第9話

文字数 9,182文字

「う、うわぁあああッ!?」

 俺は転がるように自室に駆け込んだ。

 飛び出そうなほど激しく鼓動する心臓の音を聞きながら、荒い呼吸を繰り返す。

 一体、どうなっている。鏑木さんメモに書かれていたことは、真実だったのか。

 自己再生能力なんてフィクションは、現実では絶対にありえない。そんなことができる人間なんているはずがないのだ。

 でも、勝子は生きていた。〈脳美祖村〉から海まで流されて、生きているなんてことはあり得るのか。

 〈脳美祖村〉から脱出するための候補に挙げていた、川の最果てにあったトンネル。俺は結局、トンネルには入らず、勝子を排除するためだけに使った。……が、実は、正解だったのだろうか。中に入って流されても、無事に〈脳美祖村〉を脱出できていたのかもしれない。

 川に流されて脱出する、という考えは間違っていなかった。そうなると、勝子が生きていたことに納得できる。

 或いは、勝子は本当に……。

 俺はブンブンと頭を振った。

 いや、今はそれよりも差し迫った問題がある。

 勝子が生きていた。これを事実と受け止め、次に取るべき行動を早く選択しなくてはならない。

「勝子は、俺を殺す気だよな……」

 居場所を突き止めて追って来た理由は、それしか思い浮かばない。

 話し合いなど、する必要が無いだろう。〈脳美祖村〉で、それは済んだ。

 そして、会話の後に殺し合いが始まった。今の状況は、俺と勝子の殺し合いの延長戦と捉えていいだろう。

「やるしかないのか……! クソッ……!」

 勝子と戦い、勝つ以外に生き延びる道は無い。

 しかし、今回も勝子は武器を持っている。素手では分が悪い。それに、この障害物だらけの部屋の中で戦うのも、あまり良い選択とはいえない。

 俺は汚れた服のまま自室の窓の前に立った。

 眼下に見える、アスファルトの道に飛び降りたら——

「逃げないでよ。匠君」

 自室の外から勝子の声が聞こえた瞬間、俺は窓枠に腰をのせ、滑り台をすべるような形で落ちた。

 両足で歩道に着地し、衝撃でゴロンと転倒。足首がビリビリ痛んだが、今は気にしている場合ではない。

 俺は振り返らず、一目散に逃げだした。

 とにかく、勝子と戦うに相応しい場所を見つけないと……。

 歩道を道なりに走っていくと、交番が目に入った。窓ガラスの向こう側、椅子に腰かけて暇そうにしている、見た目二十代後半くらいのお巡りさんに、俺は助けを求めることにした。

「た、助けてください!」

 交番に飛び込んできた俺を見て、お巡りさんは何事かと目を大きくし、立ち上がった。

「どうしたんですか?」

 落ち着いた声で、お巡りさんが訊いてくる。

 内心、かなり動揺しているはずだ。お巡りさんは何度もまばたきして、立ち上がった時にずれた帽子を被り直していた。

「さ、殺人犯に追いかけられているんです! ここに来たら逮捕してください!」

「わ、わかりました」

 俺の言っていることが嘘か本当か、証拠がなければ判断し難いだろう。

 けれど、俺があまりにも必死の形相で喋るものだから、とりあえず、ただ事ではないと悟った様子だった。

 俺はお巡りさんの後ろへ行き、奥の部屋へと通じるドアの前に立って、交番外の歩道を凝視した。

 一般人が交番前を通過する姿が見える。イヤホンを付けた若い男性や、手提げ袋を持った中年女性、犬の散歩をする年配の男……。

 突然、どこかから女の悲鳴が上がり、二人の女性が交番に駆け込んで来て、俺は、すぐ近くまで勝子が来ていることを悟った。

「た、助けてください!」

「なんかそこに、包丁を持った女の人がいたんです! 包丁には、血みたいなのがついていて……!」

 俺の母親と同じくらいの歳と思われる女性二人は、顔面蒼白にして、震えながらお巡りさんに訴えた。

 それでお巡りさんは、俺が言った殺人犯と、女性二人が話す女の人が同一人物だと理解したようで、これは本当にただ事ではないと確信し、交番の固定電話を使ってどこかと連絡を取り始めた。

