第2話

文字数 12,725文字

 〈脳美祖(のびそ)村〉は、緑の中に沈められた村だった。

 例えるなら、大きな森があって、その一か所を皿型に抉り、できたくぼみに村をすっぽり入れたような感じだ。

 俺は〈脳美祖村〉を見下ろし、何かこう、子供心をくすぐられたというか、冒険の匂いに誘われて見知らぬ土地にやってきた、旅人のような気分になった。

 先に進もうとした俺を、突然、前田さんが手を上げて制止した。

「ちょっと待って。俺が先に行く」

 そう言った後、前田さんは方向転換し、ゆっくりと地面に沈み始めた。

 そんな馬鹿な、と思い目をこらすと、前田さんが、長い木製の梯子を使ってくぼみの中に入ろうとしているのが見えた。村に入るためには、村を囲む巨大な土の壁に設置された木製の梯子を下りる必要があるみたいだ。

 前田さんが下りた後、俺も木製の梯子を下って村に入った。自分が先ではなかったからなのか、高所から足元の見えない闇へ下って行くことに、そこまで恐怖を持たなかった。

 地面に立ち、振り返ると、十メートルを超える土の壁があった。今下った木製の梯子を使わなければ、ここを登るのは不可能だろう。

 俺が、村の名が書かれた立て看板から見た〈脳美祖村〉は、大雨が降ったら一発で水没してしまいそうなほど小さなものだったが、それは高所にいたからそう見えただけで、実際に村の中に入ると結構広く感じられた。

 新築らしき建物は見当たらなかった。目につく建物のどれもが、壁にヒビが入り、屋根から生えた植物の蔓が垂れている。隣に生えた巨木の枝と、所々が破れて組木が剥き出しになった家の屋根とが一体化したファンタジーチックな建物もあった。

 こんな村がまだ日本にあったのかと驚き、ネット検索をかけてみようと液晶画面を見ると、いつの間にか〈圏外〉になっていた。

「あの、前田さん。ここって、ネットがダメな場所なんですね」

「そうだよ」

 それがどうした、と言わんばかりに、前田さんは即答する。

「ネットが使えないんじゃあ、今の若い子は退屈になるんじゃあないですか?」

 他人を気にかけるような訊き方だったが、その答えを知りたいのは俺自身だ。ここでネットが使えないことを気にしているのは俺だけで、不満感情を前田さんに悟られたくなくて、遠回しな訊き方になってしまったのだ。

「そうでもないよ。田舎育ちの子は、あるものでどうとでもできるんだ」

 前田さんは、俺には思いつかない答えを出した。

「飽きたら、自分らで娯楽を見つけるために想像力を働かせる。そしてそれも、一つの〈娯楽〉なんだ」

「はぁ……」

 遊び方と場所は、その気になればいくらでも見つけられる、ということだろうか。

 確かに、山でも川でも森でも、楽しみ方は色々ある。登山、川釣り、川下り、キャンプに虫捕り、等々……。思いつく限り頭の中に並べてみたが、引きこもりの俺には、どれもやる気になれない遊びばかりだった。

