第4話

文字数 8,509文字

 俺が〈脳美祖村〉に住み始めて、一週間が過ぎた。

 ある日の朝。

「おはようございまーす!」

 家の外で、勝子さんの元気な声が上がった。

 自室で眠っていた俺はその声で飛び起き、立ち上がろうとした瞬間、全身に電流のような衝撃が走った。

 毎日、肉体労働に勤しみ、身体が筋肉痛でガタガタになっていたのだ。

 布団の中で手足をゆっくりと伸ばし、全身をほぐしていると、玄関から誰かが上がって来る足音が聞こえ、それは徐々に俺のいる部屋へと近づいてきて、

「どーん!」

「ぐぇえっ!?」

 なかなか出迎えに来ないから、勝子さんは待ちきれなくなったのか、勝手に家に上がってきて、布団をかぶって亀みたいになった俺の身体に両手を広げて飛びかかってきた。

「し、勝子さん……。痛いですよ……」

「え、うそ? 重い?」

「いえ……。筋肉痛が……」

「なーんだ」

 村に住み始めてから毎日一緒に行動したことで、勝子さんはかなり、俺に慣れていた。

 俺も、勝子さんの積極的なボディタッチに慣れてしまい、今みたいに布団越しに抱き着かれても、顔色がリンゴみたいになることがなくなった。

 今の俺たちは、仲良しの友達に近い距離感で接し合っていた。

「佐藤さん。筋肉痛ヤバい?」

「ヤバいっす……」

「そうなんだ。私は元気だよ」

 勝子さんは、間違いなく、俺よりも体力がある。勝子さんがいつからゴミ回収の仕事をしているのか知らないが、毎日同じテンションを維持できるのは普通に凄い。

 俺にはそんなことできないのだが、勝子さんは俺を〈まだまだ元気な青年〉とでも思っているのか、自分のテンションに付き合わせようとしてくる。

 良いところだらけの女性だが、その、無理強いをしてくる部分だけは少し苦手だった。

「今日は仕事休みだから、適当に過ごしていれば元気になるでしょう」

「そんな簡単に元気になるもんなんですか?」

 今日はお互いに仕事が休みだった。ゴミ回収は毎日行われているが、今日は俺と勝子さんの代わりに、別の人が軽トラックで村を回っていた。

 ちなみに、俺と勝子さんのコンビは固定で、俺たちがそれぞれ別の人と組んで仕事をすることは、個人的な理由(風邪とか用事)が無い限り、無いという。

「佐藤さん、今日暇だよね? 私と一緒に散歩しようよ!」

「……いいですよ」

 本当は一日中寝ていたかったのだが、わざわざ誘いに来てもらって、「また今度で」なんて言い辛い。

 痛む身体に鞭打って、俺は布団から這い出た。

「なんだ、元気じゃん。私が起こしてあげたおかげかな?」

「そうですね……」

 とりあえず、顔を洗いに洗面所へ。

 勝子さんには適当にくつろぐよう一言いってから、シャワーを浴びて歯を磨き、身支度を整えた。

「すみません。出発前に、何か食べていいですか?」

 この村に来てから毎日、前田さんの家で朝食をご馳走になり、勝子さんと一緒に仕事に出ていたため、それが習慣化してしまい、毎朝空腹を覚えるようになった。

 都会で一人暮らししていた時、朝食を抜くのが普通だったけれど、環境と食生活が変わったことで、胃袋が正常に機能し始めたようだった。

「そう言うと思って、朝食作ってきたよ」

 勝子さんは玄関に置いていたと思われる大きなバッグを俺のいる居間へ持って来て、中からラップに包まれたタッパーを取り出した。

「作ってまだそんなに経ってないから、温め直さなくていいと思う」

 はい、と差し出されたタッパーを受け取り、俺はペコッと頭を下げた。

 タッパーからは、前田さんの家でご馳走になっている味噌汁の良い香りがした。

「わざわざありがとうございます。いただきます」

 タッパーは三つあって、一つは味噌汁。一つは白いご飯。一つはおかずがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。

