第6話

文字数 8,116文字

「起きろ、佐藤さん。もうじき、食事が運ばれてくる」

 鏑木さんの声で、俺は目を覚ました。

 一体、どれくらい眠っていたのだろう。

 陽の光が入らないこの場所では、今が何時で、朝なのか昼なのか夜なのかわからない。

 俺は、時計の無い独房に入れられている気持ちになった。何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな薄暗い場所に放置されているのだろうか。この村の住人たちの異常性にもっと早く気がついていれば、引っ越しのタイミングで、そのまま雲隠れできたかもしれないのに……。

 今頃になって俺は、この村に来てしまったことを酷く後悔した。隣に、俺と同じ状況にいる鏑木さんがいなければ、子供みたいに涙を流していたかもしれない。

「頼むからシャキッとしてくれよ。俺たちが生きてここを出るためには、互いの頭を冷静に働かせないといけないんだぞ」

 鏑木さんは静かに、それでいて厳かな声で、俺に言った。

 生きて出たい。その想いは、俺も鏑木さんと同じだ。とっととここを出て、普通の生活に戻りたい。

 しかし、問題はその方法だった。鏑木さんは、どうやって〈脳美祖村〉から出る気でいるのだろうか。

 脱出作戦の内容を、俺はまだ一つも聞かされていない。


 ……そもそも、俺はこの人を信用していいのか?


 俺は〈脳美祖村〉のアットホームな雰囲気に騙された。前田の口車に乗せられ、何もかもを他人に任せて、我を保てなかったことが、俺がここにいる原因ではないか。もっと疑って、慎重に行動することが正しい判断だと思える。