「あっと、いけねぇ。酒買うの忘れていたよ」

 突然、前田さんが立ち止まって言った。急発進、急停車する、気まぐれな車みたいな人だと思った。

「悪い匠君。ちょっと寄り道するね」

「……? それは別に構いませんが……」

 開いている店なんてあるのだろうか。この村を高所から見た時、二十四時間営業のコンビニや酒屋は無かった。

 前田さんは灯りの点いていない一軒の家に歩み寄ると、いきなり戸を叩いて、

「おーい! 酒くれ!」

 どう見ても酒屋に見えないその家に向かって叫んだ。

 静かな村なので、エコーがかかったように、前田さんの声が遠くの山の方まで飛んで行った。

「……はい?」

 数秒後、家の戸が開いた。出て来たのは、大柄な体躯の男性だった。坊主頭で顎に髭を生やしている、強面の男だ。右手に酒瓶を持って、うんざりした口調でその男は言う。

「前田さん。ウチは酒屋じゃあないんですけれど?」

 さっきまで眠っていたのか、男は喋りながら大きな欠伸を漏らした。

「いいじゃねーかよ、鏑木(かぶらぎ)君。いっつも寝てばっかりで健康に悪いから、起こしてやろうと思ったんだよ」

「いい迷惑だよ。とにかく、ほら……。酒持ってさっさと家に帰ってくれ」

 鏑木という男は、前田さんに持っていた酒瓶を渡すと、俺の方に目をやって、

「なるほどな。飲み仲間を手に入れて上機嫌ってことか。あんたも、こんな吞兵衛に捕まるなんて運が悪いな」

「どうも……」

 俺は鏑木さんに会釈した。

 前田さんと話す時と違って、鏑木さんの口調は穏やかだった。

 悲し気な表情を浮かべているように見えるが、眠いから垂れ気味になっているだけだろう。

「おーい、行くぞ匠君!」

 前田さんに呼ばれたので、俺はペコペコ頭を下げ、鏑木さんに背を向けた。

 なんだか、背後から視線を感じる。歩きながら振り返ると、鏑木さんが、家の中に戻らず、玄関に立っていた。

 俺を、見ているのかもしれない。この村の住人にとって、俺みたいなよそ者は珍しく映るのだろうか。

「そういえば、匠君。気になっていたんだが、匠君が森の中にいたのには深い理由があるんだろう?」

「……え?」

 鏑木さんを気にしていた俺は、前田さんに話しかけられたことに一秒遅れて反応した。

「すみません。なんですか?」

「いや、だからね。匠君がここに来た理由だよ。この辺の人じゃあなければ、あんなところに行かないから」

「あぁ、まぁ、そっすねー……。迷子って言いましたけれど、そうなるまでの過程が、ちょっと複雑で……」

「複雑? なんだい。誰か殺して、逃げて来たとか?」

「そ、そんなわけないじゃないですか!」

 冗談だとわかっていても、その物騒な質問に、つい俺の拒否反応が出てしまった。

 俺は自分がクズだと自覚しているが、そんなクズでも、人殺しだけはしない。絶対にしてはいけないと、強く思っている。

「いやだって、複雑って言うから……」

 前田さんは俺に怒鳴られたと勘違いしたのか、ちょっぴり大人しくなってしまった。

「あ、いや! 大声を出してしまってすみません! いやその、なんていうか……。俺、自分がなんのために生きているのかわからなくて……。それで、その……」

「自分探しの旅に出た、とか? そういうことかい? で、道に迷ってしまった」

「なんだろう、わかりません……。マジで、俺、なにやってんだろ……」

 思考がまとまらず、イライラして頭を掻く俺を見て、前田さんは優しい声で、

「まぁ、続きは家でゆっくり話そうか。こんなジジイでよければ、相談に乗ってあげるから、ね?」

「ありがとうございます……」

 話をしているうちに、目的地に着いた。

 小高い丘の上に建つ、平屋建ての一軒家。ここが、前田さんの家らしい。

 家には電気が点いていた。窓が開いている箇所があり、そこから味噌汁の匂いが漂ってくるので、きっと、前田さんの奥さんが夕食を作っているのだろう。物音は聞こえるが、人の声は聞こえてこなかった。

「さぁ、上がってくれ」

「はい」

 前田さんが出入口の引き戸を開けたので、俺は軽く会釈して、土間に入った。

 正面と左に廊下、右には靴箱がある。先に前田さんが上がり、俺も「お邪魔します」と一言いってから靴を脱いで続く。

「おーい! 帰ったぞー!」

 前田さんの声に、「はーい」と女の声が返って来た。多分、奥さんだ。声のした部屋へ向かって、前田さんは歩いて行く。

 廊下は、足裏が触れる度にギシギシと音が鳴った。正面の突き当りにある引き戸のガラスにはヒビが入り、その上にガムテープが何枚も張られている。埃が見当たらない綺麗な廊下なので掃除はされているようだが、壁のヒビや、天井に張られた小さな蜘蛛の巣はそのままだった。建てられてどのくらい経っているのかわからないが、最近建てられた家でないことは見た目でわかる。