 それらをテーブルに並べてラップをはがし、蓋を開けた途端、俺の腹の虫がぐうぐう音を鳴らして急かしてきた。

 台所から箸を取ってきてテーブルに着き、味噌汁をすすろうとしたところで、勝子さんが慌ててストップをかけた。

「お祈り。忘れているよ」

「あ、はい」

 勝子さんがいなかったら、そんなこと忘れて食事を始めていただろう。

 俺は何度も口にして頭に叩き込まれた祈りの言葉を呟いた。

「〈脳美祖神(のびそがみ)〉様、〈脳美祖神〉様……。私たちの脳に宿る、美しき神よ。あなたの一部を、私たちの心と体を支える糧として頂くことをお許しください」

 意味は、この土地を守る神様に対しての感謝だ。少し前、勝子さんが教えてくれた。

「いただきます」

 祈りが終われば、後は普通に食う。かなり空腹だったので、タッパーはものの数分で、全部空になってしまった。

「ごちそうさまでした。これ、洗って返しますね」

「今から洗うの? 水に浸けて置いて、後で洗えばいいのに」

「忘れっぽいんで、今洗います」

 勝子さんとの散歩は、きっと、楽しい時間になると思う。

 それと同時に、体力もガッツリ持っていかれて、帰ってきてすぐベッドインも考えられる。

 そうして、汚れたタッパーを炊事場にそのまま放置しそうな予感がしたので、俺は先に洗って、やり残しを作らないことにした。

「佐藤さんって、マメだよね。都会でもそんなだったの?」

「いえ。都会ではダメでした」

「使った食器とか、洗い場に山盛りにしてた?」

「はい」

 何を想像したのか、何が面白かったのか、勝子さんは一人で笑い出した。

 その、なんだか楽しそうな様子につられて俺も笑い、手早く洗いを済ませて、布巾で水滴を拭き取ったタッパーを返した後、勝子さんと一緒に散歩に出発した。





「どこ行こうか?」

「どこ行きましょう……」

 散歩に誘われ、外に出たのはいいが、そこからはノープラン。誘った勝子さんが既に行き先を決めてくれていたと勝手に思い込んでいたが、そんなことはなかった。

「とりあえず、歩きましょうか?」

「うん」

 俺の家のすぐ傍にある川に沿って歩く。

 そういえば、俺はこの川を最後まで辿ったことが一度もなかった。行き止まりには大きな湖でもあるのか、それとも、滝があるのか。爆心地みたいな、この村の地形的に考えて、滝はありえないと思うが……。

「勝子さん」

 この川の先には、と言いかけて、俺は口を閉じた。

 川の最果てを自分の目で確かめたい、という冒険心が、勝子さんから答えを聞くことを拒んだからだ。

「ん、何? どうしたの?」

「いえ、なんでもありません。このまま歩きましょう」

「んん?」

 勝子さんは、何が何だか、といった訝しげな表情を浮かべる。

 だがすぐ、「別にこのままでいいか」と開き直って、舵取りを完全に丸投げした様子で、俺の少し斜め後ろを歩き始めた。

「佐藤さんって、何考えてるのかわからない時あるよね~」

 勝子さんは表情豊かで、感情が顔に出やすい。その真逆のタイプの俺は、心の中が読み辛いロボットのようだと思われているのかもしれない。

「本音を伝えるのが、あまり好きじゃあないんですよ。俺、根が暗いから、本音で話し続けると、相手の気分を下げちゃうことがあるので……」

 余計なことを言って相手を傷つけてしまうかもしれない、という不安。それが、俺がお喋りではない理由だった。

「本音で話さないと、ストレス溜まらない?」

「話す相手によります」

「私はどう? 話していてストレス溜まらない?」

「全然溜まりません。勝子さんは、どうですか?」

「溜まらないよ。佐藤さん、私を不快にさせないように、気遣いっていうか、言葉を選んで喋ってくれているみたいだから」

 こっちが勝手にやっていることを、「無理に気を遣わせてしまっている」と捉えていなければいいのだが……。

 俺の性格に合わせて喋っていたら、勝子さんにはストレスになるだろうから。

「私、結構鈍感だから、思ったことなんでも話していいよ。友達と話すみたいに、普通に話せばいいんだよ」

「その普通が、相手を傷つけてしまうかもしれないので……」

「そんな、私の心はガラスみたいに脆くないから」

「そうですか……」

 話が終わってしまった。

 次は何を話そうか。川の終わりに関する話題だけは避けたい。

 黙って歩いていると、勝子さんに川に関する話を連想させてしまい、到着する前に答えを知ってしまう恐れがあるので、ここはガッツリと、今の流れから大きく外れた話を出すのがいいだろう。

