第10話

文字数 8,699文字

 時計が無いので、どのくらい歩いたのかわからない。

 今は多分、昼頃だろうか。とりあえず、何か口にした方がいいだろうか、と思ったが、周囲に食べ物を売っている店は無い。

 喉は乾くが、空腹はまったく無かった。死神タクシーに乗った時、感じた空腹は、身体中の痛みに上書きされ、消えてしまったみたいだ。

 足を引きずりながら歩く俺に、声をかけてくる者はいなかった。人は、ここには俺しかいない。振り返ると、俺が進んできた道に、ポツポツと血の跡が残っていた。勝子でなくても、タクシーの衝突事故が起こった現場から俺を追跡するのは容易いだろう。

 誰も追ってこないでくれ。勝子以外は……。そう念じながら、俺は霊園の門をくぐった。

 正面には、墓地へと続く石畳の道があった。俺はそこを、血を滴らせながら歩いた。事情を知らない人が俺を見たら、自ら墓に入りに来たのではないかと思うかもしれない。

 太い木が二本、門番の如き貫禄でそびえ立つ入口から、俺は墓地に入った。無数の墓石が整然と並べられている広場を少し進み、知らない人の墓の前でドカッと腰を下ろした。

 ひどく、身体が疲れている。目を閉じたら、すぐ眠りに落ちそうだった。霊園を囲む木々が風に揺れるたびに聞こえてくる木の葉の揺れる音が心地良かった。フッと力を抜いた瞬間、眠気が襲ってきて、俺は慌てて自分の頬を手で叩いた。


 ……寝るな。俺にはまだ、やり残していることがあるだろう。


 寝るのは、全てが片付いた後だ。ここで勝子と決着をつけたら——勝子を確実に始末したら、ようやく、俺は眠れるのだ。

 たとえそれが

でも、勝子が死んでいたら、俺は満足だった。

 コツ、コツ、と靴音を響かせて、誰かが俺のいる方へ歩いてくる姿が見えた。

 その人物が誰なのか、俺の脳が認知した瞬間、眠気も身体中の痛みも消し飛んだ。

 俺はゆっくりと立ち上がり、

「……来たか」

 墓地へ入ってきた前田勝子と対峙した。

 勝子は、今の俺をどういう風に見ているのだろうか。

 もう、俺を婚約者として見ていないことは、その冷めた目から感じ取れる。

「匠君。もう逃がさないよ」

 勝子はそう言って、口元についた血を手の甲で拭った。

 拭い取った血は、誰のだろうか。もしかしたら勝子は、ここに来るまでの道中で、何度か

を行ったのかもしれない。右手に握られている包丁は真っ赤に染まり、刃はボロボロで今にも壊れそうな状態になっていた。

「俺はもう、逃げないよ……。ここで、全部終わりにするから……」

「ていうか、逃げられないよね」

 勝子は不敵な笑みを浮かべた。やる前から、どちらが勝つのかわかっている。そう言いたげな表情だ。

 確かに、傷を負った俺では、勝子とまともに戦って勝つことは不可能だろう。

 それでも、

のだ。

 俺は一歩、足を踏み出した。

 勝子は手に持っていた包丁を投げ捨てた。今の俺なら素手でも殺せると高を括っているのか、それとも、包丁が使い物にならないほどボロくなっていることをわかっていての判断か。

 好都合だ、と俺は表情を引き締め、勝子に向かって一気に駆け出した。

「えっ!?」

 傷だらけの俺が素早く動けるなんて、思ってもみなかったのだろう。

 確かに、俺の身体はかなり弱っている。だが、退路を断った俺には勝子と戦うしか選択肢が無い。その縛りが、俺の火事場力を呼び起こしたのだ。

 勝子は棒立ちのまま、俺の接近を許した。

「くたばれッ!」

 俺は勝子の顔面を全力で殴りつけ、地面に倒した。

 そしてすぐ、傍の墓から塔婆(とうば)を引き抜き、勝子が立ち上がる前にそれを勢いよく振り下ろした。

「うぅッ!」

 勝子は呻き、再び地面に倒れた。 

 塔婆は勝子の額に命中した。流れ出た血が目に入り、視界を奪ったのは運が良い。

 俺は塔婆が折れるまで勝子の頭部を殴った。耐久力はなく、五・六発殴ったら折れた。すぐに別の塔婆を引き抜いて、殴打を再開する。折れたら引き抜き、殴打……。それを息が切れるまで続けた。