 突き当りから、数歩分離れたところにある引き戸を開けて、俺と前田さんは中に入った。そこは六畳ほどの部屋で、キッチン共用のダイニングルームのようだった。

「おかえり。……って、あら?」

 炊事場の前にいた女性が、野菜くずの付いた包丁を手に持ったまま振り返り、小首を傾げる。

 間違いなく、俺だろう。俺を見て、「誰だろう」と不思議がっているに違いない。

「匠君だ。村の近くにある森で迷子になってたところを見つけて連れて来た」

 前田さんが女性に説明してくれた。

「そうなんだ。ふ~ん……」

 女性は俺のことを警戒している様子だった。

 年齢は、二十代後半くらいか。身長は百六十センチくらいの、痩せ型だ。でも、首から提げているエプロンの膨らみ具合を見るに、胸は結構大きい。この女性は、前田さんの娘だろうか。

「おい。メシだメシ。匠君の分も頼む」

「お父さん、手洗った? うがいもまだだよね」

 前田さんを「お父さん」と呼ぶから、この女性は娘で正解だ。

「酒飲んで消毒する。なんなら、酒で手を洗っちまうか」

「馬鹿言ってないで早くして」

 娘に急かされ、前田さんは苦笑いして踵を返す。

 俺を連れて廊下に出ると、さっき見たガムテープ付きヒビ入りガラスの部屋へ向かった。

 そこは洗面所で、隣は風呂場だった。この洗面所は、脱衣場も兼ねているらしい。

「あれ、俺の娘の勝子(しょうこ)だ」

 自分の娘を、前田さんは自慢げに俺に紹介する。

「あいつなぁ、名前の通りの、負けん気の強い子に育っちまったよ。昔は大人しかったんだけれどもなぁ」

「勝つ子供と書いて、勝子さんですね。ご飯作ってくれるとか、めちゃめちゃいい人じゃあないですか」

「ああ。母親が今、出稼ぎでよ。たまにしか帰ってこない母親の代わりに、勝子が俺の尻を蹴飛ばしてくるからグータラできねえで困ってるよ」

「勝子さんは、お母さん似なんですね」

 男の子は母親に性格が似て、女の子は父親に似るという、俺の中にあった一般家庭の常識とは、まったくの逆パターンで、珍しいと思った。

「勝子と母親、二人揃ったら俺は死ぬ」

 前田さんが女二人に尻を蹴飛ばされているシーンを想像したら、ちょっと面白かった。

 俺の家庭とは違い、ここは賑やかだ。

「ちゃんと、やることやらないとな」

「そうですね」

 俺と前田さんは二人して肩を寄せ合って、洗面台で手を洗い、うがいをした。壁に取り付けられたプラスチックの輪にかけられているタオルで手を拭き、口元の水滴は手の甲で拭った。