「鏑木さん。まず、話してください」

「あ?」

「ここから出る方法。その大まかな流れを話してください。作戦の内容がわからないうちは、俺はあなたを信用して協力することができません」

「おい! こんな状況で何を言っているんだ!?」

 鏑木さんは、見張りがいると思しき場所をチラ見しながら、俺に怒気のこもった声をぶつけた。

「俺たちは協力するしかないんだ! 一人で脱出できるんだったら、とっくにやっている! できないから協力するって言っているんだ! この期に及んで、どうしたんだ!?」

「確かに、俺一人でも脱出はできそうにありません。しかし、組む相手が本当に信用できる人なのか、はっきりしないうちは行動に移せない」

 鏑木さんが捕まったフリをしている。

 俺が逃げ出そうとすることを防止するために村の奴らが置いたスパイである可能性も、無きにしも非ず。

「クソッ……!」

 鏑木さんは小さく吐き捨て、

「じゃあ、ライターを貸せ」

「は?」

「俺が村の連中ではなく、佐藤さんの味方だという証拠を見せてやる」

「え……」

 なんだ、それは。この人はどこまで本気なんだ。

 鏑木さんの声、表情、態度……。それは、俺を騙した村人とは違う、何かこう、言葉では言い表せない、気迫というか……。とにかく、嘘をついているようには見えなかった。

 俺は鏑木さんを信じていいのか。もっと疑ってかかった方がいいのか。

 ライターを渡すか、渡さないか、迷っていると突然見張りの男が、

「起きてるか? もう少しでメシの時間だ」

 と、声をかけてきた。

 鏑木さんは怒りを堪えるように身を震わせながら、「早く、早くライターを」と俺に言う。

「急げ! 手遅れになるぞ!」

 手錠で拘束された腕を俺にグイグイ伸ばして、鏑木さんは必死の形相で叫んだ。

 今の声は、見張りの男の耳にも入ってしまったようで、

「……あ? なんだ。何の話だ。何が手遅れになるって?」

 見張りの男は、こっちに向かって歩き始めた。

 コツコツという靴音が徐々に迫って来る。

 鏑木さんは歯を食いしばって、「頼む、頼む」と俺に懇願した。

 ライターを何に使うのかは、わからない。けれど俺は、イチかバチか、鏑木さんの考えに賭けてみようという気になった。

 押しに負けた。端的に言うと、そういうこと。

 だが、なんとなく……。ここでライターを渡すという選択肢を無視したら、もう二度と、地上に出られないような、そんな予感を覚えた。

 俺は片手を無理矢理ズボンのポケットにねじ込んで、ライターを引っ張り出し、鏑木さんに手渡した。

 鏑木さんはライターを両手の指でつまんで、床に押しつけて力を加えた。

 バキン、という音の後、オイルの詰まった容器と着火するための金具が、分かれた。

 俺から受け取ったライターを、鏑木さんが壊してしまった。

「お、おいッ!?」

 壊れたライターと鏑木さんを交互に見て、俺は唖然とした。

 こいつは、本当に何をやっているんだ。

 あれだけ必死によこせと訴えて、手に入れたライターを壊すだなんて、この男は俺よりも先に頭がイカレていたのではないか。

「ちょっ、おい! 何やってんだ!」

 鏑木さんの行動を見て、嫌な予感がしたのだろう。見張りの男は一気に距離を詰め、鏑木さんの傍に立った。

「今、何か音がしたぞ! お前、何をした!?」

 見張りの男の怒声が、広間に響く。

 鏑木さんは男の怒鳴り声など聞こえんとばかりにせわしなく手を動かし、陸に打ち上げられた魚みたいに暴れていた。 

 その意味不明な行動に見張りの男はギョッとして、一歩身を引いた。

 そして次の瞬間、鏑木さんは跳び上がった。

 両手両足にはめられていた拘束器具が床に落ち、金属質の音を響かせた——と、同時に、鏑木さんの拳が見張りの男の顔面に叩きつけられた。

 後は、あっという間だった。

 鏑木さんは、ハンマーで釘を打つみたいに、馬乗りになった見張りの男の顔面に何度も拳を振り下ろして、ノックアウトさせた。

 息を荒げながら鏑木さんは立ち上がると、何もかもが想定外すぎて混乱し固まる俺の身体を両手で掴んで引っ張り、何かの液体で濡れてヌルヌルする床に擦りつけた。そして、皮膚を引き千切る勢いで拘束器具を引っ張った。

 痛い、と叫ぶと同時に、俺の両腕から重みが消えた。

 ハッとなって両腕に目をやると、さっきまではめられていた拘束器具が外れていた。

「か、鏑木さん……!」

 答えを求めるように見つめる俺に、鏑木さんは肩で息をしながら、

「これでも、俺を、信用できないかッ!? なぁッ!?」

 と、大声で言った。

 自由になった両腕を軽く動かしながら、俺は頭の中で状況を整理した。

 鏑木さんは、なんのためにライターを壊したのか。それは、オイルを手に入れるため。ライターのオイルを潤滑剤として活用し、拘束器具を外したのだ。そして見張りの男を殴り倒し、安全を確保したのちに、俺の拘束器具を同じ方法で取り除いた。

「鏑木さん。あなたは……」

 助けてもらった、という事実だけで、俺は心を入れ替えた。

 何がスパイだ。信用できない、だ。

 自分のことしか考えていなかった俺と違い、鏑木さんは身体を張って、俺の味方であることを証明してくれた。

 イチかバチかの賭けに出たのは、俺ではなく、鏑木さんだった。

 俺は何もせず、ただ見ていただけの役立たずじゃあないか。

「これで、よし」

 俺が感動に浸っているうちに、鏑木さんは両足の拘束も解いてくれた。

 ここまでしてもらって、今更、信用できないは無いだろう。

「鏑木さん。次は、どうしたらいいですか?」

「食事は、必ず一人で運ぶ。男だったり、女だったり、日によって違う。担当に充てられた村人は、食事を食べ終わるまで待ち、空になった食器を持ってここを出て行く。だから、俺たちは……」

 階段を下る、誰かの足音が聞こえ、鏑木さんと俺は表情を引き締めた。

「足音は、一人分だ。ここに下りて来たところを俺たちで襲撃して、見張りのあいつみたいに倒すぞ」

「な、殴る? とかですか?」

 人に暴行を加えることに、俺は抵抗を覚えた。

 そんなの当たり前、ということはわかっている。

 だが、生まれて今日まで、取っ組み合いの喧嘩をしたことがなければ、人に本気で暴力を振るったことが無い(どちらかというと、暴力を受ける側だった)俺に、いきなりやれというのは無理な話だ。