 お巡りさんは本部に応援要請を出したのだと、通話の声を聞いて俺は思った。

 女性二人が俺の存在に気がつき、視線を向けて来た。自分たちと同じように、包丁を持った女を見てここに来たのだと思ったみたいで、「あれ、なんなの?」、「誰なのか知ってる?」などと口々に質問を投げかけて来た。

 その質問に答える前に、交番前に現れた勝子が、バンッ、と窓ガラスを手で叩き、それを見た女性二人は発狂して、俺を押しのけて奥の部屋へと逃げて行ってしまった。

「あ、あいつですッ!」

 俺が勝子を指差して叫ぶ前に、お巡りさんは既に拳銃を抜いていた。

「止まりなさいッ!」

 お巡りさんは拳銃の銃口を勝子に向けて威嚇した。

「匠君、絶対に逃がさないから……。私や、仲間を裏切ったこと、死ぬまで許さないから……」

 恐ろしい声で呻きながら、勝子は俺だけに目を向けて前進する。

「と、止まりなさいッ! 撃つぞッ!」

 お巡りさんが後退りながら叫ぶ。勝子が交番の入口まで来ても撃つのを躊躇っている。

「う、撃ってくださいッ! じゃないと、俺たちみんな殺されますよッ!」

 俺の発した言葉が引き金となったのか、或いは、本当にそうなる予感を覚えたのかわからないが、お巡りさんは、勝子が一歩交番に足を踏み入れた瞬間、発砲した。

 飛んで行った弾丸は右足の太腿に直撃し、勝子はガクッと体勢を崩した。

「……お前は、邪魔だ」

 俯いたまま、勝子が暗い声で呟く。

「邪魔をする奴は、一人残らず殺してやる……」

 勝子は本気だ。この女なら間違いなくそうする。

 俺の父親を邪魔者として排除したように、お巡りさんにも包丁を突き立てるだろう。

 勝子は傷口から血を滴らせながら、ゆっくりと立ち上がった。視線は、俺ではなくお巡りさんの方に向いていた。

「それ以上は、止めろッ!」

 お巡りさんは銃口を上に向けた。多分、頭部を狙っている。そのまま撃ってしまえばいいものを、お巡りさんは指を動かさない。殺したくない気持ちはわかるが、躊躇っていたら、本当に殺されてしまう。

 勝子が奇声を発しながら包丁を振りかぶった瞬間、パンッ、という乾いた発砲音が連続で鳴った。

 弾丸がどこに命中したのかよく見えなかったが、勝子は撃たれた衝撃で後退し、踊るような動きで交番の外へと転がり出て行った。

「……やってしまったか」

 銃を構えたまま、お巡りさんが苦い顔で呟く。

 恐らく、人を撃ったのは今回が初めてだったのだろう。人を殺したのも、これが初めてとなると、精神にかなりのショックを受けたはずだ。

 ガタガタ肩を震わせるお巡りさんに近づき、俺は言った。

「だ、大丈夫ですか?」

 お巡りさんはピクッとして、震える手で拳銃を仕舞った。

「もう、大丈夫です……」

 吐きそうな声でそう言うと、お巡りさんは固定電話が置かれている机に近づいた。

 弾丸は勝子の脳ミソを吹っ飛ばしたのだろうか。それとも、心臓をぶち抜いたのか……。いづれにしても、勝子は死んだ。俺を追って来た執念は恐ろしかったが、最期はあっけなかった。


 ……終わった。終わったんだ……。


 緊張が解け、俺は大きく息を吐いた。

 その時だった。倒れていた勝子が、むくりと上体を起こした。

 俺は口を開けたまま固まり、お巡りさんも、受話器を耳に当てたまま固まっていた。

「痛いなぁ……」

 そう呟いて勝子が立ち上がると、何かがポロポロと地面に落ちた。

 それは、弾丸だった。弾丸をキャッチすることができる人間がこの世にいるのだろうか。特殊なグローブをはめて威力の弱い弾丸を受け止めることはできるかもしれないが、素手では無理だろう。

 勝子に飛んで行った弾丸は、外れたようには見えなかった。勝子は撃たれた衝撃で吹っ飛んでいた。間違いなく、命中していたのだ。

 よく見ると、勝子の額や胸に肉が抉られたような痕ができている。あれは、弾丸が命中した時にできた傷と考えて間違いないだろう。


 ……どうなっているんだ。頭に、それに多分、心臓にも当たっているのに、コイツはどうして動けるんだ?