 気がつくと、勝子は顔面血だらけにして、地面に倒れ伏していた。

 ピクリとも動かないが、これで勝った気になるのはまだ早い。

 勝子は、この程度では死なないのだ。自己再生の能力が枯渇するまで、殺し続けなければならない。

 塔婆で顔が変形するほど殴ったと思うが、うつ伏せで倒れているせいで傷の度合いを確認できない。

 今は恐らく、スライムみたいに顔の皮膚が再生していると思われる。

 俺は塔婆が消えた墓に近づき、墓前灯篭を蹴り壊して、ボーリングの玉と同じくらいの大きさの石片を手に入れた。そいつを両手で持ち上げ、勝子に近づき、頭部目がけて叩きつけた。

 グシュ、と肉が潰れる音とともに、血が飛び散る。猟奇的な方法だったが、頭部を完全破壊するためには、このくらいやらないとダメだ。

 俺は勝子の返り血を浴びながら、石片を何度も振り下ろし、頭蓋骨を叩き潰した。

 血塗られた木綿豆腐のような物体が勝子の割れた頭部から流れ出るのを見て、俺は、石片を拾うのをやめた。

「ハァ、ハァ……。これでも、まだ再生するか……?」

 俺はドカッと地面に腰を落とし、空を仰いで大きく息を吐いた。

 脳みそが飛び出るほど頭を殴られて生きている人間はいない。だが、俺はまだ不安を感じていた。

 銃で撃たれても生きていた勝子が、こんなにあっさり死ぬはずがない。

 勿論、これで終わってくれたら、それはそれでいいが……。

「……匠ぃ」

 勝子の恐ろしい声を聞き、俺はドキリとして立ち上がった。

 やはり、勝子はこの程度では死なない。

 予想はしていたが、ここまで破壊してもまだ喋れることに、驚かずにはいられなかった。

「この、化け物が……!」

 俺は石片を拾い上げ、再び、勝子の頭割りを始めようとした。

 その瞬間、謎の重みが俺にのしかかった。

 肩を両手で掴まれ、体重をかけられているのと似た感覚だった。

 重みに圧され、俺の身体は地面に這いつくばるような姿勢にもっていかれた。

 石片がゴロリと地面を転がった。

 立ち上がれないほどの重圧が俺を襲っていた。原因が疲労でないことは確かだが、では一体、今何が起こっているのか。

 動けない俺の目の前で、砕けた勝子の頭部がみるみるうちに再生して、元の形へと戻っていく。

 傷も、血痕も、すべて消えたクリーンな身体で、勝子は立ち上がった。



 しこたま石片で殴られた後とは思えない、落ち着いた声で勝子は言う。

「〈脳美祖神〉様がね、私に

をくれたみたい」

 勝子はゴミを払うように、右手を振った。

 その動きに合わせて、俺の身体が、強風に吹っ飛ばされたみたいに宙を舞った。

「ぐはッ!」

 俺は背中から墓石に激突し、地面に落ちた。

 謎の重圧は、いつの間にか消えていた。

 何が起こっているのか。

とは何なのか。

 答えを求めるように、俺は勝子に視線を向けた。

「私、強くなったよ。ほら、こんなこともできるようになった」

 勝子が周囲に目をやった後、俺の周りにあった墓石たちが、糸で吊られているみたいに浮かび上がった。

「はっ!? えっ!?」

 目の前で起こる光景に理解が追いつかず、俺は慌てた。

 墓石が、宙に浮かんでいる。これは勝子がやっているのか。

 原理はわからないが、勝子の口ぶりから考えて、そうなのだろう。

 だが、こんなこと、俺が知っている勝子にはできなかった超能力だ。

 勝子はどこで〈脳美祖神〉と会い、この力を手に入れたのだろうか。

「…………」

 まさか。俺は……。

 たった今、重大なミスを犯したことに気がついた。

 どうしてそのことを考慮しなかったのか。

 こんなことになるなら、もっと念入りに勝子の身体を破壊しておけばよかった。

 俺は鏑木さんメモを思い出した。

 かつて、〈脳美祖村〉で神の子と崇められていた少女オトギは、流れ者と恋に落ちた後、他の村人たちに知られないように行動するため、〈探知〉という新たな能力を生み出した。