「どうだ。勝子、可愛いかっただろう?」

「はい」

「手を出す時は、俺がいない時にしろよ」

「……は?」

 一瞬でフリーズ。まさか、父親の口からそんなセリフが出るとは思ってもいなかったので、俺は返答に困った。

 前田さんが元気な人だということは、ここまでの短いやりとりで把握したが、今日出会ったばかりの俺に、ド下ネタをぶつけるのは、ちょっと、間違っていると思う。

 エロい人、と思えばそれまでだが、俺には下ネタの耐性がまったく無いので、ノリ良く対応できなかった。

「い、いや、しないですよ……」

「匠君は真面目だねぇ。まぁ、冗談だけれどね」

 前田さんはニヤニヤ笑った。

 それを見て、俺は、ちょっと引いた。冗談だったとしても、なんだか納得できない。

 でも、下手に言い返して口喧嘩になるのは避けたかったので、俺は、前田さんの会話に無理矢理合わせることにした。

「できたよ」

 前田さんの娘の勝子さんは、突然やって来た俺の分まで、夕食を用意してくれた。

 俺と前田さんがテーブルに向き合って座ると、勝子さんが二人分の箸を置いた。

 もう食事を始められる。しかし、客から先に料理に手をつけるのは失礼だったので、俺は前田さんから食事を促されるまで待つことにした。

 で、その前田さんはというと、何やら、自分のおでこに両の握りこぶしを当てて、まぶたを閉じ、

「〈脳美祖神(のびそがみ)〉様、〈脳美祖神〉様……。私たちの脳に宿る、美しき神よ。あなたの一部を、私たちの心と体を支える糧として頂くことをお許しください」

 などと呟いている。

 その様子は、まるで、クリスチャンが食事前に、キリストにお祈りを捧げているかのようだった。

 宗教は別だろうが、多分、似たようなことをしているのだと思う。

 この村の名である〈脳美祖〉とは、恐らく、この土地を守る神様からとって付けた名前なのではないだろうか。

「匠君も、ほら、真似して言って」

「はぁ……」

 前田さんに急かされたが、今のセリフ全部、一度で覚えられるほど俺の記憶能力は高くない。

 俺はお祈りの言葉を前田さんから、今度はゆっくり聞かせてもらい、ぎこちない口調で復唱した。


 ……で、結局、お祈りの意味はなんだったのか?


 俺が前田さんに訊く前に、この人は、

「さぁ、乾杯しよう」

 鏑木さんから貰った酒をコップに注いで、早く飲みたいという気持ちを込めた視線を俺に送ってくる。

 ちゃっかり注がれていたコップを持って、俺は前田さんと掲げ合い、一口飲んだ。

 久しぶりに飲む酒は、初っ端、舌が拒否反応を示した。「あれ? 酒ってこんなに不味かったか?」と、すぐ水を要求したくなるほど、俺は下戸に近い体質になってしまっていた。

 しかし、これは恩人が注いだ酒。残すことは論外だし、不味そうに飲むのも悪いことだ。……と、無理矢理、喉奥に流し込んだ。

「食おう。ほれ、匠君も」

「あ、はい」

 俺はコップを置いて、箸で魚の切り身を一つ摘み、口に入れた。

 咀嚼して、今まで食べたことの無い味と、弾力のある食感に驚き、噛む力が緩んだ。


 ……なんだこれ? これは、なんの魚だろう……。


 改めて、大皿に並べられた切り身を見る。うっすらと赤みを帯びているが、多分、これは白身魚だ。捌く前の姿を見ていないし、そもそも、生きている魚自体、都会では見ることがほとんど無いので、見た目も名前も予想がつかなかった。

「ん? なんだい匠君。(こい)を食べるのは初めてかい?」

 前田さんにそう言われて、まったく予想だにしていなかった魚の姿が俺の頭に浮かんだ。

「こ、鯉!? へ、へぇ、鯉ですか……」

 あれは確か、小学生の時だったか。

 仲の良かった金持ちの友人の家に遊びに行ったとき、庭にあった小さな池の中で数匹の鯉が泳いでいた。赤と白のツートンカラーで、大きさは三十センチはあった。食べられることは知っていたが、そんなことをするのは余程腹が減った人だけで、普通は食べない魚だと思った。

 あの、観賞用に飼われることが普通だと思っていた鯉が、まさか食卓に出されるとは……。しかも、それを食べることになるなんて……。

「どうだい、匠君。なかなか美味いだろう? 鯉ってのは、ここじゃあ、どこの家でも食っている一般的な食べ物だ。淡水魚で泥臭い魚だが、勝子は下処理が上手だから、全然そんなことはないだろう?」

「はい。普通に美味しいです」

 噛み途中だった鯉の切り身を口の中で砕いて飲み込むと、少しだけ泥の味がした。気になるほどではない。

 前田さんは早くも一杯目を空にしており、新たに注いだ二杯目に口をつけていた。そして、飲みながら、俺の方を何度もチラチラ見てくる。

 俺が、酒の飲めない奴だとがっかりしていなければいいのだが……。

 味に抵抗はあったが、前田さんの手前、無理してでも飲むべきだと思った。

「良い飲みっぷりだね。匠君」

 前田さんは嬉しそうだ。その笑顔は、見ているだけで俺も嬉しくなるが、身体は毒に侵されたみたいに不良だった。たった一杯で酔っぱらうなんて、そこまで酒の弱い人間だったのかと、自分自身にがっかりした。

 飲んでいる酒が度数の高い焼酎というのもあるかもしれない。度数の低い酎ハイだったら、前田さんのペースにも合わせられたと思う。

「佐藤さん。顔、真っ赤だよ?」

 勝子さんが心配するような口調で言う。

「お父さん。お客さんに、あんまり無理させないでね」

「若いから大丈夫だ!」

 前田さんも、飲むペースが速いから酔っていた。

 だが、俺と違ってこの人はまだまだいけそうだ。今、三杯目の焼酎をコップに注いでいる。俺はまだ、一杯目すら飲み干していない。

 鯉の切り身ばかり食べていると、皿が空になった。

 勝子さんがすぐ、皿を下げる。そしてもう片方の手に持っていた唐揚げをテーブルに置いた。勝子さんは既に夕食を済ませているのか、俺たちの食事に加わらず、ひたすら調理に専念していた。

