第13話

文字数 3,594文字

 仕事帰り。花が購入したワンピースの受け取りにデパートへ寄ると、禄朗の個展会場がすぐ近くでやることに気づいた。足を向けてしまえば自分を止められなくなるかもしれないのはわかっていたので、極力思い出さないようにしていた。だけどあの艶めかしいオリオンが個展のテーマらしいと、ネットニュースに書かれているのを目にしている。あれは優希がモデルだ。それを見に行って何が悪いと、言い訳じみた言葉を紡いでみる。うそだ。どんな言い訳を並べて自分を納得させようとしても、本音はただ単に一目でもいいから禄朗に会いたかった。

 夜の手前の街は賑やかにざわめいて、人並みに背中を押され画廊へと足を向けた。覚悟を決めてここまで来たのに、「CLOSE」の看板が出されている。どうやら閉館時間を過ぎてしまったようだ。

 中を覗いてみるとほんのり明かりがついている。禄朗がまだいるのかもしれない。どうすると一瞬だけ迷って、でも会いたい気持ちは抑えられなかった。ドアを押すと鍵はまだかかっておらず、キイと小さな音を立てて開いた。

「こんにちは」

 声をかけるが人の気配はない。誰もいないというのに、鍵をかけないなんて不用心すぎる。そう思いながら一歩足を進めると、真正面に飾られた大きな写真が目に入った。これこそが優希のオリオン。禄朗がつけたキスマークが、赤く艶めかしく見る人の欲望を誘い込んでいるようだ。あの時の優希は間違いなく彼のもので、どうやって夢中にさせようかと毎日考えているような淫売婦だった。

 「誰か」と声をかけようとしたところ、ガタリと奥のほうから物音が聞こえる。ほんの少し逡巡に足を進めた。スタッフルームにいるのかもしれない。写真のパネルの後ろはカーテンで覆われ、その奥にドアで仕切られた部屋があるらしい。細くあいたドアの向こうから明かりが漏れている。何かの話し声はそこから聞こえているようだった。

「誰かいますか?」

 この先に禄朗がいるかもしれない。そう心を弾ませながらドアに手を伸ばした時、聞こえてきたのは甘い吐息だった。よろめき後ずさるとともに、シャワーのような英語が降り注いだ。見るとさっきまで禄朗に抱かれていた男がまだ若く愛らしい顔を怒りに赤く染め、怒鳴り散らしている。早口でまくしたてられ理解できないが、かなり怒っているのはわかった。スラングらしき言葉が飛び交っている。

 禄朗は彼を抱きしめキスを贈ると、なだめるように甘い声で何かを囁いた。二人の間にかもされた親密さに、ピリっと心臓が縮む。彼の怒りにうなずきながら、細い体をたどって優しく撫でる。優希をいとおしんだ時のように。大事に、大切に、その体に触れる。フワフワと揺れる金色に輝く髪にキスを注ぎながら。

「なんて……」
「人の男に手を出すな、って」

 ふうふうと毛を逆立てた獣のように、優希を睨みつけ怒鳴る彼。頭を下げることしかできない。

「ごめん、そんなつもりじゃない」
「だよな。かわいー奥さんと子供までいるお前とおれとは、もう関係ないもんな」

 それと優希の持っている袋を指さす。プリンセスの王冠がプリントされたショップの袋は、いかにも女の子が好きそうだ。中には娘の花のためのワンピースが入っている。

「優希が選んだのは、そういうことなんだよな」

 禄朗は瞳を伏せて、ぼそりと呟いた。

「あの日おれは空港で待ってた。でもお前は来なかった。もしかしたら何かあったんじゃないかって……遅れてでも来てくれるんじゃないか、今にも走ってごめんってやってくるんじゃないかって……ずっと待ってた。でも来なかった。連絡もなかった。それが答えなんだろ?」

 そうだ。それが優希の出した答えだ。泣きながらチケットを破り捨てた病院の廊下で、彼は選んだのだ。

「うん、そうだよ」

 今にも「違う!」と叫んでしがみついてしまいそうなのを必死にこらえた。あの時引き裂かれた胸の痛みをいまでも覚えている。それはまだここにあって、癒えないまま抱えている。けれど禄朗を裏切ったのも事実だ。

「もう会うこともない……そういうことなんだよな」

 吐き捨てるセリフに、優希は言葉を詰まらせた。わかっていたことなのに、なんで胸が痛いんだろう。禄朗を捨てると決めたのは優希自身なのに。姿を見なければ。こうやって会うことさえなければ諦めがついたかもしれないのに。どうしてまた現れてしまう。彼の存在がこんなにも心を乱していく。

