小説 ラインの黄金ー2

文字数 9,620文字

「それ」が姿を現した。
 朝霧の中、メタリックブルーに輝くタワーのような城が聳えている。高さ500メートルくらいはあるだろうか。城の最上階には展望台があり、遥か彼方まで一望できる。しかし、そこに上がっても、家も公園も、道路も学校も、何も見ることは叶わない。そこから見える景色は、どこまでも広がる瓦礫の山なのである。
 辺り一帯、瓦礫の山であった。ひしゃげたアルミの窓枠、鉄筋の飛び出したコンクリート片、黒焦げになった車。それに、街路灯や電柱、給水塔のタンクらしき物が絡み合ってうず高く積まれている。廃棄物の中には蓄音機のラッパ型のホーンスピーカーもあった。
 コンクリート破片に隠れて、店の看板らしき物が転がっていた。元はネオンサインだったようで、『GOD』や『ABUK』の文字が覗いていた。店の看板か、アーケードの銘板だったのだろう。看板の文字は一部分だけしか見えないが、これが『神』と『泡く』を示すのであるとすれば、この荒廃した場所にはなんとも皮肉なことだ。

 瓦礫の山を背にしてドーム型のテントが二張り建っていた。その一つは神々の長ヴォータンの、もう一つは妻のフリッカのテントである。テントは城が完成するまでの仮住まいだ。周囲にはベンチやテーブル、ハンモックなども設えてあった。
 テントの中からフリッカが出てきて、もう一張りのテントに呼びかけた。フリッカはこの場所には不釣り合いな黒のロングドレスを着ている。
フリッカ   「ヴォータン、起きて、夢から覚めてください」
 ヴォータンがテントから姿を見せた。銅色の上着に深緑のコートを羽織り、右手には『契約の槍』ならぬ杖を突いている。ヴォータンは空を仰ぎ、朝日に映える城を見上げた。
ヴォータン  「神々の城が、輝かしく荘厳な姿を現した。聖なる殿堂、永遠の業績だ。城の門も扉も私を警護し、無限の名誉と永遠の力を誇示して聳えている。夢の中で見たとおりに城は堅固で美しく陽光に輝いているぞ」
フリッカ   「城よりもフライアの方が大事ではありませんか。城が出来上がれば妹のフライアの担保は期限が切れるのです。約束を忘れたのですか」
ヴォータン  「巨人族との約束は覚えている。強情な彼らを手懐けるためだった。報酬のことは心配するな」
 ヴォータンは巨人族に新居として城を建てさせ、完成した暁にはフリッカの妹で、美しい女神フライアを渡すと約束したのである。いよいよ城が完成し、間もなく巨人族がやってくる。ヴォータンは契約を履行せねばならないという窮地に追い込まれていた。
 さらにヴォータンを悩ませるのはフリッカが口にする不満である。ネチネチと同じことを聞かされ、もういい加減飽きていた。
フリッカ   「何と厚かましく軽率な人。男性が狙っているのは権力だけなんですね。妹のフライアを渡すなどと、その契約を知っていたら私は許しませんでした。遠くへ出かけたいあなたを、居心地の良い住まいで繋ぎ止められると思ったからですよ。それなのに、防御とか支配とか、権力を誇示するための城なんですか」
ヴォータン  「私を城に引き留めたいだろうが、城の中にいても、世界を手中に収めたい気持ちは抑えられないものだ」
フリッカ   「権力や覇権が欲しくて愛と女性の尊厳を踏みにじっているんだわ」
ヴォータン  「お前を妻にするために片方の眼を担保にしたではないか。私は女性のことは尊敬している。フライアを渡すつもりは毛頭ない」
 そう、彼はフリッカを妻に娶る際に眼を差したのだった。それからというもの、ヴォータンは黒いアイマスクで左目を隠している。