「あの、勝子さん。思い切り話が変わるのですが、ちょっと気になっていたことを思い出しまして……」

「うん」

「鏑木さんって、最近見かけませんよね? ゴミを回収する時、あの人の家には行かなかったし、何かあったんですかね?」

 俺が前田さんの家のトイレから姿を見たっきり、一度も会っていない。

 住んでいた家も、今はもぬけの殻になっていると思われる。

 引っ越ししたという話も聞かないので、俺にはまったく、あの人の居場所が見当つかないのだ。

「んーっと……」

 勝子さんは顎に指をあてて唸り、それからケロッとした顔で、

「鏑木さんって、誰だっけ?」

 予想外の返答に、俺は絶句した。

 いや、今のは冗談だろう。前田さんがあれだけ親しく接していた鏑木さんのことを、娘の勝子さんが認知していないなんておかしい。

「坊主頭で顎に髭を生やしている、大柄の男性です」

「そんな人、この村にいたっけ?」

「えっ……」

 そんな、馬鹿な。

 つい最近、越してきたばかりの俺でも知っているんだぞ。

 俺よりも先にこの村に住んでいた鏑木さんをこんな短時間で忘れるなんて、勝子さんはとんでもなく物忘れの激しい人だったのだろうか。

「佐藤さん、オバケでも見たんじゃない?」

 勝子さんが両手を胸の前でブラブラさせて、俺をからかってくる。

「いや、そんなはずは……。初めて会った時、前田さんと一緒でしたし、酒を手渡しで受け取ったのを見たから、間違いなく実体がありました」

「お父さん、酔っぱらっていたんじゃあないの?」

「別の日に鏑木さんのことで話もしましたし……。あの、もしかして何か隠しています?」

「いやいや! 本当に知らないよ!」

 わからない。

 勝子さんを嘘つきだと疑いたくはないが、俺は鏑木さんがこの村に実在していた説を曲げたくない。

 多分だけれど、勝子さんは鏑木さんについて何か知っていて、それを無理矢理隠しているのだ。

 隠す理由はまったくわからないが、きっと、何か言い辛い理由があるのだと思う。

「……わかりました。変な話をしてすみません」

「私も、ちゃんと答えられなくてごめんね。でも、私は本当に知らないから」

 鏑木さんについては、今度、前田さんに会った時に訊いてみることにする。

 勝子さんのように、「誰だっけ?」とは答えられない人だから。





 川の終わりをその目に映して、俺は唖然とした。

 もっとこう、広大な湖というか……。思わず写真を撮りたくなるようなものを期待していたのだが、ゴールの賞はポケットティッシュ並みに地味なものだった。

 そこにあったのは、横幅の広い、カマボコみたいな形をしたトンネルだった。

 川の水はトンネルの中へ流れて行っており、内部は暗く、奥がどうなっているのか見えなかった。

「危ないよ!」

 屈み込んでトンネルの中を覗いていた俺を、勝子さんが慌てた様子で引っ張った。

「落ちたら流されちゃう!」

 這い上がればいいのでは、と思ったが、気の強い勝子さんがかなり慌てていたので、俺の想像の数倍危険なところなのかもしれない。

「この水って、どこへ流れて行くんですか?」

「海だよ。川の水はこのトンネルを通って海まで行く。流れが強いし、掴まれるところもないから、トンネルの中に流されたら、普通の人だったら一巻の終わりだよ」

「そうなんですね……」

 俺はトンネルの上部を見た。俺がこの村へ入って来る時に木製の梯子を使って降りた土の壁が、高くそびえ立っている。トンネルの入り口にでっぱりは無いので、道具を使わずにここをよじ登ることは、俺にはできない。

「ここ、村の人たちは子供たちに『絶対に近づくな』って教えるの。危険な場所だから、私たちも離れよう」

 勝子さんがここまで言うくらいだから、ここは本当に危ない場所なのだろう。

 もしかしたら、以前に、誰かが落っこちたことでもあるのかもしれない。

 訊いてみようと思ったら、勝子さんに手を握られて、そのまま引っ張られた。

 日々、色んな物を掴んで運んでいるせいで手の皮が硬くなってしまったのか、勝子さんの手はゴツゴツしていて、口には出せないが、男性の手のようだった。

 俺たちは手を繋いだまま、元来た道を引き返した。繋いでいる理由はないが、離す理由も無いので、俺は、相手から手を離すまで握ったままでいることにした。手を繋いで歩いたほうが、歩幅を合わせやすいというのもある。

