第16話 悔やむには遅すぎて(後編)

文字数 3,974文字

「もう……許してください。いつまでもこんな事を続けるのは辛いんです」

 貴郁に呼び出されたいつものホテルの一室。
 裕香は全裸でベッドに腰掛けて居る貴郁の前で、土下座をしていた。
 
「良いんですか? あなたが口でオレのものをくわえてる写真や動画。それにオレのを受け入れてるやつとかも全部、拓人に送りつけることもできるんですよ」

 貴郁はまたか……とでも言いたげな顔で、土下座をする裕香を冷たく見下ろしていた。

 アノ日の出来事のちょうど1週間が過ぎた頃、貴郁は裕香のスマホから得た彼女のアドレス宛に、1通のメールを送っていた。

 『行為の写真を持っている。バラされたくないなら、前と同じ喫茶店に来い』
 
 そのメールに従って、裕香は喫茶店に来ていた。
 眼の前に座る貴郁を親の仇でも見るような眼で睨みつける。

「卑怯者……、こんな脅しをするなんてあなたを見損ないました」

「見損なう? どんな理由があっても、夫以外の男とホテルに行ったアナタも同罪ですよね。文句があるならこれを拓人に見せましょうか、あの時何があったのか詳細に伝えて……それで拓人が問題ないと言うかどうか」

 ニヤニヤと笑みを浮かべて、裕香が自分のモノを加えている写真を表示したスマホの画面を見せる。
 それを見た裕香は顔から血の気が引いてしまい、それ以上の悪態をつくことができなくなっていた。

「どうすれば……良いんですか……。どうすれば拓人に黙っていてくれるんですか」

「始めてみたときから、アナタみたいな美人とやりたいと思ってたんですよ。どんな声で哭くのだろうか、どんな反応をするのだろうか……、こんな美人としたことがないからね、ずっとそんな妄想をしてたんです」

 突然そう言い始めた貴郁。
 何が言いたいのかと怪訝そうな顔で貴郁を見る裕香。
 わずかばかりの沈黙が流れる。
 そして貴郁はゆっくりと口を開いた。

「飽きるまで……というと流石に拒否されそうなんで、妥協しましょう。週2で3ヶ月。オレに抱かれてくれたら、この画像も何もかも全部消去して、あなたを開放してあげます。それでどうですかね」

 その言葉に抵抗することが出来ず、裕香はその提案を受け入れるしかなかった。
 しかしそれでも何とかならないものかと足掻いた結果、ことが終わった後この様に貴郁に土下座して懇願するというのが毎回のパターンとなっている。

「まだ1月ですよ。まだまだ残り期間があるのに何を言ってるんですか。それとも動画をばらまいてもいいと」

 そういわれると、裕香はそれ以上何も言えなくなり、黙って服を身につけると貴郁に何も告げずに部屋を出ていく。
 それもまた、いつもの彼らの行動パターンだった。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「裕香おかえり、遅かったね。今日はたまたまオレのほうが早く帰ってきたから、久々に晩飯作ったよ。さぁ……手を洗ってきたら一緒に食べようか」

 玄関を開くといい匂いが立ち込めていて、裕香は嬉しい気持ちと同時に罪悪感を感じて、焦る気持ちを押し殺しながらリビングを覗く。
 そこには着替えを済ませてスエット姿になっていた拓人が、キッチンとの間を動きながら居た。

 アレから、裕香は拓人の浮気について、問いただすことは出来ていない。
 自分自身が、貴郁の罠にかかり、望まないまま身体の関係を持っていることが、彼女の口を重くし、そしてそんな時間が積み重なってしまってからは、罪悪感のほうが強くなり、聞くことができなくなったのだ。

(あの時、頭が……心が……ぐちゃぐちゃだったからって、なんであんな誘いに乗ってしまったのだろう)

 そんな後悔が常に浮かび上がり、自分自身がとても汚い存在になったような気持ちになる。
 自分はもう拓人の隣に立てる女じゃないのではないかと思ってしまう。
 
「ごめんなさい……少し気分が悪いの……先に寝室に向かうから……」

 裕香はそう行って引きつった笑みを浮かべると、リビングを後にする。

 裕香の態度に違和感を感じたものの、あの裕香が嘘を言うはずもないと思い、拓人はとりあえず出来上がった料理を食べることにした。

 そして食事を終えた拓人は、残り物をタッパーに移し替えて冷蔵庫にしまい、軽く洗い物を済ませると時計を見る。
 アレからかなり時間が経過していることに気が付き、すこし裕香の様子が気になったので彼は寝室に向かうことにした。
 2度ほど扉をノックしてみるが反応がない。
 裕香と呼びかけてみるが返事はない。

 もう寝ているのかなと思い、寝室の扉を開けた拓人は、風を感じた。
 寝室で何故風が……という疑問はすぐに解けた。
 寝室の窓が全開になっているからだ。
 どうしたのかと疑問に思い、再度妻の名を呼んでみるが返事がない。
 違和感を感じて寝室の扉横に有るスイッチを操作して、灯りをつけてみるがそこには裕香の姿はなかった。