 フライアは瓦礫の山を見るのが嫌で、離れたところに止めてあるキャンピングカーに寝泊まりしていた。
 なにしろ、ここにはコンビニもカフェもゲームセンターも店らしいものは一軒もない。どこか遠くへ行きたいが、それも不可能だった。リンゴの木を育てるのはフライアの仕事だからである。そのリンゴは神々にとっては命綱のようなものだ。そんな重要な仕事を任されているというのに、フライアは人質にされてしまった。城が完成したら、恐ろしい巨人族に引き渡される運命なのだ。
 リンゴはどうするのよ、人質なんて聞いてないと言っても、ヴォータンは任せておけ、何とかするの一点張りだ。この間も巨人族にしつこく言い寄られたので、履いていた赤いハイヒールをくれてやった。あれはたぶん、巨人兄弟の兄ファーゾルトの方だ。赤いハイヒールを自分の身代わりに眺めて満足してくれればいいのだが。それともハイヒールを舐めていたりしてたら、ヤバいし、気持ち悪い。そのファーゾルトより怖いのは弟のファーフナーだ。ファーフナーは陰険で何を考えているか分からなかった。
 その巨人たちが近くまで来ている。
 フライアはキャンピングカーでふて寝していたところを巨人族の足音で目が覚めた。
 サラサラの銀髪に地雷風メイクで、両手の爪には黒のネイルを塗っている。足元はヒールの高いサンダル履きだった。人質なんかまっぴらとか言いながら、これでは男を誘惑しているようなものだ。ファーゾルトがご執心なのも頷ける。おまけに、パンダの縫いぐるみを抱いていた。瓦礫の中から見つけたもので、フライアは四六時中パンダの縫いぐるみを抱えて放さない。
 とりあえず、フリッカに助けを求めるためテントに駆け込んだ。
フライア   「助けて! ファーゾルトが私を連れに来た」
ヴォータン  「恐れることはない・・・ローゲは見なかったか」
フリッカ   「あのずる賢い男を頼りにするなんて、今度も口車に乗せられただけじゃないの」
ヴォータン  「敵の欲望を利用したいときにはローゲの知恵が役に立つんだ。ローゲが私に巨人族との契約を勧め、フライアを救うと言ったのさ」
フリッカ   「でも、来ないではありませんか、とっくに逃げたんだわ」
 ヴォータンがフライアを差し出すなどと突拍子もない約束をした背景には勝算があってのことだった。火の神ローゲが、巨人族にはフライアを渡すと騙しておいて、それに代わる解決方法を見つけ出すと請け負ったのである。しかし、そのローゲはどこへ雲隠れしたのか姿が見えない。

 オープンカーを先導しているのは装甲車だった。前方の車の轍にはまってオープンカーは大きく揺れた。しかも、後ろからは戦車の車列が黒い煙をあげて走ってきている。戦車の車体にはZの文字がでかでかと書かれていた。
 巨人族の兄ファーゾルトは車がバウンドしたので手にした赤いハイヒールを落としそうになった。フライアの履いていたハイヒールだ。美人のハイヒールだ。ヴォータンは城を建てれば美しいフライアを渡すと約束した。それまでは赤いハイヒールを彼女だと思って我慢していた。城が完成した今日はフライアを得るという願いが叶う日である。
 しかし、隣に座る弟のファーフナーは、そんな兄のファーゾルトを内心ではせせら笑っている。
 兄のファーゾルトと二人で建てた城が見えてきた。我ながら見事な出来栄えである。つい先日、ローゲが訪ねてきて城の内部をあちこち見て回っていた。ヴォータンに仰せつかったのだろうが、ローゲはすっかり感心した様子だった。
道路沿いに『戦争反対』『武器はいらない』などと書かれた看板が立っていた。見慣れたスローガンに混じって『黄金を返せ』『愛は勝つ』というプラカードもあったが、何のことだか見当もつかない。赤いハイヒールに夢中なファーゾルトは看板すら気が付かなかったようだ。

