November,1986

文字数 2,210文字

 酔っ払っていた。ただ眠かった。からだが鉛のように重くて、眠りの底に沈んでいくのがわかる。今日はなんだか知らないけど、とにかく酔っ払っていた。軽音楽部のコンパでこんなに酔ったのは、真鍋さんと星野さんが、そばにいる安心感のせいかもしれない。とにかく今日は連れて帰ってくれる人がいるという甘え。真鍋さんの仲良しの吉尾さんの車に乗ったと思った次の瞬間には車が停まって、アパートのドアまで、真鍋さんに手を引かれてきた。ドアの中で電話のベルが鳴り続けていた。いつの間に渡したのか、真鍋さんはキーを使ってドアを開けてくれた。電話が誰からか大方の見当はついた。出たくない。しかし、いつまでも鳴り続けるだろう。真鍋さんは「電話だよ。」と言った。わかってます。
「はい。河相です。今、酔っ払ってますから、また今度。」
 相手は切らないでと懇願した。
「勘弁してください。吐きそう。」
 わたしは嘘吐きだ。とっくに酔いなんか吹き飛んでいた。でも、今夜はこのまま酔っ払ったまま眠り込みたかった。特に斉藤さんからの電話に邪魔されずに。すがってくる男は好きじゃない。
 真鍋さんは風呂場から洗面器を持ってきた。真鍋さんに電話を代わってもらいたかった。でも、そんなこと出来ない人だって知っている。もうすぐバンドをいっしょにやって一年を迎えようとしている。それくらいのことはわかる。電話の相手に二十分後と言って、納得させて切ってから、わたしは留守電のスイッチを入れた。
「ひでぇの。」
 真鍋さんは言った。それから、わたしのコートを脱がすとハンガーにかけ、ベッドの布団を持ち上げてくれた。わたしは転がり込んだ。からだは確かに酔っ払っていた。
「大丈夫?」
 大丈夫じゃない。真鍋さんはわたしのからだに布団をかけた。シワにならない服を着てて良かった。
「じゃあ、気分悪くなったら洗面器に吐きなさいね。」
 わたしはうなづいた。優しいんですね。酔っ払いに。
「じゃ、星野たち待ってるからもう行くね。おやすみ。」
「どうも、すみません。」
 真鍋さんは電灯を消して出て行った。外から鍵をかけて郵便受けから中に落とす。何から何まで、有難うだこと。
 布団の中に潜り、断続的なベルの音を子守唄にグッスリと眠りに落ちた。
 斉藤さんは納得していない。当然と言えば、当然かもしれないけど、「バンドに専念したい。」と言えばわかるはずだと思っていた。斉藤さんがわたしを好きになった時に、付き合っていた女性に使った別れの口実だ。人間は、自分の信じたいことしか信じないらしい。斉藤さんだとて例外ではない。いくらわたしより四つも年上の二十五歳だったとしても。斉藤さんはわたしの言葉を額面通りに受け取ろうとしていた。わたしが斉藤さんのアパートの鍵を送り返したのは、バンドに専念するのに男が邪魔になったのだと。そして専念したいバンドにわたしを送り込んだのは斉藤さんだった。斉藤さんの公私混同的エコ贔屓が、キーボードに関してまったくの初心者のわたしが、プロ級ドラマーの番さん率いるフュージョンコピーバンドに在籍するという暴挙を成し遂げたのである。考えてみれば他のメンバー、番さん、星野さん、真鍋さんたちにしてみれば、大変なお荷物を背負い込まされたものだ。斉藤さんは、たった一度のステージを共にして卒業してしまうのだから。卒業間際に口説かれた時には、少なからずショックを受けた。斉藤さんを先輩として、ギタリストとして尊敬していた。ずいぶんと可愛がってもらった。結局は下心だったわけね。斉藤さんが、故意であったにせよ、なかったにせよ。まあ、結果として、わたしは到底望めないような人たちとプレイするチャンスを与えられたのだから、そのことに関しては感謝しても、感謝しすぎるということはないだろう。番さんたちとの出会いは、わたしの音楽に対する姿勢に少なからず影響を及ぼしているし、人間としても大変な幸運だった。
 今だって、わたしが斉藤さんという先輩に出会えたことは、幸運だったと言わずにはいられない。先輩として、人間としては愛すべき人だった。だからこそ、斉藤さんに求愛された時も、わたしは人間として、後輩として、ノーと言えなかったのだ。付き合っていれば、恋だって芽生えるかもしれないじゃない。事実、斉藤さんに恋していると錯覚し始めていた頃もあった。
 でも、生まれて初めて(ちょっと遅すぎるような気もするけど)本当の意味で、(本当は、何が本当かなんて誰にもわからない)彼という人に恋し始めて、斉藤さんに対する気持ちがニセモノだということに気付いてしまった。わたしは、斉藤さんのような人を恋人としている自分ってやつを気に入っていただけなのだ。
 彼という人を「好きなんじゃないか」という気持ちが、本物だとわたしが判断した根拠は、わたしの行動にある。わたしは、たいていの場合、やってしまった行動を体系付けて心理を決定する。わたしは、彼といっしょにいたいと思い始めた頃から、わたしがノーと言えない性格であるがために、曖昧にしてきた男たちとの関係をすべて、スッパリと切らなくちゃいけないなんて思い始めたのだ。今回の鍵返却事案もその一つである。

 翌朝、わたしは三十秒ごとに細切れの留守録テープを三十分も聞く羽目になった。斉藤さんはわたしの卒業まで待つという結論に達したらしい。あと二年以上もあるから、そのうち新しい相手が現れるでしょう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

河相 語り手

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み