 まさか本当に、勝子には自己再生の能力があるのか。

 俺がフィクションを信じかけた時、目を疑うような光景が起こった。勝子の血で濡れた傷痕が、周りの肉に覆われて塞がってしまったのだ。それはまるで、棒で突かれたスライムが元の形に戻っていくかのような、奇妙な光景だった。

「そ、そんな馬鹿な……!」

 受話器を捨てて、お巡りさんは立ち上がった。

 今ので、お巡りさんは勝子が普通の人間ではないと確信しただろう。

 そして俺も、勝子が自己再生能力を持っていることを真実であると知り、同時に、それは想像の数百倍の精度を持つチート能力だと驚愕した。

 この女は、本当に不死身なのだ。全身、粉微塵にでもならない限り死なないのではないかと思った。

「なんなんだよ、クソッ! この化け物がッ!」

 お巡りさんは拳銃を抜き、構えたら即、発砲した。

 だが、カチリと音が鳴るだけで、弾丸は発射されなかった。

 さっき勝子に連射して、装填されている弾が切れたのだ。

 お巡りさんはハッとなって弾を込め直そうとしたが、その前に、突進してきた勝子に包丁で胸を刺され、壁に押しつけられてしまった。

「私のッ、邪魔をッ、するなァッ!」

 勝子は包丁をお巡りさんの腹部に何度も突き刺した後、勢いよく引き抜いた。

 お巡りさんの腹部から大量の血液と、腸と思しき物体が噴き出し、床一面を血の海に変えた。

 床に倒れてピクピクと痙攣するお巡りさんの傍らに膝をつき、勝子は「脳みそが足りない……」と呟いた。

 俺は壁際に寄って、部屋に充満する血の臭いでこみ上げる吐き気を必死に堪えながら、勝子が何をするのか見ていた。

 勝子は、手に持った包丁を、まるでスイカを真っ二つにするかのような動作でお巡りさんの頭部に振り下ろした。

 血飛沫が舞い、お巡りさんの両手がバタバタと動いた。勝子は野菜を扱うような乱暴さでもって、お巡りさんの頭部に包丁を何度も振り下ろし、割った。

 直視するのに耐えられなくなり、俺は交番の外へ飛び出し、胃の中の物を勢いよく吐き出した。


 ……勝子は、脳ミソを食う気だ。


 鏑木さんから話してもらった昔話を俺は思い出した。

 神の子は、新鮮な脳を食べることで、自身が持つ特殊能力の精度を回復させるらしい。

 勝子が今やっていることは、回復アイテムを使って、MPを回復させているのと同じことだ。

 ……と、いうことは。逆に言えば、新鮮な脳を食べ続けなければ、能力が衰え、普通の人間と同じ身体に戻るということになる。

 勝子を完全に止めるためには、彼女が持つ能力の枯渇。それしか無いと思った。

 だが、たった今、勝子は補充してしまった。人間の脳を食う、嫌な音が聞こえてくる。

 
 ……俺が、俺が止めないといけないんだ。俺が連れてきてしまったばっかりに、みんなは……。


 俺は今、関係の無い人を巻き込んでしまったことに対する罪悪感で涙が出そうだった。

 〈脳美祖村〉から出た後、生まれ故郷に戻ってこなければ、父親やお巡りさんが勝子に殺されることはなかった。

 鏑木さんが遺したメモを——彼の語ったアドバイスをすべて信じて、どこかで勝子を確実に始末するべきだったのだ。

 俺は汚れた口元を拭きながら立ち上がった。

 勝子は、俺の居場所を探知してどこまでも追って来る。俺を殺すまで、この女の暴走は止まらない。

 だから、誘導すればいい。俺と勝子が一対一になれる場所へ行き、そこで、どうにかして能力を枯渇させて倒す。

 俺には、勝子を止める責任がある。たとえ、殺人犯として捕まったとしても……。これ以上、犠牲者を増やさないようにするために、俺の手で、神の子を討つ。

 目的ははっきりした。問題は、その方法だ。

 勝子は、能力を使わせ続ければ、最終的には枯渇し、不死身ではなくなる。

 しかし、餌となる人間が周りにいると能力回復のために利用され、回復の回数を重ねるほど犠牲者の数も増え続けていく。

 勝子が持つ能力はどれも厄介だが、幸い、勝子自身の身体能力は、どれだけ脳を食べても強化されないみたいだ。

 一度、勝子と取っ組み合いをして勝ったから、素手での対決なら俺の方が力が上のはず……。

 移動を続けながら、少しずつ、俺の心に闘志が滾ってきた。

 勝てる。俺は勝てる。条件さえ整っていれば、俺でも神の子を退治できるのだ。

 そして、勝子と一対一で戦うバトルフィールドは、

がいい。

 

まで来てもらえたら、後は、俺一人の力でなんとかする。

 俺は最寄り駅のロータリーで立ち止まり、客待ちしているタクシーを一台、手を上げて停めた。

 電車は、駅内に勝子の餌となる人が溢れているし、走り出した後、車内で対決するとなると、やはり、人が多いのと、逃げ場が無くなるリスクがある。バスは、電車に乗るよりも危険だ。大量殺人を防ぐためには、タクシーでの移動が一番良い。