「佐藤さん。やらないと、こっちが終わりだ。俺たちにはもう、退路が無いんだぞ」

「わ、わかっています……。ですが、人を殴ったり蹴るのは……」

 怖気づく俺を見て何を思ったのか、鏑木さんは小さく溜息を吐いた後、

「わかった。俺一人でなんとかする。だが、俺が返り討ちにあいそうになったら、頼むから、覚悟を決めてくれよ」

 階段を下る足音が、すぐそこまで迫ってきている。

 俺は鏑木さんと頷き合った。その時になったら、やる。たとえ相手が女子供だろうと、倒さなければならない。そんな意味を込めて……。

 暗闇にヌッと浮かび上がったそのシルエットは、女性のものだった。

 姿が見えた瞬間、鏑木さんは襲いかかった。太い腕で首を押さえて床に倒し、いきり立った熊の如く暴れ、女性を失神させた。

 立ち上がって息を吐く鏑木さんと、床に仰向けで倒れて小さな呼吸を繰り返す女性と、床に散らばった食べ物と食器……。それらを目に映して、俺は怖くなった。

 それは、見張りの男を倒したのを見た時に抱いたものとは、真逆の感情だった。

 見張りの男を倒した鏑木さんは、救世主のような姿で俺の目に映った。

 だが、女性——見た感じ二十代そこらか、俺とさほど歳の変わらない女性を殴り倒した鏑木さんは、悪魔のような姿に見えた。

 男性に暴力を振るうのと、女性に暴力を振るうのでは、どちらもやっていることは同じだ。それなのに、俺は鏑木さんのことを〈怖い人〉だと思ってしまった。

 暴力とは、等しく罪である。だが、その対象が男性か女性か違っているだけで、生まれる恐怖の度合いが違うのは何故だろう。

「ビビるな、佐藤さん。俺だって本当は、こんなこと、やりたくないんだ……」

 鏑木さんが苦し気に呟く。

 ()らなければ、()られる。

 わかっている。俺だって、わかっているんだ。でも……。

「やらないと……! でも、俺は……!」

 俺は拳を握りしめ、涙を流した。

 村人たちは、俺と鏑木さんを使い捨ての道具と見ている。そんなクズ共に同情なんてする必要はない。向かってくる奴は片っ端から殺せばいい。

 ここは戦場で、相手は殺す気でかかってくるのだ。ならばこちらも殺す気で対峙するのが道理だと、頭の中では理解している。

 なのに涙が止まらないのは、どうしてなのだろうか。

「行こう。佐藤さん」

 鏑木さんが先を歩く。この人はもう、戻れない場所まで行ってしまったのだ。

 そして、お前もそこに来い、と俺を誘っている。

 だが、鏑木さんの言っていることも、やっていることも正しい。ここでは正解なのだ。

 俺も、捨てなければいけない。

 人を物理的に傷つけることに対しての躊躇いを。

 人を殺しても生き残る。その、覚悟を決める瞬間が、この先、必ずやって来る。

 階段を上りながら、俺は何度も呟いた。

 ()らなければ、()られる……。()らなければ、()られる……。





 地下から外へ出るためには、一つしかない階段を上る必要がある。階段は暗く、灯り無しだと、壁に手をついて進まなければ足元の段差に躓いてしまいそうになる、危ない道だ。

 他にも、俺と鏑木さんと向かい合うような形で階段を下って来る村人にも注意しなければいけなかった。村人は俺たちのように灯り無しで進んで来ることはないので、光が見えたら、そこに誰かがいるとすぐ気づけるが、しかし、こちらから見えるということは、あちらからも見えるということになるので、光が見えたら即戦闘という流れになってしまうことが注意点である。

 幸い、俺たちは村人の誰とも出会わず、階段を上り切ることができた。外にいる村人たちは、地下で何が起こったのか知らないはずなので、このまま誰とも出会わずに、〈脳美祖村〉の出口まで向かいたかった。

 俺と鏑木さんは、二人して両手を上げ、地下と外を隔てる鉄の板を持ち上げた。外からロックされていることや、外にも見張りが立っているのではないかと心配していたが、その気配は無い。ここは、場所さえ知っていれば、誰でも出入り自由な場所なのだと思った。

