第1話

文字数 9,064文字

 アラームの音で、俺は目を覚ました。

 眠っている間、布団の上で寝転がって毛布を壁際に押し退けてしまったらしく、室内の冷えた空気によって体温が低下しているのを感じた。

 手を伸ばして毛布を引っ張り、それにくるまって呼吸をすると、吐き出された息が白い煙のような状態になった。冬がまだ終わり切っていないことはわかっているが、この寒さは殺人的だ。

 寝床の傍に置かれた小型の電気暖房器具に目をやると、暖かな風を放出する口を閉じて、大人しくなっていた。こんなに寒いのなら、眠る前に、暖房器具に時間設定などしなければよかった、と今になって俺は後悔した。

「朝、か……」

 締め切ったカーテンの隙間から部屋の中に差し込む太陽の光が、俺の気分を下げていく。

 立ち上がりたくない。寒いからずっと毛布にくるまっていたい、というのも理由の一つだが、一番の理由は『仕事をサボりたい』という甘えだった。

 サボる、という行為が常に選択肢の一つとして脳内に浮上する俺は、社会人としても、一人の大人としても、終わっていると思う。

 精神的に弱っていたり、怪我や病気などを理由に仕事をサボることは、また別だと思うが、俺はいたって健康で、体力も有り余っている。それなのに働きたくないのは、やはり、自分自身に甘いからだ。


 ……俺は、いつからこんなに甘ったれた精神の男になってしまったんだ?


 社会に出たばかりの頃、俺は生き生きしていた。

 俺にもそんな時代があったのだ。





 数年前——

 俺は大学卒業後、とある物流会社に就職し、営業マンとして働いた。

 その時の俺は、やる気に溢れていた。徹夜も連勤も、若さと体力で乗り越えてみせると心を燃やし、一日も遅刻することなく、真面目に働いた。

 今の地位に満足している部長の、部下を自分より上に立たせないようにするためのイジメ——自分のミスを全て俺の責任にし、周囲の人々の目に〈無能〉というレッテルを貼った俺を映した、あの、辛いイジメにも耐えた。耐えて耐えて、根性で疲れた身体を動かした。

 だが、ある日突然、限界が来た。

 部長の顔、部長の声、俺に対する社員たちの愚痴、説教、それらが俺の精神を限界まですり減らし、会社に行くのが嫌になってしまったのだ。

 そして俺は、衝動的に仕事を辞めた。

 それから一週間は、開放感が半端なかった。

 しかし、次の週から俺は、自分が〈無職〉であるという現実に情けなさを覚え始め、なんでもいいから働くことにした。

 でも、正社員は嫌だった。部長から受けたイジメと、似たようなイジメを受けることに俺は怯えていたのだ。

 アルバイトの募集をしている、近所のレンタルビデオ屋に面接を受けに行った。仕事内容に興味なんてなかった。家から徒歩で通える、それだけで働く場所を決めた。

 面接時、対面した店長から正社員を勧められたが、「資格の勉強をしている」と嘘をつき、アルバイトとして雇ってもらった。

 働くのは週五日に決めた。午前十一時から、午後五時まで働く。日にちと時間を決められるのが、アルバイトの特権だった。場所にもよるが、俺が働くレンタルビデオ屋は、その辺の自由度が高かった。

