第14話

文字数 3,130文字

 もう振り返らない。薄紅の雑踏の中を歩きだす。
 すれ違う人たちがみんな幸せそうに笑っている。駆け足で街を横切る優希からは次から次へと涙があふれ、止めることができなかった。

「さよなら」の言葉のない別れを何度も繰り返したけど、それはまだ希望が残っていて__いつか、もしかしたら__という願いを持ち続けることができていた。だけど今回は違う。禄朗はAllyを選び、優希も明日美と花を選んだ。そんな二人が出会い愛し合うことはもう二度とない。わかっていたことなのに、自分が選んできたことなのに、こんなにもつらい。

「大丈夫?ゆうちゃん、顔色悪いけど」
「あ、ごめん、大丈夫。ちょっと疲れたからかな……」
「そう?ご飯食べて、早く寝たら?」
「うん、そうさせてもらうよ」

 着替えるためにリビングを離れると、どっと疲れが襲ってきた。もう何もかもしたくない。このまますべてを放棄してしまいたかった。

 禄朗が触れた唇に指を這わす。Allyを喜ばせた口で優希を翻弄する彼に、たまらなく欲情した。あのままめちゃくちゃに抱いてほしかった。お前はおれのものだろ__そう昔と変わらない声で優希を求めてほしかった。

「……やめよう」

 いつまでも囚われ続けても仕方のないことなのに、もしあの時という未練がかすめていく。もしあの時、明日美を捨てて禄朗を追いかけていたら……今ごろ隣で笑っていたのは優希だったのだろうか。

 いや、と思い直す。

 もしもあの状態の明日美を捨てていたら、きっと優希は自分を許せなかっただろう。自責の念にかられ禄朗ともうまくいっていなかった。結局破局は免れなかっただろうと思う。

 花の笑顔を見ることもなく、あの子がこの世に存在しなかったかもしれないと思うと耐えられない。すべてこれでよかったのだと思いなおす。どっちみちもう答えはでていて、すれ違った道をやりなおすことは不可能なのだ。どこでどう間違えたのかいくら考えても答えは出ない。

 そして仕事中に電話が鳴ったのは、それから少し経ってからのことだった。ポケットから取り出し画面を見ると、知らない番号。そういえば禄朗からの最初の連絡もこんな感じだったなと思い出す。まさか、という淡い期待を持ちかけて苦く笑った。いつまでたっても卒業できないでいる。

 通話ボタンを押すと流暢な英語が流れてくる。思わずひるんでしまった。クライアントに英語を話す人はいなかったはずだ。ためらいつつ応えようとすると、「優希?」と名前を呼ばれた。

「I'm Ally」
「あ、Ally……?」

 禄朗のパトロン、今のパートナー。柔らかな金髪と細くしなやかな体を思い出す。若くてきれいな彼の恋人。Allyは話があるから会えないか、と彼に伝えてきた。あの時の景色が目の前をちらつき、交わる二人の濃厚な息遣いがよみがえってきた。

 優希だけのものだったはずの所にいる彼に、会いたくはなかった。みじめになりたくない。まだ傷はふさがっていない。断ろうと口を開きかけたら、それを遮るように待ち合わせの場所が告げられ一方的に切られた。いったい何の用があるというのか。優希は重たい気持ちを引きずりながら大きく息を吐いた。

 待ち合わせのバーへ行くと、すぐ目を引くAllyの美貌にため息がでた。店内の客もチラチラと視線を送り、彼の挙動を追いかけている。まるでモデルのような美しい顔立ちと、スタイルだけじゃない強いオーラに人目を引くのは当然だろうと思った。

 近づくと優希の存在にすぐに気がつき、こっちだと手を挙げた。卑屈にならないよう、ぐっと力を入れて背筋を伸ばす。張り合ったところでどうしようもないが、気後れしてしまう自分をなんとか励ましたかった。「待たせてすみません」と謝ると、問題ないと首を振る。