 開いたドアから後部座席に乗り込み、運転手に目的地を告げた。

「○○霊園までお願いします」

 ○○霊園は、この辺では最も名の知れた墓地のある場所だった。

 お盆期間以外はまったく人が立ち寄らないし、化け物の魂を鎮めるにはうってつけのフィールドだろう。

「あいよ」

 六十を超えていると思しき男の運転手は、一つ返事でドアを閉め、タクシーを発進させた。

 俺は、なんだか嫌な予感を覚えた。

 相手が誰だろうと、場所がどこであろうと、仕事に徹するのは普通の対応。

 だが、その

さが、気持ち悪かった。

 俺の今の見た目は、〈脳美祖村〉を脱出した時のままの、土木工事の仕事をした後のような汚れた格好だ。

 そんなやつが、目的地に霊園を選んで、なんとも思わないものだろうか。

 俺はバックミラーに映る運転手の顔を見た。向こうも俺の視線に気がついたようで、ニコッと人懐っこい笑みで応えた。

 なんだか、俺はこの運転手に見覚えがある気がした。

 あまり、自分と関わりの無い人物の顔を覚えない性質(タチ)なので、すぐ頭に浮かんでこないが、なんとなく、前にも会ったことがあるような記憶がおぼろげに残っている。

「お客さん。誰かの墓参りかい?」

 運転手に質問され、俺は咄嗟に「まぁ、そうですね」と答えた。

 本当のことを言う必要はないだろう。言ったところで、信じてもらえないだろうし……。

「お客さん、ひどく疲れた顔しているよ。腹も減っているんじゃあないかい?」

 お喋りが好きなのか、運転手はまだ俺に話しかけてくる。

「腹が減っているなら、そこにある飴でもなめたらどうだい? 無料だから、好きなだけなめたらいい」

 そう言われて、俺は思い出したかのように空腹を覚えた。

 〈脳美祖村〉を脱出してから、何も口にしていなかったので、腹が空くのは当然だ。今まで気にしなかったのは、他のことに夢中になっていたせいだろう。

「飴、一つ貰います」

 俺は座席の後ろに取り付けてあるカゴから適当に飴を取った。包み紙を破いて、ふと、俺は「これ、前にも同じことが……」と妙な気持ちになった。

 飴を持ったまま固まる俺に、運転手が「どうしたの?」と声をかけてくる。

「この飴……。運転手さん……」

 俺は、たった今、思い出した。

 〈脳美祖村〉へ行く前に、俺はタクシーに乗った。

 というか、タクシーが俺を〈脳美祖村〉へ連れて行ったのだ。

 そして、その時タクシーを運転していた男は——今、俺が乗っているタクシーの運転手だった。

 あまりにも似すぎているこの状況に、俺の心が「そうだ!」と強く呼応した。

「……運転手さん。俺のこと覚えていますか?」

 そう質問すると、運転手は「なんのことだい?」と首を傾げた。

「俺、あなたと会ったことがあるんですよ。俺を乗せてひと気の無い場所まで運んだ。俺が眠っている間に、〈脳美祖村〉の傍まで運んだこと、覚えてませんか?」

 以前の俺だったら、まったく気にせずタクシーに乗っていただろう。

 でも、今の俺は、



 死の危険と隣り合わせの環境で生き延びた俺の感性は、以前とは比べ物にならないほど敏感になっていた。

 僅かな疑問をポイ捨てせず、納得するまで考慮するようになった。

 だから気がつけたのだ。今起こっている異変に……。

「お客さん。一体、何の話だい?」

「とぼけるな。たまたま連れて行った場所の傍に〈脳美祖村〉があるだなんて、そんな都合の良いことが起こるわけないだろう。あんたは知っていたんじゃあないのか? 連れて行った場所に何があるのか……」

「い、いや。本当に、何が何やら……」

 運転手は額から流れ出る汗を、片手でハンドルを握りながら、もう片方の手で掴み出したハンカチで拭った。

「……そうですか。何も知らない、わからない。だったら、ここで俺を降ろしてください。霊園には歩いて行きますから」

 降ろせと言われたら降ろす。仕事なら、客の言う通りにするだろう。

 だが、運転手は無言で車を走らせる。

 停まる気配が無い。これで、確定だろう。

「この飴、もしかして、睡眠薬でも入っているんじゃあないですか? こいつを食わせて、また俺を眠らせて、

に連れて行く気だったんだろう?」

 運転手は大きく息を吐き、

「そんなに言うなら、わかりましたよ……」

 路肩に寄って、タクシーを停車させた。

「降ろしますよ、お客さん。これ以上、仕事の邪魔をされたくないんでね」

「あ、えぇ……?」

 思っていたよりも、まともというか、普通の対応をされ、俺は戸惑った。

 タクシー運転手が〈脳美祖村〉の連中とグルなら、当然、俺が脱走したことを知っている。そして、脱走した俺を捕まえるために、仕事をするフリをしながら待ち伏せしていた。……という俺の予想は、単なる妄想だったのか。この運転手も、似ているというだけで、人違いだったのかもしれない。