 地響きが轟く。恐竜が歩くような足音にテントがビリビリと揺れる。巨人族がヴォータンのテントに到着した。ファーゾルトとファーフナーが着ている黒いトレンチコートの胸元にもZの文字が不気味に光っていた。
 いち早く車を降りたファーゾルトは辺りを見回し、フライアが座っているのを確かめた。ファーゾルトは地雷風メイクのフライアを見て、今日は一段と可愛らしいと喜んだ。
 逸る気持ちを押さえて、先ずはヴォータンに迫った。
ファーゾルト 「あなたたちが安らかに眠っている間に我々が城を建てたんだ。力仕事を厭わず重い石を運んだ。高い塔や門が聳え、頑丈な城壁が城を囲んでいる。さあ、入城したまえ、そして報酬を払っていただきたい」
ヴォータン  「報酬とは何だ、言うがいい」
ファーゾルト 「そんなに思い出しにくいものかね。美しいフライアだ。約束どおり連れて帰るぞ」
ヴォータン  「正気で言っているのか、他の報酬を考えろ。フライアは売り渡さない」
ファーゾルト 「今さら何を言うんだ。契約を裏切るのか。その杖は契約の槍ではなかったのか」
 ヴォータンはフライアを渡さないと言い出した。約束を反故にされたファーゾルトは真っ赤になって怒った。それもそのはず、フライアを手に入れると思ったからこそ重労働に耐えて城を建てたのだ。
 それを見て、弟のファーフナーがファーゾルトを制する。
ファーフナー 「実直な兄よ、ようやく詐欺だと分ったようだな」
ファーゾルト 「ヴォータン、あなたは契約の神だが、自分は約束を守ろうとしない。今の地位だって契約が守っているのだ。契約を守る誠実さがないならば、我々は平和を破ることになるだろう。これだけは忠告しておくぞ」
ヴォータン  「冗談で約束したことを真に受けるとはな。そもそも、お前たちにフライアが何の役に立つというのだ」
ファーゾルト 「何と不当なことを言い出すんだ。神でありながら、愚かにも、城を建てるために女神のフライアを担保にしたんだ。我々無骨者が汗水垂らして働いたのは、美しい一人の女性を手に入れようとしたからだ。今になって契約はなかったことにしろと言い出すとは何事か」
 ファーゾルトはベンチにどっかと腰を下ろした。フライアを連れて帰るまではテコでも動かぬといった様子だ。フライアはファーゾルトの隣に座って缶ビールを勧めた。酒でも飲めば少しは機嫌を良くしてくれると思ってのことだ。ファーゾルトはお気に入りのフライアが傍に座ってくれたので頬を緩めている。
 フライアは形だけ乾杯するとパンダの縫いぐるみを抱きしめて横を向いた。長い脚を組み、煙草をくわえた。自分のことで揉めているというのに、どこ吹く風といった態度である。火を点けようとしたが、火の神ローゲがいないから煙草も吸えなかった。
 ファーゾルトが報酬として望んでいるのはフライアだが、弟のファーフナーの考えはいささか違っていた。ファーフナーはフライアを追い払うと、神々には聞こえぬように兄のファーゾルトに囁いた。
ファーフナー 「詰まらない話はやめておけ。目先の利益などはどうでもいい。フライアを攫うことに意義があるんだ。フライアだけが金のリンゴを育てることができる。そのリンゴを食べるので神々は若さを保っていられる。フライアがいなくなれば、リンゴの木は枯れ、実は腐って落ちる。そうして神々も年を取り、弱ってしまうのさ」
 神々が永遠の若さを保っていられるのはフライアが育てるリンゴのおかげだった。リンゴを食べなければ神々は生きていられなくなる。ファーフナーの作戦は神々を弱体化することにあったのだ。そのためにフライアを連れ去ろうというわけだ。
 「早く報酬を出せ。フライアを渡せ」と詰め寄る巨人たち、ヴォータンは「ローゲはまだか」とそればかりだ。ファーゾルトが手を伸ばしてきたので、フライアはひらりと身をかわして逃げた。
 そこへ、フライアの兄フローと雷神ドンナーが駆け付けた。フローはフライアを守って抱きかかえ、ドンナーは大きなハンマーを振り回す。雷神ドンナーは何かと言うとハンマーを振りかぶる。
フロー    「フライア、こっちへ来るんだ」
ドンナー   「一撃を喰らいたいのか、巨人ども」
ファーゾルト 「我々は報酬を要求しているんだ、戦うつもりはない」
 巨人のファーゾルトがドンナーに向かってZの文字を誇示するように見せつけた。言葉とは裏腹に戦う気力十分である。というか、フライアの前でカッコイイところを見せつけているのだ。
ヴォータン  「乱暴はやめろ、暴力では解決しないぞ」
 ドンナーが振り上げたハンマーをヴォータンが杖で払いのけた。契約の神としては暴力は禁物だ。