 ここまでの行動を見た限り、勝子がオトギの能力の全てを継承していることは間違いないだろう。

 そして、オトギの潜在能力さえも継承しているのだとしたら、新たな力を生み出しても不思議ではない。

 能力開花に〈脳美祖神〉が関わっているのか、それはわからないが、自らの力で使用できる特殊能力の種類を増やすことはできるのだ。


 ……コイツ、人間じゃあない。勝子は、神に近い存在になったのかもしれない。


 オトギは、恋人と会うために探知能力を生み出した。

 対して勝子は、恐らく、俺を殺すために〈手で触れずに物体を動かす力〉——即ち、〈念動力(サイコキネシス)〉を生み出したのだ。

「ちくしょうッ!」

 空中から隕石の如く降り注ぐ墓石を俺は必死で避けた。

 しかし、真横から飛んできた墓石を回避することができず、激突。

 俺は石の重みで弾き飛ばされ、肩から墓に突っ込んだ。壊れた塔婆と墓前灯篭の破片にまみれて、悲痛の声を上げた。

 胸部が、尋常じゃないほど痛い。墓石のメテオを食らって、肋骨が折れたかもしれない。呼吸をするたびに、口から血と唾が交じり合った液体がこぼれ出た。


 ……これは、マズい。また墓石が飛んで来たら、避けるのは無理だ。


 立ち上がろうとするが、身体がいうことを聞かない。

 我慢して動かしたツケが一気に襲いかかってきたようだ。今の俺は、呼吸するので精一杯の状態だった。

 早く動かないと、勝子にトドメを刺される。俺の全神経が危険信号を放っていた。

 急げ、急げ、と呟きながら無理矢理立ち上がろうとした時、俺は、頭部を押さえて苦しみの声を上げる勝子を見た。

 勝子は、両目を真っ赤に充血させ、両手で頭部を押さえ、ギリギリと歯を食いしばっている。まるで、何かの発作を必死に堪えているかのような様子だった。

 俺を殺す絶好のチャンスだというのに、何もしてこない。

 あの苦しみ様を見るに、何もしてこないのではなく、

のではないだろうか。


 ……まさか、勝子は再生できないのか? 傷の痛みで苦しんでいるのか?


 一つ、仮説を立てるなら、今の勝子は特殊能力を使うためのエネルギーを切らしていて、傷を治すことができず、痛みで苦しんでいる。

 エネルギーを切らした理由は、単純に、使い過ぎが原因だと思われる。

 新しく生み出した力が、とんでもなく燃費が悪いもので、しかも、覚えたてでコントロールがおぼつかず、それでも無理に使用したから、精神に尋常じゃない負担がかかったのだと俺は推測した。


 ……今は、俺を殺すチャンスではない。俺が、勝子を殺すチャンスだ。


 俺の推測が外れていたら、今度こそ終わりだ。俺にはもう、勝子の異次元的な攻撃を避ける体力は残っていない。

 最後の力を振り絞って、俺は立った。

 両手に、割り箸みたいな形になった塔婆の破片を握り締め、ゆっくり、真っ直ぐに、勝子を目指して進む。

 奇声を発しながら苦しみもがく勝子の前で歩を止め、俺は、両手を大きく振りかぶった。

 俺の目と勝子の目が、合った。瞬間、俺は両手を振り下ろした。


 ぎゃあああああああああああああああッ!


 両目に塔婆の破片が深々と突き刺さり、勝子は絶叫した。

 両手を滅茶苦茶に振り回し、近くにいた俺を払い除ける。

 たまたまぶつかっただけの腕に人を押し倒す力など無いが、既に体力が限界だった俺は、地面に情けなくへたり込んだ。

 勝子は両目から血を飛ばしながらしばらく踊り狂い、突然、フッと力が抜け、地面に倒れた。

 仰向けで、口をパクパクさせる勝子を見て、俺は、「もう二度と立ち上がらないだろう」と思った。

 勝子との戦いは、終わったのだ。

 俺に対する強い殺意が勝子の能力覚醒を促したのか、はたまた、〈脳美祖神〉とやらの干渉を受けて新たな力を授かったのか、真相はわからない。だが、もしもあのまま勝負が続いていたら、倒れていたのは俺の方だったことだけはわかる。