 何か口に入れないと、酒が飲めなくなりそうだった。俺は出来たての唐揚げを一つ口に入れて咀嚼した。鯉の切り身を初めて口に入れた時と同じ気持ちになった。

 俺は食に詳しいほうではないが、今食べたのが、鶏肉の唐揚げでないことは断言できる。どちらかというと、畜肉より魚肉に近い食感だ。噛むとすぐ身が崩れて、あっという間に腹に収まる。

「これも多分、食べたのは初めてかもしれません……」

「おっ! 岩魚(イワナ)も初めてかい! 今日は知らない食べ物を沢山食べられて良かったね!」

 鯉といい、岩魚といい、この村では主に、川で捕れる生き物を食べているようだ。

 酒だけが、ちょっとアレだが……。食べ物は美味い。

「じゃあ、もっと良いもの食べるか!? おい勝子! 

があったら煮て出してくれ!」

 前田さんの注文に、勝子さんは嫌そうな顔で、

「それは、お客さんに出すのはよくないんじゃあないかな」

 無視するように、前田さんに背を向けてしまった。

 ヒルとは、勝子さんが出すのを躊躇うほどの、独特な味の食べ物なのだろうか。

「前田さん。ヒルってなんすか?」

山蛭(ヤマビル)だ! 噛み応えがあって美味いんだよ! 木耳(キクラゲ)みたいでよ!」

「でも、見た目が気持ち悪いんだよね」

 勝子さんが補足する。

「それって、キノコの仲間か何かですか?」

「いや、蛭だよ蛭!? 知らない!? 生き物の血を吸う、ナメクジみたいな見た目の奴だよ!」

 俺の頭がようやく(ヒル)の姿形を作り出し、その瞬間、全身に鳥肌が立った。

 前田さんが勝子さんに調理をお願いしたのは、ゲテモノの類だ。

 実物は見たことがないが、図鑑で目にしたことはある。前田さんの言った通り、ナメクジみたいな見た目の、小さな生き物だ。あんな気持ちの悪い生き物を食べさせられそうになっていたなんて、無知とは怖い。勝子さんが反対してくれなかったら、俺は恩人の前で、恩人の娘が作ってくれた料理を吐き出していたかもしれない。