 もう一度部屋を見回してみると、拓人は違和感を感じた。
 全開の窓から入り込む風で、レースのカーテンが揺れている。
 この時間は遮光カーテンを引いているはずなのに、レースのカーテンだけしか閉められていない。
 あの几帳面な裕香が何故という疑問が湧き上がる。
 あまりにも異様な事態に、せめてなにか情報はないかと部屋の中を見回す拓人は、ベッドサイドボードの上に有る目覚まし時計の下に、一枚の紙が挟まれているのを見つけた。

「ごめんなさい……私はあなたが浮気をしたと聞いて、あなたの同僚に相談をして、その結果その人と関係を持ってしまいました。一度だけ……男の愛し方を知るため、そういわれて私は不義を犯してしまいました。それ以降も、その時に取られた画像で脅されて結局私は何度もその人に抱かれてしまいました。こんな私があなたの隣りにいる資格はありません……ごめんなさい、そしてさようなら。本当に拓人……あなたのことだけを愛していました」

 幼い頃から書道をしていたと語る裕香の文字はとても美しいと拓人は思っていた。
 しかし今、目の前の紙に綴られた文字は、たしかに美しいものではあったが所々が細かく波打っていた。
 それは裕香の感情の揺らぎがそのまま文字に反映されているように見えた。

 そして全ての点と点が線でつながる。
 書き置きのような手紙。
 開かれた窓。
 姿の消えた妻。

 ズボンのポケットから慌ててスマホを取り出しながら、窓際に駆け寄る。
 二人の暮らす部屋はマンションの10階……もし自分の予想が当たっていたとしたら……。
 手が震えてダイヤルキーがうまくタップできない。

 結城拓人はこの日、生まれて初めて絶望という言葉の意味を知った。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「拓人……今日は結構忙しいのに、こんなところに呼び出してどうしたんだ?」

 裕香が自室から飛び降りてその生命をちらしてから2週間の時が過ぎていた。
 拓人の精神的な傷は深く、会社で設定されていた忌引き休暇だけでは足りず、残っていた有給を無理を言って投入して、何とかそれだけの期間の休みを取り付けて、そして久々に出社したその日の昼に、拓人は貴郁を会社の屋上へ呼び出していた。

「貴郁……俺は全部知っている。なんでこんな事をした」

 裕香を失ってから、ろくな睡眠を取ることも出来ず、まともに食事もできなくなった拓人は、コケた頬と窪んだ目ですごみのある表情のまま貴郁を睨みつける。

「なんだ……全部バレていたのか。お前が悪いんだ拓人。あんな美人な嫁をもらっておきながら、他の女に手を出して。俺はそれで傷ついていた裕香を救ってやるつもりだった。だが……あんな極上の女、手放せるわけ無いだろう……どんな手段を使っても、手にれたいと思うのは普通だろうが」
 
 開き直りとも取れるふてぶてしい言葉で貴郁は拓人に言った。

 言っている内容はしかし、貴郁の本音だった。
 ひと目見たときから貴郁は裕香に魅了されていた。
 しかし大切な友達の嫁なのだからと、二人を祝福した。
 だが拓人の浮気を知ってしまって、タガが外れてしまった。
 そして一度抱いてしまえば、手放せなくなってしまった。
 それが破滅への道筋だと知っていながら、止まることができなくなっていた。
 どんな卑怯な手を使っても、繋がっていたいと思ってしまった。
 それが間違っていると解っていても、止めることが出来なかった。

「そう……だな、俺の罪でもある。だが裕香を追い詰めて、結果として死なせたのはお前だよ貴郁。お前のその欲望が、お前の愛する女を死なせたんだ……。俺は俺の罪を精算する、だがお前も罪を償え……」

 言うが早いか拓人の身体が踊る。
 貴郁との間の数歩を一瞬とも言える速さで詰め寄り、その腹部にナイフを差し込む。

「たく……と……」

 腹部を襲う激しい痛み。
 身体に加わる衝撃。
 口の中に広がる生臭い、鉄の味がする香り。
 貴郁の意識はそこで闇の中に落ちた。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「そうか……かけ違えていたのか俺たちは……」

 眼の前に地面に倒れる貴郁には目もくれず、拓人は空を見上げていた。

「そんなつもりじゃなかったのにな……ちゃんと話し合えばよかったんだな」

 貴郁の周囲に赤い血溜まりが広がっていくが、拓人はそれを一切気にしなかった。
 乾いた音がして、拓人の手からナイフが落ち、それはコンクリートの上で血の色の鈍い光を放つ。

「裕香……裕香……裕香……俺がお前意外を愛するわけないって、言ってればよかった。俺の抱えていた不安をちゃんと伝えればよかった。裕香……愛してる……ごめん裕香……お前に伝えられなかった弱い俺を許してくれ」

 うわ言のように呟きながら、拓人はフェンスをよじ登り、そしてその一番上にたどり着く。

「裕香……」

 小さく名を呼んで、拓人はフェンスからその身を投げだした。
 太陽の光を遮り薄暗く口を開いた、ビルとビルの間にできた空間へ……。
 
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