 運が良かったのか、それとも、最後まで諦めなかったことが功を奏したのか。

 何はともあれ、結果だけ見れば、俺の勝ちだ。

 俺は立ち、勝子は両目から血を流して倒れている。

「……痛い」

 勝子はまだ喋れるみたいだった。

 だが、口から出る言葉は弱々しく、さっきまでの勢いは無い。

「痛いよ……。目が痛い……。何も見えないよ……」

 痛い。当然だろう。

 勝子の苦しむ声を聞いて、俺はほくそ笑んだ。


 ……お前が受けた痛みは、苦しみは、父親、鏑木さん、その他大勢の人たちが受けたものの跳ね返りだ。因果応報。当然の報いだ、ざまぁみろ。


 俺は勝子を見下ろした。死にかけの女が、そこにいた。

「誰か、助けて……。痛いよ……。苦しいよ……」

 俺を殺そうとした殺人鬼の面影は、勝子からは完全に消えていた。 

 何故だか、俺には今の勝子が、一方的に暴力を振るわれた可哀想な女に見えた。


 ……やめろ。被害者ぶって苦しむな。全部お前が悪いんだろう。


 俺は必死で、

にならないよう心の中で勝子を罵倒し続けた。

「お父さん、お母さん……。みんなどこにいるの……? 怖い、怖いよぉ……!」

 くぼんだ眼窩から流れ出る血液が、涙のように見えた。

 勝子は唇をわなわなと震わせながら喋り続ける。

「誰か、助けて……! 何も見えない……!」

 俺はギリと奥歯を噛んだ。


 ……やめろ。やめてくれ。苦しいフリをするな。最後まで、化け物のまま死んでくれ。じゃないと俺は……。俺はッ……!


 胸が張り裂けそうなほど苦しいのは、どうしてなのか。

 自分が、間違った行いをしてしまったのではないか、という後味の悪い気分で立っているのはどうしてなのか。

「匠君……。ねぇ、匠君……」

 俺の名前を呼ぶ勝子の声から、悪意のようなものは感じられない。

 会えなくなった恋人を求めるような、悲しい声だった。

「どこにいるの……? 私を、独りにしないで……!」

「…………クソッ!」

 俺は勝子の傍らに膝から崩れ落ちた。

 そして、血まみれの顔を覗き込んで言う。

「勝子さん……」

「た、匠君!? そこにいるの!?」

「ここにいますよ」

 伸ばしてきた勝子の手を、俺は両手で包み込んだ。

「勝子さんは独りじゃないですよ」

「……よかった」

 安堵の笑みを浮かべる勝子を見て、俺は胸が苦しくなった。

 もう、今の勝子は、人殺しの化け物ではない。

 誰かの温もりを求める、一人の、寂しい女性だった。

「匠君、私ね……。普通がよかったの……。生まれた時から、神様とか、神の子とか、色んなことを教え込まれて……。最初は嫌だったけれど、『そうしないといけないんだ』って開き直って……」

「勝子さん……」

 俺は、

とは違う考えを持っていた。

 自分を変えるきっかけがほしかった。新しい環境を求めていた。

 けれど、もしも俺が勝子さんと同じ環境に生まれ、育っていたなら、普通を求めたかもしれない。

「もう、終わったんですよ。勝子さんは、解放されました。もう、あなたを縛るものは何もありません」

 今、はっきりとわかった。

 勝子さんも、被害者の一人だったのだ。

 俺とは違った形で、何かに縛られて生きていた。お互いに生まれた場所も育った環境も違うけれど、そこだけは同じだったのだ。

「私は、自由なの……?」

「そうです。普通に生きていいんですよ」

「そっか……。じゃあ私、普通に生きるよ……。村を出て、色んなものを見に行く……」

「きっと楽しいですよ」

「うん……。よかったら、匠君も一緒に行こうよ……。私と一緒に、普通に遊ぼう……?」

「はい。知っている場所なら、俺が案内しますよ」

「ふふ……。なんか、デートみたいだね……」

「何を言っているんですか。デートですよ。俺に付き合ってください」

「あはは、嬉しいなぁ……。匠君と、デートかぁ……。好きな人と、一緒に——」

 突然、勝子さんの手から力が抜けた。

 くにゃりと曲がった手を優しく地面に置いて、俺は勝子さんの顔を眺めた。

 口元には、幸せそうな笑みが浮かんでいた。目があったら、きっと、星空みたいにキラキラと輝いていただろう。

「勝子さん……。う、うぅ……!」

 徐々に冷たくなっていく勝子さんの身体を抱きしめて、俺は泣いた。

「さようなら……! 勝子さん、さようなら……!」





 病院の待合室で、俺は固定電話の受話器を耳に当てた。電話の相手は俺の母親だった。母親は、父親を殺した奴を許さない、と恨みの言葉を吐き出した。俺は生まれて初めて、家族に対して悲しみの感情を抱いた。

「……警察の調べが全部済んだら、葬式やらないとね」

 母親は、早く俺に会いたいと言っていた。今は大好きなパチンコよりも、俺の安否の方が気になるらしい。父親の死がきっかけ、といっては不謹慎かもしれないけれど、母親は、異常なほど親切な性格に変わっていた。