「俺、川の終点が、どうなっているのか知りたかったんです」

 見た後だったので、俺はその話題を口にできた。

「やっぱり、そうだったんだ。途中、橋とかあったのに、渡らず、ずっと川に沿って歩いていたから、そうなんじゃないかと思っていた」

 何考えているのかわからない、と言っていたわりに、勝子さんはしっかり俺に合わせてくれていた。

 やはり、俺は勝子さんに気を遣わせてしまっているみたいだ。もしかしたら、口に出さないだけで、勝子さんの方が俺よりも気を遣っているのではないだろうか。

 俺の気分を下げないように楽し気なテンションを維持し、俺を楽しませるために話題を振り続けていたのだとしたら、俺は、勝子さんの厚意を無視して行動していたことになる。

「…………」

 そう考えたら、俺の中に自然と勇気が沸き上がってきた。

 俺に合わせてくれている勝子さんの厚意に、今度は、俺が応える番だ。

「勝子さんは、行きたい場所とか無いんですか? 俺のやりたいことに付き合ってもらったので、次は、勝子さんのやりたいことに付き合います」

「本当に? じゃあ、付き合って」

「はい」

 答えた後、数秒の間が空いた。

 無言で勝子さんと見つめ合い、俺は首を傾げた。

「あれ? 何か、変ですか?」

「どこも、変じゃあないけれど?」

「そうですか……」

 いや、やっぱり何か変だ。

 俺は何か間違えている。しかし、それが何かわからない。

 突然、勝子さんは俺の肩に両手を回し、顔を近づけて来たので、

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 頭を逸らすと、勝子さんは不思議そうに首を傾げた。

「付き合うって言ったよね?」

「はい」

「ほら、『はい』って言った。じゃあ……」

 また顔を近づけて来たので、俺は両腕で顔をガードした。

「佐藤さん。何やっているの?」

「し、勝子さんこそ、何をやっているんですか!?」
 
「何って、チューしようとしているんだけれど」

「へぇっ!?」

 唐突過ぎる。俺たちの仲は、そこまでするほど深くはなかったはずだ。

 それとも、俺はその辺からもう勘違いをしていて、向こうはとっくに付き合っている気でいたのだろうか。


 ……いや、ちょっと待てよ。さっき「付き合う」って言ったよな。あれって、もしかして……。


 俺の中で、ようやく合点がいった。

 勝子さんの言う「付き合って」とは、行き先の主導権を自分が貰うという発言ではなく、恋仲になるという意味だったのだ。

「で、いきなりチューですか!?」

「もう訂正はできないよ」

 勝子さんは俺を抱きしめて、強引に迫って来る。

「佐藤さんのこと、好きだから……」

 気持ちの整理がつかない俺を無視して、勝子さんは自分の唇を押し付けて来た。

 その瞬間、俺の身体からフッと力が抜け、抵抗する気力も消え失せた。ここまで来てしまったら、もう、全てが無意味だと諦めたのだ。

 俺は勝子さんの熱いディープキスにどぎまぎしながら合わせた。

 下手くそ、と心の中で評価をつける。しかし、唇を離した後の勝子さんは、マタタビを与えられた猫のように、うっとりした表情を浮かべていた。

「じゃあ、これからもよろしくね。

……」

 俺には頷くことしかできなかった。

 つくづく俺は押しに弱い男だと、改めて実感した。

 