 そのとき、瓦礫の山から白い煙が噴き出した。いち早く気付いたのはヴォータンだった。
ヴォータン  「やっと来たか、ローゲ」
 火の神ローゲが煙の中から飛び出してきた。ジレに細身のスラックス、バーテンダーのような服に身を固めている。
ヴォータン  「お前が決めたまずい取り引きを解決しようと来たんだな」
ローゲ    「私がどんな約束をしたと言うんですか。恐らく、そこにいる巨人たちとあなたが決めたことですね」
 ローゲは取り引きなど知ったことかと言わんばかりだ。あろうことか、巨人たちと握手を交わしている。神々と巨人族、それにニーベルング族にまで顔の利くローゲはいずれの味方なのか分からない。
 フライアは火の神ローゲのおかげで煙草が吸えたので、ぷか~と煙を吐き出した。
ローゲ    「私はあちこち飛び回っている身です、ドンナーやフローは幸せな結婚を願っているでしょうが、居間も寝室も私を和ませてはくれません。堅固な城はヴォータンの望みでした。城は見事に造られました、ぐらつく石は一つもありません。私が自ら点検してきました。ファーゾルトとファーフナーは立派な仕事したのです」
ヴォータン  「言い逃れするな。巨人たちに約束したのは、お前がフライアを請け戻すと言ったからではないか」
ローゲ    「細心の注意は払うと言いましたが、出来もしないことを引き受けるはずはないでしょう」
フリッカ   「当てにならない悪党ね」
フロー    「ローゲでなくてリューゲ(嘘つき)だ」
ドンナー   「一発で吹き飛ばしてやるぞ」
ファーフナー 「ごちゃごちゃ言わずに、さっさと報酬を出せ」
 フライアの身代わりを探すと約束したのに、ローゲは適当な言い訳に終始している。神々からも、悪党、嘘つきと突っ込まれている。業を煮やしたヴォータンがローゲの襟首を掴んでベンチに座らせた。
ヴォータン  「それなら、いままでどこをうろついていたんだ、言ってみろ」
 こうなっては仕方ない。ローゲはフライアに代わる報酬を求めてあちこち旅した顛末を語り始めた。ヴォータンもフリッカも巨人たちもローゲの周囲に集まってきた。誰もがローゲの話を聞き逃すまいと耳をそばだたせる。
ローゲ    「恩を仇で返されるのがローゲの宿命です。フライアの代わりになるものを求めて私は世界の隅々を探してみました。だが、それは無駄でした。この世には、男性にとって女性への愛以外には価値のあるものはありません。命の営みのあるところ、愛を断念する者などいませんでした。ところが、一人だけ愛を諦めた男に出会ったのです。ラインの娘たちが私に訴えました。ニーベルハイムに住むアルベリヒが黄金を手に入れるために女性への愛を断念したのです。アルベリヒは愛を諦める代わりにラインの黄金を奪い取りました。さて、ここからです。黄金を盗まれた娘たちの願いはヴォータンに向けられています。あなたが黄金を取り戻し、河の中に返してくださいと言っています。私はそれを伝えると返答しました。いかがですか、これで私は約束を守ったことになるのです」
 アルベリヒが愛を断念する代わりにラインの黄金を手に入れた。それを取り戻してラインの娘たちに返してくれというのがローゲの解決策だった。しかし、これでは根本的な解決には程遠い。ヴォータンは切羽詰まって天を仰いだ。
ヴォータン  「私自身が困っているというのに、他人を助けられるものか」
 
