小説 ラインの黄金ー1

文字数 4,971文字

 アルベリヒがこの街に足を踏み入れるのはこれが初めてだった。
 かつてここは、流行りのファッションを売る店やファストフードの店が立ち並び、若者たちで大層賑わったということだ。だが、現在、それを思い起こさせるようなものは何も残っていなかった。
 広い通りにはベッドやソファ、テレビ、食器棚などの大きなゴミが放置されている。ビルの壁、放置された車、そして路上にまで、至るところ落書きだらけだった。路地の奥もゴミの山で、『キケン』と書かれた段ボールの箱が捨てられていた。箱が潰れて薬品の瓶や機械類が転がっている。その隙間を縫うようにネズミやアライグマが走り回っていた。
 地下のニーベルハイムに住むアルベリヒは空き缶を拾って生計を立てていた。街中を歩きながら空き缶を拾い集め、片端から袋に詰めて回るのだ。金属部品など、落ちているものは何でも回収する。水道の蛇口や鉄柵は高値で売れるのでいい稼ぎになった。唯一、マンホールの蓋だけは持ち去ることはしなかった。マンホールはニーベルハイムへ続いているので粗末にはできない。

 街の外れに灰色の建物があった。その昔、ここは千人もの客を収容するコンサートホールだった。46人だか48人のグループアイドルがライブをおこなったという話もある。しかし、今ではホールは廃墟と化していた。正面の入り口、エントランスの壁が崩壊しているので、外からでもステージや観客席が見えている。その客席の椅子はあらかた盗まれ、床の段差が剥き出しだった。雨漏りで天井も崩れ落ちていた。
 廃墟となったホールだが、楽器の音色であるとか、人の歌声を聴いたという噂が絶えない。
 今も・・・耳を澄ますと確かに何かの音がしている。それとも風の音か。いや、間違いない、ホールの中から角笛のような低い音が聴こえてきた。

 ホールの前の広場には、紫色や緑色の髪をしたまだ幼い顔をした少女たちが車座になって座っていた。昼間から缶チューハイをあおり、ジャンクフードを食べ散らかしている。目の周りをどす黒く塗り、はみ出した紅がやたらと口を大きく見せていた。それはまだいい方で、何やら怪しげなクスリを飲み、四つん這いになって奇声を発し這いまわる少女や、虚ろな目付きで抱き合う男たちもいた。
 缶を拾っていたアルベリヒは車座に座っている女たちを眺めた。転がっている空き缶を回収しようと思った。だが、見ているうちにムラムラとこみ上げてくる熱い欲望を抑えられなくなった。声を掛けたくなった。しかし、無精ヒゲにボサボサの髪、それに薄汚れたシャツでは相手にされそうにない。それより金属類を売って金に換えてくるのが先決だ。幸い今日はスマートフォンを十台ほど見つけた。段ボールに無造作に突っ込まれていたのだ。久し振りにまとまった金が手に入れられるだろう。
 この街にはいいことがありそうだ。アルベリヒはいったん広場をあとにした。
 もしこのとき、アルベリヒがホールの中へ入っていたなら、ステージの床下からトネリコの若芽が芽吹いていることに気付いたかもしれない。だが、アルベリヒがそれを知ることはない。
 ホールの入り口に円形の噴水があった。噴水はとうに役目を終えているのだが、まだ枯れてはいない。その証拠に忘れたころに大量の水を吹き出すことがあった。
 そこへ一人の少女がやってきた。少女は立ち止まり噴水の水を手で掬った。慣れた様子なところをみるとこの街に住み着いているのだろうか。しばらくすると、一人、また一人と若い女が集まってきた。三人はそれぞれ金髪、ピンク、青色の髪で、ラメ入りの身体にピッタリした服を着ていた。
 ヴォークリンデ、ヴェルグンデ、フロースヒルデの三人は、噴水の周囲を回りながら歌い始めた。

ヴォークリンデ「ヴァイア、ヴァーガ、波よ立て、揺り籠のように、ヴァラーラ、ヴァイア、ヴァイア」
ヴェルグンデ 「一人なの?」
ヴォークリンデ「あなたが来れば二人よ」
ヴェルグンデ 「見に行くわ」
フロースヒルデ「ハイアハー、お行儀の悪い人たちね」
ヴェルグンデ 「フロースヒルデ、こっちに来て、ヴォークリンデが逃げるわ」
フロースヒルデ「黄金をしっかり見張っていないと叱られるわよ」