 面接に行った次の月から、俺は出勤した。やることは物の整理や接客などの、正社員だった頃と比べて大分楽な業務内容だった。

 イジメは無かった。店長も、従業員の皆が俺に優しく接してくれた。

 だが、仕事内容があまりにも単純で、変化の無いせいか、俺は日を重ねるごとに飽きて、仕事に対する熱が冷めていった。

 めんどくさい。そう思うようになった日から、遅刻の回数が増えた。

 最初、真面目に働いていた俺がいきなり遅刻なんてし出すものだから、仕事場の人たちはさぞ困惑したことだろう。

 だが、俺が遅刻を繰り返すたびに、周囲の人たちの頭に、俺が

というイメージがはっきり固まっていって、そしてそれを

ことなくダラダラした態度をとり続けた結果が、今だった。

 今、俺は誰からも信用されず、信頼されず、いなくてもいい存在と認識されている。

 そしてそのことを、俺は、



 だから改善せず、夢も希望も熱意も無い、自分に甘い生活を続けているのだ。





 唐突に、スマホが着信音を鳴らした。

 店長からのモーニングコールだ、と思いながら液晶画面を見ると、そこに映っていたのは案の定、店長の名前。

 電話に出ると店長は、

『起きてるか』

 店長が怒っていることは、声のトーンから察せられた。

「すみません」

『いいよ、もう。佐藤君はもう、来なくていい』

「クビってことですか?」

 人生初めての戦力外通告に、一瞬驚きはしたものの、訊き返した俺の声は普段と変化が無かった。

 その、まったく焦ったように感じられない声を聞いて、店長は俺にやる気が無いことを確信したようで、

『働いた分の給料は払うから』

 お疲れ様も、さようならの一言も無く、通話を切ってしまった。

 俺はスマホを枕元に投げ捨て、寝転がった。

「……終わってるな」

 

終わっているのか。従業員をあっさり切り捨てる店長の性格が終わっているのか。自分が発した言葉なのに、それが、誰に対して向けられた言葉なのかわからなかった。

 外からカラスの鳴き声が聞こえてくる。

 俺は傍の棚から適当な本を掴み取り、開いたページに書かれている文字を流し読みして、閉じた。

 本をスマホの傍に投げて、天井を見つめる。

 退屈だった。俺には、

が足りない。

 俺が

、俺の中にあったものが、今は完全に抜け落ちてしまっている。

 だが、抜け落ちたということは、俺の中で『いらない』と認識されたからだ。一度捨てた本の内容を忘れてしまうみたいに、

は、俺の人生にとって大して重要なものではなかったのかもしれない。

 では、今の俺に必要なものはなんだろう?

 夢は、無い。持っていた時期もあった。でも、捨てた。俺にとって、

と認識されたからだ。





 俺は映画監督になりたかった。

 学生時代、自主制作映画を動画投稿サイトにアップしていた。

 最初は十人くらいしか視聴者がいなかったが、映画の数が増えるごとに、視聴者の数も増えていった。

 見る人が増えていくのが嬉しくて、楽しくて、俺は月一ペースで短編映画を投稿した。

 運が良かったのか、努力が実を結んだのか、いつしか俺の自主制作映画には広告が付き、動画投稿サイトから広告料を得られるようになった。

 貯まっていく金を眺めながら、俺は、この金で機材を増やし、同じ志を持つ仲間を集めて、世界に名を広めるほどの映画製作会社を設立しようと夢を膨らませた。

 俺は夢の階段を順調に上っている……はずだった。

「ふ、ふざけんな! なんだよこれ!?」

 ある日に投稿した自主制作映画が、動画投稿サイト内で炎上した。

 内容が過激だったのだ。CGとはいえ、刃物で人を大量に殺すシーンは、リアル過ぎて、それが炎上の火種になってしまった。

 そして、アップするタイミングも悪かった。丁度その日、動画投稿サイトで毎日更新されている報道チャンネルに、俺が作った映画の内容とほぼ同じ内容の殺人事件がアップされたのだ。

 視聴者は、俺が作ったチャンネルの百倍多かった。だから、大量の視聴者が、俺の映画に「不謹慎」とコメントしに来た。

 そして、増えたアンチが例の映画だけでなく、過去作にも批判的なコメントを書きまくったせいで俺のチャンネルは荒れ、収拾がつかなくなった状況を見かねた運営が、俺のアカバン(アカウント停止処分)を決行した。