 ところが、意外にも巨人たちがローゲの話に興味を示した。これまでも巨人族とニーベルング族とは小競り合いを繰り返していた。フライアよりも黄金の方が戦力になることは間違いなさそうだ。とは言うものの、兄のファーゾルトはフライアを諦め切れない、黄金があればフライアは自分になびくかもしれないと考えた。
ファーゾルトは胸に描かれたZマークを誇らしげに叩いた。
ファーゾルト 「黄金をニーベルハイムの一族には渡さないぞ。あいつらにはいつも手こずっているんだ」
ファーフナー 「どうだ、ローゲ、ラインの黄金はそんなに役に立つものなのか」
ローゲ    「水の中にあるうちはただの玩具だが、それから指環を作ったなら、世界が手に入るのです」
 世界が手に入ると聞いてヴォータンは思わず膝を乗り出した。
ヴォータン  「ラインの黄金の噂は聞いているぞ。指環には不思議な魔力が宿り、無限の権力を生み出すそうだ」
フリッカ   「ラインの黄金は女性の飾りにもなるのかしら」
ローゲ    「女性の飾りになるし、旦那様の愛も勝ち取れますよ」
フリッカ   「それなら、ヴォータン、あなたが黄金を手に入れるべきだわ」
 フリッカもここぞとばかりに黄金のネックレスを望んだ。妻にせがまれてヴォータンの気持ちはすでに指環を手に入れる方向に傾いている。しかし、ラインの黄金から指環を作る方法は謎である。
ヴォータン  「私が指環の所有者になるべきだ。だが、私に指環が作れるかどうか」
ローゲ    「それには秘密の呪文が必要です。しかし、すでに時遅し、アルベリヒは黄金を鍛え上げ指環を作りました」
ドンナー   「指環を取り上げないとアルベリヒが暴力を使いますぞ」
ヴォータン  「その指環を手に入れなくてはならないな」
フロー    「今ならたやすいことです、愛を断念しなくても」
ローゲ    「子供の遊びも同然です」
ヴォータン  「どうするんだ」

ローゲ    「盗むんです!」

 盗む、ローゲが言ったその一言が周囲を凍り付かせた。
 すでにアルベリヒの手によってラインの黄金から指環は作られている。ローゲは、それを盗めばいいと言うのだ。しかし、神であるヴォータンが盗みを働くというのはいかがなものか。どう理屈を付けても正しいこととは思えない。

ローゲ    「泥棒が盗んだものを奪い返すだけのことです。アルベリヒから取り上げてラインの娘たちに返してやってください」
ヴォータン  「ラインの娘たちのことは関係ない」
 なかなか決断できないヴォータンの態度に腹を立てた巨人たちが動いた。
 ファーフナーは、「黄金の方が価値があるぞ」とファーゾルトに耳打ちした。フライアがいなくなればリンゴが枯れて神々は弱る。だから、フライアを連れ去ろうとしたのだが、黄金にはもっと有効な使い途があるだろう。しかし、ファーゾルトは首を振った。ここ至ってもフライアの方が気懸かりらしい。女性よりは黄金が戦力になるのだというのに。ファーフナーは、兄のことは無視しておきヴォータンを見下ろした。
ファーフナー 「ヴォータンよ、待たされている身にもなってくれ。もっと軽い報酬でフライアを解放するとしよう。我々にはニーベルング族の黄金で十分だ」
ヴォータン  「私が持っていないものを要求するとは、正気なのか」
ファーフナー 「ニーベルング族を捕まえるのは簡単なことだろう」
ヴォータン  「お前たちのために捕まえろというのか、つけあがるな」
 ファーフナーが注意を引き付けている間に、ファーゾルトはフライアの腕を掴んだ。
ファーゾルト 「フライア、一緒に来るんだ」
ファーフナー 「いいか、夕方まではフライアは人質にしておく。もし、戻ってきたときに黄金がなかったなら・・・」
ファーゾルト 「フライアはわしの物だ」
フライア   「助けてっ」
 ファーゾルトがフライアを肩に担いだ。フライアは手足を振り回したが抵抗むなしく連れ去られてしまった。後には彼女が持っていたパンダの縫いぐるみだけが残った。
 フライアが巨人族の手に落ちた。取り返すためには身代金になる黄金が必要だ。だが、その黄金はアルベリヒの手にある。

