第2話

文字数 1,623文字

 会社へ向かう電車はいつもの時刻。いつもの顔ぶれで、朝だというのに誰もが疲れきったような表情を浮かべている。
 それらを眺めていると、今でも慣れない自分を遠くから眺めている錯覚に陥る。

 なぜこんな生活をしているのだろう。どこでどう繋がったのか。

 自分が選んできた道だというのに、曖昧な日常。だけど、これが普通と呼ばれる毎日。

 小さく息を吐くと、重たいカバンをしっかり持ち直した。


 いつも通りの仕事をこなし、腕時計を見るとそろそろ終業時間も間近だった。「斎藤、今日は定時に上がりだろ」と同僚がパソコンから視線を上げながら、ニヤリと笑った。

「今夜は盛り上がるなあ」
「何言ってるんですか」
「だって、結婚記念日なんだろ。美味しいディナーのあとのデザートは君だよ、とかさ」

「いやーん、ケダモノー」と、ほかの女子社員が頬を赤らめた。

「でも斎藤さんってケダモノっぽさがまったくないですよねえ」
「わかる!正統派王子様って感じで、足元に膝まずいてくれそう」

 キャーっと盛り上がる同僚たちに、「そんなことしませんよ」と苦く笑った時だ。優希の携帯が着信を告げた。

「噂をすれば愛しの奥様からじゃないの?!」
「いや……知らない番号ですね。誰だろ……」

 首をかしげながら通話ボタンを押し、受話器に耳をつけるとずいぶん荒い音声と繋がった。人の多い場所からかけているのか、雑踏の音が途切れなく聞える。

「……もしもし」
「……き……」
「はい?」
「優希?」

 低くて甘い声色。それは忘れようにも忘れることのできない別れた男、須賀禄朗の声だった。頭から血の気が失せていく。
 視線から逃れるように事務所を後にし、人気のない場所へ移動する。とてもじゃないけど冷静を装えない。

「もしもし?優希?」
「___禄朗」

 冷えていく体を保持できず壁に寄りかかった。まさかという思いと、ついにという思いが交差する。

「よかった、繋がった。元気だった?」

 何年も前、付き合っていたころと変わらない無邪気な禄朗の声が耳たぶをくすぐる。信じられなくて今すぐ通話が途切れてしまいそうで、受話器を強く耳に押し当てた。

「……っ」
「優希、聞こえてる?」

 ざわめきの間を縫って彼の声が届く。

「聞こえてる」
「なあ、今日……会えないかな」

 低く探るような声色に逆らえるはずもない。優希はぐっと目を閉じると聞こえないような息を吐き、頭を落とした。

「……うん、いいよ」

 どれだけ時がたっても変わらない。考えるまでもなく返事を返していた。拒むという選択はない。

「じゃあ、待ってるから」

 告げられた待ち合わせ場所の懐かしい店の名前に、ああ……本当に彼と話しているんだと実感がわいた。いつも途中で終わってしまう夢じゃない。

「わかった。後で」
「優希、絶対来いよな」

 動揺を見透かされたように畳みかけられて、優希は小さく笑った。

「うん」

 切れた通話に終了のボタンを押せない。ツーと無機質な音がいつまでも鳴り響いている。
 しばらく茫然と携帯を握り締めていたが、ふと我に返り急いで明日美にメールを送った。約束を反故することに申し訳ないと思う間もなかった。

『ごめん。仕事で急用が入って今日行けなくなりました』

 すぐさま返ってきた返事にも上の空にならないように答える。

『どうしても抜けられなくて。申し訳ありませんがレストランへは、お母さんと行ってきてください』

 近くに住む明日美の母親とは懇意にしているのだから、たまには二人で美味しいものを食べてきてもらえればいい。
 ほんの少し間があって『仕方ないね。母と行きます』と返事が来た。ほ、と胸を撫でおろす。
 さっきの受話器越しの禄朗の声がいつまでも耳の奥に残っていた。

 「優希」と名前を呼ぶときに、ほんの少し甘くなるのは昔と変わらない。
 その甘い声で呼ばれるだけで、消したはずの体の奥のおきびに火がともる。じんと心が熱くなる。

 禄朗、と小さく呟いてみる。
 それは優希の心を動かすには十分な響きを持っていた。
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