不条理な世界のただ1つの救い

文字数 4,504文字

 ビルの間を吹き抜ける風が、俺の身体を持ち上げようとするかのように吹き付けてきた。
 舞い上がったほこりが目に入り、俺は目を閉じる。
 
(最後までしまらないんだな……)

 ぼやきにも似た気持ち。
 1つだけ息を吐き、そして隣を見る。
 彼女は俺に向かって、ぎこちなく微笑んでくれた。

「俺たち……何で生まれてきたんだろうね」

 ぽつりと問いかけてみる。

「わかんない……わかんないけど、貴方に会えたから。最後は一緒に居られるから、もういいよ……」

 硬い表情のままだったけれど、彼女はそう言ってまたぎこちない笑顔を俺に見せる。

「そろそろ……行く?」
「……向こうは、こっちよりマシなのかな……向こうでなら貴方と一緒に笑い合えるかな」

 意味の無い疑問。
 向こうなんてあるはずが無いと俺は言いかけて、でも最後くらい夢を見ても良いのだろうとその言葉を飲み込む。
 彼女の手をぎゅっと握る。
 彼女の手が俺の手を握り返す。

 もう一度だけ視線を交わす。
 彼女は小さく頷いた。
 おれはゆっくりと、だけど大きく、右足を踏み出した。



「馬鹿野郎!なにやってんだおまえは!」

 聞き慣れた罵声の声。
 感情にまかせて理不尽に怒鳴り散らし、人を傷つけるためだけの言葉を紡ぎ出す上司。
 何を言っても、なんと返辞しても、奴が満足するまでこの説教という名のリンチが終わらないことを、俺は知っている。
 だからもう俺は、機械のようにはいとすいませんだけを繰り返し、感情を無にしていた。

 俺が新卒でこの会社に入ってもう3年。
 サービス残業と、理不尽な上司のストレス発散のための説教。
 そして休日なんて名ばかりの存在となっているこの会社に勤め、俺はすでに心を失っていた。
 何もしたくない、何も考えたくない、ただ毎日のルーティンを繰り返すだけの、人間とは思えない人生を送っている。

「たいした大学でもないところを出ている奴は使えないって言ってんだよ!聞いてるのか!」

 お決まりのパターン。
 無能から始まり、学歴を馬鹿にされ、そして人格を否定され、根性がないと言われる。
 決まり切ったワンパターンな説教。
 この説教さえなければ、もう少し仕事が進むというのに。
 そしてこの上司は、自分のストレスを発散するために散々無駄な時間を使っておいて、仕事が遅いと文句を付けてくる。
 
 そんな理不尽な状況がまかり通っているのに、誰もそれを疑問に思わない。
 誰もその状況に異論を唱えない。

 そんな日々を過ごす中で、やがて俺は心を壊してしまった。
 無気力になり、何もする気になれず、会社に行こうとすると手や足が震えて汗が止まらなくなる。
 心臓はあり得なく程の動悸をうち目眩と吐き気で立っていられなくなる。
 その診断書を提出した際に言われたのは一言。

「根性がないからそんなことになる。そんな無能は要らない、さっさとやめてしまえ」

 無慈悲にして非道なその台詞で、俺は仕事を失った。
 それからは何も手につかず、失業保険が切れた後も就業する気にもなれず、貯金だけが削られていき……ホームレスになるまであと少しという状況になってしまった。
 それでも俺は、仕事を探すとか仕事をするという気持ちになることが出来ず、また様々な支援を受けるようにアドバイスされても、それすら億劫に感じてしまい、どうでもいいやという気持ちのままで日々を過ごしていた。

 そんなある日、俺は彼女と出会った。
 近所の公園。
 真夜中に突然目が覚めて、だけど何もする気になれず、しかし眠ることも出来なかったために、なんとなく足を運んだ真夜中で人気の無い公園。
 そのベンチに彼女はいた。