 巨人たちはオープンカーに乗って意気揚々と引き揚げていった。ローゲはそれを目で追った。
ローゲ    「巨人たちがフライアを担ぎ、岩を越え、ラインの河を渡って行く。フライアは悲しんでいるな。彼らは巨人国で休むつもりだろう・・・?」
 そこでローゲは、ヴォータンやフリッカたちが疲れた様子でぐったりしているのを目にした。ヴォータンは急に生気が抜けたようになり、フリッカはフライアが連れ去られたショックからか、ベンチにもたれ地面に膝を付いている。ドンナーの手からはハンマーが落ちそうだった。
 神々に異変が起きたのである。
ローゲ    「ヴォータンはどうしたんだろう、髪が白くなっている。急に萎れてしまった。フロー、ドンナー元気出せ、老け込むには早いぞ」
フリッカ   「ああ、悲しい、何が起こったの」
 ローゲはポケットからリンゴを取り出した。ハンカチで丁寧に拭い、神々には見つからないように空中に投げて遊んでいる。
ローゲ    「分ったぞ、あなた方に何が欠けているか。今日はまだ黄金のリンゴを食べていないんですね。神々を若く健康に保っているのはフライアの育てるリンゴでした。フライアがいなくなればリンゴの木も枯れてしまうでしょう。巨人族の狙いはそこだった。リンゴがないと神々は弱って老人のようになり、滅んでしまう。けれども私は半神半人の身、リンゴがなくても大丈夫です」
 神々はフライアの育てたリンゴを食べていないので身体の自由が利かなくなってしまった。このままでは死んでしまうかもしれない。しかし、半神半人のローゲだけは元気そのものである。
 フリッカもドンナーもフローもすっかり弱ってしまった。ヴォータンも立っているのさえ苦痛だった。だが、このまま滅亡への道を選ぶわけにはいかない。
 ついにヴォータンが決断した。
ヴォータン  「よし、ローゲ、ニーベルハイムに行き、黄金を手に入れるぞ」
ローゲ    「ラインの娘の願いを聞き届けてくれるのですね」
ヴォータン  「フライアを救出するためだ」
 フライアを解放するため、アルベリヒから黄金と指環を奪い、それを巨人族との交渉に使うと決めた。黄金はフライアの身代金である。それより大事なのは指環だ。指環には世界を手に入れられる魔力があるのだ。
ローゲ    「ではご案内しましょう。ラインの河を渡って行きますか」
ヴォータン  「ラインの河は通らない」
ローゲ    「それなら地下の坑道から行きましょう」
 ローゲがニーベルハイムへの道はこちらだと案内する。ヴォータンは立ち止まってフリッカたちを振り返った。
ヴォータン  「夕方までには帰ってくるから、皆はここで待っていろ」
フリッカ   「早く帰って来て」
 フリッカの声は弱弱しかった。

 ローゲとヴォータンは道を急いだ。夕方までに黄金と指環を手にして戻ってこないと、フライアは永遠に巨人たちのものになってしまう。そればかりではない、フライアの育てるリンゴを食べることができなければ、神々には滅亡という選択肢しか残されていないのだ。日暮れとともに神々の黄昏が迫っている。
 二人はニーベルハイムに行くため地下鉄の駅へ向かった。駅前でビラを配っている娘たちがいた。ローゲが受け取ると『指環を返せ』『愛は勝つ』と書いてあった。ヴォータンにも見せたがちらりと一瞥しただけだった。
 電車はほどなくニーベルハイム駅に着いた。ただし、ここは表向きの入り口に過ぎない。アルベリヒがいる地下のニーベルハイムへは秘密のエレベーターで行くのである。
 エレベーターがゆっくりとニーベルハイムへ下りていく。しばらくすると、地の底からカン、カン、カンと金槌を叩く音が聴こえてきた。ニーベルハイムが近づいたのだ。その不気味な金属音はエレベーターが下降するにつれ段々ハッキリと聴こえるようになった。
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