「……誰も、いませんね」

「ああ……」

 地下へ続く階段の入口から、モグラが穴から顔を出すみたいにして、俺と鏑木さんは外の様子を窺った。

「人がいないのはいいことだ。最短ルートで村の出口を目指そう」

 ここからの最短ルートは、村の出口に向かって一直線。村人に見つかるリスクが多いルートだった。

 村を迂回して出口を目指した方が比較的安全と思えるが、鏑木さんはどういう考えを持っているのだろうか。

「その、最短ルートを教えてもらえますか?」

「まず、工場に行く。村の連中がゴミを処理している工場だ。そこで軽トラックを一台盗み、村を突っ切って、出たら全力疾走で森を抜ける」

 軽トラックで村の出入口まで走って行った後、土の壁に設置された梯子を上る。その後は、ひたすら走って〈脳美祖村〉から離れるという、体力を激しく消耗しそうな作戦内容だった。

「軽トラで村を突っ切ったら、村人全員が追ってくると思いますが、逃げ切れるでしょうか?」

「相手も車だったらな。人の足では、体力が持たないだろう。それに、俺たちが軽トラックを奪うと予め知られていなければ、こっちに合わせてすぐ車で走り出すことは不可能だ。工場にいる、作業員との戦いに時間を取られなければ……。俺たちの、勝ちだ」

 鏑木さんは村人を何人か殴り倒す気でいるが、俺は、工場で誰かと戦闘になる可能性は低いと思った。

 空の暗さから考えて、今の時刻は十七時を過ぎた時間。となると、工場は既にもぬけの殻になっているはずだ。毎日そこに通っていたから、俺には工場が活動を停止する時間がわかる。

 とはいえ、運悪く誰かと出会ってしまう可能性もゼロとは言い切れないので、いざとなったら、戦わなくてはいけないだろう。

 戦いになったら仕方がない、となる。……が、それ以外にも、心配なことがあった。

「鏑木さん。工場には、もしかしたら鍵がかかっているかもしれません。扉を無理矢理こじ開けようとしたり、窓を壊して侵入しようとしたら、誰かに気づかれるかもしれないし、脱出するための時間ロスにもなってしまう」

「確かに、そうだな」

「なので、先に前田の家に行きましょう」

「前田のジジイの家か? どうしてだ?」

 鏑木さんが驚いた顔をこっちに向けた。

「俺は前田の娘と組んでゴミ運びの仕事をしていました。軽トラックの鍵を前田の娘が持っていたので、家に行けばあるはずです。念のため、それを手に入れてから、工場へ向かいませんか?」

「なるほど。じゃあ、運転も得意か?」

「はい。毎日走っていたので、村の出口までの運転は俺に任せてください」

「ああ。頼む」

 暗い中での運転になるが、出口までの道は頭に入っているので、誤って事故を起こすことはないだろう。

「行こう」

「はい」

 前田の家は、暗闇に溶け込むように消えていた。消灯時間になっていないのに灯りが点いていないのは、少し妙だ。前田と勝子さんが隠れているのではないか、と思い鏑木さんにそのことを話してみると、