 俺は、夢なんて持たずに普通に生きよう、と決めた。





「…………」

 なんで生きているのだろう。なんのために生きているのだろう。

 俺は弾かれたように立ち上がった。

 歩きながら寝間着代わりに着ているジャージを脱ぎ捨て、全裸になってバスルームに入る。シャンプーと石鹸を使わず、髪と身体をお湯だけで洗う。何故だか知らないが、俺は焦っていた。

 濡れた身体をバスタオルで拭き、タンスから適当な衣服を引っ張り出し、着替える。

 ジーパンのポケットに財布と部屋の鍵とスマホだけ入れて、外に出た。

 得体の知れない不安と焦りがあった。俺の心は、ハンドルを失った車みたいに目的がはっきりしていなかった。

 両手を上着のポケットに突っ込んで、歩道を、車道と隔てるフェンスに沿って進む。

 バス停に立つ人々が、俺を一瞥する。


 ……何故、俺を見る? 俺が仕事もせずに昼間から散歩しているニートだとわかって、心の中で馬鹿にしているのか?


 自分の行き場がちゃんと決まっている連中が、俺を見下しているのだ。

 この考えが単なる被害妄想だとしても、辛い。

 人がいない場所に行きたいと思った。人が密集した大都会から出て、ひと気の無い森の中に入りたい。

 この寒い時期に、熊も蜂もいないだろう。いや、いたとして、それがなんだというのだ。襲われたら襲われたで、死ねばいい。俺が死んで悲しむ人など、いないのだから……。

 兄も弟も、姉も妹もいないが、両親はいる。酒とパチンコが好きだった両親は今も、祖父が遺した多額の財産を使って、残り少ない人生を謳歌している。

 俺は、絶対に両親のようにはならない、と思いながら生きていたが、今の状況と、俺が嫌っていた両親の生き方に違いがあるだろうか。

 働かずに、残っている金を消費するだけの、ただ生きているだけの存在。ただ、違いがあるとすれば、人生を楽しんでいるかいないか、それだけだ。

 俺はコンビニに入り、設置されているATMからありったけの金を引き落とした。札束を財布に仕舞い、コンビニを出た。

 そしてまた、歩道を進む。速足で駅を目指し、着いたらすぐ設置端末に近づき、交通系カードに数万円分のチャージを済ませた。

 電車に乗り、適当な席に座る。満員ではないが、空席が無くなる数の人が乗っていた。

 俺は下を向いて、「人が増えたら立とう」と思った。車内にいる、俺以外の人々には

がある。何も無い、根無し草の、俺のようなクズには、本来なら、座席に座る資格など無いのだ。

 ドアが閉まり、電車が走り出す。誰もこちらに興味など持っていない。それなのに、何故か俺は息苦しさを感じていた。いつの間にか、閉所恐怖症にかかってしまったのかもしれない。

 一度走り出したら、次の駅に停まるまで降りられないのは、押し付けられた仕事を終わらせるまで解放されない、サラリーマン時代の仕事場と似ている気がする。あの頃は毎日残業で、十分な睡眠がとれない生活が続いていた。俺が電車内にいることに息苦しさを感じているのは、あの頃に植え付けられたトラウマが蘇ってしまったせいだろうか。誰も見ていないはずなのに、全方向から巨大な目玉に見つめられているような気持ち悪さが纏わりついてくる。

 俺は停車した駅に、逃げるように降りた。そこは、運悪く人の乗り降りが激しい駅で、俺はまた、人の視線が気になって仕方なくなってしまった。

 駅を出て、バス停傍のロータリーで客待ちをしているタクシーに乗り込んだ。

「人がいない場所までお願いします」

 六十を超えていると思しき男の運転手は、腰をひねって俺の方に顔を向け、

「お客さん。なんか、悩みでもあるのかい?」

 そんなことを訊いてきた。

 バックミラーに映る俺の顔は、自分でも心配になるほど暗かった。

「まぁ、ちょっと……」

「やっぱりか。そんな顔しているもんな、お客さん」

 運転手は、何か懐かしいものを見るかのような瞳を鏡に映る俺に向けながら、しゃがれた声で言った。

「俺らん時はなぁ、若いうちは無理してでも働くもんだったよ。けれども、今の若者は俺らん時と違って大人しい子が多いから、何かあるとすぐ落ち込んで自分の殻に閉じこもってしまう」

