因らしかった。付き合っていた恋人と結婚しようと決めた。しかし、相手の親から結婚を反対され、悲嘆に暮れて、落ち込んだ。仕方なく泣きながら別れたという。仕事をする気になれなかったらしい。
 阿部は、器量の良い恋人と男女関係を持つ間柄だった。確か、相手の親から、公務員は好きではないと言われていた。佐藤も、そのことは噂で知っていた。しかし、そこまで思い詰めていたとは知らなかった。
 阿部は一週間経つと、仕方なく仕事に復帰したようだった。
 しばらくして、佐藤は阿部に誘われて、他の仲間と共に阿部の姉の家に泊まった。新築したばかりだったが、姉の夫の転勤で空き家になってしまっていた。
 阿部は、憂さ晴らしでもしたかったのか、冗談を言って、酒を飲んで騒いでいた。
 佐藤は何かの拍子に、失恋の話題をさり気なく出した。
「もうガミガミ言われるのはたくさんだよ」
 阿部は、強がりなのか、見切りをつけたのか、はっきりと言い放った。
 佐藤から見ると、職場の一部の人々は、純朴だが粗野に見えた。仕事については、少しでも量が減り、休みが増えることを願った。自分も含めて仕事に追われて、緊張してストレスを感じている職員が多かった。

 貴美子と会えなくなって一年半が過ぎた。別れに涙を流し、去っていく姿をずっと見つめていた頃の自分に戻りたいと思った。やはり、貴美子と結ばれない運命は理不尽だとひしひし感じる。
 おれは、月に一度くらいの割合で、大学時代を過ごした都会に訪ねていく。そこで、自分の青春時代が失われてしまったことを実感する。貴美子を回想し、貴美子に手が届かなくなってしまったことを痛感し、絶望感を味わう。

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