「俺は平気だから、見舞いに来なくていいよ」

 俺が病院に運ばれて目を覚ましたのは、勝子さんとの戦いが終わった次の日の朝だった。眠っている間、母親が来て、入院の手続きをしてくれた、と医者から聞かされた。

 傍に立っていた警察の男の姿が目に入り、俺は「また後でね」と言って通話を切った。警察の男から、勝子さんが起こした連続殺人事件について話を聞かせてくれ、と言われた。俺は、何も覚えていない、と適当に答え、壁に立てかけて置いた松葉杖を手に取り、その場から離れた。

 勝子さんのこと。〈脳美祖村〉のこと。俺が知っていることをすべて語っても、警察は信じてくれないだろうと思った。

 だが、俺が体験したことは全部、間違いなく現実に起こったことなのだ。

 夜、病室のベッドで眠っていると夢を見る。沢山の人の死体と、大量の血が、洪水のように流れてくる地獄絵図だ。俺の手には、血に濡れたナイフと、石の塊が握られている。足元にある勝子さんの死体には、両目が無かった。

 悲鳴を上げて飛び起きると、そこは日の光が差し込む病室。俺の身体はべたつく汗でぐっしょりと濡れており、両手には、人の命を奪った時の嫌な感触が残っていた。

 もしかしたら、俺は一生、忘れられないかもしれない。

 人を殺したこと……。俺は、〈脳美祖村〉の連中と同じ、人殺しなのだ。

 生き残るために俺は罪を犯した。何もかも、自分自身で選択して行ったこと。それなのに、胸にのしかかる罪の重みは、自分一人では抱えきれないほど大きかった。


 ……自首しよう。

 
 捜査が進めば、勝子さんが殺人を犯した後、自ら命を絶ったのではなく、他殺であることが明らかになるだろう。

 弁護士を付けて話し合えば、俺の正当防衛が通る可能性だってあり得る。

 でも、俺は、自分に何一つ罰が無いことが許せなかった。

 俺は人を殺した。その罪と同じ罰を受けることを望んでいた。

 でも、俺が罰を受ける前に一つだけ、やらなければいけないことが残っている。

 鏑木さんのやりたかったこと。〈脳美祖村〉のことを多くの人に伝えなければならない。





 退院後。俺はしばらく実家で大人しくしていることにした。

 やるべきことが済んだら、全部話す。

 母親は、その言葉だけで納得してくれた。

 勝子さんが押し入った状態のまま放置されていた自室で、俺は生放送の準備を始めた。

 PCと、配信画面は点けっぱなしになっていたが、延長設定をしていなかったため、生放送は数時間で終了していた。

 けれど、あの時の映像はアーカイブに保存されていたので見直すことができた。

 再生すると、真っ暗な画面から俺の話す声だけが聞こえてきた。

 しばらく聞いていると、焦ったような声に変わった。

 この時、勝子さんが来たのだろう。俺は放送画面をそのままに、一目散に家を飛び出した。

 ここから先は、俺がいない時間に起こったことだった。

 マイクが拾った『匠君、逃がさない』という女の声は、勝子さんだ。生放送中だったことに勝子さんは気がついていなかったらしい。

 この後、無音がしばらく続くはずだった。

 しかし、何故だか知らないが、視聴者のコメントが爆発的に増え始めた。

『今の女の声、誰?』

『お前の彼女か』

『誰なの?』

『いや、教えろよ』

 次々と書き込まれたコメントが、上から下に流れて行く。

 視聴者は、俺がそこにいないことに気がついていない様子だった。

 少し飛ばして、俺は、奇妙なコメントを発見した。

した罰だろ?』

?』

 何についてコメントしたのかわからず、俺は眉間にシワを寄せた。

 生放送中、マイクが拾った声は、俺と勝子さんだけだったはず。

 もしかしたら、後からやって来た母親が何か喋って、その声に対して視聴者は疑問を持ったのかもしれない。

 それからしばらくは、何も喋らない俺に対する文句や、勝手な考察などのコメントが続き、延長せずに生放送は強制終了した。

 俺が再び生放送を始めたら、今度は、多くの人が集まって来るかもしれない、と思った。

 マイクの音量を調節し、〈のうみそ村〉というタイトルで生放送を始めようとした時、背後から物音が聞こえた。

 振り返ると、背後のクローゼットが、内側からゆっくりと開くのが見えた。

「…………え?」

 ハンガーで吊るされた衣服の隙間から、髪の長い女性が、ヌッと顔を覗かせる。

 その女性の顔は、勝子さんによく似ていた。

 突然の出来事に困惑する俺を睨みながら、その女性は呟く。

をかえせ……」

 女性は、いきなり俺に飛びかかった。

 両手に握られていた包丁が、勢いよく振り下ろされる。

 両目がカッと熱くなった瞬間、俺は何も見えなくなった。



                                        〈了〉
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