 このジジイ、若者を見下しているのか。

 若者だって、苦労して生きているんだ。俺だけがクズであって、他の若者全部をお前の物差しで測るんじゃあない。

「……あ、そうすか」

 運転手の言い方が気に障り、俺は不愛想に返した。

「お客さんも若いから、なんか疲れちまって、生きるのが辛くなっちまったんでないかい? あんまり深くは訊かんけれど、気持ちが落ち着いたら、ちゃんと(ウチ)に帰んなよ?」

 うるせえ、黙れ。帰る場所なんてないんだよ。

 運転手の慰めの言葉は、今の俺には一文字も届かなかった。

「まぁ、そこにある飴でもなめて。気分を落ち着かせたらいい」

 そう言って、運転手は車を発進させた。

 俺は座席の後ろに取り付けてあるカゴから適当に飴を取った。くだらない話を聞いてやったお詫びだ、と腐った感想を心の中で吐き捨てた後に、ごっそりと鷲掴みで。

 包み紙を破いて、飴を次々と口の中に入れ、ワニみたいに嚙み砕きながら、「そういえば、正確な場所を告げなくてよかっただろうか?」と考えたが、ひと気のない場所であればどこでもいいだろうと開き直り、すべてタクシー運転手に丸投げした。

 タクシーは緩やかに車道を走っていた。俺の中でタクシー運転手は、客数を稼ぐためにスピード重視の荒い運転をする人が多い印象だったが、この人の運転は上手で、まったく揺れが無かった。

 会話も無く、発進する前に話をしたきり、運転手も俺も無言だった。

 そのうち俺は眠気にウトウトし始め、そのまま眠ってしまった。

 そして……。

 次に俺が目を覚ましたのは、運転手に、目的地に着いたことを知らされた時だった。

「おーい、お客さん。着きましたよ」

「はい。……え?」

 一体、何時間走ったのだろう。時間をまったく気にしていなかったせいで、俺は瞬間移動したかのような感覚に陥った。

 なんとなく、昼前くらいに乗ったとは思う。運転席を覗き込むようにして、電光板に映る数字を見ると、今は十八時だった。眠ってから、下手したら六時間は経っているかもしれない。外は暗く、空には綺麗な星々が光っていた。

「はははっ。いやいや、結構遠くまで走っちゃったよ~。でも、ここは緑が多くて休むには最適な場所だと思うから、ね?」

 運転手は苦笑いしながらそう言うと、俺の給料の半分くらいの金額を請求した。

 ふざけんな、ボケ。……そう言いたくなったが、これは、普通に考えてちゃんと場所を言わなかった俺が悪い。

 俺は万札を数枚、運転手に差し出し、釣りを受け取ってタクシーを降りた。

 辺りは真っ暗闇だ。どこかの森の中だということは、なんとなくわかるが……。なんだか、目隠しをされた状態で、ここまで運ばれて来た気分だった。

 タクシーは、道路の無い、道と呼べるのか怪しい場所に停まっていた。地面に車が何度も通った形跡が無い。車が通れる道は、恐らく、自然にできたものだろう。「あの、ここは……」と場所を訊ねようとした俺を置いて、運転手はドアを閉め、走り去ってしまった。

 取り残された俺は、妙な心細さを覚えた。人がいない場所に行きたがっていた気持ちに間違いはない。しかし、日暮れの森の中にたった一人放置されるのは、何か違う。

 明るい森の中で、風に揺れる木の葉の音を聞きながら、自身も木になった気になって佇む。俺が想像していたのは、そんな、落ち着いた時間を過ごすことだったのに、暗闇の中で聞く木の葉の音は、姿の見えない怪物が俺を嘲笑っているかのようで不気味だった。