 最初は大きな人形でも捨ててあるのかと思った。
 その時の彼女は、本当にピクリとも動かなかったし、生気も感じなかった。
 恐る恐る近づいた俺は、奇妙な違和感に気がつく。
 彼女の服がボロボロだったのだ。
 
 ボロボロと言っても、いわゆるホームレスが着ている薄汚れてほつれているようなボロボロじゃない。
 力ずくで引き裂いたかのような、ビリビリに破れている服を着ていたのだ。

 その奇妙な光景に俺は思わず彼女に声をかけた。
 だが彼女は、俺の声に反応することもなく、ただ呆然と宙を見ていた。
 よく見ると彼女の唇が小さく動いているのが見えた。

『……して、……だれ……して……もう……たい………」

 小さくて聞き取れない声で何かを言っている。
 断片的に聞こえた単語では何を言っているのかは解らなかったけど、俺は彼女に何か危ないものを感じた。
 破れた服を身に着け、所々肌の露出している彼女の身体に、着ていたコートを掛けて、俺は彼女の手を引いた。
 抵抗するかと思ったが、彼女は自主的に動こうとはしなかったがこちらの引っ張る手には従ってくれたので、俺は彼女を引きずるようにしながら自分の家に連れ帰った。

「何があったかは知らないけど、とりあえずシャワーを浴びて。着替えは俺のスエットだけど用意しておくから」

 俺の言葉に、彼女はしばらく何の反応も示さなかったが、無理矢理彼女の手に俺の部屋着のスエットを押しつけると、やがてゆっくりと、緩慢な動作ではあったが立ち上がり、その場で服を脱ぎ始めた。

「まて!まってくれ!ここじゃ駄目だ。風呂はあっちだから、あっちで服を脱いでくれ」

 俺が慌てて風呂場の方向を指さすと、やはり彼女はしばらくの間動きを止め、そしてまたゆっくりとした足取りでふと場へ向かって歩いて行った。

 しばらくして、シャワーの水音が聞こえ始めたので、俺はようやく安堵のため息を吐いた。
 彼女の身に何が起こったのか……まぁ状況を考えると襲われたとしか考えられない。
 暴漢に襲われ、尊厳を踏みにじられ、心を閉ざしてしまったのだろうかと考える。

『……うっ………ううっ………あぁ……」

 ふと気がつくと、シャワーの音に紛れて鳴き声が聞こえてきた。
 ようやく状況に心が追いついたのかもしれない。
 そんな彼女に俺はかける言葉が見つからず、ともかく風呂から出てくるのを待つことにした。

 風呂から出てきた彼女は、幾分かマシにはなっていた。
 俺は辛いだろうと思ったけど、彼女の話を聞いてみることにした。
 そして、後で聞かなければ良かったと、心底後悔した。
 彼女の半生は、男に襲われて心が傷つけられた……なんて可愛らしいと思えるほどのものだったからだ。

 彼女は中学生の時に、交通事故で両親を亡くしたという。
 借金こそ無かったが、資産もないような状況で、彼女はこの先どうして生きていくかを、親戚を交えて話し合った結果、彼女は母方の叔父に引き取られることになった。
 母方の叔父は、独身ではあったがそれなりに資産を持っており、子供1人くらいなら問題なく養育できるだろうと、自分の所では面倒を見たくないもの同士が、理屈をこね合って押しつけ合った結果決まったらしい。

 叔父の家での生活は、最初はとても快適だったそうだ。
 資産家であった叔父は、彼女が今まで経験したことがないほどの贅沢をさせてくれた。
 欲しいと思ったものは全て与えられ、歳には不相応な美容室やエステなんかにも通わせてくれて、もともと垢抜けては居なかったがそこそこ容姿が整っていた彼女は、つぼみから花へと移り変わるようにどんどん綺麗になっていった。
 そしてそんなある日の夜。
 彼女は自分に告白してきた男子の話、そして交際することになったことを、嬉しそうに叔父に話したそうだ。
 そして叔父も、そんな彼女が嬉しそうに語る姿を、自分のことのように喜んでくれたという。