「いや、その、なんというか……。すみません」

 本当に人違いなら、悪いことをしてしまった。

 俺はペコペコ頭を下げ、タクシーを降りようとした、が——

「あ、あれ?」

 押しても引いても、ドアが開かない。

 運転席で操作してロックするタイプのドアのようだが、開けてくれなければ、言っていることとやっていることが間違っている。

 ドアを開けようと焦る俺に、運転手は穏やかな声で言う。

「ちゃんと降ろしてあげるよ。ただし、目的地に着いたらね」

 ドンッ、といきなりタクシーは急発進。加速の衝撃で俺は後部座席に頭を打ちつけ、「ウッ!」と呻いた。

「まったく、タクシー運転手を使い走りみたいに扱いやがって! これだからガキは嫌いなんだ!」

 先ほどの穏やかな態度とは一変し、ドスのきいたしゃがれ声で運転手は叫ぶ。

「霊園だってぇ!? バカがッ! 行くわけねーだろ、そんなところにッ! Uターンに決まってんだろうが、マヌケヤローッ!」

「て、てめえ……!」

 暴走運転で激しく揺す振られ、俺は後部座席の上にバタンと倒された。

「ヒャハハハッ! 勝子ちゃんからは逃げられねえよッ! 大事な大事な花婿のところへ連れて行ってやるから感謝しやがれッ!」

 勝子のことを知っているということは、やはり、この運転手は〈脳美祖村〉の連中の仲間。騙しやすい、気の弱そうな一般人を〈脳美祖村〉まで運ぶ、死神タクシーだった。

 コイツは、〈脳美祖村〉出身の、同族にのみ使える勝子の思考共有能力で、俺を見つけたら生かしたまま連れて来るよう命令を受けているのだ。

 このままでは、マズい。

「ふざけんじゃねえ……! 運転手なら客の言った場所に連れて行けッ!」

 俺は運転手を座席越しに羽交い絞めにし、体重をかけて後ろに引っ張った。

 喉が絞まって苦しい運転手は、暴れまくってタクシーを猛牛の如く走らせる。

 右に左に、蛇行運転を繰り返し、対向車や後続車からクラクションを鳴らされた。

「さっさとブレーキを踏め、クソジジイッ! このまま絞め殺すぞッ!」

「うぐぐ……!」

 勝子の命令は絶対なのか。しくじれば厳しい罰が待っているのか。死んでもかまわないと、道連れ上等なのか。

 何がこの運転手を突き動かしているのかわからないが、タクシーは停まるどころか、逆に加速していく。

 このまま加速し続ければ、まともにハンドル操作ができない危険な状況になる——いや、もう無理だ。運転手は特攻隊員のように玉砕する気満々だ。