「マジかよ。クソだりぃな……」

 朝から何も飲まず食わずだったせいで、喉が渇くし腹も減った。泊まるホテルの予約もしていないし、そもそも、ここがどこなのかわからない。

 スマホの地図アプリで場所を検索しようとしたが、電波が悪くて位置情報を得られなかった。

「マジで、また

っぽいな……」

 どうしていつも、俺は行き当たりばったりなのだろう。どうして後先考えずに、衝動的に動いてしまうのだろう。こんなことを続けていたから、今の結果になってしまったというのに、何故、俺は学習しないのか。

 俺はここに来るまで、自身の頭の悪さを改善しようと努力しなかった。壁にぶち当たるといつも逃げてしまう癖を直そうともしなかった。

 だが、もしも、俺がもっと頑張って生きていたら、できないことをできるようになるまで努力していたら、普通の生活ができて……。

 いや、俺には無理だ。やる前から諦めてしまっている、俺にできるわけがない。

 世の中には、普通に生きられない人間がいる。努力のできない人間がいる。その両方に当てはまる俺に、この先の未来などあるはずがない。

「……死ぬか」

 自然と、口からその言葉がこぼれ出た。

 空腹と喉の渇きで考えることが面倒になり、俺は雑草の絨毯が敷かれた地面に座り込んだ。

 このままボーッとしていたら、死ねそうな気がした。

 死ぬのがこの世でもっとも苦しいことだと誰かが言っていたが、果たしてそうだろうか。

 俺はこれまで、死にたいと思ったことはあっても、実際に行動したことはなかった。

 もしも、空腹と喉の渇きが限界まで達した時、俺は、どのような精神状態になるのだろう。

 やっぱり死にたくない、と。また逃げ道を探すのだろうか。

「…………」

 俺はどうして、ここにいる?

 俺は何がしたいんだ?

 俺は……。

「あんた、ここで何している?」

「うわッ!?」

 すぐ傍から聞こえた声で、俺の心臓が跳ねた。

 慌てて立ち上がり、声のした方へ目をやると、そこには、提灯を片手に持った一人の老人がいた。


 ……なんだ、この爺さんは? そっちこそ、なんでこんなところにいる? ここで何をしていた?


 混乱する俺に、老人は言う。

「お、驚かせる気はなかったんだよ。ごめんね。いやね、ここに人が来るのは珍しいから、誰だろうと思ってね」

「は、はぁ……」

 俺は老人をまじまじと見た。背は低いが、腰はピンとしていて姿勢が良い。

のような見た目の、厚手の服を何枚も羽織っていて、ズボンもふっくらしており、暖かそうな格好だった。履いている長靴は藁で出来ているみたいで、俺の頭に、昔話に登場するお爺さんのキャラクターが浮かんだ。

「兄ちゃん、ここで何をしていたんだ?」

 老人の質問に、俺はパッと答えることができなかった。

 俺は、こんなところで何をしている?

 まるで記憶喪失状態だ。

「いや、その、なんでしょうね……。なんか、よくわからないですけれど、気がついたらここにいました……」

「んん?」

 意味がわからなかったのか、老人は眉間にしわをつくった。

 俺も、自分で何を言っているのかわからない。死のうと思っていたけれど、老人に話しかけられたら死ぬ気が失せて、そして今は……。

「う~ん、迷子かなぁ?」

 老人の呟きに、俺は頷いた。

「ま、迷子です……」

 そういうことにしておいた。
 
「兄ちゃん。家はどこだい?」

「家は、○○県にあります」

「○○県かぁ。歩いて帰る距離じゃあないねぇ」

「ここって、どこなんですか?」

「□□県だよ」

「□□県!?」

 ふざけている。あのタクシー、地方まで俺を運びやがった。

 怒りが沸き上がってきたが、時すでに遅し。タクシーはもういない。

「おいおい、兄ちゃん。そんな怖い顔してどうしたんだい?」

 老人にもわかるくらい、俺は感情が顔に出ていたみたいだ。

 文句をぶつける相手が違うのはわかっているが、今現在、対象が目の前にいる老人しかいないので、俺は心の中で「他人事みたいにいいやがって。本当に心配なら俺を一晩泊めてくれ」とクズらしいセリフを吐いた。