 苦しい。優希はギュっと胸を押さえた。心臓が壊れてしまいそうなくらい痛い。自分がバラバラになっていくのを感じていた。

「こいつ、Allyっつうの。おれのパトロン。駆け出しの写真家は貧乏だからな、いっぱいお金出してもらってんだ。日本語なんか全然わかんないくせに、おれのためにたくさん勉強して言葉も覚えてきてさ。健気だと思わない?」

 傍らに立つAllyと呼ばれる彼の腰を抱き、撫でながら禄朗はつづけた。口元が皮肉にゆがむ。

「もう、おれとお前の道は分かれたんだ」

 優希の腰にある禄朗のための道しるべ。それはもう意味をなさない。二人にとって大事な場面はたくさんあって、分岐点でいつも別れる道を選んできてしまった。もう訂正できないところまで離れてしまったのだろう。

「……個展、おめでとう」

 いまにも涙がこぼれ落ちそうになったのをぐっとらえて、優希は笑みを浮かべた。

 禄朗は写真家になる夢をかなえた。そしてAllyを選んだ。これから進む道のパートナーを見つけたんだ。公私ともに支えて歩いて行ける人を。それが優希じゃないのは仕方ない。この結末をわかっていて自ら手放したのだから。

「これからの成功を祈ってる……もうそれくらいしか、できないけど……」

 今までの別れは突然で、言葉を交わすことさえできないまま離れてしまった。だから「さよなら」を言うのは初めてだ。自らの意思で決別の言葉を口にしなきゃ、と強い気持ちで叱咤した。せめて最後だけは感謝を伝えたくて、優希は微笑みながら「今までありがとう」と口にした。

 ここまで連れてきてくれたのは禄朗だ。あの時彼と出会わなかったら、付き合わなかったら、今の自分はいない。きっと孤独な殻にこもったまま誰ともかかわらず、寂しい人生を送っていたことだろう。こんなに美しい世界をみせてくれた禄朗に伝えたいことは感謝と、これからの未来を祝福してあげる言葉だけ。それだけが優希にできることだ。

「禄朗と出会えてよかった……さよなら」
「優希」
「お元気で」

 何かを言いたげにし、だけど飲み込んだ禄朗に微笑んで踵を返した。

 どのくらい歩き続けていたのか。いつの間にか夕暮れの空は濃紺に染まり、ビル間の細い隙間に小さな星が瞬いていた。いつまでもこうやっているわけにはいかない。手持ちのショッピングバッグがずしりと重みを増した。

「ただいま」
 
 玄関を開けると花の楽しげな笑い声が聞こえてきた。おいしそうな夕食のにおい、明るいリビングの明かり。幸福な風景がそこにあるというのに、心は暗く沈んだまま。完全に禄朗がいない人生をどう歩んでいけばいいのかわからなかった。途方に暮れ、迷子になった気分だ。

「あ、ゆうちゃんおかえり!」

 リビングのドアをあけると、エプロンをつけた明日美が優希に微笑みかけてくる。

「パパー、おかえりなさい」

 花が満面の笑みで飛びついてくる。抱きとめて「ただいま」と答えるいつもの景色が色を失っていることに気づいた。まるで自分だけ切り取られてしまった、別世界のような足元のおぼつかなさ。それを気どられるわけにはいかないと、わざとらしいくらい声のトーンを上げた。

「お待たせ、花のワンピースだよ」
「わあ!花の!」

 ピョンと勢いよく飛び降りて、可愛くラッピングされたワンピースを取り出した。桃色の清楚なタイプのワンピース。ウエストにはベルトがマークされ大人っぽさを醸し出している。赤ちゃんだったのはつい最近だったのに、いつのまにか女の子になってしまった。

「着てみたら?」
「うん!」

 一丁前の女の人のように恥じらいを持ち始めた花は優希の前から姿を消し、隠れて着替えをし現れた。もうパパに裸を見せるのは嫌だと怒られたのは、つい最近のことだ。

「どう?かわいい?」
「かわいいよ、花。お嬢様みたい」

 さっきまで足を踏み入れていた画廊での淫靡さとは全く違うベクトルに存在する優希の選んだ世界。桃色で明るくて華やかで清潔で__だけどさみしい。

「ありがとう、パパ。これで花は小学生になれるのね」

 もう少ししたらランドセルを背負って学校に通い始める花。きっとあっという間に優希の手を離れて行ってしまうのだろう。そのうち誰かを好きになって、その人と歩む道をみつけていく。花がいなくなったその時、優希には何が残っているのだろうか。禄朗がいなくなった今、ぽっかりと開いてしまった穴を埋めるものは何もないような気がした。
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