 アルベリヒが戻ってきた。拾ったスマートフォンを売り捌いたが思ったほどの金額ではなかった。もうひと仕事しようと噴水のある広場へ来てみると、きれいな三人の娘たちの姿が目に入った。
アルベリヒ  「そこの娘たち、なんて可愛いんだ。ニーベルハイムから来たこのわしを好きになってくれないか」
ヴォークリンデ「誰、あそこにいるのは」
フロースヒルデ「暗いところから声がする」
ヴェルグンデ 「妖怪、キモい」
フロースヒルデ「黄金に気を付けて! ああいう男には注意しろと言われている」
アルベリヒ  「上にいるな。ここで見ていても邪魔にはなるまい。下へ来ないか、お前たちとふざけたいんだ」
ヴォークリンデ「一緒に遊びたいの?」
ヴェルグンデ 「笑われてもいいのね」
アルベリヒ  「なんて美しいんだ。この手で抱いてみたい」
フロースヒルデ「怖くはなさそうね」
ヴォークリンデ「会ってみましょうか」
 私に近づいてごらんと言って、誘うような笑いを浮かべた。アルベリヒはヴォークリンデに近づこうとしたが、路上に寝ころんでいる若い女にぶつかって足をとられた。
アルベリヒ  「ツルツルして滑りやすいぞ、おまけにクシャミも出るな」
ヴォークリンデ「喘ぎながらやってくるわ」
アルベリヒ  「わしの恋人になってくれ」
ヴォークリンデ「求婚したいならここまで来なさい」
 親切にも手を差し伸べた。アルベリヒが掴もうとすると、ヴォークリンデは寸前でその手を振り払った。
アルベリヒ  「逃げるのか。どうやったら捕まえられるんだ、いったい」
 ヴォークリンデに代わってヴェルグンデがアルベリヒにウインクした。
ヴェルグンデ 「そこの、あんた、ヴォークリンデはやめて私にしたらどう?」
アルベリヒ  「お前の方がきれいだな。そのうなじを触りたい、胸に顔を埋めたい」
ヴェルグンデ 「もっとよく顔を見せてよ・・・なんだ、よく見たら、毛むくじゃらでキモいのね」
アルベリヒ  「わしの顔が気持ち悪いだと、そんなことを言うなら、お前なんかウナギと恋をしろ」
 二人目にも相手にされずアルベリヒはイラッとした。
 次はフロースヒルデの出番だ。
フロースヒルデ「声を掛けたのは二人だけじゃないの、三人目もいるわよ」
アルベリヒ  「三人いれば一人くらいは気に入ってくれるだろう。そっちへ行くぞ」
 フロースヒルデは噴水の縁石に上がり、短いドレスをさらに捲ってアルベリヒに太ももを見せつけた。喜んだアルベリヒは太ももを撫で回し、ついには頬ずりした。一人目、二人目には振られたが、今度は脈がありそうだ。
フロースヒルデ「まあ、イケメンだわ。ステキな方」
アルベリヒ  「そんなに褒められると気後れするな。そんなにイイ男か。可愛い娘だ、抱きしめたい」
フロースヒルデ「いやらしい目付き、モジャモジャの髭、おまけに髪は剛毛だし、あっちへ行きなさい」
 縁石に這い上がろうとしたのをフロースヒルデが足蹴にしたので、アルベリヒは無様にひっくり返った。結局、からかわれただけだった。
アルベリヒ  「そうやってわしのことを嘲るのか。何という哀しみ、裏切りなんだ。人を騙す妖精たちだ」
 三人の娘たちはそんなアルベリヒを嘲笑い、声を揃えて歌う。
ラインの娘たち
「ヴァイララ~、ライラアラ~、ライラアラ~、
妖怪男よ、恥を知るがいいわ。
私たちを手に入れた男の人には素直に従うのに、なんで本気で寄ってこないのよ。
ヴァイララ~、ライラアラ~、ライラアラ~」
アルベリヒ  「わしの身体には情欲の炎が燃え盛っているんだ。必ずこの手で捕まえてみせるぞ」
 弄ばれているとは分かっているが、アルベリヒはラインの娘たちを諦められない。アルベリヒが噴水の縁石に駆け上がると、娘たちは右へ左へと身をかわして逃げた。グルグルと追いかけっこをしていたが、アルベリヒは勢い余って仰向けに転がった。