 だが、その夜。
 彼女の初めては散らされてしまった。
 他ならぬ叔父の手によって。

 叔父は彼女のために美容院やエステに通わせたわけではなかった。
 昔から彼女の母親に横恋慕していた叔父は、母親に似ている彼女を磨き上げて、母親と同じくらいの美しさにしてから、自分のものにするという暗い鬱屈した、邪念を抱いていたのだ。

 それからは彼女は、学校を辞めさせられて、家に軟禁されて毎晩毎晩、叔父の慰み者にされた。
 この先、一生こんな生活が続くのかと思われたが、2年が経過した頃、あきたという理由で彼女は叔父から解放された。
 しかしそれは自由になれたということではない。
 叔父は叔父に媚びを売ってくる者達に、彼女をプレゼントしたのだ。
 何をしても抵抗しない、奴隷人形として。

 そんな日々を過ごしながら、彼女はそれでも自由を諦めなかった。
 だが1年が過ぎ、2年が過ぎ、あきたからとまた別の人間の手に渡り……そんな生活を送る中でもう生きることを諦めかけていたという。
 そしてそんなある日、たまたま鍵がかけ忘れられていたことに気がついた彼女はそこから逃げ出した。
 お金も何もない、ただ着るもの1つだけを手に。
 そうして逃げ延びた先で、寝る場所も食事もない彼女に優しく声をかけてきた男がいた。
 その男の話術にだまされ、実際に食事を食べさせてもらえたことで油断してしまった時、彼女は襲われたのだという。

 そして完全に、人生に絶望してしまったのだと。
 
 俺は彼女の言葉を聞いて、自分の人生を振り返りある決断をした。

【ねぇ、人生がろくでもないもの同士、一緒に死のうか……】

 そんな俺の突拍子もない提案に、彼女は心の底からとでも言いたげな満面の笑みを浮かべて、うんと頷いた。

 その後俺たちは、近くにあるこの辺りでは一番高いオフィスビルに来ていた。
 20階建てのビル。
 その屋上に立っていた。
 フェンスを協力し合って乗り越え、40cm程度の幅のスペースに並んで立っている。

「ね……貴方は生まれ変わりを信じる?生まれ変わっても同じような人生ならいやだな……」
「今回さ、こんなに酷い目に遭わされたんだ。もし神様がいるなら次はご褒美にもっと良い人生をくれるよ」
「そっか……うん、そうだね」

 そんな話、全く信じていないくせに、彼女は薄く微笑んだ。
 それはもしかすると、そうあって欲しいという切実な願いだったのかもしれない。

「そろそろ……いく?」

 声をかける。
 2人離れないようにしっかりと手を握り合う。
 大きく足を踏み出す。
 足場のない、空を踏む感覚。
 身体がぐらりと揺れ、次の瞬間ゆっくりと引力に惹かれ始める。

 だけど……。

 俺の手は振り払われていた。
 目を大きく見開いて、口を大きく開いている彼女の姿がスローモーションになっていく。

「あ……ああ……ごめ……ごめんなさい」

 辛うじて聞こえた彼女の声。
 最後の最後、本当に最後の刹那に、彼女は畏れてしまったのだ。
 死という恐怖に対して、人間が本来持つ恐怖を感じてしまったのだ。
 彼女は傷ついていたけれど、俺みたいに壊れては居なかったのだ。

 なら……それでいい。
 俺は彼女に向かって微笑んだ。
 まだ頑張れるなら、死ななくて良いよ。
 もう一度だけ、立ち上がれるなら、まだ君はいくべきじゃないよ

 さよなら……

 身体が急激に地面へを引っ張られる感覚。
 彼女が凄い勢いで視界から消えていく。

 君が幸せになれますように……

 俺の最後の祈りは神に届いたのだろうか……
 
 もう俺には知る術はないけれど。
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