 カウンターに腰掛けてグラスをゆらす彼は、切り取られた一枚の写真のように完ぺきだった。優希が失った若さと美貌を手にし、それを惜しみなく禄朗にささげている。

「移動していい?」

 Allyはカウンターの中の人に声をかけると、慣れた足取りで奥のほうへ向かう。歩いているだけなのにモデルの様になり、店内の客がほうっとため息交じりに彼を見つめている。

 バーの奥は天蓋で覆われたボックス席がいくつか適度な距離をもって置かれている。その一つに入り込むと、まるで秘密の世界に二人で足を踏み入れたようになった。

「こっちのほうが話しやすいから」

 Allyはソファに体を沈めるとそばにいたバーテンダーに声をかけ、優希にも飲み物を持ってくるようにと指示した。

「座れば?」

 つい立ったまま事の成り行きを見守っていた優希は、慌てて腰を下ろす。柔らかなスプリングがその体を優しく受け止める。
 静かにジャズの流れる雰囲気のいいお店だった。内装も重厚でいながら客を圧迫せず、他人を気にせず過ごすことができそうだ。彼の生活にはない贅沢さがここにはあって、Allyは当然のようにその景色になじんでいた。

 まもなくお酒が運ばれてくると、まるで夜空のような綺麗な青色をしたカクテルだった。口に含むと甘みの後にシャープな強さが口の中に広がった。彼はきれいな日本語で自己紹介をし、禄朗の先生と自分の父の仲がいいのだと説明した。だから彼がアメリカに来た頃から知っている、と続ける。

「禄朗に最初に出会った時、ぼくはまだ子供で……でも禄朗のことがすごく大好きだった」
 
 でも禄朗にはずっと好きな人がいたみたいだ、とAllyはこぼした。

「誰なのって聞いたら悲しそうに笑ってさ、ここにはいないよって。でも好きで諦められないんだ、バカだよなって。それって優希のことだったんだよね?」

 確認するかのように強くぶつけられた視線には、彼に対する嫉妬が感じられた。禄朗が望んでアメリカで過ごしていた時間も、優希の裏切りによって離れてしまってからも彼は優希のことを想っていてくれた。それはなんて幸せなことなんだろう。だけど今はもう、それさえ失ってしまった。

 優希の知らないアメリカでの姿に、思いをはせる。どんな生活だったのか、どんな風景を見て、どんな暮らしをしていたのか。彼にはわからない緑朗の生きていた時間。それを共有していたのは、目の前にいる彼なのだ。

「もう終わったことだよ」

 さよならが二人を隔ててしまった。そう答えると、Allyは不思議そうに首を傾げ納得がいかないのか唇を尖らせた。そんな仕草もいちいち様になり、苦しくなった優希は瞳を伏せた。

「そうかな。だってまだ禄朗はきみへの思いを断ち切ってないように見えるけど」

 だが彼は淀みのない日本語で会話をつづけた。禄朗のために覚えたと言っていたが、これだけ話せるようになるにはかなり努力したはずだ。どれだけ禄朗を想っていたのかが伝わってくる。その言葉には不安といら立ちが含まれていた。

「どうしてぼくがきみの番号を知ったのかわかる?」

 ふるふると首を横に振ると、Allyは不満そうな声色を出した。

「禄朗の携帯には、まだきみの番号が残っていた。ずっと繋がれたままなんだよ、むかつくことにさ」

 くやしさを飲み込むようにぐっとグラスのお酒をあおると、先を続ける。

「別れた男の連絡先を大事にしてる禄朗にもむかつくけど、それを隠そうともしないことにも腹が立つ。ぼくに見られたって全然平気で怒りもしない。だからなに?ってその程度でさ……彼は何も怖くないんだ。きみ以外に失うものがないから、これ以上何をなくしたって平気なんだ。ぼくがそれで嫌な思いをするってことまで気が回らない」
「まさか」
「こんなこと嘘ついてなんのメリットがあるっていうんだよ。それに……ほら」

 Allyはおもむろに優希のあごをつかむと、グっと上を向かせた。
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