「お父さん。蛭はダメ」

「え~! しょうがねえなぁ……」

 勝子さんが断固として許さないので、ついに前田さんの方が折れた。そして、もう何杯目かわからない焼酎に口をつける。

 俺の分の焼酎は、まだ三分の一ほど残っていた。まだ一杯も飲めていないのに、俺は酔って、頭痛を感じ始めていた。

「匠君。大丈夫かい?」

 さすがの前田さんも、俺が酒の弱い人間だと察した様子だった。

 一応、まだ大丈夫なフリはしていたのだが、前田さんの目は誤魔化せなかったようだ。

 きっとこの人は、これまで多くの人と酒を酌み交わしてきたのだろう。多くの人の酔った姿を見てきたから、雰囲気だけで察せられる能力を身につけているのではないかと思う。

 今更強がりを言っても、自分で自分を苦しめるだけだと思い、俺は正直にギブアップを告げた。

「そっかそっか。いやいや、俺もさすがに、飲めない子に無理強いはしないよ」

「……すみません」

「気にしない気にしない。俺も飲み初めの頃は、そんなもんだったから」

 もっとガッカリするかと思ったが、前田さんは逆に、申し訳なさそうな様子で、俺のために水を汲んできてくれた。

「ありがとうございます……」

「今日、風呂いけそうかい?」

「いけると思いますけれど……。いやでも、いいっすよ……。やっぱ悪いっすわ、そこまでしてもらうなんて……」

「まぁだそんなこと言っているよ、この子は。気にしなくていいってのに」

「はい……」

 ダメだ。俺が何かやるたびに、言うたびに印象が悪くなっていく気がする。

 ここまでで、俺は前田さんに、後先考えない馬鹿で、酒の飲めないガキで、マイナス思考の卑屈人間だということをアピールした。

 意識していないのに、ついやってしまう。もう、俺には、今の性格を変えることなんて無理なのだろう。

 ここまで世話してもらったのに、俺は、ここから逃げ出したくなってきた。

 だが、アパートに帰っても、やることが無い。仕事を探しに行って、見つけたとしても、またすぐ辞めて、逃げ出しそうな気がする。

「……そういえば、まだ匠君の話を聞かせてもらっていなかったね」

 暗くなった俺の顔を覗き込んで、前田さんが言う。

「匠君が迷子になるまで、何があったの?」

「あ~、それは……」

 その話題には勝子さんも興味があるのか、調理の手を止めてこっちを向いた。

 二人の顔を交互に見た後、俺は言った。

「ちょっと、愚痴っぽくなりますけれど、いいですかね……?」

 頷いた二人の顔をもう一度交互に見た後、俺は語りだした。

 最初は仕事でうまくいかないクズの話だったが、次第に、幼い頃の話へと変わっていった。

 前田さんと勝子さんが真剣に聞いてくれるから、これまで溜め込んでいたものが一気に放出された感じだった。

 小さい頃から一人で過ごすことが多かったこと。友達が少なくて、いつも寂しい思いをしていたこと。両親と仲が悪かったこと。……等々、俺は暗くて重い話を淡々と喋った。

 そして、気がつくと俺は泣いていた。

 本当は、俺はずっと誰かに、〈俺の話〉を聞いてもらいたかったのだ。

 誰でもいいから、俺の、ちっぽけな頑張りを、クズみたいな性格を、ここまで歩んだ人生を、肯定してもらいたかったのだ。

「大変だったね。よく頑張ったよ、匠君は……」

「佐藤さんは、ここまで色んな苦労を乗り越えてきたから、これから良いことあるよ」

 前田さんと勝子さんに優しい言葉をかけられて、それが心と身体の隅々まで染み渡って、俺は涙が止まらなくなった。

 酔いで痛かった頭がスッキリしたのも、きっと、二人のおかげだ。





 食事が終わると、前田さんに風呂に誘われた。

 銭湯だったら裸の付き合いも自然にできただろうが、家庭用の風呂場に大人二人で入るのは恥ずかしかったので断った。

「じゃあ、お父さんが先に入ったら?」

 勝子さんの指示には、前田さんは素直に従う。たまに言い返す時もあるが、最終的に勝つのは勝子さんだ。

 俺は前田さんの次に入ることになった。勝子さんは、色々と時間がかかるから、最後に入りたいと言った。

 前田さんが風呂場へ行き、俺と勝子さんが部屋で二人きりになった。

 勝子さんが用意してくれた冷たい麦茶を飲みながら、俺はずっと、口を閉じてテーブルを見つめていた。

 前田さんと違って勝子さんはお喋りではないし、俺も、自分から積極的に話しかけに行くタイプではないので、部屋の中は食事の時とは打って変わって静かだった。

 涙と一緒に酒を流した後、水と麦茶を飲みまくったことで、俺の酔いは大分落ち着いていた。だから、余計なことばかり考えてしまう。会話の無いこの空間を、窮屈に感じてしまう。

 何か話したほうがいいのか。しかし、相手は俺と、世代も育った環境も違う人だ。どういった話題が正解なのかわからない。

 だが、ずっとこの、静まり返った部屋の中で待機するのも精神的に辛い。

 俺は飲みかけの麦茶を一息で飲み干し、椅子から立ち上がった。

「すみません。ちょっと外に出て、酔いを醒ましてきます」

「うん。でも、暗いから、あまり遠くには行かないほうがいいよ」

「わかりました。庭で酔いを覚まします」

 酔っていると嘘をつき、俺は逃げた。「またかよ」と内心思った。

 嫌なことがあるとすぐ逃げる。俺は小動物みたいな人間だ。

 しかし、この選択は間違いではなかった。外に出ると、心がスッと軽くなった。

 都会の夜と違い、ここの夜は音が無い。車の音も、人の声も聞こえない。空には、昔、図鑑で見た星座がはっきりとした形で浮かんでいた。音もなく吹く夜風に髪を撫でられる感触が心地良く、ここになら、何時間でも立っていられそうだった。