 進行方向にコンビニの駐車場が見えた瞬間、俺は堪らず手を離し、後部座席にしゃがみ込んだ。

「イーーーーッヒッヒッヒッ! 〈脳美祖神〉様、バンザァアアアアアアアアイッ!」

 運転手が高らかに叫んだ、と同時に、タクシーはガードレールを吹っ飛ばし、駐車場を突っ切り、コンビニの自動ドアに激突した。

 鉄球でぶん殴られたような強烈な衝撃の後、耳をつんざく轟音と、ガラスの割れる音、ピンポーンというコンビニの入店音、様々な物が砕け散る音、人々の悲鳴などが花火のように上がった。

 ガソリンの臭いと、しこたま打った身体中の痛みで激しく咳き込みながら、俺は芋虫のように折れ曲がったドアの隙間から這い出た。

 耳鳴りがする。それに目まいも。

 壊れたタクシーのドア枠を手すり代わりに使って、俺はフラフラと立ち上がった。

 周囲は混沌としていた。耳鳴りがひどいせいで聞こえてくる音が全部トランシーバーみたいに質が最悪だった。

 一歩進むたびに、手や脇腹にズキッと痛みが走る。どうやら、タクシーが激突した時か、或いは、脱出の時か、よく覚えていないが、ガラスの破片が突き刺さってしまったらしい。

 痛むところに手を当てると、バケツに詰まったペンキをこぼされたみたいに、べっとりと血が付着した。

 誰かが俺に声をかけてきたが、無視した。

 俺は、こんなところで立ち止まるわけにはいかないのだ。

 傷口の痛みに顔をしかめながら、なんとか歩く。

 俺は辛うじて生き残ったが、運転手は即死しただろう。

 さっきチラッと見えたが、運転手のものと思しき身体のパーツが、車内や車外に飛び散っていた。尋常じゃない量の血液が、壊れたタクシーから漏れ出たガソリンと混じって気味悪くテカっているのも見た。

「ちくしょう……! 俺の邪魔をしやがって、クソタクシーが……!」

 毒づきながら、俺は進む。

 よろけて手をついた電柱に、霊園を紹介するポスターが貼られていた。目的地へは、ここから歩いて行ける距離だった。

 タクシーの暴走運転のおかげで勝子より先に霊園に辿り着けそうだが、病院に行って治療を受ける時間が無いのが残念だ。

 傷だらけの身体で勝子と戦えるか不安だったが、ここで止まる気は無い。

 どんなコンディションだろうと、俺は行かねばならないのだ。

 勝子だけは、俺が、死んでも止めないといけないから……。
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