 そこへ、上空から一筋の光が射しこんで周囲を照らした。光が当たると、止まっていた噴水の水が吹き出した。光を受けて噴水の水までもが金色に輝く。
ラインの黄金が眠りから覚めたのだ。
ヴォークリンデ「ご覧、光が河底まで微笑んでいる」
ヴェルグンデ 「安らかに眠る黄金に光が注ぐ」
フロースヒルデ「黄金が目覚めようとしているわ」
ラインの娘たち
「ハイアヤハイアー、ハイアヤハイアー、ヴァララー、ララー、ララー。
ラインの黄金、輝かしい喜び、神々しい光りよ。
灼熱の光が河の中を流れていく。目覚めよ。
私たちは黄金の周りを泳ぎ回る。ラインの黄金、ラインの黄金よ」

 ラインの娘たちが踊りながら歌うと、車座になってしゃがんでいた少女たちが噴水の周辺にノロノロと集まってきた。ラインの黄金は目覚めたが、少女たちは焦点の定まらない目付きでとろんとしている。黄金を何かのクスリだと勘違いしたのだろうか。
 アルベリヒは少女たちの背中越しに黄金を指差した。
アルベリヒ  「あそこで輝いているのは何だ」
ラインの娘たち「ラインの黄金のことも知らないとは田舎者ね」
アルベリヒ  「お前たちの遊ぶ玩具ならばわしに用はない」
ヴォークリンデ「もし黄金の奇蹟を知ったなら、貶すはずはないでしょう」
ヴェルグンデ 「このラインの黄金から指環を作った人には世界中の権力が手に入る」
フロースヒルデ「静かに! 邪悪な者が盗まないように黄金を守るのが私たちの役目なんだから」
ヴェルグンデ 「でも、いったい誰が黄金を鍛えられるというの」
ヴォークリンデ「愛を諦めた人だけが、愛の喜びを捨てた人だけが、黄金から指環を作ることができるのよ」
ヴェルグンデ 「奪われる心配はないわ。人はみな愛そうとする、誰が愛を諦めるでしょうか」
フロースヒルデ「この男なら心配はないわ。彼の欲望はギラギラ燃えているもの」
 
 愛を諦めた者だけが黄金から指環を作れると聞いてアルベリヒの目付きが変わった。
 愛よりは黄金が欲しい。愛はよりも権力が欲しい。
 すでにアルベリヒの関心はラインの娘たちにはなかった。彼の狙いは世界を手にするという指環に向けられている。
 そんなこととは知らぬ娘たちは、はしゃぎながら噴水の中の水を掛け合った。不思議なことに舞い上がったのは水ではなく無数の金箔だった。これこそラインの黄金である。金箔を辺り一面にまき散らしながら娘たちは歓喜に酔いしれる。

ラインの娘たち
「ヴァラ~ラ、ヴァラ~ラ、アイララ~。そこの妖怪男、あなたも歌いなさい、一緒に笑いなさい」
 
アルベリヒ  「世界を統べる力がこの黄金で手に入ると言うのか。愛は諦めるとして、情欲は制御できる。その黄金をいただくぞ」
 アルベリヒはそう決心した。ためらうことなく金箔で満たされた噴水の中へ飛び込む。アルベリヒの全身が金色に輝いて染まった。
 黄金だ、権力だ。愛よりも権力が勝るのだ。
 三人の娘たちは震え上がった。
ラインの娘たち「逃げましょう、あの男は頭がおかしくなったのよ」
アルベリヒ  「お前たちは闇の中で遊んでいるがいい。この黄金を奪って指環を作るぞ。よく聞け。こうしてわしは愛を呪うのだ」
 アルベリヒはラインの黄金を奪い取った。それを見て、三人のラインの娘はなすすべもなく頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。周囲に群がっていた少女たちは恐怖に慄いて一斉に逃げ出した。
ラインの娘たち「黄金が奪われる、悲しい、誰か、助けて」
 悲しんでも嘆いても、もう遅かった。ラインの黄金はニーベルング族アルベリヒの手に落ちたのだった。

 噴水のある広場に夜が訪れた。人気のないコンサートホールからは夜が更けるまで、黄金を返してという声が聞こえていた。大事な黄金が盗まれた、ラインの娘がそう嘆いているのだった。ラインの娘たちは歌い続け、その声に呼応するかのように再び角笛の音が響いた。角笛の音は闇を鎮め、夜の街を漂い、いつしか、その旋律は夜明けを告げる調べと変わった。噴水のある広場に、いや、地上にも夜明けがやってきたのだ。夜が明けた。地上の世界は朝霧に包まれ、霞んで遠くが見えなかったが、「それ」が姿を現した・・・
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