 ……もしかすると俺は、田舎が合っているのかもしれない。


 だが、直感でそう感じただけで、実際に住むとなると、考えが今と変わるはずだ。

 今の俺は、旅行者のような立場。都会の喧騒から離れ、のどかな田舎に来て、そこを良い場所だと感じるのは誰でも同じこと。たった一日二日で全てを知った気になるのは早すぎる。長く暮らしていたら、今度は都会が恋しくなるかもしれない。

「おう! 上がったぞ!」

 玄関から前田さんの声が聞こえ、俺は振り返る。白いランニングシャツに短パンと、田舎の虫捕り少年みたいな恰好の前田さんが笑顔で手を振っていた。

「そんな恰好で、寒くないんですか?」

「風呂上がりだからな。匠君もあったかいうちに入りな」

「あ、はい」

「野良猫が勝手に入るから、戸にはちゃんと鍵をかけてね」

「わかりました……」

 俺は戸をしっかり施錠してから、風呂場へ直行した。

 洗面所兼、脱衣場で服を脱ぎ、中に入ると、そこはちょっとしたプチ温泉みたいな造りだった。

 良い風呂だが、ちょっと、血みたいな臭いがする。炊事場で捌くと部屋の中が臭くなるから、勝子さんはここで魚を捌いたのかもしれない。

 浴槽が石でできており、正面の開け放たれた窓の外から、夜空が見渡せた。

 シャンプーで髪を、石鹸で身体を洗って湯に浸かり、身体を傾けたら、夜空に浮かぶ星々を観賞できた。「なにこれ、最高じゃん」というセリフが、口をついて出た。

 こんな風にゆったり湯に浸かったのは何年振りだろうか。高校の修学旅行で泊まった旅館の大浴場で湯に浸かった以来かもしれない。

 長くシャワーだけの生活を続けていたから、全身を湯に沈める感覚が、心身に染みる。

 風呂上がり。洗面所で、前田さんから受け取った新品の歯ブラシで歯を磨いた。

 その後、案内された客間に行くと、五畳ほどの部屋には既に一人分の寝床が敷かれていた。勝子さんが敷いておいてくれたのだろうか。

 俺が布団に入った後、前田さんが天井に吊るされた電球の紐を引っ張った。
 
 暗闇から、前田さんの「おやすみ」という声が聞こえた。「おやすみなさい」と返し、俺は目を閉じた。





 普段と違い、俺は機械に起こされる前に目を覚ました。

 二度寝の眠気も無く、頭の中がスッキリしていた。

 スマホで時刻を確認すると、朝の六時だった。相変わらずの圏外だが、時計アプリで設定した時間は、止まることなく動いていた。

 俺が眠っていた客間は、窓が無かった。なので、日の光が入らず、薄暗い。天気の確認もできない部屋なので、もしかするとここは、本来、人が寝泊まりする用ではなかったのかもしれない。俺のために、急遽作った、即席の客間のような気がする。

 立ち上がって、手探りで掴んだ紐を引っ張り、電球を光らせると、いきなり目の前に絵が現れ、俺はビクリと震えた。

 昨日はすぐ寝たので、気がつかなかった。この部屋に、〈女性の絵〉が額縁に入れられて飾ってあったことを今になって知った。

「この絵って、なんか……」

 俺はその絵をまじまじと見つめた。

 天女のような、ひらひらとした羽衣を身にまとった一人の女性が、巨大な木を背に佇んでいる絵だった。

 神様を描いたようにも見えるし、美人の女性が羽衣を着て立っているだけにも見えた。

 額縁の下に〈脳美祖神(のびそがみ)〉と絵の名前が書かれていた。

 昨日、夕食時に前田さんが祈っていたのは、この絵の神様なのではないかと思った。

 もしもそうだとしたら、前田さんとその家族は、〈脳美祖神(のびそがみ)〉という神様を信仰している、教徒ということになる。

「宗教か……。あまり関わりたくないんだよなぁ……」

 俺は、サラリーマンだった頃に、家にやって来た宗教の勧誘者を思い出した。奴らは『信じる者は救われる』を謳い文句に、勧誘して高い寄付金を払わせようとする悪質な金取共だ、と俺の中で定義付けされていた。

 もしも、あの時みたいに勧誘されたら、悪いが、断るつもりだ。たとえ相手が恩人の前田さん家族でも、それとこれとは話が別だから。

 襖を開けて隣の部屋に入ると、そこはどうやら前田さんの自室のようで、ひっくり返された毛布の傍に、昨日着ていたランニングシャツと短パンが脱ぎ捨てられていた。


 ……俺よりも先に目を覚ました、前田さんはどこにいるのだろう?