「人がいないのは、もしかすると、儀式のためかな」

「え?」

「今日は村人総出で行う儀式の日だ。どこかに集まって、このイカレた村を守る神様に挨拶でもしているのだろう」

 鏑木さんの予想は、多分、当たっている。

 どこかから、祭囃子に似た笛や太鼓の音が聞こえてくるので、村人たちは村の広場に集まって、行事を楽しんでいるのかもしれない。

 儀式の出し物が、いなくなったとも知らずに……。

「油断はできない」

 鏑木さんは足元に落ちていた太い木の枝を拾って、右手に握った。

「前田の家に誰かいたら、静かに、素早く仕留めるんだ」

「そうですね……」

 頭に浮かんだ前田と勝子さんの笑顔で、俺の胸がチクリと痛んだ。

 もしも二人がいたら、俺は、戦わなければいけない。

 恩を仇で返す? いや、恩など感じなくていい。

 奴らは人攫いの悪人だ。容赦などするな。出会ったら躊躇せず、暴力でもってわからせるんだ。

 俺と鏑木さんは前田の家の玄関に立った。

 鏑木さんが息を殺して、戸に手をかけた。

 そして、ゆっくりと開く。人の気配は、感じられなかった。

「しめた。あいつらやっぱり、儀式のために家を留守にしてやがる」

 振り返ると、村の中央辺りに、無数の灯りが集中しているのが見えた。

 何をしているのかよく見えないが、村人たちがそこに集まっていることは間違いない。

 今がチャンスとばかりに、俺と鏑木さんは土足で前田の家に上がった。

 鍵は玄関傍の木製ケースの中にしまってあるはずなので、俺はそこを先に確認する。

「あ、ありました! 軽トラックの鍵!」

 次は工場だ。

 俺はすぐ家から出ようとしたが、何故か鏑木さんはもたついている。

「鏑木さん! 鍵は手に入れましたよ!?」

「わかっている! だが、少し待ってくれ!」

 鏑木さんの声が聞こえる部屋へ向かうと、そこは前田の自室。鏑木さんはそこで、泥棒みたいに戸棚やタンスを手当たり次第にひっくり返していた。

「何やってんですか!?」

「ノートを探している!」

「ノート?」

「俺がこの村で集めた情報を書き留めておいたノートだ! 村を出た後、絶対に必要になる!」

「何に使うんですか?」

 鏑木さんはノートを探す手を止めて、振り返った。

「動画配信をしている、と言っただろう。そこで、俺がこの村で体験した全てを語る。当然、生放送でだ。その時に、ノートが役立つ」

「台本ってことですか。でももう、処分されてしまったのでは……」

「いや、ある。前田が俺を拉致(らち)る時、言っていたんだ。『こいつは戦利品として貰っておこう』ってな。あのジジイは獲物の持ち物を記念として傍に置く、イカレたサイコ野郎だ。多分、この部屋にある物の中にも、俺のノートと同じ、誰かの持ち物があるかもしれない」

 鏑木さんは俺に背を向け、ノート探しを再開した。

「絶対に、絶対に許さねえ……! この村のことを、リスナー全員に話してやる……! 警察は、すぐには動いてくれない……! 俺は配信で世界中に情報をばらまき、イカレた村の存在を知らしめる……! 情報が流れれば、興味を持つものも増える……! そして、多くの人間が〈脳美祖村〉が実在することを知れば……! 人を攫い、殺す、殺人村の存在を知れば……! そうすれば警察も、動いてくれるはずだ……! こんな村、消えて無くなってしまえばいいんだ……!」

 呪詛のように呟きながら狂気じみた行動をとる鏑木さん。俺はそこに、動画投稿者の執念を見た。

 俺は夢を追うことを諦めた人間だが、鏑木さんは違う。この状況で、動画配信のことまで考えている。自分が生き残ることだけでなく、犠牲者を増やさないようにするための計画まで頭に入れて行動する。この人は、なんて立派なのだろう。

「あ、あったぞ!」

 鏑木さんは一冊のノートを引っ掴み、慌ただしく走り出した。

「行くぞ、佐藤さん!」

「は、はい!」

 玄関を開けっ放しにしたまま、俺と鏑木さんは前田の家を飛び出した。

 儀式はまだ序盤のようで、祭囃子が終わる気配がしない。

 前田は、俺と鏑木さんが脱走することを想定していなかったのか、見張りと思しき村人の姿は見えなかった。

 俺と鏑木さんは息を荒げながら坂道を駆け上がって、工場までたどり着いた。

 駐車場に軽トラックが数台、停められている。その中から仕事で使っていた軽トラックを探し出し、俺は運転席に、助手席に鏑木さんが乗り込んだ。

「後は任せたぞ、佐藤さん」

「頑張ります」

 俺はキーを差し込み、エンジンを起動させた。

 ずっと動きっぱなしで汗をかいた鏑木さんが、風通しをよくするために窓を開けた。

 ゴトゴトという、軽トラックの駆動音が駐車場に響く。その瞬間、俺と鏑木さんは同時にハッとなった。

 さっきまで呑気に鳴っていた祭囃子の音が、いつの間にか聞こえなくなっていたのだ。

 村の中央辺りに目をやると、焚火の如く集まっていた灯りが、停電になったかのように、フッと一斉に消えた。

「……早く車を出すんだ。佐藤さん」

 乾いた声で俺に言った後、鏑木さんは汗だくの顔を正面に向けたまま、窓をしっかりと閉めた。
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