 空が橙色に染まるまで散歩をし、俺たちは帰路についた。

 キスを交わした後から、俺たちは今この瞬間まで、ずっと手を繋いだままだった。

 そのせいで、間違いなく、この村の住人たちに、俺と勝子さんの本当の関係が知られてしまった。

 間違いなく、俺たちが手を繋いで歩いていたという話は、父親の前田さんの耳に入る。

 冗談ではなく、本当にそういう関係になってしまったことを知った前田さんは、どんな反応をするだろうか。

 ルンルン気分で歩いている勝子さんと違って、俺は心の整理がつかず、この先のことばかり考えて悶々としていた。

「匠君。また悩んでいる顔している」

「……そうですね」

「私のこと、本当は嫌いだった?」

「違います! すっ、好き、です……」

「私も匠君のことが好き。お互いに両想いだから、きっとこの先、上手くいくよ」

「それなら、いいのですが……」

 俺の家が見えるあたりまで歩いたところで、玄関に立つ、一つの人影が目に入った。

「あれ、お父さん?」

 先に人影の正体を知ったのは勝子さんだった。

 言われて、俺も「本当だ」と知る。

 俺と勝子さんが付き合うという情報が、早くも父親の耳に入ってしまったのか。

 しかし、それが理由でわざわざ俺の家に来るだろうか。

 勝子さんと手を繋いだまま歩く俺に向かって、満面の笑みで手を振りながら、前田さんは駆け寄ってきた。

「ついに付き合っちゃったかぁ~。羨ましいなぁ、匠君は!」

「何を言っているんですか……?」

 苦笑いを浮かべる俺の肩を前田さんは強く叩く。

「勝子のこと、頼んだぞ」

「はい?」

 まるで花婿にかけるような言葉を吐くので、「いやいや、まだ展開が早いだろ」と内心思う。

「お父さん、後は任せて。私たちは二人でやっていけるから」

「え?」

 勝子さんも、随分と先を見たようなことを言う。

 親子だから考えることも似ているのだろうか。

 この二人は、もしかしたら、既に結婚後まで見据えて発言しているのかもしれない。

「で、いつやるんだ!?」

 前田さんがギンギンに光る目を向けて、俺に訊いてくる。

「やるって、何をですか?」

「やるっていったら一つしかないだろう! セックスだよ!」

 前田さんそれはキモい、と危うく口に出しそうになったが、堪えた。

「今日でいいんじゃない、ね?」

 勝子さんもノリノリで、俺は二人の会話についていけなくなってきた。

 一体、この二人は何を言っているのだろう。娘に、「早く抱かれろ」と言う父親と、「早く抱かれる」と答える娘。これは、俺が初めて目にする光景だった。

「じゃあ、今日はこのまま、勝子は匠君の家にいなさい」

「そうしたいけれど、匠君はどうかな?」

「…………」

 愛とは、こんなにも軽いものなのか。

 俺が考えている恋愛は、互いの気持ちが大事で、この親子のように、強引に展開を進めていくものでは無い。
 
 しかし、この親子にとって、恋愛とは即決するものであり、相手の気持ちはどうでもいいのだろう。

 俺の心の中に滲み出た〈嫌悪感〉が、暗い思考によって更なる深みへと沈み、〈怒り〉へと変貌を遂げようとした刹那、ある一つの疑念が頭に浮かんだ。


 ……もしかしたら俺は、初めから

のでは?


 今思えば、前田さんが必要以上に俺に優しくしてくれていたのは、勝子さんの婿となる男として、俺に印を付けていたからだったのではないだろうか。

 となると、俺がもしも、勝子さんとの付き合いを無にしてしまった時、二人の態度が一変する可能性が考えられる。

 だが、待て。落ち着け。何一つ証拠が無いのに、答えを決めつけるのは間違っている。それこそ、前田さんが何度も言っていたように、田舎ではこれが普通なのかもしれない。俺がついていけないのは、俺がまだ田舎に順応し切れていないからで……。

 いや、そうだろうか。

 仮に、田舎というものが、今回みたいなことが頻繁に起こる場所だったとしても、「はい。そうですか」と頷くのは、間違っている気がする。

 それに、なんだろう。はっきりとは言えないが、この村では、俺の知らない何かが起こっている。鏑木さんの件もその一つだ。これは田舎がどうとか、そういう単純な問題ではなく、この村にある、

が原因なのだ。

「あ、あの……。今日は少し疲れているので、明日、また話しませんか?」

 前田さんと勝子さんは顔を見合わせ、それから、俺と向き直って言った。

「いやいや、なんかごめんね。別に、変な話をしているわけじゃあないんだよ」
 
「匠君、明日ちゃんと話し合って決めよう。今日はありがとね」

 二人はあっさり納得して、俺に背を向けた。

 俺は前田さんを呼び止め、最後に一つ、今後の行動の参考にするための情報を聞き出しておくことにした。

「あの、前田さん。変なこと訊くかもしれませんが、ずっと気になっていたんです。気になって夜も眠れません。だから、正直に答えてください」

「それは大変だ! なんだい、どんな悩み事だい?」

「鏑木さんって、今どこにいるんですか?」

「……鏑木? 誰だっけ?」

 この村のことを本気で調べよう。俺は、そう決心した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み