 襖を開くと廊下に出た。昨日、夕食を食べた部屋から良い匂いが漂ってきたので、導かれるように、そこへ向かう。

「あ、おはよう」

 開口一番、勝子さんの挨拶が飛んできた。朝食作りの最中だった。俺は「おはようございます」と返し、前田さんの居場所を訊ねた。

「お父さんなら外に出ていると思うよ。朝はいつも散歩しているから」

「健康的ですね」

「いや。早起きしてもやることが無いから、とりあえず外を歩いているだけだと思う」

「ショートスリーパーなんですね」

「そういう佐藤さんだって、早起きだね」

「なんか、勝手に目が覚めました」

「ちゃんと疲れはとれた?」

「はい」

「それはよかった」

 勝子さんは茶碗にご飯を盛った。三人分あったので、散歩に出かけた前田さんは、もうすぐ帰ってくるのだろう。

 俺に散歩の時間は無さそうだが、用を足す時間くらいはあると思う。

「すみません。お手洗い使わせてもらいます」

「どうぞ」

 頷いた俺を、勝子さんはすぐ呼び止めた。

「待って。トイレ、家の中に無いから」

「そうなんですか」

 昨日は一度もトイレを使わなかったので、その情報は初耳だった。

「家を出て裏に回ると小屋があるから。そこが家のトイレ」

「わかりました」

 家庭用トイレは家の中にある、という俺の中にあった常識が壊れた。

 田舎では、トイレだけ別の場所に設けられていることが多いのだろうか。

 そして、小屋の中にあるトイレとは、どんなものなのだろう?

 ちょっぴり楽しみな気持ちを抱いて、俺は靴を履いて外に出た。

 家を壁沿いに歩いて裏に回ると、そこには、電話ボックスほどの大きさの、木造の小屋があった。

 ドアを開けると、中には白い便器が一つだけあって、それは、都会ではまず見かけない汲み取り式の、所謂〈ぼっとん便所〉というものだった。

 実際に見たのも、使うのも初めてだが、俺はそんなことよりも、小屋内の悪臭の方が気になって仕方がなかった。

 便器の中には大量の糞尿が溜められているのが見える。食欲が失せるほどの強烈な臭いが小屋内に充満していた。昨夜、酔っぱらった状態でここに入っていたら、間違いなく嘔吐していただろう。

「くっせぇなぁ、もう……」

 右手で鼻をつまみ、左手でズボンのチャックを下ろし、しかめっ面で用を足した。

 一応、窓は一つ、取り付けられてはいたが、臭いを外に漏らさないためか、しっかりと施錠されていた。

 用を足した後、正面の窓へ目をやると、日の光に照らされた高い山々が見えた。

 その美しい景色のおかげで一瞬だけ悪臭の存在を忘れられた——と、その時だった。俺が窓から目を逸らそうとしたその瞬間、妙なものが見えた。

 遠くにある山々の麓付近を、一人の男が歩いている。ジャージにパーカーと、動きやすそうな服装の男だった。

 初め、登山者かと思ったが、その顔には見覚えがあった。その男は、昨日、前田さんが酒を貰うために訪ねた家にいた、鏑木さんだった。


 ……あの人、あんなところで、一人で何をやっているんだ?


 悪臭を忘れて、俺は鏑木さんを観察した。

 周囲をキョロキョロと見まわしているので、何かを探しているように見える。手ぶらなので、山菜取りではないとは思う。

 悪臭がちょっかいを出すように、俺の鼻をくすぐった。

 まあいいや、と俺は窓から視線を逸らした。

 前田さんに話してみようと思い、俺は小屋を出て、家に戻った。
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