 そんな、俺の我儘(クズ)な想いが通じたのか知らないが、老人は「よし!」と声を上げると、

「迷子なら、とりあえず(ウチ)来るかい? 今から帰るのは無理だろう」

「えっ!?」

 まさか、本当にそう来るとは思っていなかった。

 俺は、その言葉を待っていたと言わんばかりに飛びついた。

 老人を見る今の俺の目は、夜空に浮かぶ星くずの如く、輝いていたことだろう。

「い、いいんですか? で、でも、お金はちゃんと払います!」

「いいっていいって。気にすんな」

 老人はニコニコ微笑みながら、

「その代わり、今夜は酒に付き合ってもらうぞ。酒、飲めるよな?」

「の、飲めます! こちらこそ、喜んで!」

 何度も頷く俺を見ながら、老人は嬉しそうに笑った。

 世の中には、人に何かしてあげることに幸福を感じる人がいる。この老人は、そのタイプなのかもしれない。

 ついでに、大の酒好きなのだろう。飲み仲間を確保したことに、心底喜んでいる様子だった。

「少し歩くぞ。落ち葉で滑るから、足元に気をつけてな」

「はい!」

 上機嫌になった老人と俺は、一緒に森の中を歩いた。

「あ、あの……。俺、佐藤(さとう)(たくみ)っていいます。あなたは……?」

前田(まえだ)勝田(しょうた)。匠君は、今いくつなんだい?」

「今年で二十六です」

「娘より一つ年下だな。二十六じゃあ、今一番楽しいだろう。体力も金もあって、社会のこともそこそこわかる、良い年齢だ」

「そうっすかねぇ……」

 前田さんが言ったことと逆パターンが、俺の今だった。

「匠君は、結婚しているのかい?」

「してないです。恋人すらいないっす……」

「ジジイになったら寂しくなるぞ。相手は若いうちに見つけておいた方が良い」

「そうですね……。でも、出会いが無いっつーか、なんというか……」

「若いんだから、当たって砕けろだ。匠君、男前だし、もっと積極的になれば、女の一人や二人、すぐ見つかるよ」

「だといいんですけどね……」

 男前、と言われたのは生まれて初めてで、俺はちょっとだけ、自分が好きになった。

 前田さんの言う通り、やる気を出せば恋人を作れるのかもしれない。

 学生時代、風俗で童貞を卒業してつけた自信が、本当の恋愛で玉砕してから意図的に女を避けて生きていたが、前田さんの言葉で、違った意味で自信を取り戻した。

 道なき道を前田さんの後を追って進んで行くと、小さな灯りが点々とした、村と思しき場所に辿り着いた。

「ここは……」

「小さな村だよ。○○県の都会育ちじゃあ、見慣れない景色だろう」

 やっぱり村なのか。街灯も道路も見当たらない、古臭い場所だとは思ったが、まさか、村だとは……。

 家らしき建物に点いた灯りの数は、十秒で全部数え終えられそうな少なさだった。

 ふと、傍に立て看板があるのに気がついて、俺はそこに書かれている文字を読んだ。

(のう)美祖(みそ)村……。のうみそ村? この村の名前ですかね……?」

「〈脳美祖(のびそ)村〉っていうんだ」

「ああ、なるほど。

ですね……」

 のうみそ村なんて名前の村があってたまるか。

 自分のアホさに、俺は心の中で突っ込んだ。
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